もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

74 / 107
風見鶏をまわせ

 今から1年ほど前の話を、私は鮮明に覚えている。

 思い返そうとすれば胸を焦がし、苦しいほどに、生々しい。

 息苦しささえ思い出せる、短い夜の話だ。

 

「アオイ、あなたは自分の最期について考えたことはあるか」

 

 協同研究者としてパンジャを嵌めた日、帰り際に立ち寄った夜の公園で私はそう問いただされた。

 

 黄昏時に降り続いた天気雨のせいで、空気はまとわりつく湿り気を帯びていた。

 それの何割かは、言の葉に内包された殺気というものかもしれない。

 

(……ひょっとすると、いや、しなくとも、ここで私は殺されてしまうのだろうか)

 

 そう思えるほどに唐突な質問だった。

 しかも彼女はいつの間にか足を止めていて、私の真後ろに立っている。彼女が腰に巻いているベルトが私の首に回ったとしたら、抵抗は難しいだろう。もっとも、面と向かっていても身体能力の差がありすぎるのでやはり彼女がその気ならば、私はもう9割くらい死んでいる。1時間ドラマならば「無駄な抵抗をやめて投降しろ!」という怒号が響く50分経過後という具合だ。優位を取られた時点で私は、もはやダメだ。

 

 突き刺さるような視線が首の後ろをチクチク刺激した。

 

 普通の友人関係ならば、すぐに振り返って「縁起でも無い」だとか「どうしたんだ」だとか聞くのだろう。軽口だって飛ばせるかもしれない。しかし、私たちの友人関係は特異で、互いへの功利的を何よりの友情の証とするものだから、私には理解ができなくとも彼女にはこの質問に深い意味があるのだ。……その理由は、深く考えたくないものだったが。

 どう答えるべきか惑う私に、砂利が転がる音が届く。彼女の革靴が地面を滑る。跳躍3秒前だろうか。悪い妄想に取り憑かれた私は9割2分ほど死んでいる。

 

 しかし、口火を切ったのは彼女のほうだった。

 

「……わたしは、凍死するだろう」

 

 しみじみ確信をもって呟かれる言葉は、彼女の思考の深淵を彷徨っているらしい。果てなく茫洋として、私に当てられるべき焦点を持っていなかった。

 

「なぜ凍死なんだ」

 

「わたしの生まれはセッカシティだ」

 

 セッカシティ。

 一面の銀世界に覆われた、寒い地域だったと記憶している。彼女が小さい頃に引っ越してきてから、ずっと近くの家に住んでいるから忘れがちだが、そういえば彼女の故郷はセッカシティだった。

 

 しかし、解答の要領は得ない。「なぜ」と問う理由に対して、地名が出てくるとは。もしや私が知らないだけでセッカシティには凍死を是とする伝統的な習慣があるのだろうか。次の質問を考えている間、明日の昼食を報告するような平穏な声音が言葉を続けた。

 

「そうして母さんのような……狂気に蝕まれて死んでいくのだと思う」

 

 パンジャがおかしくなった理由の大半は私だが、全てのきっかけは彼女の母親だ。彼女がおかしなことをしなければ、パンジャだってこうも極端におかしくならなかったはずなのだ。腐った果実の隣にまともな果実を置いたら、じわじわと腐っていくことがなぜわからないのか。母親のくせに。

 

 常々と考えることを今日もまた考えるが堂々巡り。私は後ろからでもはっきり分かるように肩を落とした。

 

「君のご母堂のことは理解している。しかし、君は君だ。母親と子は違うだろう。私だってそうだ」

 

 ああ、と心ここにあらずといった風の声が返ってくる。……これは、あまり良い傾向ではない。ハッキリ言って、マズい。私は9割5分くらい死んでいる。

 

 肩を落とした私はひそかに冷や汗をかいた。彼女の声音は平穏なのではなく、平坦で感情の起伏が感じられない。普段はオーバーなくらい過剰な彼女が、だ。傍目にも分かる異常事態は、病状の末期と同義だ。

 

 彼女が『普段忘れていること』を『思い出した』時ほど厄介なことはない。母親のこともそうだ。いつもならば『自分にとって不都合なこと』を忘れているはずなのに、今日に限っては思い出したようだ。しかし、初めてではない。たまに、ごくたまに、年に数回という周期でそれが訪れる。普段は適当になだめて、まるめこんでしまうそれが、厄介なことに真後ろで発生してしまったのが問題なだけだ。ああ、最悪だ。

