もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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よく見ておくように

 

 ハクタイの街。唯一ある病院、規模としては診療所という形が正しい――そこにいるカラマツ医師から呼び出され、そう言われたチャチャは「はあ」と要領の悪い返事をした。

 

 呼び出しの内容は、医師からアオイへ薬の手帳を渡し忘れたという内容だった。ならば受付窓口で渡せばいいはずだ。しかし、彼女はこうして診察室へ来るように指示された。アオイに聞かせたくない内容らしいと、すぐに察することができた。

 

 患者用の椅子に座った彼女は、遠くで何かの鳴き声を聞きながら居心地が悪いな、と思う。車の中に置いてきたアオイも気がかりだった。

 

 そして聞かされたのが、これだ。

 

「カラマツ先生、あのう、それはどういうことでしょうか?」

 

 彼の言葉の内容は、間違いなく先ほど診断と按摩を終えたアオイのことだろう。

 そこまでは察しがつくものの『よく見ておくように』という言葉の意味をチャチャはとらえ損なっている。

 

(あぁ、でも、そうではなくて)

 

 本当は、分かっている。

 だが、アオイに限って「最悪なこと」が起きるとは思えないので、どうにも彼の危惧と現実が繋がらないのだ。

 

「アオイさんは元気ですよ。生活も充実しています。……ように見えますけど」

 

「そのようだ」

 

 素っ気ないくらい短い言葉だった。どうにも医師が分からない。何を恐れているのだろうか。あるいは心配性なのだろうか。けれど医者の楽観的ほど怖いことはないので、あらためて指摘するような愚行は控えた。

 

「アオイさんに何か問題が?」

 

「『足が動いた気がする』と言っていたよ」

 

「それは良いことじゃないですか。リハビリの成果ではないですか?」

 

 彼の足は物理的ではなく心理的な問題で動かない。

 そのことを知っているチャチャは手を叩いて喜んだ。彼はすこし後ろ向きで神経質な性質のようだが、それに拍車がかかっているのはきっと自分ではできないことが多いからだ。 そう信じているチャチャに対して、カラマツ医師はカルテを見ながら「それだ」と呟いた。

 

「とても危うい」

 

「…………?」

 

「彼の足が止まってから約半年だ。体力も筋力も目に見えて落ちている。体重など顕著だ。唐突に動くものではない」

 

「で、でも、精神的なことならば、すこしずつ克服してきているのでは?」

 

「足が動いたことは気のせいだと思う。勘違いだ。彼にはもちろん伝えなかったがね」

 

「そんな……」

 

 膝の皿を叩くと足が自然に上がるだろう。ああいった反射が彼の知らないところで起きたのではないかと思う。寝ぼけた拍子とかにね。――カラマツ医師が淡々と話す内容は、あまり頭に入ってこなかった。

 

「それで、その、よく見ておくようにというのは……」

 

 カラマツ医師は、初老にさしかかった目をチャチャに向けた。

 

「心の問題が、階段を登るように回復することは稀だ」

 

 ええ、とチャチャは頷いた。頷くしかなかった。

 

「3歩進んで2歩下がり、1歩進んで停滞する。繰り返して段階を踏むものだ。それさえ焦っていると踏み外す」

 

「そうならないよう見守れということですか」

 

「彼の心ではなく、命を守りなさい」

 

 その言葉に寒気がした。逃げるようにチャチャは立ち上がる。

 彼の言う意味が繋がりはじめた。「最悪」を想定しているのだろう。それも、最悪の最悪を。

 

「どうしてですか。彼に限ってそんなことが……」

 

「一度死にかけているのなら、死へのハードルもずいぶん低いだろうね」

 

「では、先に心を守ることが大切なのではないですか?」

 

「守ることと癒やすことは、まったく別の問題だ。彼の精神面について医療的観点から述べることはない」

 

 チャチャはイライラしてしまった。そうして心をおざなりにするから命が危うくなるのではないか。精神病に詳しくないパンジャの思うことは一般的な感性だった。それを分かっているのだろう。カラマツ医師は、なだめるかのように右手を挙げた。

 

「なぜです。心を病むから、命を失うのでしょう」

 

「治療を望まない患者に与える薬は無い。私は患者の意志を尊重している」

 

「それは医師として職務の放棄ではないですか」

 

「そうとも言える」

 

 彼は言い訳をしなかった。それが、ますますチャチャを不安に陥れた。さじを投げたということだろうか。しかし。

 

「心を守ることは、命を守ることよりも難しい。人間にとって最も失いがたいものはどちらか。私は心だと信じている」

 

「アオイさんは、それを知っているのですか。あなたの信仰を分かっているのですか」

 

 もし、伏せているのならば、すぐに医者を替えよう。

 チャチャは鋭い目で老人を射貫いた。

 個人の信仰で他者の命を取り扱うことは許されない。――全ての納得と赦しはこの医師にあり、救われるべき患者には無いのだから。

 

「伝えている」

 

「は。ではなぜ」

 

「彼は自分のことは自分で決めたいと言っていた。正しくあろうと過ちであろうと、自分で選んだ結果に納得したいのだと。彼の心因に関して我々の出る幕はない」

 

「だから……わたしには命を守れとおっしゃるのですか」

 

 チャチャの問は質問の体をなしていなかった。

 念押しのようにカラマツ医師は頷く。そして、用件だった薬の手帳をチャチャに渡すと退室を促した。

 

 小さな診療所の軋む短い廊下を歩きながら、チャチャは何かを考えていた。けれど思考はバラバラで、どうにもまとまらない。

 

