もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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共通理解が得られない、僕らは。

 

 

 パンジアという花には、実は、毒がある。

 カントーでは三色スミレと言うらしい、この花は安価で、園芸ではありふれた花だと聞く。

 

 草木や花の名前を持つ人のことを、わたしはよく考える。

 彼らの父や母は何を思い、その名前を付けたのだろう。特に、毒のある花を名付けられた人は。

 

 ――その仕事であれば、わたしが引き受けましょう。

 

 ベルガ・ユリインは気分が悪くなったことを、嵐を運ぶ生温かい南の風を受けたせいだと思った。そうして、頭の中に浮かんだ先輩の声を追い出した。

 

(あの人は、毒だ。まるで毒だ)

 

 きっと寄りかかった先の人をダメにしてしまう。そのくせ、それを分かっていない。でも、長続きしないことくらいは分かっているのだろう。だからこそ、思うままに有限を消費して、誰がどうなろうと構わないと思っている。それを毒と言わずに何と呼ぼう。

 

(毒を使い切らなかった、アオイさんも悪い)

 

 そういう人だと知っているのならば、薬として機能する間に正しく扱って使い捨てるべきだ。使い終わったカイロを捨てるように、きちんと分別をして、きちんと終わらせるのが義務だ。人間という我々は面倒で『小石が手から転げ落ちた』では済まないのだ。それほどに、あなた達の描いた夢は、美しく――厄介だ。

 

 夢は。

 

『はじめた時と同じように、終わらせる。――アオイの口癖はいくつかあるが、これは、そのなかでも好きな言葉だ』

 

 あなた達のはじまりは、どんなものだったのでしょう。いいえ。いいえ。言わずとも分かりますとも、どうせロクなものじゃなかったのでしょう。

 

 抱えて生きていける夢を見いだした。大した情熱だ。

 

『終わらせることは、難しいのではないですか』

 

 夢をはじめた時、その夢が終わることなんて考えもしなかっただろう。

 終わらせ方など知らないくせに。彼らは夢を語る。達成するだけで終わる『わたしの夢』のほうが優れている。

 

『海を静めるような話です。波紋のひとつさえ許さず止める話です』

 

『ありえないと言うのか』

 

『では、現象を止める手立てをお持ちなんですか?』

 

『我々が世界をどのように「観測」するかという問題だ』

 

『つまり、手段はお持ちではないと』

 

『君、健康に気をつけなさい。夏夜は、ひどく冷える。体を冷やすのは良くない。心まで冷めてしまう』

 

 膝掛けを差し出したパンジャの手を払う。ベルガは、会話の成立しない苛立ちを思い出していた。

 

『わたしは、起きています』

 

 そうだ。起きている。わたしは、正気のまま夢を見ている。

 

 パンジャは、空席にアオイの幻を見ている。今朝は、とうとう席にカップを置いた。――あなたの好きな銘柄だよ。給湯室に無かったから、ライモンまで行って買ってきたんだ。昨日まで飲んでいたのに、急になくなってしまうなんて。どうしてだろうね。徹夜するのは推奨されないよ。――なみなみと注がれたコーヒーが、深い焙煎の香りを漂わせていた。その匂いは、間違いのない狂気だ。

 

『あなたとは、違います』

 

『それは良い。可能性の多様こそ私は愛する』

 

 人間は情熱がなければ生きていけない。

 そう言ったのは誰だろう。

 でも、信念を捨てた境地にいるわたしは、こう思うのだ。

 

 あの人は、いつか終わりがあるという保証があって頑張れるのだろう。

 

 終わり。

 終わりって何だ。

 何なんだ。

 

 夢の果てを見ることか? 

 命果てるまで誰かに尽くすことか?

 それとも、死ぬことだろうか?