 

 さて、どうしよう。

 

 心理学は専攻していないが、死を考えるというのは、おおよそ恋人と遊園地にいる時には起こりえまい。何かに絶望しているか、失望しているか、もしくは、それしか手段がないと思いつめ、魅入られている時しか考えないだろう。

 

 彼女は現在進行形で、心を病んでいる。

 それを強要したのは私なのだが、慰めるのも私だ。

 

 ああ、やはり彼女を研究に誘ったのは失敗だった。

 何度目かの感想に、いいや、まだだ、と首を振る。

 それでも私の助手を勤められるのは彼女しかいない。

 この発想は、まだ失敗ではないし、これからも失敗にはならない。多少の「ポンコツ」でも使いこなさなければならない。

 

 選択に、後悔をしてはならなかった。

 私は、もう覚悟を決めていた。

 結果のために情を捨てたのだ。だから、友人だって利用し尽くそう。それが私にできるせめてもの友情だった。

 

 私は、視線を一点に集中させ、耳を澄して彼女の気配を探った。彼女がその気にならば私もいよいよ大人しい男ではいられない。彼女のためにも私はここでどうにかなってしまうわけにはいかないのだ。具体的には、死んでしまうわけにいかない。

 

(研究内容を知った彼女こそ、私は野放しにはできない)

 

 友情は、たしかにふたりの間に存在する。けれど、お互いに殺す理由もあるのだ。やらない理由が――実に幸いなことに――それ以上にあるだけで。もっとも、それらの理由さえ理性が保っていられる間のみ有効だった。こうして狂気の淵を揺蕩う彼女が、果たして天秤を断じる理性を有しているか。それは私にとって、さっぱり分からない領域だ。

 

「そう、だな。わたしは母とは違う。違うさ。違うとも。いつだって違う様でありたいと願っている」

 

「それでいい。私は君を信じているよ」

 

「ありがとう。……ああ、やはり、あなたはわたしのことをよく分かってくれている。とても安心する」

 

 彼女の雰囲気がすこしだけ明るくなる。けれど、ここで油断をしてはいけない。プラスに振れたら次の瞬間、同じだけマイナスになることもあるのだ。だから先手をうつ。

 

「パンジャ。つかぬことを聞いてみるのだが、実のところ君は、私を殺してみたいとか思っているのか」

 

「いいや、まったく、まさか! あなたはわたしの友人だろう。どうか、わたしのことを疑わないでほしい」

 

 責めるわけではない。むしろ慌てたように彼女は言う。眉を寄せて、意味も無くあわあわと両手を動かしている――気がする。いつもの、ちょっと心配性な彼女だ。

 

「うーん……」

 

 私は、言質を得てようやく振り返ることができ、彼女と対峙した。両手を広げて、一見ハグでも求めているような無防備さに見える。――のだが、まだ彼女は本調子ではないようだ。私に向けるいつもの笑顔がぎこちない。

 

「疑っていない。ただの確認だ。さて、君の質問に答えよう。私は……そうだな、きっとロクな死に方をしないだろう」

 

「悲しいことを言う。あなたは善人なのに。そう、良い人なのに。なぜそう思うんだい?」

 

「ポケモンの命を使って実験しているのだ。道徳的に良い行いではないだろう。復元されたポケモンに殺される、とか。自業自得な死に方をするのではないかな」

 

「なるほど。可能性としては最も高い」

 

「ああ。だから早く成果を出して終えてしまおう。始めた時と同じ手軽さで終わらせよう。ふたりならできる」

 

 ちょっと無理矢理だっただろうか。会話を変えようと思って前向きなことを口にする。

 

「ああ、そうだね。なるほど……なるほどね……わかったよ、アオイ」

 

 彼女の目が、きらりと光ったように思えた。街灯のせいだろうか。底冷えする氷が反射したかのようだ。妙に鋭い光だった。

 

 会話は噛み合っているようで、実は噛み合っていない。

 それも当然のことだ。一方的な質問が唐突に始まり、終わった。殺意に身を焦がしている私は、彼女の質問の真意を全くといっていいほどに理解できなかったのだから。

 

 彼女が語ったのは理想の死に方であり、私が語ったのは現段階で可能性が高い死に方だ。けれどわずかに理想の残り香がある。私は「道徳」と言った。それは良心が咎めるのことと同じだ。その呵責を解消する方法として「ポケモンに殺される」ことが妥当と判断した。

