もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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目にものをみせてくれ

 通院が終わるとふたりのささやかな面談がある。――といっても堅苦しいものではない。生活のちょっとしたことを話すだけの時間だ。トーフが安いだとか、ヨーカンが美味しいとか、そんな小さな小さな生活の話。

 

 面談が終わりかけ、ソファーから立ち上がった彼女、チャチャはいつもの物がないことに気付く。

 

「アオイさん、通い袋はどこですか?」

 

「申し訳ありません。来週の注文はお休みさせていただきたいと思います」

 

 なのでこちらは白紙です、とアオイは言った。

 生活支援を行う職員であるチャチャは、ほんの一瞬だけ書類の束を受け取るのを躊躇った。そして壁にかけてあるカレンダーに視線を移す。彼の仕事のスケジュールが書き込まれている。けれど、それは明日の予定から真っ白だった。

 

 アオイが淹れてくれたコーヒーは温くなってしまっているだろう。いつもならばチャチャは退室している時間だ。……もう席も立ってしまっている。

 

「アオイさん、仕事のご予定が無いようですが」

 

「ええ、すこしお休みをもらいました」

 

「なぜです。順調かと思っていました」

 

 慎重に。とても慎重に。呼吸のひとつさえ言葉を選ぶ。

 

「私用ですよ。私は、やりたいことができました」

 

「それは……それは、わたしにもお手伝いできることですか?」

 

 アオイは、興味を持って欲しくないのか首を横に振った。とても小さい、些細なことなんですよ、とでも言いたげな様子だ。

 

「私のことは気にしないでください。自分でやらなければならないことなので。……また来週の火曜日にお待ちしていますよ」

 

 外でヒトモシのミアカシのはしゃいだ声が聞こえる。ルカリオが真面目に遊び相手をしているのだろう。

 

 あれは、普段のなんてことのない日常だ。

 しかし。

 窓のむこうをうかがってアオイは背をそらす。ギシ、と車イスが軋んだ。

 

「ふふっ。元気がいいね」

 

「あ、うるさくてごめんなさい」

 

「いいえ、まさか。外で遊んでくれるなんてありがたいことですよ」

 

 チャチャは書類をズボンのポケットに突っ込むと大股で歩き出した。彼がどれだけ背を逸らしても窓の外は見えないはずだった。

 

「アオイさん、外行きましょう」

 

「えっ。あっ。ちょっと……」

 

 ぐい、と車イスのハンドルをつかみ押した。

 

「どうして私を外に」

 

「暑いといって日陰で過ごすばかりでは、カビが生えますよ」

 

「汗をかくほうがこの体には悪いんですよ……。背中や大腿が、もう痛くて痒くていけません」

 

 そうは言うものの、玄関まで来るとチャチャがハンドルから手を離しても外へ向かいだしていた。彼の口は相変わらず愚痴っぽかったが、その目は夏に魅入られている。

 

(元気なのに……)

 

 目を離すとどこかへ行ってしまいそうな雰囲気がある。前にはなかったのに、いつからだろう。春が終わった後? 夏になった頃? 森の異変について噂を聞かなくなった頃?

 

「そういえば、皆さん森について騒がなくなりました」

 

「そうなのですか」

 

 アオイは頭に手を伸ばして、帽子をかぶってこなかたことを思い出したらしい。手で陽を遮った。

 

「森は静かになったとナタネさんも言っていました」

 

「……そうなのですか」

 

 肘掛けに体をあずけたアオイが短く言って頷いた。世間話が終わるといよいよ出て行かなければならないと思う。

 

 会話が糸くずより儚く途切れると、彼が車イスを進めた。また、ギィという音がした。

 かけっこをしていたミアカシがそれにいちはやく気付いてアオイめがけてとびこんできた。彼は「おや、まだ遊んでいてよかったんだよ」と言うが、柔らかく笑っているのが隠せていない。

 

 彼女が「かすがい」というものなのだろうか。彼を現実にとどめている大切な存在。

 

(あの子がいる限り……アオイさんは大丈夫だろうか)

 

 屋根の下から出ていった彼の後を歩く。車イスの轍でくぼんだ雑草が、のろのろと起き上がろうとしているのが視界の端に映り、彼女は踏んで歩いた。

 

 ギィィ、と音が聞こえる。

 

「アオイさん、車イスのオイルが切れていますね。車輪が動き出すと音が」

 

「やはり、うるさいですよね。私も気になっていたんです」

 

「お任せください。あ、そうだ。明日にでも整備用の油差しを持ってきますよ。どうですか?」

 

 あした。

 アオイは囁くような声で呟いた。チャチャはどうして彼が驚くのか分からなかった。彼の顔は、明日が来ることなんて思ってもみなかった、という風なのだ。アスファルトの匂いがする風が吹いた。呼びかけようと口を開く。しかし。

 

「そうですね。せめて、明後日に」

 

 悩むように黙った後で彼は回答した。それでチャチャは安心することができて、頷いた。

「分かりました。その時に配達しますね」

 

「ええ。使う機会があればよいのですが」

 