 

 どれもバカみたいだ。

 踏みにじって、蹴っ飛ばして、殴り倒したいほどのバカな思考だ。

 

 自分のなかにあるのは、自分の命だ。他の誰でも無い。何にもなれない、唯ひとつの命だ。それを自分の思うままに使って、何が悪い。

 

 自分がここにいたことの証明を、世界に刻みつけて何が悪い。

 

「わたしは、あなたとは違います。なぜなら、あなたが間違っているから」

 

 無色の世界に、原色であろうとすることの何が悪なのか!

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

「マニさん、ダメでしょう、そんなことをしては。先輩を、誑かされては困るんです」

 

 琥珀色の目を伏せ、パンジャの後輩――ベルガ・ユリインは彼らの会話を聞いていた。穏やかな口調とは裏腹に、モノホーンを握る手は堅く握られ、唇を噛みしめていた。唇は切れて久しい。口の中は錆の味がした。

 

「先輩も突然現れた人に、そう易々と心を許してはいけないでしょう……。そんなだからアオイさんに利用されていたんです」

 

 カフェの裏口、排気口の下にしゃがみこんでいた彼女は壁に寄りかかった。

 

「あなたはバカだ、パンジャ先輩。――このまま、みすみす栄光を逃すつもりなんだろう。わたしを踏みにじっておいて、その結果がこの様か! ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなよ! 途中退場なんて許すものか! あなたは研究を続けるのだ! 続けなくてはならない! わたしのために! これまで犠牲になった全てのために!」

 

 壁の煉瓦に拳を叩き付ける。

 同じ屈辱を彼女に味あわせてやりたい。惨めで救いがたい、この暗澹を臓腑から取り出して見せてやりたかった。

 

(分からない! あなたは分からない! あなたは挫折したことなんて無いんだろう! だから、分からない! わたしの気持ちなんて分からない!)

 

 ベルガは、悔しい。

 わたしの何もかもを曲げ折った酷い人なのに、彼女だけは改心しようとする気配さえある。

 

 はじめた時と同じように終われないのなら――報いを受けるべきだ。

 

「犠牲を犠牲のまま捨て置くことは許さない! どんな残骸だろうと残らず拾って突きつけてやる! 理念だろうと後悔だろうと構うものか! 研究は、続けなければならない!」

 

 結果が無くては、人は成長できない。

 そう言ったのは、あなただろう。

 

 今ならば、あなたの言葉の意味が分かる。

 結果が無ければ。

 

「あなただって報われないのだろう!」

 

 ベルガは今にも雨粒が降ちてきそうな空を睨んだ。

 

 

 

◆ ◆ ◇

 

 

 

 本来のパンジャは穏やかな人なのだとマニは思う。

 アオイが月の静寂を好むのならば、彼女は春にそよぐ花のような人らしい。

 

 彼女が他人の話を聴く姿勢も好ましい。耳だけではなく、興味を傾けているとよくわかる姿は聞き上手の証だろう。時折挟まれるコメントは決して否定が無いのも、かなり良い。

 

 アオイの助言が無ければ、つい人間的な興味を惹かれてしまいそうになる。彼女は何が好みだろう? 何を面白いと感じるのだろう? 感性の原点は? 話しながらも疑問は尽きない。

 

「君の運命論はとても興味深い。でも、アオイはさぞ困惑したことだろうね」

 

 そう言って彼の顔を想像したのだろう。彼女はひかえめな仕草でくすくす笑った。

 

「ええ、とても。うすらぼんやりした僕の話し相手は、実入りの少ない時間だったと思います。ああ、ほんと。恥ずかしいなぁ。ご迷惑をおかけしてしまいましたよ」

 

 この人の傍は快い。

 小気味よい距離感で、適度な湿度の人間関係を提供してくれる。孤独な人にひとりは欲しい友人だ。

 

 もっと知りたいと願うマニの興味を水際で止めているのは、シンオウ地方を発つ際に言われたアオイの『彼女の忍耐を試すことは、まったく推奨されない』という言葉だ。あの時は彼女を誰かに奪われるのではないかという、彼の身勝手な「やっかみ」と軽んじていた。それは自認しよう。けれど、彼女の豹変を見た後では、彼の忠告は真っ当な意見だったのだと思えた

