もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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視よ、そこに悪夢の王がいる!

 ダークライ。

 その姿を見た者は少ない。

 

 そも、どこにいるものか。

 

 ほのおのポケモンならば火の山へ。みずのポケモンならば雫を追って。くさのポケモンならば深い山へ行くとよい。

 

 悪夢を探しにどこへいけばいい? ひとはあてさえつかめない。

 

 ではミオシティの少年はどこで出会ったのか。海か。道か。はては空か。いいや、そのどれもしっくりこない。森のなかで出会ったのが特殊なケースなのだろう。言葉による相互理解は人間の手法であってポケモンの手段では……。

 

 思考にはセンスが必要だ。けれどたくさんは要らない1%あれば十分なのだとどこかの天才が言っていた。

 

 アオイのひらめきが不意に昔詞のワンフレーズを呟いた。「夢のなかで会いましょう」――なるほど、悪夢を見せるというダークライならば夢で出くわすのが最も納得できる出会い方だ。探しものは何のことはない。頭のなかにあったのだ。

 

 出会うならば夢のなか。

 長く時をかければ生命に害を及ぼす悪夢。少々、物質的ではない。物理か特殊でいえば特殊。肉体と精神であればこちらも後者に影響が大きいだろう。

 

 彼の悪夢は我々の肉体を「眠っている」状態に固定する――と仮定して――しかし意識レベルは浅くほとんど覚醒状態に近い状態に固定できる――と仮定しよう。

 

 アオイは薄く目を開く。

 

(彼の悪夢のなかでは過去の研究室の追憶が可能なのだからきっと脳は覚醒に近い状態なのだろう。あるいは過覚醒とでも呼称できるだろうか。通常の意識ならばオーバーフローする情報量がごく普通の人間でも処理できるようになる。再現だけではない、あれはまったく新しい構成を……。ともあれ火事場の馬鹿力の脳みそ版ならば理屈が通りそうだが。果たしてCTで頭を輪切りにしたって分かるものかな。検証はできない。想像通りならば意識は近似の状態のはずだ。だからこそ考察できるだろう。そこから考える)

 

 全ては適材適所だ。役に立つことはないか。ダークライを活かす方法。充実した人生。生命のクオリティ。悪夢を使う革命的な手法。アオイは考える。可能性の模索と思考速度にはパソコンよりペンがちょうど良い。気まぐれにペンをまわす。くるり。くるり。くるり。一回転。円すなわち循環。どこにもいかず何にもならない。進展の無い状態。けれどとどまらず常に動き続ける。停滞していない状態は好ましい。そう。動き続けているとしよう。進展が無くとも止まっている状態よりそれは遙かにマシなはずだ。前に進めなくとも後ろに進まないだけ上等だ。

 

 しだいに瞼が重くなる。そして気付けば目を閉じかけていた。ひどく眠い。午後から常に抱えた眠気が思考を奪う。

 

(肉体の停止に伴う意識の流動化。けれど認識は沈まず。むしろ純化する。だからこそ実現する精度の高い夢。真に迫る恐怖。そうだ。悪夢なのだからそれは恐ろしくなければならない、人が危機と感じるものでなければならない。そうでなくてはダークライは自分を守れないから……。でも彼に迫る危機は当分の間、遠ざかった。今ならば手段を目的に置き換えることは可能だろうか?)

 

 おお、いいじゃないか、私。冴えてる。

 

 どういう意味なのか自画自賛の言葉さえ理解できず、彼は意識を手放した。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 この日は夢を見た。

 

「ヨゥ」

 

 そこで偶然にダークライに出くわした。――そんなわけがなく。

 意識がくっきりと浮かび上がる。しかし現実感が伴わない。意識はハッキリしているくせに体がふわふわする。とするとここは夢の中なのだろう。

 

 アオイは腰に手を当てて顎を上げた。

 

「昨日の今日で……。なんだい、まだグッドアイディアは思いついてないぞ。考えていたけれど」

 

 靴先まで確認して自由に歩ける脚を取り戻したことに気付く。けれど何か忘れているような気がする。そも、取り戻した、とは何か。

 

(なぜ脚が動くことに私は動揺しているのだ?)

