もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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シンオウからの旅人
イッシュ旅行


 マニ・クレオは船上にいた。スン、と鼻をきかせれば潮の香りが身体に染み入るようだ。不思議な香りだ。北方にあるシンオウ地方の香りと比べると鼻先をかすめていくそれは、南下した分だけ柔らかい。

 

 彼が乗船し、波を乗りこえていく連絡船は、これからイッシュ地方へ向かう予定だ。

 

 モバイルを確認する。もちろん、海上なのですでに電波を送受できる圏外になっている。彼はアオイから送られたメールを繰り返し見ているのだ。

 

(ええと、12時に着くから、それからバスに乗って、と。アオイさんって筆まめだなぁ)

 

 ポケットに入れていた名刺――その裏に細かに書かれてある交通情報と照らしながらこれからの予定を組み立てていく。アオイが気をつかって書いてくれたメールも名刺も役に立っている。しかも彼は自分の名刺まで引っ張り出して、名刺の渡し方まで伝授してくれたのだ。

 

「私の古巣にいくのだから、失礼のないように。くれぐれもしっかりしてくれよ」

 

 最後に背中をぽんぽんと叩き、アオイは柔らかく笑った。

 

(シッポウシティ。アオイさんが働いていた土地だ。どんなところなんだろう)

 

 マニは、もうひとつワクワクしてたまらないことがあった。

 

(パンジャさんが都合つけてくれるとは思わなかったなぁ!)

 

 彼女はアオイの数少ない友人だ。マニの仕事上、資料請求の窓口になっているパンジャ・カレン。これまでは電話のやりとりだけで、実際の彼女に会うのは初めてだ。

 

(どんな人なんだろう。美人さんかな)

 

 アオイさんは「普通」と言って写真のひとつも見せてくれなかった。いや、見せてくれないのではなく、あの様子は本当に持っていないか、引っ越し段ボールの奥底に封印しているのだろう。マニは検討をつけては独りでに納得した。

 

 ただ、承服できないことがひとつ。

 

「彼女に関して興味を持っても良いことがない。まあ、同類の私が言うことでもないが。ともかくだ。面白半分に深入りしないほうが君の身のためだ。……へらへらしていらるのも今のうちだ。私は忠告をしているのだよ」

 

 彼は、そう言うけれど、マニがアオイを理解するためにも彼女のことをすこしくらい知っておきたい。しかもマニは、彼の言葉の半分くらいを「やっかみ」だと思っていた。

 

 アオイが何をどうして彼女に後ろめたさを覚えているのか分からないが、彼女と親しくなる人物に対して、嫉妬しているのではないかと思っているのだ。

 

(友情……友情かぁ)

 

 足下でヤドンが寄り添ってぐうぐう寝ている。マニのヤドンとメタモンなのだが、彼らはどうだろう? これは果たして友情だろうか。

 

(アオイさんは、これで満足なのだろうか)

 

 マニは恋を知らない。いつかは運命の人が――いいや、運命という言葉はやめよう――会うかもしれないとは思っているけれど、友人という関係はその類いではないだろう。

 

(友情には発展性がない。どこまで突き詰めても、友人は友人だ)

 

 それ以外の何者にもなれない。マニは、それが寂しいと思う。親友と呼べるほど気がおけない人ならば、なおのことだ。男女の人間関係で、そうなるほうが珍しいのではないか。あるタイミングから別種の関係になってしまうことが多いだろう。それが訪れず友人関係が続いているとは不思議な関係だ。

 

 アオイは、特別な関係になる女性をつくらないと言っていた。どうしてだろう。やがてマニは彼の言葉の端々から漂う家族へ対する冷淡な態度を思い出す。家族に嫌な思い出があるのだろうか。いや、十中八九それだ。それしかない。

 

 マニには妹がいるが、それと仲違いしたことを想定してみる。普段はやかましいくらいに構ってくるが、いざいなくなったら寂しくなるだろう。うーん。外食する時は、妹の代わりに友人を代わりしたくなるかもしれない。

 

(友人の範囲は逸脱しないまま、ひょっとすると、家族の感覚が強いのかな)

 