 

 人間の本質で治せないものを治そうとしてはいけない。また、直せるものを直そうとしない人に深入りして、お互いに良いことはひとつも無いのだ。

 

 アオイなどは破滅を招きがちな我が身の性格を省み、悲観している節がある。それでも、そういう性質だと割り切って生きているマニは、それはその人の個性だと思う。

 

 その人にどんな問題があろうと「まあ、それはそれでいいじゃないか」と思う。……その後に生じる善悪の感情や物事の結果は置いておいて。

 

 彼女のことも心底からの理解はできずとも、こうして話し合うことができる。そして、いつか願わくば、こうした小さな会話の積み重ねがパンジャやアオイを変える一助になればいい。そんな不相応な願いを密かに持っている。

 

 マニは、悲観しなかった。

 

 なぜなら自分は挫折しても何とか立ち上がってきたからだ。この先に何があっても歩いて行けるだろうという確信がある。だから、彼女たちもいつか自分の納得する形を見つけるだろうと思う。

 

 生きている限り、可能性は無限大だ。

 

 穏やかな会話を続けた後で、マニはコーヒーを注文した。

 

「君が羨ましいよ。わたしも君のように表裏なく生きていけたら良いのに」

 

 一区切りの会話を終えた後、彼女が言った。

 サイコソーダを一口飲んだ彼女は、目を細めてテーブルの丸い水滴を見ていた。

 

「そうでなければ、アオイのように恨めたら良かった」

 

「アオイさんは、何かを恨んでいるようには見えませんでしたが……」

 

「そうかい? わたしには、たいそうな嫉妬屋に見える。この業界に、天性の才覚は存在する。骨のひとつを見ただけで全体像を描ける等という能力は最たるものだ。彼は時に持たざるものを羨み、手に入れようと努力し、結局ものにできない我が身を恨むのだ」

 

「ああ、あれってそういう……」

 

 アオイがほんの時々、翳りのある顔をしているのは、そういうことか。即ち自己嫌悪。

 

 合点がいったマニはポンと手を叩いた。しかし彼とよく似た彼女には、どうにも似つかわしくない雰囲気のように思えた。アオイに「明」か「暗」かを問えば、間違いなく「暗」だが、パンジャは「明」だからだ。他人を恨む人には見えない。

 

「咎を見つければ、自分を責めてしまうのだ。実に健全なことだよ。……わたしは彼のそういう人格が好ましいと思う。彼の歪みは、持つ者にささやかな意地悪をする程度なのだから。それも『せいぜい』ね」

 

 夢見がちな目で陶然と呟かれた言葉の意味を、マニは考えた。

 やがて、しばらく考えた末に。

 

「あなたは壊してしまうから?」

 

 首を傾げてみる。すると彼女は肯定した。

 

「そう。彼は重宝してくれる感性だが、わたしは…………ふむ。人間の才能は、貴重なものだ。安易に取り出しのできる物ではない。生きている人間だ。壊してはいけないと思っているのだが、どうにもわたしは……」

 

 彼女は悩んでいるようだ。

 マニはそれを意外だと思う。彼女は――アオイ曰く「破壊的な」――自分の性質について、前向きな考えをしていると勝手に思っていたのだ。

 

「何かを壊すのは、あなたにとって快感なんじゃないですか? 僕だってドミノを倒したらきっと同じ気分になれます」

 

 可愛い喩えだ。

 彼女は、水滴を数えていた目でマニを映した。

 

「快感か。それはそれで救いになれるだろうか。――わたしの衝動は幼稚なんだよ。現状の脱出の手段に過ぎない。壊すことで、壊す前と後では違う『現状』ができる。そのことに……何と言えばよいのだろうか……ひどく安心する。ああ、言葉にすると、酷く歪んでいるな。それでも大切に思ってくれるアオイがいるから価値のある衝動性だったのだが」

