もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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これから仮定の話をしよう

 アオイは至極真面目な顔をしている。真面目な人という面で世間を渡り歩いていると言った。それは実際のところ正しい。きっと彼を知らない人は彼のことを堅気の仕事人だと思っているだろう。そして彼が座っているのが木製の洒落た椅子ではなく、車イスだということに気づき目をそらすのだ。

 

 アオイさん、とマニは呼んでみた。彼の顔はすこしだけ赤い。柔らかい筆でサッとはいたような赤が首から上を染めている。なんだか緊張しているみたいだ。マニはそれを盗み見て調子に乗りすぎてしまっただろうか、と考える。

 

 ミオシティ。

 その図書館、一階のラウンジで2人は黙々と読書をしていた。

 

 会話らしい会話は1時間前に「アオイさん、神話を信じていないくせに僕の前で読むなんてあてつけですか?」というマニの素朴で純情な疑問だけだった。むろん黙殺されてしまった。きっとしつこく言えば沈黙の理由を答えてくれるのだろう。たとえば「私は『文学』において狭量ではないよ」とかそういう模範解答。以前にも説明してくれたはずだった。

 

 マニは借りた学術誌をめくる。内容は難解だ。大したことのないマニの頭では情報としてまともに処理できなかった。興味はあるのだが目を離したら途端に忘れてしまいそうになる。いよいよ眠くなってきてこれはいけないぞ、と頭を振る。そんな素振りを知らずアオイは片手で乾いたページをめくった。彼の片腕ではミヤカシがすやすやと眠っていた。彼女を起こさないようにマニはもう一度声を小さくしぼって声をかけた

 

「アオイさん、そろそろ行きませんか」

 

「コーヒーを……もう一杯飲みたいのだが」

 

 思考の沼から醒めていない声で彼は言う。けれど妙な歯切りの悪さがマニの思考を停滞させた。

 

「えー飲んでもいいですけど休憩所少ないですよ」

 

「では次の機会にしよう。車から降りるのも時間がかかる。そうだ、今度、美味しいカフェに連れて行ってくれ。私は良い店を知らないんだ。リサーチはいつも人任せでね。けれどその偶然を楽しむことにしている。君のオススメの店に行きたい」

 

「なんですか、急に」

 

「困っているから頼んでいるんだ。頼まれてくれるかい」

 

 彼はパタンと本を閉じた。

 彼の目が泳ぐ。

 

 動いていないのに「泳ぐ」とは実に文学的な抽象性を持った言葉だ。

 マニは思う。

 考え事をしている目だ。ここではないどこかに焦点を結んで何を見ているのだろう。

 

 ほんのときどき、だが。

 マニはアオイの考えていることを知りたいと思うことがある。けれど考えたってわからないことに腹が立って、マニは窓の外の海へ目を向けた。

 

「……そういやアオイさん、イッシュのコーヒーって濃いめが多いって聞きますけどホントですか?」

 

「ん? ああ、そうだ。こちらは水でも入れているのかと思うほど薄いものがある。カフェで飲んでも自販機でさえそうだ。とても不思議だ。他の食事は似たような感覚なのだが」

 

「そうなんですか」

 

「…………」

 

 ふたりは図書館をあとにした。コーヒー雑談はまだまだ続いていたが、マニはテクテクと歩く。

 気を遣わなければ彼の歩行はアオイの車イスよりも速かった。

 

 だからこそ。

 

 アオイが何かに惹かれるように海へ向かっていることに気付くのに時間がかかった。

 

「――だから僕は作物生育の環境に基づく食生活の違いが原因だと……あれ? アオイさん? アオイさんっ!?」

 

 彼はいつの間にか岸壁の縁にいた。車輪のロックもせず陽炎のように佇んでいる。

 

 声をかけたら海へ落ちてしまうかもしれない。それが駆け寄ろうとしたマニの脚を止めた。そうして、こうも想像した。彼がいなかったら視界の光景には最初からいなかったように消えてしまうのだろうとも。

 

「マニさん。ちょっとした興味の問題なのだがね」

 

「……なんですか」

 