 

 額に手を当てる。靴のはまり具合を確認するようにつま先で地面を蹴ったところでパシャリという水音に気付く。この世界を満たしていたのは水だ。正しくは海水だ。味も匂いもないけれどこの悪夢の世界でそう確信を得たのならばそれは海水なのだろう。

 

(裾が汚れるじゃないか)

 

 アオイは文句のひとつでも言いたくなり、これ見よがしに「明日は仕事だ。寝たいのだが」ときっぱり言った。けれどこの言葉にも違和感がある。

 

(あれ……待てよ。私の「仕事」って何だ? 決まっている電話だ。なんだそれ。違うだろう、私は研究を――)

 

 彼は勢いよく顔を上げる。同時に膝から崩れ落ちて溺れた。

 

「あ、脚が……現実の認識に引きずられているのか? だが思い出した。ははは。そう簡単に忘れるものかよ」

 

 アオイはキッと陽炎のように漂うダークライを見据えた。

 

「ダークライ、私はともかくミアカシさんまで悪夢を見ると困る。君がどこにいるのか分からないが私が夢を見ていて君が干渉できるというのならば家のすぐ近くにいるのだろう。彼女は寝ているぞ。君だって嫌われたくないだろう」

 

 ヒトモシのミアカシのことを引き合いに出すと彼は渋々といった様子で、

「ソれはマァ……」

 とほかに何事か不明瞭な言葉を呟きダークライはアオイの夢のなかで消える。それは朝霧が風に吹いたような儚さだった。

 

 彼が去ってしまった後でアオイはもしかして何かまだ話したいことがあったのではないかと思い至った。追い返すように言ってしまったけれどあれで良かったのだろうか。それに、とアオイは我が身とあたりを見回す。

 

(まだ悪夢が醒めない。どういうことだろう。悪夢の誘因であるダークライは遠ざかったはずだ。私の認識に会われないだけでまだ近くにいるのか……? そうするともうしばらくここにいかなければならないだろうか)

 

 悪夢をよくあるゲームにたとえよう。ステージクリアに条件があるとしたら最悪だ。ここは時間が分からない。数分が数時間、数日になっているかもしれない。早急に策を練る必要がある。

 

 アオイは動かない脚に「動け動け」と念じ続けた。しかし。

 

(それで動いたら世話のない話だ)

 

 ぐう、と唸る。

 

 腕に力を入れて這い回ることにした。そのうち新しい発見をした。夢のなかは疲れない、ということだ。正確には「歩けない」と思い込んでいるから「歩けない」ように「疲れない」と思い込むことで「疲れない」のだろう。もっともアオイの思い込みとは「実際の肉体でもないのに疲れるわけがないだろう」という物質主義的なものだったがそれで十分だった。

 

 アオイの悪夢は、これまでとは趣が違う。

 

 まず第一に、舞台が研究室ではない。真っ白な空間に海水が満ちている非現実的な空間だった。もちろん来たことはないしこれまで夢で見たこともない。遠くに何か立っている。シルエットでは樹木に見えるがここは夢のなかだ。目で見るものが正しいとは限らない。実はウソッキーです、というエイプリルフールのネタじみたトリックなんて目ではない。文字通りの言葉通り「何でもあり」の世界だ。

 

 とはいえここは自分の頭のなかだ。そうそう突飛で荒唐無稽な存在は無いだろう。アオイはこの点に関して自分を信用していた。

 

 とりあえず、あの樹木らしきものの正体を確かめてみよう。彼は腕を動かした。そこで煩わしいのは海水だ。実際の海水より抵抗があるわけではない。むしろ軽い。触ったことはないが雲をつかむ、というのはこういう手応えの無さを指すのではないかと感心するほど軽やかで液体の実態がない。立っていれば臑のあたりにようやく届くだろうかというくらいの低い水位。けれど問題はそこではない。

 

「ふんっ。海水の指すものは何か。心象風景で自己分析が捗るがあいにく心理学は専門外だ!」

 

 海水。

 それを満たす海は命が生まれいずれ還る場所を示す。

 

 この心象風景世界に溢れるそれをアオイは忌々しく見つめ拳で殴った。生まれ出た結果が今さら身勝手に安寧を願うというのか。その帰りたいと願うことこそ現在を否定することだ。私はここにいる。ここに生きている。まだ辛うじてかもしれないが確かに生きているのだ。還る場所など必要ない。

 

(それなのに全てを放棄して投げ出そうとする私がいる)

 

 還るとは何か。それは迂遠の死だ。

 