 廃れた友人関係しか持っていないマニにとって、友情は霞のようなものだ。遠目ではしっかりとした形がありそうなのに、近付けば正体が分からなくなる不思議なものだ。だからアオイとパンジャの関係は恋愛による結びつきなのだと理解するほうが手っ取り早く、納得がいくものだった。――もっとも、それだけの浅い理解ではいけない。マニはブンブンと頭を振って自分を戒めた。

 

「自分の目で、自分の耳で、確かめないと」

 

 マニは、パンジャにもアオイが秘密裏に行っていた実験について聞いてみるつもりだった。アオイはマニの言葉の端々から、その試みに気付いていたのだろう。仕事場で最後の指導を受けている間に言葉を替えて諭された。

 

「彼女の忍耐を試すことは、まったく推奨されない。ガラガラの前でカラカラを蹴飛ばすようなものさ」

「手段のためならば目的を選ばない輩だよ。どこぞのロケットなんとかと一緒にしないでくれ」

「この博物館にはいない種類の人間だ。この職場が健全である何よりの証拠だよ」

 

 言葉の意味は一貫している。

『危ないので近付くな』と。これに尽きる。

 だから、マニは訊ねたのだ。

 

「どうしてアオイさんは、そんなパンジャさんと一緒にいたんですか?」

 

 アオイは、苦しそうな顔をして手の甲に爪を立てた。マニは聞いたことを後悔しなかったが、もうすこし言葉を選べばよかったと思った。それでも彼は長い沈思の後で答えてくれた。

 

「私は研究に全てを捧げたからだ」

 

「知ってますよ」

 

「分かってないよ。私は、研究に全てを捧げたんだ」

 

 ぞわり。マニは腕にトリハダがたつのを感じた。

 

「『私』を賭けても足りなかった。だから私に足りない分を『彼女』から。それでも足りなかったものは『未来』から借り出した。法外な利息を付けてね」

 

「あなたは、自分が勝負事に弱いと分かっているでしょう!? どうして、その時はできると思ったんですか」

 

「『だからこそ』だからだよ」

 

 逆説的に紡がれた言葉の真意を、マニは理解できなかった。しかし、彼がどれだけ研究に賭けていたのか、もう分かったのでその後の言葉を聞きたくなかった。会話はそれきり終わった。

 

 彼と似た人というのならば。

 

(ねえ、アオイさん。パンジャさんも僕の友達になってくれるんじゃないかなって思います)

 

 手すりによりかかっていた手を離すと、地平線の彼方を眺めた。空と海の境界に黒々とした大陸が現れていた。

 

「イッシュ地方だ」

 

 目を開くと潮風が沁みた。

 自分の声は思いの外、地に足のついた声で聞こえた。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 バスを乗り継ぎ、シッポウの街に到着した頃には日が暮れていた。

 腕時計で時刻を確認すると19時だ。普段ならば夕食を作ろうとフライパンに手をかけようかという時刻に、マニは博物館の前に立っていた。

 

 なんとなくの手慰みで「本日の営業は終了しました」を釣り下げるチェーンを触るとチャラリと音が鳴った。

 

 博物館の見学――という名の面会――は明日の予定だが、今日のうちに挨拶をしておきたかった。アオイに心積もりを話したら「シンオウ人というのは律儀だね。電話とメールで確認したらそれでいいだろう」とちょっとだけ笑われたけれど、マニだって社会人だ。文化の違いがあるとしても、シンオウからの客人として筋を通しておきたい。学ぶ立場の人間なのだ。お礼しすぎるということもない

 

 しかし、19時は難儀な時間だ。残業していればまだ施設のどこかにいるような気がする。

 すこし迷った後で、名刺を渡そうと決意する。そしてマニは博物館を通り過ぎ裏にある研究施設を目指した。辺りを見回しながら、石畳を慣れない革靴でカツカツ歩いていると入り口はすぐに見つけた。ひっそり隠れるような出入り口に「来客用」の文字がある。施設に明かりがあることも確認した。

 

 ノックするが反応が無い。思い切って扉を開いた。

 

「すみませーん」

 

 遠くから「はい」という声が聞こえた。バタバタという音も聞こえる。どうやら女性のようだ。

 

 ――もしかして、パンジャさんだろうか。

 

