もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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誰か彼を見て。見たら、とめて、とどめて、はなさないで。

 

 夏の日差しがジリジリとアスファルトを焼いている。

 

「あつぅい」

 

 アオイの隣の家に住む少女、リリは重い本を手さげ袋いっぱいに詰め込んで歩いていた。うつむき加減にあるく彼女の足取りは本より重い。その行き先にまとわりつくロコンが機嫌良くしっぽを揺らした。

 

 彼女は博物館に併設されている図書館に用事があったのだ。管理人は、毎年小さくなっていくお爺さんだ。本棚は少なく規模が大きな図書館では無いけれど老体では維持に限界があると、彼女も気付いていた。

 

 誰か継いでくれる人がいなければ図書館は休館になってしまうらしい。求人も出ているがどうなることやら。家に帰ってきた父はそう言っていた。それならせめて、閉館になってしまうまでにたくさん使おう。そうして今日のリリはアスファルトと太陽に焼かれることを選んだのだった。

 

(そういえばアオイさん、そろそろ終わってくる頃じゃなかったっけ)

 

 アルバイト並の仕事量なので私の仕事時間は短いのですよ、と簡単に説明してくれたアオイの言葉を思い出す。曲がったばかりの通学路を戻ると、ああ、やっぱりいた!

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

「アオイさーん」

 

「ああ、こんにちは。リリさん」

 

 熱気で気分が良さそうなヒトモシのミアカシが「モシモシ!」とリリのロコンを見つけてとびついた。それをあっさりかわしたロコンがお返しのようにミアカシを尻尾でかるくはたく。彼女はくすぐったそうな声をあげた。

 

 挨拶だ。リリはそれを見てニコニコした。アオイは恥ずかしそうな顔をして、かぶっていた帽子を脱いで額に浮かぶ汗を拭った。やがて、ああ、とか、やあ、とか話題を変える声をあげた。

 

「リリさん、おかえりですか?」

 

「そう。帰るところ。アオイさんも?」

 

「ええ。よろしければ荷物をお持ちしましょうか。重そうですね」

 

「あ、えと、じゃあ半分」

 

 アオイは快く引き受けてくれて膝の上に抱える。リリはそれを見て苦い気持ちになったまるで荷物を持たせるためにアオイを見つけたみたいだ。あまり気持ちの良い行いではなかった。しかし、彼はそんな彼女の心情を察したように首を横にふった。

 

「お気遣いなく。リリさん、顔が真っ赤ですよ。倒れたらいけません。それに若いと言ってもむやみに日差しにあたるのは、よろしくないでしょう」

 

 そう言って車イスの荷物入れをあさるとリリに傘を差しだした。

 

「あっ、日傘ね!」

 

「買ったのですが、私が使うにはいささか華やかが過ぎるものでした」

 

 リリはパチンと傘を開く。眩しいほど真っ白でよく見ると花柄の刺繍があった。この質素なデザインならばアオイが使ってもきっと大丈夫だ。首を傾げるが、すぐにアオイに気をつかわれたのだと気付いた。

 

「わたし、いい。アオイさんが使ってよ」

 

「私には帽子がありますので」

 

 何度かやりとりしたがアオイの返答は変わらない。リリは彼の隣に立った。

 

「それじゃあ、はんぶんこ」

 

 相合い傘だね、と言うとアオイは逃げてしまいそうだったので「うん、いいよね」とリリは言う。彼はちょっとだけ困った顔をした。

 

「ええ、ああ、はい、それでいいです……」

 

 彼は恥ずかしそうにして帽子をかぶり直した。

 

「そういえば、リリさん。ずいぶん本を借りましたね」

 

「あ、それは……」

 

 そうしてリリは博物館近くにある図書館が近々閉館される予定であることを説明した。アオイはそんなものがあったのかと驚き、閉館についても悲しんだ。

 

「そうですか。とても残念です……。本は人を無知から救い、心を豊かにしてくれるものです。常にそばにあってほしいものですが……」

 

 リリさんもミオシティの図書館まで行かなければいけないでしょうか、とアオイは思案しはじめた。彼女は手を振った。

 

「ま、まだ閉じないから、わたしはこの本を返さなければいけないし。そうだ。来週、一緒に行こうよ」

 