 チャチャは、誤解した。それは無理矢理の納得だったが、それしか思いつかなかった。

 想像の限界だ。彼は自分で整備油を差せるだろうかと心配したのだ。そう、理想に好意的な解釈をしたのだ。

 

 わたしも手伝います、大丈夫ですよ。……そう告げて、チャチャはミアカシと遊んでいたルカリオに声をかけた。帰るよ。聡いルカリオは仕草でミアカシにおしまいを告げた。しょんぼりした小さな形が、ひょんと顔を上げた。彼女はそのまま畑に行ってしまう。アオイが止めるかと思ってチャチャは見ていたが、彼は「あ、あぁ……うーん、まあ、いいか」という実に曖昧な独り言を呟いたきりだ。畑に何があるのだろう。じっと彼方を見たまま動かないルカリオの反応も気になった。

 

「それではチャチャさん、今日はありがとうございました」

 

「はっ、あ、ああ、いえ……」

 

 仕事なので、とは言わない。彼だって分かっていることをいちいち言い立てられても不愉快だろう。チャチャは会釈程度に頭を下げると車のキーを指に引っかけた。

 

「ルカリオ? 行くよーってば」

 

 まだミアカシが行った後を気にしているらしい相棒に声をかけると、ようやく動き出した。何がそんなに気になるのか。森の異変について噂が聞こえなくなった頃は落ち着いていたのだが……。

 

 車に乗り込む――その数秒前にアオイを振り返る。意外なことに、彼の機嫌は上向いている。ミアカシが行った畑に向かう彼は、待ちかねた物がようやく届いた子どものような顔だった。

 

 そして収穫が近い野菜があるのかしら、なんて。明るい未来に思いを馳せた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 アオイは、自分の心が凪いでいると感じていた。そうして、これから提案することも、起きることも自分は淡々と遂げて満足してしまうのだろう、とも。

 

 しかし、こんな時でも研究者心が生命の危機にかかわらず容赦なく疼いてしまうのだから、もう救えない。私は根っからの研究者だったのだな、と思う。母との共通点をこんなところに見いだすとも思わなかった。かなしいかな。血は争えない。

 

 段差を乗り越えて畑まで来るとダークライがミアカシと遊んでいた。そばにラルトスもいる。追いかけっこに加わらなかった彼はここで待っていたようだ。

 

 小さな頭をもたげたラルトスは、恐らく、アオイのあらゆることが分かっている。『きもち』が通じているのが、たまに分かるのだ。夜遅く起きているアオイをつつきすぎる無邪気なミアカシを、そっと止めたり……とか。

 

(苦労をかけるね。……すまない)

 

 そっと目を伏せてラルトスに詫びた。心の端からしんみりと伝わるものがあった。これは、悲しい、寂しい、と名付けられた感情だ。

 

 コウタから預かっているラルトスは優しい。だが、その優しさは同情すべき人に同情する時に使われるべきだ。……私のような破滅を招きがちな者に浪費されるのは、あまりに酷い。

 

「ありがとう。私は、私の内情を知っている者を憎んでしまうが、君との関係は心地良いものだった。君には面白くない感情ばかりだっただろう。申し開くこともできないな。……ああ、コウタによろしくと伝えてくれ」

 

 アオイは車イスを動かした。キュイ、とラルトスの返事を背中で聞いた。

 

「ダークライ、話があるのだがよいだろうか。……ミアカシさん、ちょっとの間だけ彼を貸してくれないか? うん、ありがとう」

 

 ミアカシが飛ばしたひのこをサッと手で払い、ダークライが音も無くアオイのそばを漂った。表情の読みにくいポケモンだが、今はさらに顕著だ。

 

「ええと。……調子はどうだろうか」

 

「何ガ?」

 

 アオイは失念した。ポケモンに挨拶の概念は無いのだ。少なくともダークライには無いことが発覚した。

 

「何でもない。忘れてくれ。お願いごとがある。どうか聞き入れてもらえないだろうか」

 

「ハァ?」

 

「……報酬は、ある」

 

 やすやす引き受けてもらえるとは、考えていない。アオイは畑の一角を指差した。すこしずつ大きくなり始めたきのみの木が風にそよいでいた。

 

「畑の端をつぶすのは忍びないが、きのみの苗をもうひとつ追加しよう。――私には、夢がある」

 

「……オ前、前と違うナ」

 

 ざらついた低い声音。しかし、隠しきれない興奮の弾みがあった。

 すこしの会話で何に勘付いたというのだろう。

 そうだ、とも、違う、とも言わずアオイは黙る。そしてダークライ、便宜上の「彼」の様子をうかがった。

 

「前ヨリも目が見えテいるナ」

 

「私は、もう自分の足で歩きたい」

 

 空気を撫でていた彼の手が、そろり、アオイの肩に触れた。

 

「君の仕事を見つけた」

 

「早イな。急かしたカイがアッタか」

 

「あったとも。だが、気付いただけでは不十分だ。使うには確証がいる。だから君に手伝ってほしい」

 

 話を聞こう。そんな旨のことをダークライは言った。手招いて誘う。森の暗がりに吸い込まれるように消えたその姿は夢幻のようで、現実味がちっともない。アオイがギュッと握り続けている手のひらの痛みだけが妙に現実的だった。

