もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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まあ、見てろよ

 鉄道員コウタ・トウマにとって、四季は遠ざかって久しい。日中はろくに地上にいないのだからそれも当然だ。

 

 夏。

 

 肌をさす紫外線の代わりに、彼に夏の訪れを教えてくれるのはバトルトレインの乗客である少年少女たちだ。こんがりコムギ色に焼けた、ときに痛々しいまでの肌の変わり様は、彼の無聊をおおいに慰めてくれた。

 

 俺が何かしなくとも子どもってのは、ちゃんと育っていくんだな。

 そんな感想が、仕事の終わった胸中に浮かんだ。

 

 ホームの見回りを終え、回送中のトレインはあるべき場所へと戻っていく。

 車内で窓を眺めていると、コツリ、と固い足音が聞こえてコウタは「おつかれさんでーす」と帽子を脱いで挨拶した。

 

「やっ、おつかれさま」

 

 白いボスことクダリだ。相変わらず読めない笑みを浮かべている。苦手意識を与えるらしい、その笑顔を実のところコウタは嫌いではない。

 

「仕事、どう?」

 

「ぼちぼちっすよ。クダリさんこそどうなんです? 最近、チャレンジャーも来なくて暇なんじゃないですか?」

 

「まぁね」

 

 クダリは、兄弟のノボリと同じくこのバトルトレインのなかでは、トップクラスの難易度を提供するトレーナーだ。つまりはトップ。凄腕。キレ者。趣味パ? 別に3タテしても構わんのだろう? うーん、圧倒的です。ごちそうさま。

 

 そんな彼らは、同僚から親しみをこめて「ボス」と呼ばれているが、トップを意味する「ボス」ではなく、取り締まりを意味する「ボス」でもなく、ラスボスの意味としての「ボス」であることを、ノボリは知らないがここにいる彼は気付いている気がする。

 

 クダリが席にポスッと座った。君も座りなよ。座席をチョイチョイと指す。隣に座るのは遠慮して、彼の斜め向かいの席に座った。ふたりの真っ正面には誰もいない。けれど視界にはいた。

 

「最近、勝率が悪いね」

 

 単刀直入とは、まさにこれだ。勢いよく、ズブッと音を立てて刺さった言葉は、コウタの心を瞬きの間に「ひんし」にした。うなだれて、ついでに顔を伏せる。そして真っ白な手袋に包まれた指を祈るように組んだ。

 

 ゴトン、と車体が揺らぐ。

 

「うわ……えぇと……あの、すんません」

 

「まあ、べつにいいんだけど」

 

 いいんかい! ――カントー風のツッコミを入れ、コウタは顔を上げた。

 

「グラフで見ると『ガクッと さがった!』って感じだったから」

 

 クダリは車窓から見える非常灯を目で追っているようだった。数百メートル毎に設置してあるそれを数えているのかもしれない。しかし不意に、その目がコウタを見つめた。

 

「君、ストレス耐性高いのに」

 

「そういえば、そんな話もしましたっけ……」

 

 春先だったかな。

 この地下は季節が分かりにくくていけない。

 

「で、どうしたの」

 

「どうもこうも。俺、そんなに変わりました?」

 

「誰も気付いていないんじゃない? 君、単純じゃないし」

 

「それじゃあ、なんでクダリさんは……」

 

「勘だよ」

 

 気付いたんですか? 彼の問いに、クダリはいつもの笑みで返した。その答えに拍子抜けしたのはコウタのほうだ。

 

「クダリさん、読めねえなぁ……。ははっ、まいりますよ」

 

「まいってるのは君のほう」

 

 彼の目は、また非常灯を追い始めた。

 

 食えない顔に、読めない思考。1人の自分とポケモンバトル以外に興味の無いこの上司が、コウタは何となく好きだった。だから、気分が変わったのかもしれない。

 

「俺は、俺たちは……どこから、いつから話をしたらいいか……分かんねえな」

 

 コウタは誰にも話すつもりはなかったことをひとつひとつ想起していった。アオイのこと。パンジャのこと。自分のこと。それは3人だけで完結していなければならない問題で、他者の介在は不要だと思っていた。この時までは。