 心が弾む。それにどうにも顔が緩んでしまった。

 パタンと扉を開いて現れたのは牛乳瓶の底じみた丸い眼鏡をかけた女性だ。年齢はマニとそう変わらないだろう。まだまだ学生っぽいあたり、そっくりだ。

 

 彼女は書類の整理でもしていたのだろうか。手袋を脱ぎ、白衣のポケットにねじ込む。一房長く垂らした前髪には小さな埃がついていた。

 

「えぇと……どちらさま、ですか? 営業時間は終了しているのですが」

 

「こんばんは。僕、あ、いや、私はシンオウ地方から来ました。業務時間外に申し訳ありません。明日の打ち合わせの件で、事前に、えっと、あっ、もし、パンジャさんがいらっしゃったらお話をさせていただきたいのですが、あっと、名刺だけでも」

 

「シンオウから来たんですか。パンジャ先ぱ――じゃなくて、主任はいま手が離せないのでわたしがお話をお聞きしましょう。なかへどうぞ」

 

「ああ、いえ。気をつかっていただいて申し訳ないです。夜に押しかけてしまいましたのはこちらですし……これ、名刺だけでも机に置いていただければ」

 

「わかりました」

 

 マニはトントン進んでいく会話に「あわわ」と慌てながらポケットから名刺を取り出した。

 

「えー、それじゃあパンジャさんにお渡しください」

 

「はい。分かりました」

 

 そうして受け取った名刺を見て、頷きかけた彼女の動きが鈍くなった。誤字でもあっただろうか。マニは無意識にポケットの名刺入れに触れた。

 

「…………えっと、あなたは『アオイ』さん?」

 

「ぼ、僕はマニですよってんあああァ! 名刺を間違えました、間違えました、こっち、僕のはこっちです!」

 

 マニはポケットから名刺入れを引っ張り出すと今度こそ、自分の名前が書かれた物を差し出した。アオイの名刺は練習で受け取ってそのまま持っていたのだ。しかし、彼女はこちらを見向きもせず食い入るようにアオイの名刺を見ている。アオイって名前はもしかするとイッシュ地方では珍しい名前なのだろうか。いやいや、でも意味を聞いたら「音のままです。『青い』という意味ですよ」と素っ気なく反応されたきりだったのだが……。

 

「あの――」

 

「これは? どちらでお会いになったのですか?」

 

 声はいつの間にか鋭利な響きをもっていた。

 だが、マニはそれどころではなかった。一歩踏み出したところで相手も一歩踏み出したのだ。お互い距離が近い。マニは思わず「えうっ」と呻く。恥ずかしいことに胸がドキドキしていた。

 

(うわっ! おんなのこだ!)

 

 内心はひどく動揺していた。

 女性とこんな距離になったのは母親くらいのものだ。後退ろうとするとさらにズイと寄られて、マニは弱る。潮風に慣れた鼻に、ふわりとひかえめな果実の匂いが香った。

 

「か、か、彼はぁ……僕の、先生です」

 

 反面教師なんですけど。――とは言いそびれた。言わなくてよかったのだろう。それからの彼女を見て思った。

 

「そうですか。なるほどね。では、ぜひお話でも!」

 

 尊敬に満ちた瞳を、一瞬だけ見た。

 それを見つめたマニは、氷の塊を心に放られた感触を味わった。火照った頬に手を当てて、困った顔をしてみる。けれど彼女の押しに断り切ることもできず、結局靴を脱いだ。

 

「わたしの名前はベルガ。ベルガ・ユリイン。……パンジャ主任の部下です」

 

 含みのある言葉は、その情報が等価交換だと察することができた。

 

(僕って下心があるって顔しているのかな……)

 

 だとしたらショックが大きい。

 アオイが装う真面目な面は貴重で大切なものなのだなぁ。マニは今さらの感想を心の内に呟いた。車イスで自由が少ないことを除いても、アオイのお堅い印象はプラスに働くことが多そうだった。一方のマニは、どうにも「くだけ」ている。良く言えば柔らかい。悪く言えばあほっぽい。

 

 きょろきょろと廊下の掲示板などを見ながら歩いていると応接室に通された。

 

「ここでお待ちください。主任に声をかけてきます。……それからでよいのですが、アオイさんの話をいろいろ聞かせてもらってもいいでしょうか」

 

「は、はい。……でも、大したことは教えてもらっていませんよ。基本です、基本」

 