「前提条件を提示する。『私は我がままな人間らしい』」

 

「それは……まあ、うすうす気付いていますよ。おっかないことを平気ですることもね」

 

 なんでもいい。だから、はやくこちらへ。

 手を差し出すマニを、まるで見えないようにふるまって彼は右手で前髪を掻いた。

 

「これから仮定の話をはじめよう」

 

 左手が、彼の胸のあたりを探った。首に何かかけていたのだろうか。

 ちらりと見えたそれは、フラッシュメモリのような――。

 

 マニは自分の喉が動き、知らず知らずのうちに何かを飲み込んだことに気付いた。それは気づきの呼吸であったかもしれない。あるいは感嘆詞のなり損ないであったかもしれなかった。

 

 許されたのはわずかな時間だった。正しい判断するにはあまりに短い。アオイがニヤリと意地悪い顔で笑ったのが見えた。片方だけ、ちょっとだけ口角が上がるせいでそう見えると僕は知っている。本当は意地悪な気持ちなど無い、彼の心からの笑みだと親しい者は知っている、誤解されがちな面だった。

 

「私には『世界で独り私だけが知りうる知識がある』として。それは『世界が知らない情報』と同義だとする。それを君にあげたいのだが、けれど私の矜持が許してくれない。分かってくれるだろうか」

 

 彼の言いだしたことは、うまく理解ができなかった。

 けれど、それがマニの望んだ勝利の形であったことを思い出す。彼から聞き出したいと願った。それに応じ彼は答えようとしているのだ。

 

 はく、と息を噛んだ。

 

「あ、う、あなたは……えっあッ? ぼ、僕にどうしろって言うんですか!?」

 

「この情報はいまの私に意味の無いものだ。けれど価値のないものではない」

 

 アオイはそれを握りしめていた。

 渡したいのに渡せない――という。

 

(もし、アオイさんが言うことが本当なら――いやいや眉唾だ。「仮定」と言ったじゃないか――けれどこの人は本当に僕を――僕に後押しをしてくれようと――応援してくれているから)

 

 ひょっとすると本当に栄光をプレゼントしてくれるんじゃないだろうか?

 

 おいしい。

 あまりに、おいしい。

 実に、おいしい話だ。

 おいしい言葉に、マニの心が揺らぐ。

 

 アオイさんの研究結果が、本当にあのメモリに入っているのだろうか。

 

(もしそうなら、もし、もし、もしも……栄光が僕に微笑んだら!)

 

 それはきっと素晴らしいことに違いない。ではどうすればあれが見れるだろう。

 

「ああ、もちろんだが複製データは無い。イッシュにある研究室のデータはすべて処分してきた。まあ、私が毎日決まった時間にパスを打たないと自動で消去されるプログラムを組んでいるので入院中に不本意ながら消えたというのが正しいわけだが……まあいい。ただひとつ、消せない情報がある」

 

「なんですか」

 

 自分の声がいやに低く、不機嫌に何より不穏に聞こえた。取り繕うこともできない。

 

「なにもかも単純なことだ。これを作った私の頭の中にこれと同じ情報がある。世界にふたつだけ。けれどひとつだから価値のある情報だ。……マニさん、私の代わりにこれを活かしてくれないか」

 

 諦めきった顔のくせにギラつくような目をして、彼は拳を突き出した。

 それに視界が歪む違和感を覚えて、マニは一歩引いた。

 

 運命が囁くまでもない、マニは分かった。

 

 彼は試しているのだ。

 

(僕の良心を)

 

 味見して、その毒が気に入ったら内臓が腐り落ちるまで飲み干すことも彼は躊躇しないだろう。そんな覚悟をしているようだった。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 マニ・クレオのみるところ、アオイ・キリフリという人物は心に病を抱えているらしい。

 

 むろん溺れたポチエナを棒で叩いて遊ぶ趣味は無いのでマニにとってアオイの問題はしようのない仕様を抱えた人間だという程度であった。生まれつき視力が悪い者がいるように彼の足は不自由で、世間には薬を手放せない者がいるように彼は自分の命を映す蝋燭を手放せないのだろう。マニが二番に甘んじるしかない仕様と同じだ。