 

「俺とあいつらは友達で……」

 

 そうだ。アオイとパンジャと友達だ。たぶん、唯一。

 

「俺とあいつは……親友で……」

 

 アオイは神経質なヤツでさ。でも、良い奴なんだ。俺の知らないことを知っていて、俺の見えないものを見ていて、俺たちのことを考えてくれていた。自分のことになるとへったくそなんだけどさ。

 

「俺とあいつは……仲が悪くて……」

 

 パンジャはいつもアオイのことばっかりで、俺、面白くなかったのかな。まあ、あの無鉄砲な友情ベクトルがこっち向いても困るんだけどさ。でも、困った時だけじゃなくても、俺のこと頼れよ、ばかやろう。

 

「でも、友達で……。俺は……嫌いじゃなかった」

 

 ぽつり。コウタは呟いた。

 

 現状に満足できるけれど、それ以上を求めない性質――というわけじゃない。そこまで殊勝に生きられない。「できる」と「できない」は大きな違いがある。

 

 俺は、いつも見ないようにフタをしているだけで、本当はいろいろなものが欲しい……のかもしれない。

 

 俺は。

 

 目の前が明るくなる。うつむいていた顔を上げればホームにさしかかり、大きな照明が車内を照らしていた。

 

(話すだけで軽くなるなら……俺が、アイツらの話を聞いてやれば、よかったのかな)

 

 コウタは話し続ける。そうして、胸のつっかえがなくなってしまうことに怯えた。

 話すだけ。それだけで氷解してなくなってしまうのなら、これまで悩んで悔やんで、埋めるものを探していた空漠はどうすればいいだろう。

 

 『分からない』で見過ごすのではなく、『理解できない』で殴るのではなく、もっとほかの方法があったのではないだろうか。こうして、誰かに話すように。

 

 そして、コウタは思う。

 別の方法とは、今でも選べるのだろうか?

 

「俺……あいつを止めるべきなんでしょうか」

 

 止める手立てはあるのか。

 いいや、俺の手で選べる手札は、あるのか。

 

 ギュッと握っている手のひらを、見つめるのが恐い。同じくらいクダリの次の言葉を恐れていた。最後に残ったカードがジョーカーでないことを祈る。それだけだ。

 

 そうだ。クダリはどうだろう?

 ノボリは相棒を失い、クダリはコウタと同じだけ苦しんでいるはずだ。血を分けた片割れだからこそ言えることも、言えないこともあるだろう。

 

 彼は、何を選んでいるのだろう。

 

 トレインがさらに減速に移行する。まだ止まるな、と願う。その丈と同じだけ、さっさと止まれと焦っていた。

 

 クダリは、誰もいない対面へゆっくり顔を向けた。

 

「僕は、待つことにしたよ」

 

 対面に笑う。そこにノボリがいるように。

 それを見て、コウタのなかで何かが弾けた。喉の奥はカラカラに乾いていた。

 

「待つ……待つってさぁ、ははは、いつまで?」

 

 コウタは溜息のような言葉を吐いて座席から立ち上がる。書類の締め切り期限を聞くよりも簡単だった。

 

「あなたは呑気だぜ、クダリさん。その間にアイツが死んじまったらどうすりゃいいんですか? アイツも殺しちまったら? アイツらが大切なものを壊しちまったら、俺は? 俺はどうすりゃいいんですか!? あなたならどうするって言うんですか!?」

 

 最悪を想定する。希望的観測は人生を危うくするだけだから。

 本当の最悪の状況では、アオイは死んじまうだろうし、パンジャの暴走は止まらないだろう。それだけで済めば、まだいい。

 

 過ぎた科学は人間を不幸にする。その波紋を止めることは難しい。

 

「『待つ』なんて! 傍観と大して変わりないだろ!」

 

 コウタは叫んだ。

 冷静な頭のどこかで自分の姿が、アオイと重なることに気付いていた。

 

「それでも待つよ」

 

「意味が無いだろう! それは、そんなことでは!」

 