 たしかにそこに至れば意識が無い状態になる。無思考で無思索の何者にかになれるのだろう。思考の停止は知を有する生物にとって幸いだ。そうだろう、パンジャ。苦痛の喪失と同じように。そうだろう、コウタ。苦痛の無視と同じように。

 

 今より苦しまないかもしれない。今より悲しくないかもしれない。それでも。

 

「私は苦悩を有する理性を愛していたい! 苦難を歩いていけるのは知性を有するいきものだけだからだ! 人間は水ではない! 高いところから低いところへ流れるものではない! どんな障害があろうとも、どんな逆境に遭おうとも、歩いていける! 私もそうありたい! 私だって!」

 

 だからこそ。

 

 動け! 動け! 動け……! 

 

 彼は選択し、叩き、叱咤する。

 その時だ。

 

 あの日の爆発から止まっていた彼のなかで、小さな針が動き始める。ぴくり、と脚が震えた。

 

「え……」

 

 アオイの脚は、自分のものであって自分のものではない。つねると痛い。叩けば痛い。感覚はあるのだが動かし方を忘れたように彼の脚は動かない。――ものだった。

 

 どうして動かないのか。いや、そもそも『なぜ動かないなんて思っていたのか』? 四感で生きていた人間に一感覚が増えた感覚とはこのようなものなのだろうか。アオイは引きずっていた足を胴に引き寄せた。手を使わずに。

 

「動く……」

 

 ゆっくりと立ち上がる、慣れない視界の高さにフラフラした。 

 

 一歩踏み出すごとに膝から崩れ落ちるのではないかと怯えながら、まずは3歩あるいた。それから2歩下がり、再び3歩歩いた。そして彼は気付いた。世界を満たしていた海水が無くなっていたことに。

 

(……行こう)

 

 アオイは樹木らしきものがあるほうへ歩いた。その足取りはおぼつかない。それは理想に迎合できない幽鬼のありさまだった。同時に自分の二本の脚で立ち歩いている理想の体現でもあった。

 

 どれくらいの時間がかかってしまったのか分からない。それでもアオイは樹木にたどり着いた。

 アオイはその樹を知っていた。シッポウシティ、その公園にある樹だ。

 

 どうしてそれを覚えているのか。それは。

 

「忌々しい。忌々しいね。実に忌々しい。君がここにいるのが私にはどうしようもなく……忌々しい!」

 

 果たして何と形容すべきなのか。樹木のシルエットから現れた、そこにいる誰かは何者なのか。アオイには分からない。自己分析する気分にもなれなかった。破壊的な気分になって全てぶち壊したくなる衝動に駆られてしまった。

 

 カツン、と革靴の踵を鳴らし彼女は腕を組んだ。

 

「そんなに言うことないじゃないか、アオイ」

 

 現実と見間違うほどの鮮やかさで彼女、パンジャは笑ってみせた。しかし彼女が歩を進めるごとに周囲に咲き散るパンジアの花がこれを現実ではないことを証明している。アオイは苦々しい思いで彼女を見つめた。

 

「言うほどのことだ。私の夢の中で私の願望があろうことか君を象るなど。こんな辱め、生きている間にするとは思わなかった」

 

「あなたは、まったくわたしをどう思っているのだか。喜ばれるとは思っていなかったけれどそんなに苦い顔をされるとも思わなかったというのに」

 

「君は勘違いをしている。私が辱めを受けているのではない。私が、君を、辱めているようで嫌なのだ。夢の中まで君を酷使している。使い勝手の良い友人役を押しつけているようで……それが私はとても嫌なんだ」

 

 それを聞くと彼女は弾かれたように笑い出した。失笑、という具合だった。それからスッと真顔に戻ってからいつものように親しげに微笑んだ。

 

「わたしはあなたの理解者にはなれないし、あなたもそれを望まないだろう。でも、わたしはあなたの友人だ。それでいいじゃないか。友人役、そのロールを演じる役者は自らそれを望んでいるのだから」

 

「それでも私は心苦しい」

 

「だからこそ、わたしは正しく友情を果たしてみよう。作者が望み、演者が叶えた。何を遠慮しているのやら。極めて互助的、相互利益の粋を満たしている。あなたに意見する心算は無いが意志を伝えておこう。わたしはあなたの役に立てるだけで嬉しいんだよ」

 