「来週、ですか……」

 

 彼は気難しい人で、自分のペースを乱されるのが苦手な人なんだとリリはうすうす気付いている。それでも1週間の猶予があれば大丈夫だろうと思ったのだが、彼の返答は明るくない。しかもそれは「外せない用事がある」という悩みではなく「やるべきかどうか迷う用事がある」という具合らしい。

 

 でも……でも、とリリは思う。

 

 アオイさんの外せない用事って何だろう? 隣家に住んでいるリリは知っている。アオイは朝の散歩と仕事、通院、買い物や畑の様子を見に行く以外は家にこもりがちで出てこない。たまにマニが来て遊びに誘っている様子であるがそれでも限られた機会だ。

 

「アオイさん、都合悪い? あ、旅行に行くとか?」

 

「え、ええ……まあ、すこし遠くに……行く、ことでしょう」

 

 彼にしては珍しく、どうにも歯切れが悪い言葉で敬語もおぼつかない。リリはひとまず頷いた。

 

「そう。うーん、それじゃ行けないね」

 

「すみません。でも、誘っていただいてありがとうございます」

 

「ううん、いいの。こっちこそ、ごめんなさい」

 

 会話が終わると不思議な沈黙が落ちる。ミアカシとロコンが戯れているのがふたりの視界に映った。

 

 リリはどうしてか、彼の旅の行き先を聞いてはいけないような気がした。

 どうしてそんなことを思うのだろう。自分のなかに解答を探して言葉が置き去りになりがちだ。

 

 隣に寄り添うふたつの家が見えてきたところで「あっ」と彼が声をもらした。

 

「リリさん、そういえばお宅の屋上には風見鶏がありますね」

 

 彼は見たことをそのまま口にしたようだ。軽い調子だった。リリは話題を考えていたのでホッとして乗りかかることにした。

 

「うん。アオイさん、風見鶏が好きなの?」

 

「え?」

 

 彼はどうやら風見鶏について好悪の感情があるかどうか考えたことがないらしかった。はて、どうでしょう、と呟く。

 

「わたし、あまり好きじゃない」

 

「理由を聞いてもよろしいですか?」

 

「くるくる回っていると、おちつかない。なんだか急がなくちゃって気分になるから、あまり好きじゃないの」

 

「そうですか……。わたしは、そこが好きですよ」

 

「どうして?」

 

「大人になると叱ってくれる人がいないので、急かす人もいないのですよ」

 

 アオイの言葉はリリにはすこし難しいものだった。ただ彼が寂しそうだったので小石を蹴った。それは歩道からどこかの家の芝生に落ちた。

 

「アオイさん、叱られたいの?」

 

「……どうでしょう。よく分からなくなってきました」

 

「分からないの?」

 

「ええ、大人の私にも分からないことがあるのですよ」

 

 風が吹いてリリの抱えていた傘が揺れる。夏の日差しがアオイをパッと照らした。不健康な白い肌は熱を帯びて、汗がきらきら光っていた。ああ、眩しいですね、と天頂に兆した太陽を眺めて顔を上げた。その顔は、困ったように眉を下げているけれど、気持ちの良い晴れ晴れとした笑顔だった。

 

 見たことのない笑顔に、リリの内心はざわついた。

 そうだ、と彼が妙に明るい声で言った。

 

「あの、もののついでにリリさんに本を贈りたいのですがよろしいですか?」

 

「わたしの誕生日、冬だよ?」

 

 アオイは目を丸くした。

 

「シンオウでは、知人への贈り物を特別な日以外にはしないのですか?」

 

「イッシュでは違うの?」

 

「花を贈りますよ。ええと、特に理由なく」

 

「理由が無いのに花を贈るの?」

 

 彼の右手が何かをつかまえるようにピクピク動く。そして困った顔をした。

 

「ああ、いえ……なんというべきか、理由はあるんですよ。気分が良いとか、天気が良いとか、季節の花だとか、そういう理由ですが」

 

「本はどんな時に贈るの?」

 

「ううん……説明が難しいですね。つまり、イッシュの土地柄では贈りたい時に贈りたい物を贈るのですよ」

 