 では、どうすればいいのか。他人の心の傷を癒やすにはどうすればいい。これまでおおよそ後悔を抱えてこなかったコウタには分からない。でもアオイは知っているだろうか。パンジャは気付いているだろうか。クダリは行っているだろうか。

 

 答えが知りたくて、声を上げた。しかしそれはブーメランのように、過去の自分に刺さる言葉だった。

 

「苦しんでいる人がいるのに、何もしていないのは怠慢だ」

 

 誰が死んでも、誰が生きても、何が死んでも、何が生きても、どうでもよかった自分が、今さら声を荒げて訴える。滑稽だ。けれど、クダリは笑わなかった。

 彼は表情を無くして、コウタを見つめていた。言い過ぎたと顔を青くしたコウタが、思わず一歩後ずさるほど温度が無いものだった。

 

「自分は自分で救わないと、生きていられない。双子の僕らが言うんだ。この世の真実ってやつだよ」

 

「…………」

 

 言葉を失った。ノボリに、この世界の誰よりも同一の人物に近い彼が言うのだ。そうだろう。そうなんだろう。コウタの心にひとつの納得が生まれた。

 

 ドスンと座り込んだコウタは頭を抱えた。暗い視界がぼやけていた。

 

「でも、不安だよね」

 

「……ニコニコしてるじゃないすか」

 

 顔を伏せたままコウタは言った。顔は見えないけれど、気配で分かるのだ。

 

「僕、元気になったら殴ると思う」

 

「へっ?」

 

 聞き間違えかと思ったら、クダリは「しゅっしゅ」と口ずさみシャドーボクシングしていた。

 

「ノボリに一発ね。軽く。『心配かけさせて!』ってぶん殴る。で、その後、ギュッと抱きしめる」

 

「それ、殴る工程いりますか」

 

 ついでに言えば4、5発は殴っている想定だ。

 

「いりまくり! あっちだって殴られたい」

 

「どういうことですか」

 

「心配かけさせたって悪く思うでしょ。だから殴る。すごく殴る。気の済むまで殴る。気が済んだって殴る」

 

 クダリはパッと両手を広げた。

 

「そうして、おしまい! ぜんぶ終わり! 片道切符の最終便! さよなら後悔、またきてバトル!」

 

「俺、ははは……どうかなぁ。あいつ、研究室培養のもやしだし……」

 

 飲みニケーションならぬ、殴りケーション。暴力的だぜ、と思う反面、それくらい分かりやすく誤解の与えない方法があればそれもいいかもしれない、と思う。

 

 分かりやすく。誤解を与えない。何かが閃きそうだった。

 

「顔、見てきたら?」

 

「えっ。そんな、だって、俺、呼ばれてないし」

 

 コウタは、思ってもいない言葉に気取られてトレインが止まっていたことに気付かなかった。クダリが立ち上がる。それから、どことなく幼い顔立ちで首を傾げた。

 

「友達に会うのに理由いる?」

 

「……あ」

 

 頭からすっぽぬけていた。

 

 いいや、いいや、いいや。コウタだって彼に会いに行くことはずっと考えてはいた。アオイと会って「パンジャがいよいよヤバいぜ」と言えたらどんなに気が楽だろう。なによりも「『彼』の亡骸が見つかった」。このひとことさえ、伝えられたのなら彼も踏ん切りがつくのではないだろうか。けれどそれを伝えたら、伝えたことが彼女に知られたら、彼女のどこかが焼き付いていよいよ壊れるかもしれない。アオイだって遺骸の発見がプラスになるのかマイナスになるのか分からない。

 

 けれど、そんな計算を抜きにして会いにいくことは考えていなかった。

 

 コウタは再び立ち上がる。その時、よろめていてはじめて電車が止まっていたことに気付いた。情けないぜ、とシニカルに笑った。彼の隣をクダリはてくてく歩いて行った。

 

「ちょうどいい」

 

 何が。そう言いかけた視界の端に光源が見えた。ホームの電気はいつの間にか消えていた。

 