 彼女は数ヶ月前の、アオイの履歴を知った僕にそっくりだった。ちょっと強引で彼のことを知りたがるところとか、特に。

 

 だから、もし、彼女に何でも伝えてしまえるならば、過去の自分に伝えるように言える言葉がある。

 

 あの人を好き勝手に憧れてもいいけれど、あれは目指していい人ではないよ。――なんて。

 

(教えて夢を壊すのもねー)

 

 黙っているのも大切なことかもしれない。マニはうんうんと頷く。その頃、ベルガは彼に背を向けて部屋の隅に置いてある電話で誰かと話しているらしかった。その相手が恐らくパンジャだろう。

 

 やがて受話器を置いたベルガが、にっこり笑いかけた。

 

「アオイさんと連絡を取りたかったんですよ。とりついでいただけませんか?」

 

「あの人に聞いて許可が出たらいいですよ。ええと、ベルガさんは……たしか、アオイさんの後に入った人ですよね?」

 

 アオイが退職したことで欠けた人員を補充する必要が出た。そこで入ってきたのが彼女だ。

 先の事故では人が傷つきポケモンが失われた。あの一件で唯一、利があった人物は職を得たベルガ・ユリイン。目の前にいる彼女、ただひとりだ。

 

 しかし、アオイのベルガ評というのは複雑と思いきや、実のところ悪くない。むしろ良さそうだった。「まっとうだ」という評価をいつか聞いたことがあったな、とマニは思う。

 もっともマニの記憶は不確かでアオイが強調した「研究者の」という前文句を聞き落としてしまっていた。実際に彼女に出会った後も前情報と第一印象も災いし、間違った認識を持ちつつあった。

 

「ええ、そうですよ。もしかしてアオイさん、わたしのことを何かおっしゃっていましたか?」

 

 マニは言葉に困った。まさかベルガ評を伝えるわけにはいかないだろう。マニは人間関係クラッシャーになりたくない。

 ほかに、なにか、なかったものだろうか。思い出したのはアオイの「引き継ぎ書類は作ったしパンジャがいるから大丈夫」というスタンスだった。うーん。味気ないし事務的すぎる。

 

「特に……。あ、いえ、興味がないわけじゃなかったんですが、アオイさんのトラウマえぐるのも気が引けて、研究室のことは詳しく聞いていないんですよ。ごめんね」

 

「べつに気にしてません。ところでマニさんはおいくつですか」

 

「えっ。ぼ、ぼかぁ、アオイさんより若いですよ、ええ」

 

 さりげなく彼女はソファーに座った。マニは困惑した。

 

(どうしてこの人は僕の隣に座るんだろう。僕の知らないだけでイッシュの人はパーソナルスペースが狭いのかな。でもアオイさんは近付いてほしくなさそうだったし……)

 

 マニは耳の内側で、いったん落ち着いた心臓が再びバクバクと音を立てるのを聞いた。

 

「そうですか。――アオイさんからは何を教えていただいているんですか?」

 

「レポートの書き方とスケッチの描き方とノートの取り方です」

 

「は。えぇぇ……?」

 

「基本が大切なんですよ。僕が勤めているのは博物館なので、まずはそちらの仕事をきちんとできるようにならないと。まあ、研究職といえば研究職のくくりなんですけどね。今回の見学もメインは、実はあっちの博物館なんですよ」

 

「そう……なんですか。アオイさんから教授されているのなら、わたしはてっきり、あの人達の研究内容のことかと」

 

 マニは同感だった。

 アオイに最初に期待したのはそういう内容だった。けれど今は彼が行ってきたことについて勉強したいなんてちっとも思わなくなっていた。彼の行いが、研究の内容が、あまりに非道だから。その理由が一番だが、二番目は自分の未熟さが苦しいからだ。どんな研究でも聞きかじったとしてあまり役に立たないだろう。マニの知識は大したことがなく、アオイから解説されながら参考書を読み解き、やっと文章を読んで理解できる程度なのだ。

 

「あ、そういえばマニさんが資料請求している論文は役に立っていますか?」

 

「ええ、とても」

 

 もっぱらアオイとの個人的な学習のための教材になっている。役に立っているといえば立っている。話題を変えるようにマニは手を叩いた。

 