 

 パンジャは呟いた後で乾いた笑みを浮かべた。花が萎れてしまったようだった。目を伏せて、温めるようにコップを握る。氷ばかり詰め込まれたコップは冷えるだろうに、彼女は気にした様子が無い。温度も分からない手のひらなのだろう。

 

「…………」

 

 カタン、と音を立ててマニはやってきたコーヒーカップを置いた。

 パンジャは「迎合的な」性質を持っている持っていると言ったのはアオイだった。

 しかし。

 

(それは、違うんだ)

 

 現状が思ったようにならないから、思い通りにしようと考えている。本当に迎合的な人ならば自分を曲げて現状に甘んじるだろう。

 だが彼女は違う。

 

「不思議なことですね。あなたは、本当は誰の言いなりにもなりたくない人のようだ」

 

「ふふふっ。君にとってわたしはそう見えるのかな? 普段は、とても親切なお姉さんと見られることが多いのだが」

 

「ええ。……でも、アオイさんのことを話すあなたは、無理しているようには見えないのは不思議です」

 

「アオイとわたしの場合、力関係などあってないようなものだ」

 

「対等ということですか」

 

 マニの問いに、彼女は曖昧で起伏の無い感情で「ええ、そう」と言う。それをマニは嘘だと思った。嘘の理由は、彼と彼女の複雑な問題に起因するのだろう。

 

「わたしは、まだ彼に何も返せていない」

 

「彼はあなたから何かを返してもらうために、何かを与えたわけではないと思います。まして救うなんて」

 

「そんなはずはない。わたし達の友情に、それは許されていない。無償の施しは未来への見返りを約束する。わたしにはまだ相応しい機会が与えられていないのだ……」

 

 彼女は、その「いつか」を待っている。待ちわびている。その機会を得て、彼を救うことができれば彼女は対等になれる――と信じている。

 

 そんなものが来る保証はないのに。

 

(アオイさん、酷いことをするな……)

 

 マニは気まずい思いに駆られ、彼女から目を逸らした。

 

 特殊な友情に飾り立てられた関係は、果たして正しく「友人」と呼べるのだろうか。マニは自信が無い。

 

 ふたりは信用し合い、お互いのことを快く思っている。しかし、友人の条件は『互いに利ある存在で在ること』だ。彼に心寄せる彼女にとって、決して無碍にできない条件に違いない。ましてアオイに恩のある立場ならば何よりも彼を最優先するだろう。

 

 どうしてアオイは、友人に条件を課したのだろう。

 

 友人だと言い張るのに理由が必要だったのだろうか? 恋人にならないのに女性がそばにいるのが気恥ずかしかった? それとも格好付けたかった? こんなはずじゃなかったと今は後悔しているだろうか? 

 

 どれもしっくりと、はまらない。アオイは狭量な男だが、他人にあれこれ指図するタイプではない。咎は自分に。水が高きから低きへ流れるように、天秤は常に自分に傾く――それも正しく。全部私が悪い、私の運が悪かったのだと、自己嫌悪に嘖まれて息苦しくなるタイプだ。しかも、たまに周囲を巻き込んで爆発する。

 

 そんな彼がどうして、パンジャに『だけ』こんな条件を提示したのだろう。

 

(あっいや? 違うかも?)