 コウタは、非常灯だけの世界にぼんやり浮いている白い相貌に一瞬だけ(うわ、ユーレイ)と思い、肩を跳ねさせた。よく見れば正体見たり、彼は黒いボスことノボリだった。

 

 扉はまだ開かない。クダリが手間取っているのが、ありがたかった。

 

「……俺、ノボリさんに謝らないと」

 

「彼は、君を責めてない」

 

 事故に対し、職員の内々にコメントをしたのはクダリだ。

「性格の悪いトレーナーの起こした、性質の悪い事故」という言は、同僚に負担をかけないための言葉だ。ほかの誰もがふたりの総意だと思っている。だが真実、ノボリの言葉ではない。あくまで上司として、ボスとしての言葉だ。

 

「俺、まだギクシャクしてて……ノボリさんと話がしたいんです。あの人に橋を渡してくれませんか」

 

 彼はニコニコと笑う。

 返事が無いまま、とうとう扉が開いた。

 出迎えたノボリも口を開いた。

 

「定刻です」

 

「バッチリ!」

 

 親指を立てたクダリを一瞥して、ノボリは次に降りてきたコウタを見た。薄暗い構内でも分かる。彼の顔色は事故の後から良くない。それは今日も変わらないようだった。

 

 呼吸が浅くなり、脂汗が背中を濡らした。

 

 勇気が要る。

 ずっと必要だった。それもたくさん。

 あの時、あればよかった。あったらもっとマシだった。もっともっとマシだった。

 

「ノボリ」

 

「何です、クダリ」

 

「彼、悩みがあるんだって。聞いてあげなよ」

 

「……それは、あなたでもよいのでは」

 

「僕、悩みとかないし」

 

「…………」

 

 観念したように肩をすくめて、ライトをクダリに渡したノボリは、ひょいと手で招く。そして、まっくらな構内をふたりで歩いた。

 

 明かりといえば非常灯だけだ。それがぼんやりと2人分の影をつくった。

 

「いつも残業お疲れさまです」

 

「ノボリさんこそ。……あの、遅くまで……」

 

「いえ、私はよいのです。それで相談とは、ひょっとすると私への謝罪の件でしょうか」

 

「はい、え……え……?」

 

 コウタは予想外の言葉に張り詰めていた緊張がプッツンと切れてしまった。

 驚きのあまり足も止まる。ふたりの場所には非常灯の明かりさえ届かない。

 彼の黒い制服が地下の闇に溶けていた。

 

「あなたのほかにも、何名か来ました」

 

「そう、です、か」

 

 コウタは、辛うじて声をしぼりだした。

 

 ノボリは理想の上司だとよく言われる。コウタは今でさえ(その通りだ)と思う。

 けれど、もし、明るければこうはいかなかった。

 明るければ。

 顔が見えていれば。

 きっとわずかに浮かべた笑顔に安心してしまっていただろう。

 

 でも、ふたりの周囲には闇しかない。声には突き放された響きがあった。

 

「『仕事上の事故なのです』」

 

「…………」

 

「『消耗した歯車と同じなのです』」

 

「…………」

 

「『必要経費と同じなのです』」

 

「…………」

 

「――と答えていました。納得せずとも、私に気をつかったのか皆さまそれで引き下がってくれましたが」

 

 あなたは、さて、どうなのでしょうね。

 

「私に気をつかうくらいならば、話しかけてこなければよいでしょうに」

 

「す、すみません……」

 

 コウタは、明確に怒りをあらわにしたノボリを初めて見た。萎縮する彼をどう見たのか。「いいです。それで何ですか」とコウタの話を促した。

 

「あの日、俺が、一番近くにいたのに何も……できなくて。すみません、でした……」

 

 しばらく沈黙があった。居心地の悪い、顔の見えない時間だった。

 ふ、と息を吐く音が聞こえた。

 

「よくないものを、見せてしまいましたね」

 

「いえ。あなたほどじゃない。……あの、ノボリさん。今は『ボス』じゃなくてもいいじゃないですか」

 

「いいえ。私という個人は『このように』在るのです」

 