 

 そう思っていたのでアオイの行動はマニにとって想定外だった。

 

 彼が語るならば車内だと思っていた。狭いところのほうが話もしやすいだろう。そんな想定があって油断していた。何より、なんだかんだと彼はマニ甘い。

 

 けれどこんな状態になってしまえば(思い上がりにもはなはだしかったんだなぁ、僕)と我知らず歯軋りしていた。優しいとか甘いとか、ほんとうにバカみたいだ。僕はバカだ。――心に病を抱えた人間に僕は何の気遣いを期待していたんだろう。

 

 彼の意志を軽んじていたわけでも、変容を期待していたつもりもなかったけれど、こうしてマニの理解を遙か超えたキツい選択を突きつけられ、声も出せない現状を鑑みるに僕は心のあちこちに甘ったれた部分があったんだと思う。彼は教育者として平凡だが優秀な反面教師だ。マニはアオイの聡さに一目おいた自分の閃きを良い思い出としてとっておこうと思えた。

 

 一瞬の現実逃避から舞い戻りマニはアオイに伸ばしかけた手を止めた。

 

(アオイさんが素直にデータを引き渡すだろうか?)

 

 その正答は現状が語る。雄弁にこれ以上にない丁寧さを持って。

 

(答えは否だ。絶対に渡すものか。僕だけじゃない。僕だからじゃない。誰にも。アオイさんは誰にもそれを渡すつもりはないんだ)

 

 僕より相応しい人はいる。

 たとえば、彼の研究室の上司であるアロエさん、同僚であるパンジャさん、彼の後釜に据えられたベルガさん。

 

 けれど誰も選ばれていない。

 

 それはなぜか。

 理由はいくつか考えられる。いち。実際のところ彼はそんなデータをもっていない。にい。それは。

 

(誰にも渡したくないから渡さない。そうでしょう、あなたは――わがままな人なんだから)

 

 彼は。

 

 研究を行う理由は何でも良いのだと言った。人類のため、ポケモンのため。そんな高尚な理由ではなくてもよいのだと。あの頃は戸惑いながらも背中を押されてホッとしたものだった。けれど冷静になって言葉を裏返せばどんなクズで自己満足で身勝手なエゴまみれでも構わないと言っているのだ。もちろん、それが実を結び結果として進歩になれば賞賛されるならば、という前提がつくのだろう。

 

 では、何も結ばなかったら? 栄光の果実が熟れる前に地面に落ちて朽ちたら、それはどうなってしまうのか。考えるまでもない。答えはここにある。アオイを見るところそれは破滅的な未来をもたらしてくれるらしい。

 

 破滅。それは完全に終わるよりも空しい未来。

 

 生きているのならチャンスはある、と一般領域の他人は言うだろう。けれど非一般領域の僕らの正論にはならない。ただ生きているだけだ。震えるように心臓が動き喘ぐような呼吸をして辛うじて生きている。チャンスは転がっていてもそれを拾いに行く目も手も足も無いものと同じだ。四肢に命じる心が死んでいる。アオイの情熱が土の下にあるように。人間は情熱が無ければ生きていない。

 

(あなたは……きっと、諦めてしまった僕の未来だ)

 

 はじめたことを終えられず、誰かに何も渡せもず足掻き続けている。

 

 理性では夢の欠片を誰かに渡したいのだろう。もしかすると捨てたいと願ってさえいるのかもしれない。冷めた情熱は抱えているだけで凍傷してしまう。その冷たさに彼はいよいよ耐えがたいと思っているのかもしれない。夢は遠くにあるから綺麗で素敵なものであって近場にあるそれは痛みが強くて耐えられない。

 

 ああ、見苦しい。叶えもしない夢にしがみついて。

 ああ、汚らしい。願えもしない夢に泣きすがって。

 

(そう思えたら楽だ。そう考えられたらもっともっと僕らはマシで綺麗で素敵に生きれるだろう。――死ぬほどに退屈で無意味な生と引き替えに)

 

 進めない彼は何も選べない。

 だから僕に選べという。

 差し出す体をとっていて、その実は誰かに決めて欲しいだけだ。

 