 

 そういえば、パンジャだけじゃない。

 

 海で「友達になってほしい」と言った時、彼は「君の役に立とう」と言った。僕は結局、断って何とか納得させて友人になったが、彼はそうではなかった。

 

「ねえ、パンジャさん。どうしてアオイさんは、あなたに友人になるための条件を課したのだと思いますか?」

 

「返済能力があると踏んだからだろう。全ての善意は有限だ。きっと無駄なことはしないだろう」

 

 まるで金貸しの理論で返されて、マニは「ぐう」と唸る。それでも、めげずに考えても堂々巡り。

 

 どうして。どうして。どうして。

 

 彼らの問題は、どこまでいっても彼らのものだ。

 僕は解決できない。

 だからせめて祈りたいのだが、彼らの実験と所行が手を鈍らせる。

 

「……僕は、あなた方の幸せを祈ってもいいでしょうか」

 

「それは呪っていいかと訊ねるようなものだ」

 

 穏やかに彼女は言う。

 

「そうでしょうか。僕は、もっと簡単な問題に思えます」

 

「ああ、簡単だとも。人間など言の葉ひとつで殺せる。金槌を振り抜くよりも簡単なことさ。だからこそ囚われるのだ。迷うくらいならば黙っていたほうがいい」

 

「どうしてですか」

 

 子どもっぽいことを言っている自覚はあった。言葉を覚えたたての子どものように、どうしてを言う。彼女が何でも答えてくれるものだから、思わず言ってしまった。

 

 彼女はテーブルの上で指を組んだ。

 

「言葉は、いつまでも残ってしまうからだ。心に、魂に。残響は消えない。壊すべき形が、すでに無いからだ。失われて久しいからだ。言葉を打ち消すだけの音を探さなければならない。――忘れることはできない。一時、忘れることはできても思い出してしまう。忘れたことを、忘れることはできない。何度、裁断機にかけてもその記憶だけ吐き出されてしまう。いいや、わたしは忘れたくなどないのに。忘れてはいけないのに……。どうして、わたしは……」

 

 独り言になり、最後の言葉まで追うことはできなかった。はっと気付いた彼女が、恥じるように「すまない」と言葉を濁す。アオイにそっくりな態度に、ぷっと吹き出してしまった。

 

「そういうところ、そっくりです。アオイさんも考え込むと話しながら、また思索の世界に飛んでいっちゃいますから」

 

「相変わらずのようで何よりだよ、まったく……。しかし、君と話すことができて良かった。わたしは嬉しいよ。アオイやわたしのことを話す機会は少ないからね」

 

「そうですか。そうですね。そうかもですね」

 

 マニは頷いた。

 彼らのことをまともに聞いたら、優しい人は病んじゃいそうだからなぁ。

 でも、それが悪いわけじゃない。彼らは歪んでいても悪くない。どんなに歪でも彼らの在り方を否定してはいけないのだと思う。彼らからそれを取ってしまったら、何も残らない。

 

(問題は)

 

 彼らにまとわりつく最大の問題は。

 

(彼らの関係がいつか限界を迎えるか――という点だ)

 

 歪な協力関係には、すでに罅がある。

 その罅は、彼らの感情であり、技術であり、信念の差異だ。

 

 マニは彼らが行っていた実験について、全てを知りたいと思う。すべての歪みの元凶を。

 先立つ言葉を考えた。すると思考の焦点がここには無いらしい彼女が、口を開いた。

 

「……アオイと公園に行った時のこと、聴いてくれるだろうか」

 

「ええ」

 

「ベンチに座っていたわたし達の前で、小さな子どもが転んだことがある。……小さい男の子だった。すると友人らしい女の子が来て、手を取って起こした」

 

 マニはひとまず頷くが、その話がどこへ繋がるのか分からなかった。

 

 おとぎ話のような残酷で結末になるのだろうか。それとも少年少女の神話じみた、不可思議で機知に富んだ話になるのだろうか。あるいは恣意的な? さまざまな憶測を抱いて聞いていた。

 

「わたしはその光景を見て、いろいろなことを考えた」

 

 指を折った彼女は、その日をよく覚えているのだろう。

 

「あの後、男の子は、女の子は、何を話すのだろう。失敗を怒るのだろうか。笑うのだろうか。わたしには分からなかった。――正解を知っている者はふたりしかいない。いいや、問題を知らない彼らは正解者にはなりえない。この世界で正解を知っている者は誰もいなかった。……追って正解を確かめることができない以上、何を考えても良いのだろう。それでもわたしは、言葉にならない思考に名前が欲しかった」