 ノボリの声は、誇らしくあり、悲しくもあった。誇らしいのは、きっと自分がその性質を気に入っているからだろう。悲しいのは、きっと理解者が少ないからだろう。

 

 けれど、コウタはポカンとしてしまった。ノボリは、クダリとは別な意味で変わった人だと思っていたが、まさか、普段の姿がありのままの彼自身だったとは。何とも言えぬ胸の高鳴りがコウタの口元を緩めさせた。アオイにもパンジャにも「どうだ、俺のボスはすっげーだろ!」と自慢してやりたかった。

 

「いいですか、コウタさん」

 

「はいっ?」

 

 再び現実の暗闇から声が聞こえる。

 ノボリにしては珍しい、感情が色濃く乗った声音だった。

 

「心の傷に擦過傷も火傷も無く、失った私も見送ったあなたも等しく傷ついているのです」

 

 思わず胸に手を当てた。

 傷ついている。そうか。俺は。俺も。傷ついていたのか。

 

 何もできなかった自分が、失った彼よりもひどく傷ついているなんてあってはいけない。――そう思い込んでいた自分に気付いた。

 

「あなたは、私のために心を痛めてくれているのですね」

 

「いえ、俺は……自分が許せないだけです」

 

「そうだとしてもです。誰かのために苦悩できる感性を、私は尊いと思います」

 

「俺のこれは最近のことで、しかも期間限定ですよ。俺はそのうち、また他のことがどうでもいい俺に戻ります。たぶん。……あの、俺ができること、何かありますか」

 

 彼は考え込むように腕を組んだのではないだろうか。衣擦れの固い音が聞こえた。やがて。

 

「残念ながら、と前置きさせていただきます。ありません。私の問題は、どこまでレールを延ばしたとて、別の何かに成りえないのです」

 

「では、あなたの折り合いは、どう、つけるんですか」

 

 こわごわと、コウタは訊ねた。

 

「さぁ、それは私にも分かりません。抽象的なことを言うようですが、恐らく私は何をしても納得はできないでしょう。知識を得ても、真実を知っても、何か素晴らしいものを知ったとしても」

 

 え。

 

 それは、ダメだろう。いや、絶対ダメだ。だって、それは、つまり、何をしても救われないってことだろう。

 

 何か言い募ろうとした先。

 

「しかし、人の心は複雑なので『納得できること』が目の前に現れることのほうが稀なのです」

 

 ですから、と彼は続けた。

 

「私は顔を上げて生きていくことでしょう。いつか正しい場所で、正しい形で、正しく納得を得るために。……顔を伏せていては見えるものも見えなくなってしまいますから」

 

 コツリ、固い革靴の音が近付いてくる。

 

「しかし、あなたは……いささか空虚なところがありますから試行錯誤して体を動かしたほうがよいかもしれません」

 

「……そうします。顔を上げて、ね」

 

「それは上々」

 

 不意に、闇の中でノボリの横顔が浮かび上がった。眩しそうに目を細めた彼はすぐに手をかざした。

 

「クダリ、人の顔にライトを当てるのはやめなさいと」

 

「だって遅いんだもの。車両は点検してきた」

 

「了解しました」

 

 そうして3人は地上へ向かって歩いた。

 コウタの足取りはふわふわしている。それでも、出口があることが幸いだった。

 

「で? 話は終わった? コウタ、辞めるの?」

 

「え、俺、辞めるんですか!?」

 

 ギョッとしてクダリを見ると手にしたライトをくるくる投げて遊んでいた。

 

「クダリ、話をややこしくしないでください。そんな話は車輪ひとつ分も話していませんよ」

 

「えぇ? そう? でも、コウタ、シンオウに行くって」

 

「そうなのですか! ……ハッ、もしかして、いま懐には辞表をお持ちで?」

 

「俺、辞めませんから!」

 

「ああ、よかった。この労働環境に耐えられる人材は貴重ですからね」

 

「そうそう」

 

「でも、俺、明日から仕事休んでいいですか」

 

「クダリ! あ、あなたがそんなことを言うからですよ! こう言って帰ってこなくなった人を私は何人も知っているんですから!」

 