 よほど酷い顔をしているのか、待っていたルカリオに心配された。だいじょうぶ。唇だけで伝えて、手洗いへ行った。深い意味の無い行為だった。ただ掲示に矢印があったから歩く方向を変えただけ。行き止まりに蛇口があったのでひねっただけ。水が出てくる。彼女は手を洗ってみた。

 

(アオイさんは……)

 

 大丈夫だろう。大丈夫だ。大丈夫の……はずだ。

 思考を洗い落とすために流水音が必要だ。彼女は蛇口をさらにひねった。

 

 大丈夫。大丈夫だ。きっと、大丈夫。

 信じているのに、不安で心が押しつぶされる。でも、カラマツ医師が言うのは、最悪の状態が起きる前提の話で現時点では何も、そう、何も起きていないはずなのだ。

 

 しばらくすると気持ちが落ち着いて、水を止めることができた。

 ポケットのハンカチを探ると指先に小冊子が触れた。アオイの薬手帳だ。

 

 よく手を拭いてからそれを出す。そういえばアオイは薬を飲んでいないはずだが、どうして今日に限って、これを医師に渡していたのだろう。

 

(どうして)

 

 そこまで考えてしまい、用法などひとつしかないことに気付く。

 薬が処方されたのだ。――だから医師が持っていた。

 どうして。――医師が必要と認めたからだ。

 

 彼は健康なのに。

 

 チャチャは手帳を開いた。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 アオイは車の中で寝ていた。

 まだ午前11時だったが、昨日は真夜中までレポートの作成に取り組んでて寝不足気味だった。眠っている間は感情の振れ幅が覚醒時と比べ小さいはずなので、ヒトモシのミアカシには退屈な時間だろう、などと夢うつつに考える。

 

 厳密にヒトモシとは感情を食べているわけではないのだが、生命とは何かを考えた時に分かりやすいのは生きている以上、伴う感情だろうと思う。詳しくはノボリさんお手製のヒトモシ育成手帳を見よう。絶賛発売中――という夢を見た。

 

 車のドアがバタンと音を立ててしまる音に、アオイは起きた。

 

「はっ! あぁ、チャチャさん。お帰りなさい……」

 

 モシモシ、と拗ねた声に自分の膝の上を見ると、ミアカシはあまりに退屈すぎてアオイの鼻をつまもうとしていた。もしかして最近、寝苦しいのはミアカシさんが……いやいや、まさかそんなことは……。けれど念のため腕をのばして遠ざけた。

 

 そんなふたりのコミュニケーションが終わるのを待っていたかのように、彼女は口を開く。

 

「アオイさん、今日薬が処方されましたよね」

 

 チャチャは薬手帳を差し出しながら言った。

 当然、内容もあらためられているだろう。嘘も誤魔化しもできない状態に、寝ぼけ頭ということもありアオイは「ええ」と素直に答えて冊子を受け取った。

 

「眠剤」

 

 咎めるような声音に、アオイは眠気が引いていくのを感じる。ミアカシの焔が細かく揺れたのを見て、意識して呼吸した。

 

 眠剤。いわゆる睡眠剤のことだ。睡眠導入剤とも言う。眠れない時に眠れるように。そのための薬だ。

 

「……お恥ずかしいところをお見せしましたかね。ええ、最近、ちょっと眠れなくて。なんてことのない小さな愚痴をこぼしてしまったんですよ。ただ、相手がお医者さんだったのが良くなかったのですね。処方は大仰だと思ったのですが、断るにも、専門家の判断ですから受け取ってしまいました」

 

「わたしは心配しているんです」

 

「ありがとうございます」

 

 アオイは、それ以上のことは言うべきでは無いと判断した。理由はリリと同じだ。できない約束を取り交わすことはすべきではないし、受け取りきれない善意を分かったフリをして消化すべきではない。せめてもの誠意だった。

 

「私は、大丈夫ですよ」

 

 彼女は、どうしてだろうか。すこしの間、痛ましい顔をした。

 アオイは理由が分からなかったが(きっと私が原因だろう)という察しはあったので「すみません」と言ってみた。ほとんど二酸化炭素で構成された、消え入るような声だった。声は彼女まで届かなかったかもしれない。それでも二度言うほど厚顔にはなれなかったし、二度と伝える勇気も無かった。

 

 車は走り出す。

 車窓の外は暑そうだ。

 けれどアオイはエアコンを断り、窓を開けた。

 

(いっそ、打ち明けられたら楽だろう。できるわけが、ないけれど)

 

 それを邪魔するのは、いつだって羞恥心だ。自分を隠しておきたい。安全なところへ置いておきたい。今回は、尊大なそれと一緒に邪魔をしてほしくないという利己心があるのだから話せる道理がなかった。

 

(私しか知らない、ちょっとした実験なのだから)

 

 今ならば、最先端を進むアクロマの気分が分かる。

 知らないことを知りたい。分からないことを分かりたい。何より、どうなるか見てみたい。

 

 窓ガラスに映る自分が意外と笑えていることに気付いて、彼は頬に触れた。

 

(すこし……痩せたかな)

 

 指先に骨が感じられる。カラマツ医師から体重が減ったと言われたことを思い出した。体力の低下は顕著だという。この頃はずっと眠気がある。数字は嘘をつかない。指摘は間違ってはいないようだ。

 

 だから、覚悟が決まった。

 

 今度の実験は時間との闘いだ。

 その時間を最大に使わないために体力は必須だろう。

 これ以上の体力が落ちきる前に始め、終わらせなければならない。

 

 季節が夏ということだけは好ましくないけれど、こればかりは仕方が無い。背中が爛れそうだな、と思うだけだ。

 

「軟膏をもらっておけばよかったかも、ですね……」

 

 いったい何に使うんですか。

 不思議そうに質問されてしまい、アオイは答えに窮した。

 

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