 だが彼女は、言葉を額面通りに受け取らなかった。

 

 彼女の会話の目的は、私にそうと悟られずに私の罪を浮き彫りにすることだったからだ。

 この会話が、後に別の事件の引き金を引き、ついでに両者の良心を壊してくのだが、それは後の話になる。

 

 ともあれ、私はこの時はじめて自分が実験で死ぬかもしれないという当たり前の出来事に気づき、愕然とした。それは隣人よりも確実な、目に見えた恐怖だった。だから私は実験の詳細を書き起こしておくことにした。保険だ。万一現れた後継が、私の始めた事業を私が目指した理想の通り、正しく進行できるように。それは後に「A.O.Iレポート」と呼ばれることになる、事業報告書であった。

 

 そして。

 こうして口から偶然に出た言葉は、文字を編んでいくたびに私にも気付かれない時間を経て本心となってしまった。

 

 報いは、救いだった。

 

 後悔してはいけない。

 そうして非情を演じてきた。

 我ながら、うまくできていたと思う。良心が鈍磨し、道徳が死に体だったのも都合が良かった。精神を病み現実を喪失し続けるパンジャのことだって、最期がどうなろうと当時は大して心も痛まなかった。あの問答の後も彼女に関して大した感慨は無かった。せいぜい、凍死するのか。冷蔵庫の管理には気をつけようといった程度だった。なんせ私のような根本が違う人間に助けを求めた君が悪い。

 

 けれど、それで私は勘違いをしてしまったのだ。

 

 ――そうか。私は、傷つかない人間なのだ。

 

 これは、研究者生活では貴重な性質だった。

 

 私は恵まれない代わりに、世界に才能を与えられたのだ!

 

 あてがわれた研究室で、今にして思えば滑稽な勘違いを起こした――私は笑った。大爆笑だった。良心の軛なく、道徳の枷なく、理性で理想を履行できる幸運を感謝した。腹の底から笑った最後の記憶がそれだ。

 

 この世界は、アロエ所長でもなく、パンジャでもなく、私を! この私こそを選んだのだ!

 

 全ての勝利を確約されたような気分になった私は、我欲に溺れた。

 

 けれど、それはただの勘違いと思い込みが起こした幸運だった。偶然、私の一番大切なものに傷つかなかったから、何が犠牲になって、何を傷つけて、誰が狂ってしまっても、私は無関心でいられただけなのだ。

 

 でも、私は一番大切なものさえ知らなかった。

 気付いた時には、遅すぎる。『彼』は灰になっていた。

 

 私はこれまでの人生を決定的に、間違え続けてきたのだ。

 何にも選ばれていなかった。何も得ることはできなかった。

 優しい人を傷つけて、大切にしたかった友を失っただけだ。

 

 私は、どこまでも独りよがりで愚かな男だった。

 

 自分の行いを振り返る。

 後悔もおこがましい。

 何もかもが遅すぎた。

 

 真っ白な病室で、再び目を開いた私は、どうして生きているのか分からなかった。生きていていいはずがないだろう。この世界は、私と同等か、それ以上に間違っていた。もしも、神がいるのならば、神は間違えている。連れ去っていくものを間違えていた。

 

 それを言ったか言わないか、私は記憶にない。まだ錯乱していたのだろう。

 けれど、覚えていることがひとつ。パンジャの包帯を巻いた手が、私の頬に触れた。じんわりと伝わる人肌は温かく、安堵を覚えた。

 

「あなたさえ無事なら実験を続けられる。『彼』が損なわれたのは意外だったね。まあ、君とは比べられない命だったけれど」

 

 手の温もりとは裏腹の冷えた声音を聞き、私は、思考も身体も、何もかもがダメになった。その温度差が私に残っていた矜持を丁寧に砕いていった。

 

 私の俯いた目にかかる赤い髪を払い、彼女は手を引いた。

 

 それから彼女は実験の詳細を偽装し、ふたりで行っていた実験を衆目から隠す。『次』があると信じて疑わない鮮やかな手口で、アロエ所長の目を欺いた。

 

 何重にも巡らされた嘘は真実を限りなく遠ざけるものだった。

 