「バトルトレインってこれだから、うーん、闇」

 

「地下は滅入るからね! 仕方ないね!」

 

 クダリの言うことはもっともだったが、ノボリが焦りすぎてスタッフルームのカードキーを入れ損なっているので「大丈夫ですよ」ともう一度だけ言った。

 

「俺、帰ってきますって」

 

「はぁ、いえ、休むこと自体は後で出勤数を調整させてもらいますので構いませんが、どうしたのですか?」

 

「喧嘩別れした友達と仲直りしてくるんだって。いい歳して可愛いよね」

 

 いやみなくからから笑うクダリが、スタッフルームに入るなりパチリ電気をつけた。

 3人で制服をやれやれと脱いで私服に着替えていく。コウタはさっさとべたつく服を脱ぎたかった。

 

「あなたほどではありません。いえ、そうではなくて、私はコウタさんから話を聞きたいのでちょっと大人しくしてください」

 

「俺の友達が、ちょうど半年くらい前かな……。ポケモンを亡くしてしまって、あいつと……あらためて話をしたいと思って」

 

 荷物をまとめると、コウタは背中に担ぐ。ポケットを叩き財布やモバイルを確認して、最後に帽子を手に取った。

 

「すみません、俺さきに帰ります。それから、あー……い、いってきます!」

 

「おふたりにとって良い機会であることを祈っています」

 

「嵐が来る。船でいくなら急いだほうがいいよ。お土産よろしく!」

 

「ガッテン! 任しといてください!」

 

 声をかけてくれた2人にお礼を言って、彼は階段を一段飛ばしに駆け上がる。

 そして真夜中のライモンシティ。コウタは駆けだした。

 真夏の夜は、昼間の余韻が漂っている。まとわりつく空気は、まだ微かに焦げた気配がした。

 

 はっ、はっ、と息を切らし走る。先の見えなかった思考に、ひとつの道筋が与えられた。曇っていた思考を切り換える。そのために走った。

 

(顔を上げて)

 

 空には、貼りつけたような月がのぼっていた。街灯にも邪魔されない。まん丸の、美しい月だった。

 

(ああ、今日は満月か)

 

 稀な光景が心に隙を生んだ。

 

(綺麗だ。……いつからだろうな、何とも思わなくなったのは)

 

 橋の上で足を止めて、息を整える。コウタは空を見上げた。

 丸い月は、彼の罪悪感を咎めることはしなかった。ただ、欠けていない充足感があった。

 つい手を伸ばした。届かないと分かっていても、そうしてみたかったのだ。

 

「あっ……」

 

 指先がつるりとした月を撫でる。そしてコウタは知った。

 決して手に入らないものを求める人の心とは、きっとこれなのだ。充足感。それが欲しくて、手に入らなくて、どうしようもないから足掻くのだ。

 

 そんな感情、過去には小馬鹿にして理解できないと手放していた。

 

 欄干の上でコウタは手を握る。ライモンシティにある橋。

 この場所は、覚えている。パンジャとさんざんやりあった場所だ。切られた指先がぴりぴりと痛む気がした。

 

 3秒だけ。息を止めて、方向を変えた。彼の心は決まっていた。一度アパートに戻ってからシッポウに行こう。

 

 そして。

 もう一度、彼女と話そう。

 

「お前の欲しいものは、手に入らない。一歩戻ってから、一歩先を考えないと、お前はどこにも進めねえよ」 

 

 パンジャはずっと暗闇にいて目が慣れてしまったのだろう。誰かが手を引いてやらないといけない。それは、きっとアオイには務まらない。

 

「まあ、見てろよ。――俺はやるぜ」

 

 誰にともなく、彼は告げた。

 クダリは待つことを選んだ。

 ノボリは前を向くことを選んだ。

 彼らの決断が、勇気をくれた。自分で選ぶ大切さを見た。

 

(子どもだった俺たちは、誰も知らないうちに大人になっていたんだな)

 

 真夜中の街を独りで歩くうちに、そう思えた。

 

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