「ああ、そうだ。そうだ。聞こうと思っていたことがありました。パンジャさんとアオイさんが共同執筆していることが多いですよね。あれってどうしてです? ベルガさん、ご存じですか?」

 

「あれは――」

 

 何か知っている顔で答えかけた彼女が、身を堅くした。

 扉が開いて、長い髪の女性が現れる。緑色の綺麗な瞳が、二人の姿を認めると愉快そうに細められた。

 

「おや。お邪魔だったかな?」

 

 マニとベルガは顔を見合わせてから、勢いよく首を横に振った。

 

「全然! どうぞ! あっ……」

 

「むむ。先輩が遅いのが悪いんです」

 

「ちょっと手が離せなくてね。申し訳ない。――お待たせいたしました。君が、マニ・クレオさん?」

 

 彼女は胸に手を当てて、きちりとした礼をした。朗らかに笑う女性は――彼女がアオイの親友なのだろう。気安すぎず、親しみを込めて呼ばれた名前。マニの心臓はベルガの時とは異なる跳ね方をした。しかし、マニはすぐに返事をすることができなかった。それどころか首を傾げそうになる自分を必死でこらえた。

 

 丸く目を見開き、あちこちに視線を彷徨わせては言葉を探した。

 

(何だ。何だろう。この人、なにか妙だ……)

 

 何が妙だというのか。よく分からない。まったく分からない感覚だ。

 

 彼女の一挙一動が、不必要なまでの情報量をもって視覚に訴えてくる。見逃したら悪いことが起きると警告するように。けれど彼女の所作に不審は無い。むしろ、遠くからきた友人を出迎えられて喜ぶような足取りでさえあった。

 

「マニさんと呼ばせてもらってもいいでしょうか」

 

「は、はい。」

 

「よかった。わたしのことは気軽にパンジャと呼んでください。アオイの友人に会えて嬉しいですよ」

 

 そう言って差し出された手を握ることを躊躇した。彼女の手は酷く焼けたと聞いている。手を握るかどうか考えた。本当に痛いなら握手を求めることもないだろうか。そう思い、マニも手を差し出した。手袋を着けたままだったことに気付いてハッとするも、引っ込めるより早く手がつかまった

 

「ようこそ、イッシュ地方へ。お役に立てるように頑張りますよ。何か困ったことがあったら、ぜひわたしに相談してください。お役に立ちましょう」

 

「あ、あの、ありがとうございます」

 

 マニは、言葉の間もずっと彼女の手を見つめた。そして、どうしても堪えきれなくて聞いた。

 

「パンジャさん、手は痛くないのですか? 大きな怪我をしたと聞いています」

 

「気にしないでください。見苦しいので手袋は外せませんが、いずれ治る怪我です」

 

「そうですか」

 

 握手が終わる。

 マニは感触を忘れないように手を握りしめた。彼女の手は、手袋越しでも分かった。骨ではない、ささくれ立つ堅さがあった。視界の隅でベルガが目礼して部屋を出るのを見届けてから、再び口を開いた。

 

「あの、アオイさんのことを僕が伝えるのは差し出がましいとは思うのですが……」

 

 おせっかいはやめるべきだと思う。

 

 他人の関係に口を出すのは、ただの自己満足で進展性がない。でも、マニはこらえ性の無い自分を今だけは誇りたい。

 

「僕は……その、アオイさんと話して……」

 

 淀みのなかにあるアオイの心、そのなかに浮かんだ清い心情をパンジャに伝えよう。正しいことが、悪い結果をもたらすはずがない。マニはアオイと海で対峙した時のように、できるだけ彼女の顔を見て、ハッキリと言った。

 

「アオイさんは、あなたのことを大切に思っていると言っていました」

 

「…………」

 

 彼女に、声が届いていないのではないか。表情を動かさずにマニを見つめ返していた。気にとめず、続けた。

 

「あの人は、僕にそれを言うと酷い悪口を言ったみたいにうつむいてしまいましたが、僕は他人を大切に思うことの何が悪いのか、分かりませんでした。だから、あなたに伝えてしまいたいと思います。たぶん、アオイさんは僕を咎めることをしないでしょう、たぶん……」

 