 立たない『役』など価値のない存在なのだから。

 彼女の目に剃刀色の光が宿る。それをアオイは呆然と見ていた。

 

「君は……きっと現実世界の君もそう言うのだろうな」

 

「ああ、やはりあなたは理解力のある友人だ。良いことだ。幸いなことだ。けれど今のあなたには不幸なことなのかな。とても残念そうな顔をしているのだから」

 

 アオイは言うべきかどうか迷い、何度か思考を反芻した。たとえるなら現実世界の彼女を前にしたように緊張していた。

 

「私は友人ができたんだ」

 

「へえ。マニ君のことかな。あなたの進展をわたしは歓迎しよう。手を叩いて歓待しよう。喉を張って歓声をあげよう。ところで彼は彼女はわたしよりも有益な存在なのだろうか? ……すまないね、わたしはそれだけが気がかりでいけない」

 

「君の定義において彼は『友人』ではない。かつての私の定義でもそうだろう。けれど彼は私の友人だ。彼がそう言ってくれた。その時、私は嬉しかったんだ……と思う。」

 

「……すまないが理解が追いつかない」

 

 彼女は受け入れがい現実が草むらから現れた顔をしている。ゆるりと首を横に振った。

 

「わたしを叱咤激励してくれると嬉しいのだがもうすこしあなたの話を聞いてからにしよう。――あなたは友人の定義を変えたのか? するとわたしは君の友人ではなくなってしまったのだろうか?」

 

「君は私の大切な人だ。だから私は君を親友と呼びたい」

 

 そわそわと落ち着かない所作で彼女は指を組んだり解いたりした。次の言葉を考えているふうである。そんな彼女にアオイはたずねた。

 

「ここは私の夢の世界。正確には『私の想定しうる世界』だ。だからこの質問には正しく建設的な意味はないのだろう。けれど君は私が自覚しえない思考を持っているようだ。私は仮想の君に現実の君について聞いてみたいことがある。『私に友人ができた』、『君やかつての私が求めたような関係が無くとも友人になれる』。それを伝えても彼女は平静でいられるだろうか?」

 

 彼女は目を丸く見開いてから心を落ち着かせるように胸を手を当てて「悔しいなあ」と呟いた。

 

「なに?」

 

「わたしが可愛げのある彼女なら駄々をこねただろう。あるいはもっと身勝手な彼女ならば怒ってみせただろう。『わたしがここにいるのに他の女の子の話をするなんて!』とかね」

 

「それは……まあ、そうかもしれない。失礼な質問とは重々に承知している。でも君は『私』でもあるから」

 

 アオイは気まずくなり髪をつまんだ。それを彼女は優しい顔で見ていた。

 

「わたしは怒るだろう。友人の定義が揺らいだことに。でも同じくらい喜ぶだろう。あなたの可能性が増えたことに。そして憂うだろう。我が身の不安定さを」

 

「我が身とは誰のことだ? 私か? パンジャか?」

 

「どちらもだ」

 

 彼女は地面から一輪、パンジアの花を摘んだ。

 

「どういうことだ? この世界は私の世界だ。君は私の夢が作り出した幻だろう?」

 

「半分正しく半分異なる。わたしはあなたの求める完全な解答を持ち得ていない。理由はあなたが言った。『君は私が自覚しえない思考を持っているようだ』と。並列思考は交わらない。思考とは意識の作用。それ自体が異なる人格をもつからだ。あなたは相互に意思疎通している多重人格者ではないだろう?」

 

「待て待て。私ならば知っているはずだ。心理学は専門外だと。もうすこし分かる言葉で言ってくれないか。君は何だ、私の何かしらの願望の象徴ではないのか? 君は私の何なのだ?」

 

「わたしはあなたの友人だ」

 

「いえ、そういうことではなく」

 

「それ以下でもそれ以上でもない。なんだい、あなたの求める母性の象徴とでも言えば満足なのか?」

 

「い、いや……全然! ないない!」

 

 アオイは慌てて手を振った。

 彼の家庭事情をいやというほど知るパンジャは軽く笑った。

 

「もちろん、違うよ。わたしは友人、そして誇らしくもあなた曰く親友であるらしい」

 

「……君は私の作り出した幻。けれど私の知らない思考を持った一個の人格だという。ひょっとして私はよくある二重人格ってやつなのかな」

 

 よくある二重人格とは何なのか。自分から発した言葉のくせに違和感がのこる。というか意味不明である。

 