 

 車イスを動かそうと操作パネルに触れる、不意に視線を感じると足下でミアカシがキョトンとした顔で見上げていた。

 

「すこし席を外すよ。大丈夫。戻ってくるから」

 

 彼女は何かを察したらしいラルトスに手を握られた。

 アオイは車イスを動かして森へ入った。畑では隣家から姿を見られるかもしれない。午後のこの時間はまだリリは帰ってきていないはずだが、気になった。

 

 計画は、行うのであれば完全に。願わくば完璧に行われなくてはならない。

 

(落ち着け、アオイ。大丈夫だ……彼は食いついた。やすやす逃げないだろう)

 

 他愛の無い、さっき意味は無いと気付いた調子の良い言葉をかけ続けながら、彼の頭はダークライの行動と思考を計算し続けていた。

 

(これは、賭だ)

 

 バチン。冷徹な判断力が、最適解を見いだす。

 途端にアオイは我が身を省みて嘲笑した。

 

 現状取り得る最良の選択肢をもって、ようやく賭けの体裁を作ることができた。しかし、それにしてもなんたる無謀だろう。迂遠な自殺とそう変わらないのではないか。他者から見れば誤解される自信があった。これから行う実験とはその類いのものだ。

 

 これから行うこと全てが、私にとっての賭になる。バランスの悪いジェンガ。仮定条件に不足があれば、たちまち実験は不測に陥り瓦解する。砂上の楼閣だってもうすこし頑丈さがあるだろう。

 

 なんとも、分の悪い賭だ。

 

 カードで言えば、私は何枚のカードが場にあるか知らず、選んだカードも分からない。

 ダイスで言えば、私はダイスを見ることができない。ダイスの全体数も目の数がいくつあるかさえ知らない。

 ルーレットで言えば、私は自分の指定したマスを知らない。赤と黒の二色なのか。それとも別の色が存在するのだろうか。

 

 想定したとして、ひとつ外れたら、それで終いの勝負にならない賭けだ。

 そんな笑えない賭けなのに、経過時間と共に結果は収束するだろう。

 

「ダークライ、目にものを見せてくれ。具体的に言わせてもらえば、君の夢が見たい」

 

「ばァか。何ヲ言うかと思えば」

 

 小気味よく彼は笑った。おもしろいヤツだよなァ。

 ああ、そうだね。アオイもぎこちなくだが、笑った。

 

「君の言うとおりだ。――こんなバカなこと、誰も君に言わなかっただろう。誰も思わなかっただろう。それだけ誰も君のことを真剣に考えなかっただろう。しかし、私はバカなので、それを真剣に願っていたとしても構わないだろう」

 

 ゆらゆらと漂うように浮いていた姿が、アオイの死角でぴたりと止まった。気配はすぐ近くにあるが、アオイは彼がどこにいるか分からない。もし、彼が何かを仕掛けるとして次の一手を防ぐことはできない。

 

 ひりつくような視線が首のあたりを刺した。きっと怒っているだろう。真実とは痛いものだ。アオイはその感覚を知っている。

 

「それでも、私は君の夢が見たい。それが私の夢でもあるから」

 

 アオイは振り返る。そこにダークライがいた。指が何かを絞めるようにピクピクと動いていた。

 殺意を宿した爛々と光る青い目に怯むことは、しなかった。

 

 

 

 現実は、常に正解だ。――と仮定する。

 ほかの全ては偽だ。――と仮定する。

 しかし、分岐した可能性が存在する――と仮定する。

 悪夢は「悪い」夢だ。――と仮定する。

 「悪い」とは不都合なことだ。――と仮定する。

 

 こうしてアオイは、無数の仮定を積み上げる。

 

 不都合は「何」にとって不都合なのか。

 不都合によって不整合が生じるのは「何」か。

 

 森のなかにひしめく暗がりに手を伸ばし、ダークライをとらえた。

 

「君の悪夢の世界は、現実の反転が起きるのではないだろうか?」

 

 ヒュウ、と風が耳元を通り過ぎた。寒気がする。声は、とっくに震えていた。それでも続けた。

 

 アオイは、歩きたかった。前に進みたかった。正しくなくとも、過ちだろうとも、失おうとも、繰り返そうとも、後ろに進むことだけはしたくなかった。

 

 だから、伝える。心の全てを打ち明けるだけの言葉は見つからなかった。伝われと願う。それはアオイが見い出した、新しい夢だった。

 

「もしも、そうだとすれば、君は人類の後悔を正しく殺すことができる。完全な納得を生みだすことができる。奪うだけではない。殺すだけはない。与えることができる。生かすことができる。――それが、君の可能性だ!」

 

 読めない感情の瞳が、その時、たしかに傾いだのをアオイは見た。

 

「だからこそ、私は君の夢が見たい……!」

 

 言葉は無い。だが握ったままだった手が弱々しく握り返してくる。

 それで十分だった。

 

 その時。

 以前にどこかに捨てて埋めたものが、ここで見つかった。

 

 

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