 マニは手のひらに痛みを感じて自分の手を堅く握っていたことに気付いた。

 

(僕と同じ)

 

 運命の囁きに流されるようにマニはここにいる。

 アオイもそうなるだろうか。彼にとっての運命になってしまうんだろうか、僕が。

 

(それは嫌だな)

 

 マニは思う。

 嫌なのは彼の人生を決めるからじゃない。

 僕のような、ふわふわして地に足のつかない彼を見たくない。

 

 その思いがマニの視界を塗りつぶす。そこでアオイはぽつんと岸壁に漂うように座っていた。今のアオイの姿は寄る辺のない雲より儚く見える。

 

 そうか。マニは気付いた。

 

 アオイが見ていた「僕」とは実にこんな男だったのだ。なんて頼りがいない姿なんだろう。なんて不確かな存在なんだろう。「自分」が薄くて今にも消えてしまいそうだ。

 

(あなたは、僕にとって永遠の壁だ。そうであってほしい)

 

 彼に理想を押しつけるのは身勝手だろうか。いや、これでいい。僕以上に背中を押されたがっていたこの人は身勝手なんだから。

 

 強がって、言い張って、騙して、弄して、それでも僕の良き障害になってほしい。――強く思った。

 

 僕は息を吸う。

 世界に色が満ちる。

 

(ああ、僕はどうして忘れていたんだろう)

 

 言葉を伝えるために呼吸をした。

 冷たい海の潮風だ。目にしみる。肺がしくしく痛む。涙が出そうだった。鼻先がツンと痛かった。

 

(はじめて息を吸ったみたいだ)

 

 僕は『運命』を忘却した。

 後生大事に隠していたポケットから知らず知らずコインを落っことしてきた自然さで僕は『運命』を忘れていた。

 

(自分のことを自分で決める。選ぶべき道を選ぶ。――なんて清々しさだろう。後悔はしない。いいや後悔なんて、笑ってしまう、どうやってもできるものか!)

 

 意志は不当な失敗を繰り返し、そのうち運命と呼ばれるようになった。形を変えたのは捨てきれなかったからだ。だから3つの理由をこじつけて正当化してそれを誰かの指だと信じた。

 

 でも、それは今日でおしまいだ。

 

 もう一度、信じてみよう。進んでみよう。誰の指図でもない。僕の意志で。そうしてアオイさんにも見せてやろう。僕は変わる。あなたも変われる。ダメじゃない。信じられる。歩いていける。どこまでだって!

 

 だから。

 

(もう『音』は聞こえない)

 

 さようなら、と意識の裏側の僕は言った。

 さようなら、と運命は硬質の音で叫んだ。

 

 今日の僕は退いた分を進んだ。

 

 

 

◆ ◇ ◇

 

 

 

 波音が聞こえた。

 マニは、自分が目を閉じていたことに気付く。それから手持ちぶさたの手を組んでギュッと握った。

 

「僕はお断りします。アオイさんのものはアオイさんのものだ。僕は……僕は這い上がりたいと思っているけれど、まだ自分の力だけでは難しいかもしれないと思っているけれど、あなたの成果を僕のものにはしたくない」

 

 一瞬だけ描いた夢を破り捨てるようにマニは頭を振る。この言葉のために痺れるほどの覚悟をもっていて、決して歪まないし曲げないと思っている。でもアオイが何か言うのが怖かった。彼は言葉巧みに抗い難い妙なことを言うのではないか。怖かった。

 

(お願いだから黙ってくれ!)