 

 解釈が欲しかった。彼女は言った。

 解釈。それは、解き明かすこと。

 

 それが意味の無いことだと分かっている。彼女はそうも言った。これは、ただの趣味で、たかが美学で、砂を噛むような哲学だ。正解が分からない以上、誰の言葉も、机上の空論以外にならない。それは分かる。何を考えてもいい。とても素敵だ。素晴らしい。生きていて良かったと思える。思考は、存在する限り許されている自由だ。

 

 だからこそ、彼女は苦悩する。

 

「ありがとうも言わず、お礼も返さず、黙って手を取って走っていった彼らは、わたしの解釈世界に存在してはいけないものだった」

 

 いや、しかし、分かる。

 アオイの言いそうなことは、分かる。

 とても分かる。分かるのだが……。

 

 現実に起きた、目の前の出来事に――。

 

「わたしは、納得したかった」

 

 彼は「ありがとう」と言うべきで、彼女は「どういたしまして」と言うべきだ。

 

 これは礼儀では無く、契約上の問題だ、と彼女は言う。

 

「……アオイさんは、その時、なんて言ったんですか」

 

「『いいね』と言ったよ。それを聞いて、安心した。この行いは、間違いでは無い。良いことなのだと思えた。わたしは納得を得た。彼が一緒にいて良かったと思った」

 

 そうでなければ、わたしは彼らを追って町中をさまようハメになっただろうからね。

 茶化したように言うが、きっとそれが真実になったのだろうと思うと笑えない。

 

「あなたは、面白くなかったのでは?」

 

 アオイは、彼女の世界に存在しないはずの友人の在り方を肯定した。

 一方の肯定は、他方の否定に繋がる。

 

(パンジャさんは、否定された。……否定されていた。もう、ずっと前から)

 

 彼女は穏やかに微笑んだままだ。不意に、マニはそれが不気味に思えた。

 

 アオイは、無償の友情を肯定し、有償の友情が否定された。肯定されたのは、僕だ。だから、パンジャは、ひょっとすると。

 

「あの、僕のこと……恨んでいますか?」

 

「まさか。感謝こそすれ恨むなど筋違いというものだ。彼が無償の友情を望むのならば、それに相応しい友ができたのだ。それが君だ。どうか、それを誇らしいと思ってくれるといい」

 

 この人は、他人を羨んだりしないのだろうか。

 自分もそうなりたいと思ったりしないのだろうか。

 

 その疑問が顔に表れていたのだろうか。彼女はまるで読んだかのように答えた。

 

「わたしは、今の『わたし』を気に入っている」

 

「…………」

 

「だから、これでいい」

 

 有償より無償の友情が優れているとマニは思う。無償は、報償を求めないことだ。見返りを得ないことだ。期待さえしないものだ。それは、何でも求めがちな人間の性質に反して尊いだろう。ポケモンであれば、争う性質を捨て穏やかに暮らすようなものだ。それは理性的な『まとも』さだろう。それなのに、どうして彼女は、条件を呑みつづけるのだろう。

 

「同じ景色を見ていても、彼と同じものを見ているわけではない。同じ世界を生きていても、彼のように感じることができない。――それでも、今のわたしは彼と同じ夢を見ることができる」

 

「夢……」

 

 同じ夢を、見ている。

 彼女は見ているだろうか。

 アオイが見ていられなくなった光を。遙かなる夢を。

 

 今は、見ているのだろうか。

 

 

 

(そうだとしても……この人は、歪んでいる)

 

 

 

 

 彼と彼女の目線が異なっていたとしても、彼が指針を保っている間は良かった。彼女は、彼の指差す方向へ歩けば良かった。それで良かった。それだけで良かったのに。

 

 彼は、彼女の隣で指差すことをやめた。

 彼女の記憶にある彼の残像は、まだどこかを指差しているだろうか。

 