 パンジャは――柔らかく笑う。道端に花が咲いていたのを見つけたみたいに、自然に浮かんできた笑みのように見えた。そして。

 

「なんだ、そんなことか。ずっと知っていたよ。アオイが大切に思ってくれていたこと」

 

「えっ……」

 

 でも、アオイさんは、あなたに何か酷いことを強いたのではないか。そう問いたくなったマニは機会を逸した。花がほころぶように、彼女が幸せに見えたからだ。

 

 彼女は胸に手をあてたまま、目を伏せた。

 

「わたしも彼と同じ気持ちだ。ずっとずっとね。ただアオイはそういうことを言葉にするのをよしとしないから、わたしも気付かないふりをしていたけれど。彼は伝えていないことを気にしていたのだね」

 

 彼女の手袋に覆われた手指がポケットを撫でた。そこにある運命を、マニは知らない。それでも彼女の何気ない仕草が心をチクチク刺した。

 

「わたしは、ただ隣にいるだけでよかったんだ。どんな形であれ寄り添っているだけで満足していたんだ」

 

 まあ、彼は繊細だし、当然といえば当然か。

 ええ、そうです。

 

(アオイさん……あなたは……)

 

 彼の尊い感情は伝わっていたのか。

 マニは空ぶった決意さえ、心地良いものとして感じられた。

 

(もうすこし誰かを信じる勇気が必要ですよ)

 

 その勇気のありかを知りたい。だから、口を開いた。

 

「パンジャさん。あなたは、どうしてアオイさんを信じているんですか?」

 

 今度は彼女がまっすぐにマニを見つめていた。これが彼女の友人に対する態度なのだろう。誠実に目を見て答える。その正直さをマニは好ましいと思った。

 

「彼は、わたしを救ってくれたからだ」

 

「では、その恩に報いるために?」

 

「今となっては、きっかけに過ぎない。彼を信じる理由はたくさんある。そのどれかひとつを取り上げて優劣をつけるわけにはいかない。どれも大切なものだからね。――だから最初の動機を言ったのだが、これで納得してくれるかい?」

 

 言った後も、考え込むように彼女が顎を撫でる。きっと無意識だろう。

 その些細な仕草に、マニの心は引っかき回された。

 

(なんだ? どこかで見たことが……。いや、そんなはずはない。だって、僕はこの人と初対面のはずだ……)

 

 でも、どうして、この姿を見たことがあるのだろう。

 考え事にとらわれていたせいで、マニは返事が一瞬だけ遅れた。

 

「あ、え、はい。ありがとうございます。……あの、僕、パンジャさんのこともっとおっかない人だと思っていました」

 

「おや。アオイはわたしのことをあれこれと言ったのかな」

 

 困った顔をして眉を下げた彼女は、穏やかだ。湖のような静けさがあった。初対面に感じた違和感は、少なくなっている。先ほど心乱されることがなかったら、マニはその感覚を今では何かの間違いだったのではないかと思っていたことだろう。

 

「僕がねだったんです。他にもいろいろと。でも、その数十倍は素敵なひとでした。あなたに心からの敬意を」

 

「わたしもアオイの久しぶりの友人と聞いて、身構えていたのだが杞憂だったようだ。君の友情に心からの感謝を。明日からたくさん勉強するといい。案内は任せてくれ」

 

「はいっ! よろしくお願いします!」

 

 マニは、彼女とうまくやっていけそうな気がした。

 

 アオイが言った警告こそ杞憂なのではないか。万全ではない精神性から飛び出した妄言なのではないか。そう思う気持ちがまったく無い――と言えば嘘になる。マニは彼を信じている。けれど今回ばかりは心配性が祟ったのではないか。

 

 パンジャは再び握手を交わす。

 

「君がアオイの友人でよかったよ」

 

 マニは、それにどう答えてよいか分からず、黙って頷く。どうにも、へらへら笑って答えても良い言葉には思えなかったのだ。その証拠に彼女の言葉は、嬉しそうな声なのに、どこか冬枯れを思わせる寂しさがあった。

 

「何かを成し遂げるには友人の力が必要だ。君は彼の良い助力になってくれるだろう。彼もまた君の糧となってくれるだろう。そういう友情を果たしてくれる人だ」

 