「さあ。どうだろうね。こればっかりはわたしにも分からない。だってあなたはわたしに本心を語らないじゃないか。違和感を覚えるほどあなたを理解できていないんだ。ああ、責めているわけではないよ。君のその態度は好ましいし距離感もちょうどいいと思っていて深入りしないようにしているのはわたしのほうなのだから」

 

「でも、それでは君がいることに説明がつかない」

 

「このことについてたくさん質問されると困ってしまうよ。自我の曖昧さこそわたしがわたしでいられる領域なのだから。でも夢の世界のわたしも現実の世界のわたしも君の変調を覚えたことない。あなたはわたしのように記憶が飛ばないだろう? 気付いたら外にいたとか路地裏に立っていたとか階段を昇ったと思ったら降りていたとか、そんなことはないだろう?」

 

 アオイは「ああ、うん」と頷いた。しかし決定的な証拠にはならない。パンジャの変調をアオイは知っている。知っているもなにも最初に指摘したのはアオイでそれを隠すようにフォローし続けたのもアオイなのだ。だからこそ知っていることがある。記憶が飛んでいると彼女は言うが、その間の様子はごく普通で理性を保っている状態なのだ。そしてある時に不意に動きを止めると時計を確認してから「あぁ」と呟く。そして言うのだ。「また飛んでしまったようだ」と。

 

 考え込むアオイに焦れたようにパンジャはアオイの手を取った。

 

「なんだ、あなたは夢の中にまで屁理屈をこじらせないといけないヤツなのかい。いいじゃないか、イマジナリーフレンドのひとりやふたり夢の中にいたって」

 

「そういうものなのだろうか」

 

「そういうもどういうも。あなたの夢の中には現にわたしがいるじゃないか。まーた不服そうな顔をしている。では証明してくれよ。私は君の何なのか」

 

「分かった。分かったから……。ありがとう、パンジャ。ずっと君と話したかった」

 

 彼女はパッと手を離した。熱いものに触れてしまったような素早い動きだった。

 

「それは現実世界のわたしに伝えてくれ。わたしの受け取るものではないのだから」

 

「私は君に感謝をしているんだ。現実世界の彼女には言えない。」

 

「自画自賛のようで恥ずかしくないのかい? いいや、ちょっとした疑問なんだがね」

 

 照れたような彼女の言葉に、今度はアオイが頭を振った。

 

「私はまだ彼女に言葉をうまく伝えられない。……これまでの感謝を、これまでの非礼を、なによりこれからのことを」

 

「あなたの思うようにしたらいいさ。わたしはそれを応援するよ」

 

 手の中の花を目を細めた彼女は、ごく普通の女性だった。特別に美しいわけではない。

 ただの幼なじみ。――だった。

 

 だからこそ、アオイは彼女がここにいる理由を知る。

 

「ダメだ。それではいけない。君には君の人生がある。君の人生なんだ。私が……私が口出ししていいものではなかったんだ」

 

「そんなことはない。あなたと一緒にいられる。それがわたしの人生を溢れるほどの水をもたらした」

 

 パンジャは照れ隠しのように摘んでいた一輪の花を差し出した。

 何も言えない。何も。何も。

 

 だから花を受け取った。

 

「……ありがとう」

 

「礼を言われるわたしではないよ。それよりすこし歩かないか。ずっとあなたと歩きたかった。――さて、お手を拝借」

 

 芝居がかった動きでアオイより高いところにある頭がゆるりと下がる。彼はフンと鼻を鳴らした。

 

「結構。レディに先導されてはイッシュ紳士の名が廃るというものだ」

 

 アオイは一歩分、彼女の前に立つと手を差し出す。その動きは彼女の一にも満たず優雅にはいかない。いかにも素人くさい、ぎこちない動きだった。それでも。

 

「ありがとう、ジェントル」

 

 パンジャは嬉しそうに微笑み手を取った。

 アオイは前を向く。この真っ白な世界に見慣れた並木道ができていた。

 

 そのありふれた平穏さにアオイはゆるゆると息を吐いた。 

 

「なあ、パンジャ。この世界は悪夢のはずだ。……穏やか過ぎる。それともこれから何か起きるのかな」

 

「『後ろを振り返ってはいけない』とか? 実に神話的だ。神秘的だ。ついでに意味不明である。しかし神秘性とは何事も理解できない一端に宿る感性なのだから当然なのだろうね」