 それでも、私は最も真実に近い場所にいるアロエに、犯した罪を見破って欲しかった。

 せんの無い仮定であるが、もし彼女が私の罪まで辿り着いたならば全てを話しただろう。彼女が辿り着かなければならないことだった。私の全てを懸けた実験結果を、私から話すことはできない。罪は秘匿されるべき貴重な情報の価値を孕んでいたからだ。ひとつだから価値がある、ふたつとない情報だ。

 

 けれど、彼女は捏造された真実を疑わなかった。私たちの証言を信用したのだ。

 

 パンジャに「偽装をやめろ」と言うことはできた。むしろ私にしか命じることのできないことだっただろう。それでも私は何も言えなかった。私は彼女との友情を果たすこともできなければ、これまで傷つけた罪を償うこともできない状態になり果てていた。彼女に返せるものがない私は、彼女を止めることができない。

 

 そして時は流れ、事故は電気経路の故障が引き起こした事故として処理された。実験の詳細は隠蔽され、真実は私の内側に焼き付いたまま沈黙を強いた。

 

 罪は知られることはなく、暴かれることもない。

 だが、許されることもなかった。

 

 膝の治療のため私は病院に釘付けになっていた。パンジャは仕事の合間を縫い、時には昼の短い休憩時間を工面して面会にやってきた。どうしても会いたくなくて寝たふりを決め込んでいる時は、きまって病室の花瓶に花を差して帰った。花の種類はいつも同じだった。パンジア。自分の名前と同じ花だ。

 

 私は呼吸の度に罪科を重ねた。パンジャに会う度に罪悪感に身悶え、彼女が親しみをこめて笑いかける度に死にたくなった。彼女が私を責めないのは、きっと単に『覚えていない』からだ。いつか向けられるであろう殺意を享受することが、彼女の弱みにつけ込んだ罰だろうと思った。

 

 私は生きている。でも、死んでいるのだ。

 残りの人生は、息をして食べる、ただの消化試合になった。

 

 昼は思考が淀み、夜は魘され、朝は絶望を運んできた。

 

 そんなおり、私はコウタからとある話を聞いた。

 あの時は、何かを考える力も無かったけれど、気付けば手を伸ばしていた。

 

 その日のうちに私は持ち前の身勝手さで研究室とパンジャを捨てた。

 逡巡は数秒も無かった。

 

 ヒトモシとは、いずれ来る罰を見捨てるほど魅力的なポケモンだった。

 

 報いは、救いだった。そして、私は、破滅の色をした救いを見つけたのだ。

 

 

 

◆ ◇ ◇

 

 

 

 アオイの悪夢は「理想の理解者の体現」だった。

 それは、現実の世界ではどうあっても手に入らない。

 

 臆病な自尊心は知っている。

 何者も他者の痛みも、苦しみも自分のものとして感じられないのだ。だから非道がなせる。そのうち、不遜な功名心はわきまえた。他者に理解を求めるのはやめよう。自分を救えるのは憎らしい自分で、自分を理解できるのは自分だけだ。

 

 幼稚な自己愛と放り投げた祈りの矛先は、いつかの理想を貫いた。

 

 自己理解と他者の寛容。

 それらを否定したいのか、あるいは肯定すべきなのか、アオイはこの段において、まだ迷っている。

 

 世界には自分しか理解者がいないのだと決めつけるのに二十数年は短い。しかしこんな自分が他者へ温情を求めるのは都合が良すぎるのだと気付くのに二十数年は十分すぎる。

 

 悪夢は、無意識を意識の表面に顕在させたが、完全に与えることはしなかった。結局、夢の世界でアオイが欲しかったものは、この手をすり抜けた。

 

 手に入らないものに思い焦がれるのは、苦しい。

 

 それでも、自分の望むものが何なのか、それを理解することは幸福だと彼は思う。自分の欲しいものを知らずに生きるより、自分のありさまに「納得」ができるではないだろうか。だから、納得を得た者は幸運だ。それは行動の理由になる。

 

 行動の理由に納得があれば、どんなこともやり遂げられてしまう。

 

 しばらく考え、アオイは過去のマニを思う。運命に導かれるままだった彼の思考は停滞していた。いきあたりばったりの行動力は、光を目指すだけの植物のようだ。マニに対し、初対面とそれからしばらくの間、感じていた困惑の正体を得た。そして、こうも思う。個人のモノサシに違いはあろうが、少なくともアオイは、あんな生き方はごめんだ。高くとも低くとも目的を持ち、できれば前を向いて生きていたい。

 

 分からないものを、分かるように、目の前に提示する。

 自己理解の助力として、悪夢は、きっと使える。

 