「ええ。僕もそう思います。……そういえば、アオイさんも似たようなことを言っていました。ひとりよりふたり。物事に取り組むときはペースメーカーを。あなたが、アオイさんの相棒だったんですね」

 

「彼は、ほとんど自分でできたよ。わたしの力など微々たるものだ」

 

「謙遜を」

 

「……さあ、どうかな」

 

 何となく会話の終わりが兆し、マニはソファーに置いていた鞄を持った。

 研究室を出るまで彼女は見送りをしてくれた。それに手を振りながら、すっかり夜の更けた道を歩いた。

 

 足音が、聞こえる。その音を聞いて、マニは自分は上機嫌だと気付いた。足取りが軽い。指の先々まで充実感に満たされて、やがてマニは肩をふるわせて笑った。

 

「あはっ! あははははっ!」

 

 そして街灯が点在するだけの公園で振り返った。

 

 見上げれば白昼のような街灯が自分を照らしていた。遙か西。その方角にアオイがいるはずだった。

 

「あなたはッ!」

 

 アオイさん。彼はかすれた声で呼んだ。どこにぶつけていい感情なのか、分からない。だから、叫ぶ。

 

「あなたは悪いものを見過ぎたのだ! だから悪いことばかり考えてしまっていけないんでしょう! あなたは人を信じるべきだった! もっと未来を信じるべきだったッ! 友人を頼るべきだった! あなたは止まってしまう前に、どこかで妥協を知るべきだったんだ……っ!」

 

 マニは、悔しかった。アオイの行いは、きっと正しくないことだった。でも、きっと優秀な人だ。優しさもある。非情でもあった。でも研究のためには必要な不足だったのだろう。自分の大切な何もかもを捨てきることができるのは、きっと一種の才能だから。

 

 そんな人が後輩の育成にとどまり、足を止めている現状が、無性に悔しかった。

 

「動けよッ! 止まってないで歩けよ! 動いて世界を回せよ! 歩いて彼女の手を取れよ! あなたには! それができるんだろうがッ!」

 

 地面を蹴ったマニは、来た道を振り返った。

 

(僕ではダメだ。彼でなくてはならない)

 

 照明下は、あの日の海の香りがした。

 悔しい。もっと言えばよかった。伝えればよかった。あの瞬間、彼がずっと思い続けているだろう言葉を、直接ぶつけることができるのは、この世界でマニだけだった。

 

 彼の知識を、世界は知らない。世界全体の利益を天秤にのせれば、実験を続けることで人間とポケモンの役に立つ発明が生まれたはずだ。それができなくても別の技術へ応用できただろう。

 

 けれど、アオイは止まってしまった。何も活かせず、何も生み出せずに。

 

 その時。

 彼がイッシュを離れた本当の理由を、マニは気付いた。

 

「……夢も追えないのに、ここにいるのは辛かったんですね」

 

 彼の夢は途絶えたままだ。同じように照明下から去った彼の舞台は、恐らく空のままだ。その空漠はいつか埋まるのだろうか。

 

 マニは照明下から身を引く。誰もいない空間は、がらんどうだ。それを見て、もうひとつ分かったことがある。

 

 ひとりよりふたり。その役割を彼はペースメーカーと呼んだけれど、本当は、彼の本当の願いは、もう叶っていたのではないか。だって、パンジャはアオイの後ろめたい気持ちを知っていた。寄り添うだけで満ち足りていた。

 

「あなたも同じ気持ちだったんじゃないですか……?」

 

 舞台のうえには、ふたりがちょうどいい。マニは、視界の端で、まっさらな白衣の裾が翻った幻を見た。

 

(帰ったら、アオイさんに話そう。あなたの幸せは足下にいっぱい広がっているんだ)

 

 彼さえ知らない、彼のことをもっとたくさん話そうと思う。

 

 あなたは止まってしまったけれど、パンジャさんは歩いている。ひとは失敗を知っても歩いていける。失ったとしても、きっと。

 

「この世界は、素晴らしいものに満ちているから!」

 

 今がどん底の最低でも生きてりゃ大丈夫ですって。

 

 彼の華奢な肩を後ろから思いきり叩いてやろう。

 そう決意してマニは公園を去った。

 

 

 マニがイッシュ地方に渡った初日。

 今にも空からこぼれおちそうな満点の星が瞬いていた。

 

 

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