 

 悪いことを、けれど甘美な幻想を囁くアオイを黙らせたくて仕方が無い。

 歌うように彼の言葉は続く。

 

「私は夢のために多くのものを犠牲にした。親友も私もポケモンでさえ、汚れない心、健全な肉体、精神、それぞれ失った。なりふり構わず一途に尽くした結果がこの様だ。とても大切だった『彼』を失うまでそれは止まらなかった。分かるか? いいや分かりはしないだろう。そうだ、そうさ、そうだとも、誰にも分かってたまるものか。――この情報は犠牲にして得た価値がある、けれど私はそれを正しく使うことはできない。『もはや』だめだ。分かるだろう。私は足をとめてしまった」

 

 ギィ、という金属の軋む音が悲鳴のように聞こえた。誰の悲鳴か。……僕は分からないフリをした。アオイが目を見開く。その目にはどこも映していなかった。きっとここではない世界を見ているのだ。きっと彼が描いた夢がそこにはある。

 

 あぁ、遙かなる遙かなる、私の――。

 

 彼の声を遮る。その声は硬質だ。

 

「あなたがやるべきことはあなたのものだ。僕の責じゃない。僕の夢じゃない。ああ、誰のものにもならない。あなただけのものだ。……けれど僕がそれを受け取れば、あなたはそこを動き出せるんですか。それなら僕に貸してください。あなたが動けるようになるまで持っています。待っていますよ。いつまでだって」

 

「いいや、私の研究を続けずに受け取ることは許さない。その時、私は障害として君の前に立ちはだかるだろう。その時は踏み台ではない。君を叩きつぶすためだ」

 

「なんで? どうして? なぜ? あなたは僕を支えようとしてくれているのにどうしてその情報に関してはそうなるんですか!?」

 

 マニは矛盾を叫ぶ。アオイの目は決して眩んでいなかった。

 そしてマニは彼の真実の一片に触れた。

 それはアオイ・キリフリという人物を構成した要素。

 

「これが私の人生を懸けた全てだからだ!」

 

 叫び。

 潮風さえ止まった。マニはアオイが知らない誰かに変わってしまったようで身震いする。彼の知らない青年がそこにいた。言葉は終に張り裂けた感情の爆発だった。

 

「誰よりも先へ! 誰も見たことがないものを! 聞いたことがないものを! 知り得ないものを! それを望んだ私の夢だったからだ! おお、誰にも見せるものか! 聞かせるものかっ! 知らせるものかッ! けれど、私は進めない。私の足は止まってしまった! たかがポケモン一匹のために! くだらない良心のために! 愚かな善心のために! 今まで低位な感情だと見下げ果てた全てのためにッ! しかし物事はそういうものだ。はじめた時と同じように終われないのなら誰かが継がなくてはならない! 歩き続けるために、探し続けるために誰かに託さなければならない。急がなければならない。情報は生き物だ。寿命がある。あぁ、私の手から離れてしまう、口惜しい悔しい憎らしい。それでも、私は君を選びたいと……思っている」

 

「その夢はあなたのものだ! あなたが歩けばいい! さあ、歩け! 座ってないで歩いてみろよ! 今すぐだ! 『私を殺して奪い取れ』と痺れをきらしきって言う前に勇気を出せよ! あなたが歩けばいい……!」

 

 この人は、どうして一生懸命になれるんだろう。

 

 命を懸けてひとつために生きる。ああ、怖い。覚悟したってやっぱり怖いものは怖い。逃げ道がないんだ。今のあなたを見ればそれが分かる。前に進むしかない。後ろへの後退は許されない。だから止まるしかない。あなたは停止してそのままだ。身体じゃない。心が止まってしまっている。壊死する一歩手前だ。

 

 けれど、まっすぐ、ひたむき、一途に、そして未来へ。

 

 ああ、なんて素敵な生き方なんだろう。そんな人生を歩めたらきっと素敵だ。目的もなく命懸けるものもなく茫洋と幽鬼じみた人生を送るよりもしれない。いやきっと有意義だ。たとえ責を負ったとしても課された使命を全うできるのなら良い人生じゃないか。以前の僕は情けなくもそう思う。――けれど今の僕が否定した。

 

「君には重いだろうか」

 

 切実な拒否に触れたアオイは全てを悟ったかのように呟く。無感動であり調和的な声だった。

 

「僕は、いいえ、違います。――僕はいつもこうだ。僕が間違っている。あなたが正しい。ええ、あなたは正しく研究者だ。そして賢い人間だ。同時に優しい人でもある。さんざん迷って悩んだ末に正答を選べる勇気がある。失望に病んでも判断力は狂わない。たとえ誰にも渡したくなくても研究を続けるために、最後には全部をあけ渡すことができている。自分の命さえ惜しまずに。あなたほど賢い人に僕は出会ったことがない。それでも僕を選んだことは間違いでした」