 するり。アオイは顎を撫でる。考え込むときの癖だった。

 

 悪夢は、鏡ではない。だから、現実とは違う景色が映り、事象が起こり、結果がある。それらは現実にとって都合の悪いものだ。だから、現実に辿り着かないように物事が発生する。

 

 だからこそ。

 

 悪夢のなかに、私の納得があるのではないか。

 私が『彼』を救えるという可能性が存在するのではないか。

 

 アオイが苦しんでいるのは『彼』がいなくなったからだ。

 そして、いなくなったのならば、どうしてなのか理解したい。そして、私ができることはあったのか、無かったのか、何をすればよかったのか、その全ての疑問に納得したい。

 

 悪夢は、魅力的な可能性を秘めていた。

 

 とはいえ、全て可能性の話だ。悪夢は『彼』がいなくなった瞬間を垂れ流すかもしれないし、まったく関係の無い事柄を突きつけるかもしれない。しかし、考慮に考慮を重ね、考察を積み上げても、肯定の材料も否定の材料も見つからない。

 

 可能性だけが、そのへんの森に転がっている。

 

 アオイは、その状況が堪らなかった。マニのことがなくとも、この数日のうちに研究者に戻るための改心をしてしまっていたかもしれない。

 

 悪夢が現状を打破できる「かも」しれないというだけで、アオイは、足がうずうずと震えた気がした。その可能性が誰かの手垢に塗れる前に、どうしても自分の手で試してみたかった。

 

 アオイは偶然の邂逅を重ねて彼の悪夢の可能性に気付いたが、これまで誰かが気付かなかった保証はなく、これから誰かが閃く保証も無い。むしろ。

 

(勘の鈍った私が気付けたのだ。これまでだって誰かは気付いていたはずだ)

 

 彼は手袋の上から爪を噛んだ。

 気付いたはずなのに、知られていないのは単に社会の問題だろう。本に、活字になっていないからだ。

 あるいは実験中に彼らは悪夢に取り込まれ「いなくなって」しまい、文字にさえ起こせなかったのだ。

 

 だが、それもおしまいだ。時代は進み、紙から電子へ。技術は加速的に進展し続けている。

 アオイは失敗のことを考え保険をかけた。研究が、理想通りに進むように。最後にパチリとパソコンのボタンを押し、メールの予約送信を確認すると彼はパソコンのパスワードを実験ノートに挟み小脇に抱えた。

 

 風見鶏は回っている。

 

 時間が無い。彼は焦った。

 悪夢を見続ける体力について計算式など無い。こればかりは考えるだけ無駄であった。なんせ悪夢に関する情報が不足している。退会手続きを怠ったばかりに、現在でも使えてしまっている論文検索サイトにアクセスしてもダークライに関する記述は見当たらない。「もしかして」のサブジェクトで出てきたのはカントーにおけるスリーパーの犯罪率調査だった。内容は悪夢にかすりもしておらず、しかも犯罪の99%は冤罪なので、これまたものすごくどうでもいい。さっさと寝るんだった、と後悔しながらメモに書き留めたのは「催眠術は認識歪曲に適す」の単語だけだった。せいぜい干からびないように眠る前に水をいっぱいに飲んでおこう。

 

 吐きそうになるほど水を飲み、いつか飲むかもと購入したワインを抱えた。考えれば考えるほどアオイはこれを購入した自分が分からない。コウタはビールオンリーだしパンジャは下戸で酒を飲まないし、私は誰と飲むためにこれを買ったのだろう。……今日のためならばずいぶん運命的なものだ。彼は都合良く過去のマニの言葉を借りることにした。運命ですね、はいはい、といった具合に。くだらなくて笑ってしまう。でも、あるものは使わなければなるまい。

 

「酒と薬と、煙草は無いから……あとは、ええと……水をもう一杯ほど持って行こうか」

 

 グラスを水で満たすと、想像以上に普段通りの自分が映った。これから、まったく普段通りではないことをするというのに。

 まじまじと自分を見て、頬に手を触れた。温かい。

 アオイは手を握った。これから冷たくなるのだとしても、その冷たさの理由を知りたい。

 人間の足を止めるのは何か。

 その問いに彼は「絶望」を見いだした。

 ならば行うことはひとつ。

 

 現状を打破する、たったひとつの方法。

 

「風見鶏を回そう」

 