 

「……君の感性は文系のそれだよな。どうして神話が出てきたのか十秒ほど考えてしまったよ」

 

「わたしはあなたの不足を補うためにいるのだからそう言ってもらえると幸いだね」

 

 彼女はさりげなくアオイの隣に立ち手を握った。

 

「これで、振り返らなくていいだろう」

 

「……うん」

 

「ところで悪夢がどうとか。それは何の話だい?」

 

「ああ、それは……それは」

 

 説明しようとしてアオイは口を開いたまま思案した。

 そういえば。すい、と顔を向けることなく目だけで彼女を見た。

 

(――彼女は「いつ」の彼女だろう?)

 

 アオイが研究室に在籍していた時の彼女なのか。それともアオイがシンオウ地方へ来てからの彼女なのか。彼女の記憶はどこまであるのだろう。どこまで。どこから。

 

 そして、アオイは気付く。『分かった。』そう言ったはずの彼女の正体に思い至る。それは。

 

「君は……。パンジャ、そうか君は……現実世界のどこにもいない君なんだ」

 

「ん?」

 

「君は『私が研究室にいた時の君』ではない。だからマニのことを知っている。『シンオウに来てからの君』でもない。だって君はダークライのことを知らない。……『もし、シンオウ地方にパンジャがいたならば』の君が君なんだ」

 

 アオイは恐ろしいとは思わなかった。

 イマジナリーフレンドとはよく言ったものだ。彼女の正体とはまさにただのそれなのだ。

 

 彼女は惜しむかのようにキュッと唇を嚙みしめた。数秒のことだ。やがて唇は緩やかな弧を描く。

 

「ご明察に、ご名答。頭の回転に衰えはないようで安心したよ。わたしはあなたの友人。たとえあなたの夢のなかであれその役割を果たす。なぜなら、あなたが『それを求めたから』。作者殿の望むままに演じよう。けれどもう幕が下りる」

 

「なぜ。まだ並木道は続いているのに」

 

「言っただろう。――自我の曖昧さこそわたしがわたしでいられる領域なのだから」

 

 アオイは彼女の手を握った。手袋の隙間から治療を終えた真白い肌が見えた。それこそアオイの知らない未来の証左だ。彼女は治療をしたと一言も言っていない。

 

「……私が君を暴いたからか」

 

 彼女はどこまでも優しい。自我の喪失。それを失うことの何と耐え難い恐怖か。アオイは想像さえつかない。けれど彼女はおくびにも出さずやはり優しく笑いかけるのだった。

 

「罪のない話だ。罰にもならない話さ。償いでもない話なのだ。君はもう歩きはじめた。さあ、目覚めるべきだ。そうして車輪を回すといい。技術と理性が安定を保って君を導くだろう」

 

「歩けるのは夢の中だけだ。私には分かる。なんせ私の体のことだ。物質としての肉体を持たない夢の中だから歩けるだけだ。認識が事実になるこの世界の理だから動く。それだけだ」

 

「現実もここと変わらない。あなたの認識した世界があなたの世界だ。……君は知らないだろう。この世界はずっと海水が満ちていた。今のわたし達が溺れてしまうほどに」

 

 君、という懐かしい響きに気付く。彼女はアオイの手を握り返す。

 ほろり。ほろり。瞬きの間に並木は綻び砕けて散っていった。この世界は閉じかけているのだとアオイには分かった。

 

「……パンジャ、私は」

 

 私は。何を言おうとしたのだろう。彼女は拒絶するように小さく首を横に振る。それだけでアオイの言葉は枯れ果ててしまった。

 

「でもあなたが現れてから水が引き、やがて無くなったよ。その代わりに花が咲いた。パンジアの花だ。わたしの名前。あなたの心の片隅に一輪枯れているかと思えば一面の満開だ。……あなたは優しいのよ。優しいからまだ自分を許していないだけ。本当はもう歩けるのでしょう?」

 

「……そう、だ」

 

 治療は済んだ。あとは心の問題。勇気の量の問題。知っている。だから厄介だと医者は言う。

 彼女はアオイの頬に触れた。彼女の瞳に映る自分が情けない顔をしていた。私は、泣いていたのだ。

 

「アオイ、忘れないことだけが優しさではない。覚えていることだけが友情ではないよ。笑っているといい。引き留めないことが愛することでもあるんだ。そんなことをされては『彼』も還るに還れなくなるじゃないか」