 

 マニは、あべこべの感情に戸惑いながら、最後にはキッパリと言うことができた。

 

 アオイの正しさは自分の本心を伝えて研究を継がせようとした意志にある。こうした姿を他人は「転んでもただではおきない」、「見苦しい醜態だ」とでも言うだろうか。そんな言葉は彼にも僕にも無意味だ。

 

 研究とは、真の学究とは、人の意志によって行われる。それは世代を継ぎ時間を超える人間の価値の結晶だ。きっとポケモンにはできないだろう。

 

 アオイとマニの間を微熱い潮風が吹いた。南の風だ。ほのかに湿り柔らかい。しかもかすかに夏の草原の香りがした。

 

 マニもアオイも認識のどこかに似た感覚があったのだろう。お互い現実味が無くて笑ってしまった。クスクス、とおかしそうにアオイはひとしきり笑ってから、狂が醒めた目でマニを見つめた。そこにいたのは理知的で温和しい、くたびれた青年だった。

 

「あぁ……君は……そう選ぶのか。……とても残念だ……私の栄光、私の夢は……まだ途中のまま、私と共に……ここにあっていいのか……。おかしなものだ。君が『私の研究を引き継がない』かもしれないなんてちっとも考えていなかった。情けないものだ。ああ、言葉が見つからないよ……断られるとは思わなかった。まさか意志薄弱な君に断られるとはね」

 

「褒めてないですね、それ。でも、その、ありがとうございます、アオイさん。僕は自分で決めるのが下手で、いつも間違えてしまうから……きっとアオイさんの夢を継いだら迷うことなんてひとつもなく充実して生きていけると思います。でも、きっとそれじゃだめだと思うんです。……悔しいな。ようやくあなたのお眼鏡にかかったのに。こんな形になるなんて」

 

「君はそれで後悔しないのか」

 

「意地の悪いことを聞きますね。するに決まっているじゃないですか」

 

 口を尖らせてマニは言う。アオイが地平線の彼方を見つめながら溜息にもならない呼気をもらした。

 

「カントーじゃ『ホトケのカオも三度まで』というらしい。いや、実のところホトケが何なのか分からないが、たったの三度くらい待とうじゃないか。こう見えても私、フラれたことのない色男なもので」

 

「どうせ誰にも告ってないからカウント0ってオチでしょう、それ。――アオイさん。僕は僕が信じる道を生きたいと思います。だからあなたの最終就職先はどうあっても僕の踏み台のようだ」

 

「…………」

 

 アオイはムッとして口をへの字にした。

 分かりやすい不機嫌にマニは気付いていたことを言う。

 

「アオイさんって誰かの下につくの、本当はすごく嫌いでしょう」

 

「なぜそう思うんだい?」

 

「世界を自分の思うとおりにしたいという人が好きなわけないと思って」

 

「ああ、その通りだ、正解だ。そして察しのいい奴は嫌いだ」

 

 その言葉にますます疑問が募り、マニは質問した。

 

「アオイさん。どうして僕なんですか? ベルガさんは? パンジャさんじゃだめなんですか? パンジャさんならきっとあなたの研究のことを一番理解しているのに」

 

 アオイはその言葉に目を伏せる。そしてタイヤを動かした。ゆっくりとマニへ近付いてくる。

 

「ベルガさんは正統派だ。正しい道を選んできた。これからもそれは変わらないだろう。私のような手段を選ばない外道の後釜にはできないよ」

 

「あんた、僕のことなんだと思っているんですか」

 

 かろうじて敬語ではあったが、そのせいで滑稽になりそうだ。マニはアオイの言葉に噛みつく。アオイはポカンとした顔をしていた。どうして責められるのか分からないらしい。どうやら彼にとって犯罪のハードルは他者よりずいぶん低いところに設置されているらしい。どうなっているんだ。

 