 ようやくアオイの言いたいことが分かった。今日の彼は「贈り物をしたい気分!」というわけだ。本当ならば受け取る前に家族へ話をして許しをもらわないといけない。けれど、隣に住んでいて親しい間柄にあるアオイならば後で報告するだけでいいだろう。

 

 心のなかで自分を納得させる。リリは首を傾げた。

 

「どんな本?」

 

 アオイはちょっと待っててほしいというと家のなかに入っていく。わくわくしているとロコンが足下で「キュゥ」と高い声で小さく鳴いた。

 

「どうしたの?」

 

 ロコンは答えずリリの白靴下に体をすりつけるだけだ。ミアカシと喧嘩した様子もない。どうしたのだろう。

 

 ミアカシはというとアオイの後を追って、とてとて走っていくところだった。置いていかれると思ったのかもしれない。扉まで辿り着いたところで、彼が戻ってきた。ミアカシを抱え上げて何か話しかけている。

 

「置いていったりしないさ。ほら、私は戻ってきただろう? ……さてリリさん、お待たせいたしました。こちらがその本になります」

 

「『ポケモンせい……』。読めない、です……」

 

 リリは日陰のなかでうなだれる。彼にガッカリされていないだろうか。おそるおそる顔を上げると、日差しを浴びてアオイは目を細めていた。

 

「『ポケモンの生態学』です。ところでリリさんは、どうしてポケモンの姿形が違うのか。考えたことがありますか?」

 

「……ない、です。だって、そういうものだって、思っていたから」

 

 リリはアオイの目を見るとしどろもどろになってしまった。

 

 マニがつい最近、アオイのことを「先生」と呼びはじめたことを、彼女は知っていた。けれど、それは軽口の類いでアオイをからかっているのだと思っていた。けれど今その認識を改めた。

 

 彼が真面目な顔をすると、わたしは出来の悪い生徒の気分になってしまう。マニもそうだったのだろうか?

 

 リリは本を受け取ったものの、自分には扱いきれない代物だと分かった。お利口な子のフリをして手提げのなかに入れてしまうのは憚れた。アオイは困り果てたリリを見て「急に言われてもこまりますよね」と言い、鼻の先を掻いた。

 

「まだ、難しい。これ」

 

「これは今すぐに読んでほしいという本ではなく、ただ、良い本なのでいつか読んでほしいというだけで……深い意味の無い、私からの贈り物なのです」

 

「アオイさんが一緒に読んでくれたら、今のわたしでもきっと分かると思う!」

 

「それは……どうでしょう……」

 

 彼は、リリの理解力を疑問に思っているのだろう、と思った。

 しかし、アオイはリリとの約束をしかねると首を横に振る。やがて顔を背けた。

 

 その陰りのある横顔にピンと閃くものを見つけた。

 

「もしかして、どこかに行くのと……関係ある?」

 

 どうしてそんなことを言ったのか、リリは自分が分からない。頑張って考えると置き去りにしてきた言葉がようやく繋がったからだろうと思えた。

 

 言葉を投げられたらアオイは、目を大きく見開いて身を固くした。リリをまっすぐに見つめ、彼は必死になって考えているようだった。――これまでの会話で何か不自然があっただろうか。

 

 世界は風とミアカシのゆらゆら揺れる焔だけが動いていた。リリは、ロコンを隠すように左足を動かした。焔越しに見るアオイの視線は、まだ外れない。彼は先ほどとは別のことを考えているようだった。――これからの出来事に邪魔になるかどうか。

 

 ようやく動いたアオイは、ひどく疲れた顔をしていた。薄く、けれど親しげに浮かべていた笑みはとうに剥がれ落ちている。夕刻の祖父に似た顔を知っている。彼は憔悴しきっているのだ。

 

「私は……」

 

 何でもいい、違うと言ってほしい気がした。

 リリの知らない遠くに行ってしまう。そんな直感が、ひたすら恐ろしいと感じた。

 だから、リリは一歩進んで傘のなかにアオイを入れた。

 

「アオイ、さん……?」

 

 彼は手を振った。とても軽い仕草の固辞だった。

 

「私は遠くに……すこしだけ遠くに行ってきます。守れない約束はできません。それは、あなたにも私にもよくないでしょう。ええ、そう」

 

 アオイはリリに手を差し出した。握手ではない。傘を返さなければならない。リリは迷う。

 

「きっと、正しくないことですから」

 