 カーテンを引くと部屋の中は薄暗くなった。

 真昼にカーテンを引いているなんて。朝の早いアオイはつい笑ってしまった。同じように早起きの隣家に住むリリが見たら、不思議に思うだろうか。

 

「…………」

 

 部屋のすみから「モシ」という声が聞こえた。アオイは車イスを回す。彼女は怯えたように縮こまっていた。

 

「ごめんね、ミアカシ」

 

 言葉を探す。カーテンの隙間から窓を見るとリリの家の屋根にある風見鶏が回っていた。急がなければ。けれど今だけは急く気持を抑え、彼女と向き合った。

 

 もう何を言っても不誠実で身勝手な人間だから、いいわけは最初から存在しなかった。だから本心をこぼした。

 

「ミアカシ、私はあなたにとって良いひとになれない」

 

 ごめんね、とアオイは言ってみた。

 本心からの言葉なのに、薄っぺらいのは言い慣れていないからだ。

 

「努力はしたけれど、あなたの隣にいられるほど私はしゃんとした人間になりきれなかった。どこにも連れて行けなかったし、たくさんバトルをさせてあげられなかった。勝手に引き取って遠くまで連れてきた身勝手な私をどうか許さないでほしい」

 

「…………」

 

『彼』に嫌われ続けたのもこの性質が原因だったのだろうか。アオイは今さら思い至った。どんなに悪癖を変えようとしても、何を犠牲にし続けても、人間の本質とは変わらないのかもしれない。

 

 これまで大切にしてきた全てを置いてきて、新しい場所にいる自分が変わらなかったように。変わったのは掲げる夢と動機と研究方法くらいだ。人間としての自分は何も変わっていない。

 

 私は、薄情な研究者くずれに過ぎない。

 

「私は身勝手な人間だ。友人だ親友だと言っても本心のところでは、他人だと遠ざけて何の気にもとめていないのかもしれない。大切だと思うのに、最後の最後で……私は捨ててしまう。本当に救いがたい。しかも私はその選択に後悔を感じないんだ」

 

 ヒュルリとミアカシの焔が渦巻いて燃える。

 螺旋を描いたそれに、アオイの心は奪われた。

 

「私は……私のことを一番大切に思っていて欲しい人から捨てられたから、同じことを繰り返してしまうのだろうか? 母のようになりたくないと恐れているのに、この様だ。見捨てられる悲しさを知っているはずなのに。ああ、パンジャもこんな気持ちなのだろうか? 本を読んで、友人と話して、別の時間を過ごしている。違う人生を歩んでいるはずなのに、同じ過ちを繰り返してしまう! バカでマヌケで救えないのが、私だ!」

 

 欲することもなく与えられた彼らを、与えることをやめた彼らを、アオイは本心から憎むことも恨むこともできない。環境のせいにすることは簡単だ。運のせいにするのはもっと簡単だ。しかし、それは許せない。そんなことは許されない。

 子どもが駄々をこねるような、意地だった。

 愛するのも憎むのも同じ執着ならば、愛していたい。大切にしたい。どんな形であっても今の私に繋がる大切な存在だ。

 

「……私はっ」

 

 言いかけて、鼻先がツンと痺れた。アオイは頭を振り、鼻をすすった。

 時間が無いことは、今も変わらない。

 

 ミアカシを見つめると、ポカンとした顔で見返していた。

 

 それはそうだろう。突然騒ぎ出したくらいにか思っていないのではないか。それを思いついてアオイは、また笑ってしまった。

 

 瞼をおさえ涙を拭くと彼は彼女と対峙した。胸に手を当てて、できるだけ誠実に、感情が伝わるように目を離さなかった。

 

「ミアカシ。あなたに心からの感謝を。尊敬を。親愛を。あなたが見せてくれた焔は美しかった。その美しさに救われた。私がなくしてしまった熱をあなたがもっていたから、私は生きることができた。……ありがとう」

 

 アオイの言葉は、きっと洪水のようなものだ。彼女にどれだけ響いているか、分からない。ミアカシは理解が追いつかないような顔をしてアオイを見つめ返していた。

 彼は眉を下げて小さく口元だけに笑みを作った。

 

「君に、私の魂を懸けよう」

 

 アオイは言う。淀みのない言葉を選んだ。

 

「人間のために、さんざんポケモンの命を弄んだ私だ。最期はポケモンのために使われたい」

 