「ベルガさんは……まあ電話で話しただけじゃ僕も分からないんで、そう、よしとしましょう。じゃあ、パンジャさんに任せればいいじゃないですか。あっ、まさか嫉妬するんじゃないでしょうね? 才女だなんだともてはやされているあのひとに」

 

「彼女に嫉妬などバカバカしい。鏡を見て自分を呪うことと同じことだ」

 

 アオイは潮風に誘われるように東を見る。あの方向に彼女がいる。

 優しげに細められた目は、哀れみをたたえていた。

 

「まあ、彼女は私の代わりになれるだろう。私が望みさえすれば……。そういう人間的な性質をもっている」

 

「なんですか、人間的な性質って。ポケモンじゃないんですよ」

 

「君が失敗に愛された人間で、私が破滅的な運勢を招きがちなように、彼女は迎合的な性質をもっているというだけの話だ。それに時に破壊的でもある。実にワイルドだ」

 

「続けなきゃいけない研究を壊しちゃダメじゃないですか? え? 僕なんか間違ってます?」

 

「概ね正しい。しかし研究は時と場合に応じて別の切り口が必要になる。私に必要な閃きを与えてくれるのはいつだって彼女だった。それも破壊的な方法でもってね。だからこそ常人には思いがけない手段をやさしく取ってしまうのだが。……話を戻そう。そう、彼女に私の研究を任せられない理由だが」

 

 アオイは嘆息とともに語った。

 

「私の思考に私の思想。以心伝心は完璧だ。ある面から見れば彼女は依存的だが優秀さを損なう短所にはなり得ない。そもそも私の研究方針に進展が望めそうにない。それが最大の問題だ。ああ、そうだ。これだけは言っておく。事故は故意ではない。正々堂々、私が実験を失敗してしまったのだ。私たちが成した最初で最後の仕事は自分の考えた理論が間違いであることを証明することだった。努力の成果にしては空しいものだが研究は失敗の連続だ。それに耐えうる者だけが成功者になれる。……私の研究を押し進めたところで私が犯した過ちを次は彼女が犯すだけだ。それも正しく二の舞を演じてくれることだろう。……ああ、違う違う。言い訳はやめよう。一番はそうじゃない。私はこれまで彼女に負荷をかけすぎた。彼女はまともに見えるだろうがアレでいろいろとギリギリなんだ」

 

「ギリギリって……なにが、なん……ですか」

 

 アオイがギリギリという程度はどの程度のギリギリなのか。

 きっと比喩ではない。その予感がマニの内心に氷の感触を生み出していた。

 

 大丈夫と言うアオイの現状でさえこのありさまなのだ。夢のために自分の命さえ躊躇わない。では「ギリギリ」だというパンジャは? もう「まとも」ではないのではないか。

 

「『今も』いや、これは嘘になってしまう。今は、そう、今だからこそ彼女のことは大切に思っているんだ。内緒にしてくれ。あまり他人に話したいことではない……」

 

 恥ずかしいことだから、と彼は言う。まるで陰口を言った後のようなバツの悪さがアオイにはあった。けれどその言葉をパンジャに伝えてあげたくてたまらない。何が恥ずかしいというのだろう。他人を大切に思うことの何が悪いことだと言うのだろう。どういう感情の大切なのか、マニには分からない。けれどそれは確かにアオイの良心で最も素晴らしいところのひとつだと思う。

 

 だからこそ。

 

「あなたはときどき、言葉が足りない。勇気はいつも足りないですよ」

 

 静かな声だったが、彼には堪えたようだ。大声で叱られたようにアオイは肩をすくめて「知っている。でも一日に使える勇気には限りがある」と言った。彼には勇気のガソリンスタンドが必要だと思った。

 

「……よけいなこと言っちゃいましたかね。すみません」

 

 マニはもう一歩、そろりと歩み出した。

 アオイも一回、車輪を回した。

 

「アオイさん、僕と握手してくれますか」

 

 疲れの滲んだ声でアオイは応えた。

 

「……いいだろう」

 

「僕の良い先輩になってください」

 

 マニの手に触れかけた彼の手が止まった。

 

「それは……どうだろう。私はあまり良い人間とは言えない」

 