 先生の顔をしてアオイは言う。

 日陰は涼しい風が吹いている。彼の顔も険しいものは何も無かった。

 

 正しくないなら、間違いなのだろう。

 それは、分かるけど。きっと、そうするべきだけど。

 

「正しくないことは、しちゃダメなんですか」

 

「…………」

 

「ダメなことをするのは、いけないことですか」

 

「…………」

 

 彼は悲しそうな顔をした。そして、たぶん「ごめんね」と言いかけたのだと思う。でも、それを遮ってリリは手を広げた。

 

「だ、だって、アオイさん、レポートの本はまだちょっとしか読んでないし、感想だってまだ聞いてないし、勉強だって、まだ教えてもらってないし、アオイさんともっとおしゃべりしたいのに」

 

「……そうだね」

 

 アオイは伸ばしていた手を自分の膝に置いた。その手は現実に触れて落ちたのかもしれなかった。丁寧な口調ではあったが、言葉が変わったことにリリは期待した。

 

 しかし。

 

「それでも私は約束はできない。果たせない約束は、ずっと残ってしまうものなんだ」

 

 残ってしまうから、何だって言うのだろう。残ったっていいじゃないか。どうしてだめなんだろう。リリは理由を聞きたかった。できなかったのは彼がとても悲しそうな顔をしたからだ。優しい彼を困らせたくなかった。

 

「……アオイさんは、守れなかった約束をどうするの? 無かったことにするの? 忘れてしまうの?」

 

 そういう手段もある。彼は言った。

 

「でも私はそうしたくないよ」

 

「それじゃアオイさん、どうするの?」

 

「守れそうにない約束は最初からしないほうがいい」

 

 彼は薄く微笑む。けれどそれだけで、もう口を開くことはなかった。

 リリは傘をアオイに押しつけると、預けた本をつかんだ。

 

 彼の旅先を聞いてはいけない。けれどこれ以上会話を続けるためにはそれを聞くしかない。

 

 でも、本当は。

 

「ごめんね、リリさん」

 

 一歩、後ずさり。

 二歩、後ずさり。

 三歩、駆け出す。

 

 アオイさんを困らせる子どものわたしが嫌いで、逃げ出した。

 でも、本当は叫びたかった。

 

(あのひとを見て!)

 

 誰か、誰でもいいから、あのひとを見て!

 見たら、とめて、とどめて、はなさないで!

 

(どうして誰も)

 

 歩道には誰もいなかった。

 家のなかでさえ今日に限って祖父母は不在だ。父母は言うまでもない。

 

 リリは鍵穴に鍵を差し込む簡単なことを何度も繰り返して、開くやいなや飛び込んだ。

 

 小さな口を両手で塞いで窓からアオイを見た。彼は当然のようにミアカシに何かを語りかけながら家に帰っていった。家の中ではすぐにカーテンが引かれた。まだ日が高いのに。

 

 彼女は床に座り込んだ。声にならない叫びが喉の奥でつぶれた。

 

(どうして、どうして、どうして)

 

 彼は変だ。様子がおかしい。それなのに周りの大人は、とても不吉で、とても怖い思いを誰も感じていないのだろうか?

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 リリは、アオイが何を思いつめていたのか知らない。

 

 けれど深刻で重い気配がしたことは、印象深い出来事として心に留めていた。けれど、幼い彼女にとって、それは小さな違和と同じように時間が経てば薄れていった。彼女はそのうち楽観的に考えるようになっていた。……(きっとむしのいどころが悪かったのかしら)とか。帰ってきた父に仕事場での彼のことを聞いて、その様子に変調がないこともそれを後押しした。

 

 この日は、にわか雨に見舞われた。

 

 同時にアオイに提案した1週間後だったが、この雨のせいで気分がのらない。午前中のうちは図書館に行く機会をついに逸しつつある。

 

 昼食を食べ終えて窓の外を見ると、アオイの家はカーテンが重たげに締めきられたままだった。……これも、彼女は茫然と考えていた。

 

 あまり深く、重く考えすぎないようにして自分を守ることにしたのだ。

 

 だから。

 

(きっと、アオイさん、今日はお寝坊しているのね)

 

 そうして、リリは午後2時の微睡みに身をゆだねた。

 

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