 最期は、そうしようと思っていた。

 恐らくかの研究室で実験を始めた日から、今までずっと。

 それを意識したのは、つい最近だったけれど。

 

 ダークライの可能性を広げたい。今回の実験の主旨は単純なこれに尽きる。酷薄な現実に立ち向かってみたかった。私事の解決を目指すことは実験にとって、お菓子コーナーの玩具のようなおまけに過ぎない。

 

 ラルトスが落ち着きなく、ミアカシの手をひっぱった。アオイは小さく手を振って断った。それでもやめないラルトスに「いいんだよ」と声をかける。終始、ミアカシは不思議そうな顔をしていた。いつも大人しいラルトスが今日ばかり騒ぐ理由に思い当たりがないのだろう。

 

 何を危惧しているか彼女には分からない。そう、生まれたばかりの彼女はまだ生命の最後に何が起きるか体験として知らないはずだ。

 

「ミアカシさん、心ばかりのお礼を、そのうち受け取ってくれると良い。気に入らなかったら受け取らなくて構わないけど、私にできることはそれきりだ。……私など忘れてくれよ」

 

 彼は油の切れた車輪をまわした。ギィ、と音が鳴る。手入れは……もうしなくていいだろうか。寝室の扉を開ける。不意に思いついたように彼は手を止めた。

 

「ああ、そうだ。どうか言わせてくれ。私は、あなたの幸せを祈っている」

 

 それから、彼はゆっくりと床の木目を数えるように視線を動かした。

 アオイの手は震えている。いつしか手だけではない、声まで震えていた。

 

「でも、これがどこへ届く祈りなのか、長いこと納得できる答えが見つけられなかったのだが、今になって分かったよ。まったく今さらで、情けなく笑ってしまう。……私はずっとあなたの未来へ祈っていたのだね」

 

 寝室は暗い。まるで底のない闇のようだった。

 ミアカシがそばにやってきたら、この闇は明るく晴れてしまうだろう。

 

 だから部屋へ入ると、すぐに扉を閉めた。

 

「おやすみ……。ああ、風見鶏が夜を運んできたようだ」

 

 その言葉の真意は彼にさえ分からなかった。

 

 次の瞬間、彼の怒号と絶叫、意味をなさない狂乱が小さな世界を暴力的に支配した。

 

 これまで穏やかに笑っていたのが、何かの間違いであったかのような、錯乱だった。ガラスの割れる音が女性の悲鳴じみて響いた。外部へ取り残された彼らには、理解の落としどころがないまま、時間ばかりが過ぎていく。やがて聞こえてきたのはすすり泣く彼の声だった。何かと話しているらしい。

 

 さいごに音が聞こえたのは何時間前だろう。

 彼の叫びも嘆きも聞こえなくなって初めての朝が来た。

 

 部屋の外へ取り残された彼らは夢現に思うのだった。

 彼がいなくとも世界は変わらず、朝は訪れるのだ。

 

 

 そのうち、つけっぱなしのパソコンがピコンと空々しい発信音を響かせた。

 アオイが実験を始めた次の日に起きた出来事は、この電子音だけだった。




 本話にて「転じ然れば風見鶏を廻せ」章が終了になります。
 これまで見えにくかったアオイの内心をたくさん書くことができたので、ホッとした気持ちがあります。人物たちの心にも大きな変化が現れつつある章になりました。


 さて、この作品を書き始めるきっかけのひとつが、映画のダークライを見たからなので、ダークライは必ず出そうと決めていましたが、悪夢をどうすれば有効活用できるかについては長いこと考えていました。結果はアオイがこれから証明していきます。

 しかし正直なところ、これ以外の活用方法が見つからなかったことが早々の反省点です。
 ダークライの悪夢に関して、情報はポケモン図鑑と映画情報しか頼りが無いのが具体的な構想を練ることを難しくしています。

 悪夢に任意の指向性を持たせることは可能なのか? 悪夢の根源は人間の何に訴えるものなのか? 悪夢を見せる誘因性を持った攻撃なのか、悪夢を押しつける攻撃なのか……等など。

 そんな感じのふわっとした想像にできる限り理屈を肉付けしながら書いています。
 へえ、そういう解釈するんだー、程度に楽しんでいただけたら幸いです。
 ここまでお読みいただきありがとうございます!

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

  • 登場人物たち
  • 物語(ストーリーの展開)
  • 世界観
  • 文章表現
  • 結果だけ見たい!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。