「じゃあこれから良い人間になってください」

 

「それもどうだろう。過去は変えられないし……」

 

「それでも尊敬できる人間でいてください」

 

「……それは」

 

「じゃあ、僕の友達になってください。それくらい、できるでしょう」

 

「相互に理解しうるかという問題だ」

 

 アオイはどうすれば理解してもらえるか、思考を回しているところだろう。でも、それは要らない。必要なのは意志を伝える言葉だ。

 

「見解の相違です。僕は宣言して握手すれば友達だと思っています」

 

「……私なんかと友達なんて君は物好きだ」

 

「僕なんかを自分の後釜に据えようとしたあなたほどじゃない」

 

「言うね」

 

「言わせてもらいますとも」

 

 ふたりはかたい握手をかわした。お互いの手の骨を揉み砕くような力加減にパッと手を離しどちらも腕を抱えて呻いた。なんてことをするんだ、という恨み言をふたりは口をそろえて言った。

 

 それから、睨む合うようにふたりはお互いを見つめた。

 やがてマニの伸ばした手に、控えめなアオイの手が握られた。もし、と彼が呟いた。

 

「私が健在で逆の立場ならば……」

 

「ん?」

 

「情報を奪って油断した隙を突いて海に落としただろう」

 

「うわっこわっ」

 

 マニはアオイが冗談を言っているのだとこの期に及んで信じていた。けれど当然ながら彼の目は真剣そのもので握られた手を見ていた。そうすることを期待しているのかもしれない。マニはすこしだけ考えた。

 

「こんな私で良ければ……君さえ良ければの話だが友人になってもよいだろうか」

 

「大歓迎ですよ」

 

「ではお役に立てるように頑張るよ」

 

「べ、べつにそういうことを期待して友達になるわけじゃないですよ!」

 

「……?」

 

「役に立たなくたって、ただ話せるだけでいいじゃないですか。友達とかそういうものでしょう」

 

「ああ、うん、まあ」

 

「分かったフリしないでくださいよ……なんで意地張るんですか、そこで」

 

「ど、努力する」

 

 アオイは顔が赤かった。これまでまんじりともしなかったヒトモシのミアカシがよじよじと彼の服をたどり、頬をぺちぺち叩いた。

 

「……見ないでくれ。もう、恥ずかしい……恥ずかしいんだ……」

 

 マニは顔を覆ってしまったアオイの車イスを押す。その時、風が変わった。「きっと後悔するぞ」というアオイの低い呟きは背中からゴウッと吹いた潮風に掻き消える。

 

「今度の休日までにカフェの店を探しておきますよ」

 

「……とびっきり男2人で入るのを憚るような、オシャレなところがいい。おいしいケーキをつけてくれ」

 

「了解です。特別展のことも本腰入れて考えないといけないんで頼みますよ」

 

 フン、と鼻を鳴らした。それに湿った音が混ざる。彼の身体が震えているのは寒いからではないだろう。マニはできるだけ時間をかけて車イスを押し続ける。アオイの手はしっかり握られていて車イスを操作するパネルにかすりもしなかった。

 

「ああ、海は風が強くて。潮風ってヤツはこれだから」

 

 いいんですよ。

 

 都合の悪いことは何も聞こえていないフリをする。

 アオイとの関係にはそういうものが必要らしかった。

 

 ああ、今日の僕はひとつ賢くなった。運命を忘れた頭は意外にスッキリと片付いた新品の本棚のようで物事の飲み込みがすんなりできた。ただの気の持ちようといったらそれまでかもしれないけれど。マニは前向きに考えることにしようと思えた。

 

 アオイさんも……このままじゃないだろうし。

 

 研究を続けるように次の一手をうつのだろう。情報には鮮度がある。価値を持ち有意義に使える期限は迫っている。その前に、何かを。

 

(でも、アオイさんの研究を継げるのは結局アオイさんしかいないんじゃないかな……)

 

 よっぽど言おうと思ったが、今ではないだろう。

 

 

 そう考えて言葉を未来へ送った。

 いつかきちんと渡せますように。――未来の自分にそんな祈りをして。

 

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