 

 彼女の華奢な肩を掴む。その行いは紳士的ではなかった。それでも構わなかった。彼の心に寄り添えるのは過去にも未来にも彼女しかないのだ。それを彼は悟っていた。

 

「嫌だ。お願いだ、いかないでくれ……! すまない。おお、困らせたくなどないのに。でも、みっともなく縋りたいんだ。私はどうしようもなく狡い男で情けなくって意気地もなくて現実でもここでも君を困らせてばかりなのに……まだ君に消えて欲しくないんだ。もっと話したい。君にもっと聞いて欲しいことがあるんだ!」

 

「……アオイ。その言葉も気持ちも嬉しいが、その役はわたしの『役』ではないよ。それこそ役不足というものでね。正しい役者に正しい役割を。だからそれは現実のわたしの役目だ。でも、その子は脚本を失って困っているはずだからできれば早く会って役を渡してあげてほしいのだけど」

 

「君は親友だ! 役に立たなくたっていい、情報もいらない、栄光も急がなくていい……役なんていらない。私の良い友であってほしい……! 一緒に喫茶店に行ってくだらない話をして何か美味しい物を食べる。その日常が欲しいだけなんだ」

 

「だから、あなたは行かないと。――ここには喫茶店も甘いケーキも良い香りの紅茶もないのだから」

 

 彼女の手がアオイの胸を押した。

 視界の中ではパンジアの花が花弁から散り散りになっていた。

 世界の崩壊が近いのだろう。足場が崩れる。アオイは声を上げた。叫び。名前を呼んだかもしれない。そのなかで。

 

「アオイ、ここは悪夢だ」

 

 理想の彼女は、黄金律に従い微笑む。そして遙か先を差した。

 

「視よ、そこに悪夢の王がいる!」

 

 彼女の芝居がかった口調は歌うように言葉を紡いだ。そこには清流さながら滔々と流れるような祈りがあった。アオイが淀んでしまわないように。

 

「これで終幕だ! 終幕さ! 終幕なのだ! ああ、親友よ! どうか嘆かないでほしい。あなたさえ望めば友はすぐ隣にいられるのだから! わたしは静寂の隣人! さてもう大詰めだ! 最期に悪夢の登場人物らしい『役』でも演じて見せようか!」

 

 視界の遠く真ん中で彼女は両手を広げた。

 

 それは賛美。――生まれてきたことを後悔していた男を肯定するためだけのものだった。

 

(いいや、違う)

 

 彼女はずっとそうしてきたのだ。ずっとずっと隣で優しく微笑んでくれていたのだ。ただアオイが素直に受け取れず、今までどこかへ置いてきて、挙げ句に忘れてしまっただけで。

 

 

 

 世界は美しい。そして残酷だ。世界は優しい。だから突き放す。

 求めたものを目の前で取り上げるのだろう。それでも願うことは罪ではない。求めることも罰ではない。

 あなたの閃きは誰かの世界を救うだろう。あなたの優しさは誰かの憂鬱を正しく殺すだろう。

 

 苦難の道だ。けれどあなたはそれを祝福する。あなた自身がその道を選んだように。

 苦しくとも生きて、悲しくとも進みなさい。そこに描いた夢がなくとも。

 そうして正しく逆らって生きなさい。たとえ何かを失い続けるとしても。

 

 それを生命の美しさだと言い続け、理性を愛して往きなさい。

 

 

 

「パンジャ……!」

 

 視界が滲む。こんな時に。どこまで私は不甲斐ないのか。涙で彼女の姿が揺らいだ。それでもアオイは手を伸ばした。世界は綻んだ。それは滅びと同じだった。目覚めが近い。

 

 

 

 ここは悪夢の世界。あなたの望んだものを見せて鼻先で取り上げる世界。

 

 そうそう今さらな疑問なんだがね、わたしの望みはどこへいくのだろう?

 いいや、違うね。もう考えてもせんのないことなのだろう!

 

 では試してみようじゃないか。

 試行錯誤は常に破壊的な方法でもって行われることが好ましい!

 

 

 だからこそ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「わたし、あなたの隣にいられたら嬉しいな」

 

 未来のことを考える。

 アオイは彼女に花束を贈ろうと思った。

 

 それ以外にこの感情を伝える術を彼は知らない。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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