 彼らの友情は、遅かれ早かれ限界を迎える。歪なものだ。長く保つわけがない。それはアオイが遠方に移住し、距離ができたことでより顕著になるだろう。

 

 アオイが終わらせるか、パンジャが終わらせるか、どちらだろう。

 ふたりは、お互いを大切にしたいと思っているのに、すれ違ったままだ。

 

(どうして、うまくいかないんだろう)

 

 普通にすればいい。普通に友人でいればいい。

 どうして、それではダメなんだろう。

 

「悲観するものではないよ」

 

「悲観なんてしません」

 

 ――されたって困るだろう。あなた達は。

 マニは、首を振った。世界で最も悲観すべき人が、微笑んでいる。それだけで鼻先がツンと痛かった。

 

「友情は美しいものだ。友情は尊いものさ。友情は慈しむものだ。いつか手放すために」

 

「……アオイさんの夢なんて、捨てればいい。命がけでやるものではないでしょう」

 

 捨て鉢になって、マニは言う。いっそのこと「くだらない」と吐き捨ててしまいたかった。それをしないのはアオイの夢を知ってしまったからだ。

 

 彼女は微笑む。どこまでも変わらない彼女が悔しかった。

 

 歪んでしまっているからこそ、これ以上は歪まない彼女が悔しくて、悔しくて、悔しかった。彼女は成長が急かされる世界で、変化しなくなった。彼の夢を成し遂げるためだけに、精神性が過去に留まっている。

 

「アオイが命を懸けるのだ。ならば、わたしも懸けねばならない。わたしが、まだ「わたし」であるために」

 

「…………」

 

 彼女は会話の終わりを合図するように、すっかり水になってしまったサイコソーダのコップを傾けた。

 

 終わってしまうことが惜しい。

 まだ話したいことがある。マニはしばらく言葉を探して呻いたが、結局、言葉になって出てきたのは正直な内心だった。

 

「僕は、どうしても、あなた達が愚かだと思う。バカげたことを本気でやろうとしている。それが、たまに、本当に、たまに羨ましいと思います。僕はずっと、ぼんやり生きていたから。命を懸けることができるだけの夢を持つあなたが羨ましい。それがどんな非道を貫くことであっても……やり遂げられるだろう、あなた達に妬いてしまう」

 

 彼女は笑わなかった。

 ぴくりとも表情を動かさずに、マニを見つめる。今度こそパンジャから目を離さなかったマニは、瞳の深い緑が揺らいだことに気付いた。

 

「わたし達に憧れるなんて可哀想な男だ、君は。しかも、これが満ち足りた人生なのだから本当に笑えない」

 

 君に祝福を。願わくば君が夢中になれる夢が見つかりますように。

 

 彼女の祈りの言葉は、果たして、呪いにはならなかった。

 

「ありがとうございます。イッシュで、こういう時は、Best wishというのでしたか」

 

「よく分かっているじゃないか」

 

 彼女は口の端がギクリと上がる、アオイそっくりの笑顔で笑った。

 




【あとがき】
今回の話は、とても概念的で抽象的な話になってしまったので、とても反省をしています。抽象的な話の何がいけないか。小説のなかに取り入れると、実入りの少ない話になってしまいがちという点です。……大したことのない筆者の腕では、特にです。しかし、ここでまとめて語っておかないと、またしばらくパンジャもベルガも出てこないので、思い切ってまとめてしまいました。
マニのイッシュ旅行については、もうしばしお付き合いいただけましたら幸いです。

【物語の展開】
年内には頑張って終わらせたいと考えています。目指して頑張っています。延びるかもしれないですが、延びたら延びたで頑張ります。
個人的に、ここまで長い小説を書いたのは初めです。なんとか完結させたいです。
プロット通りに書き起こしているので、展開に困ることは無いのですが小さなつじつま合わせと表現に頭を悩ませて時間がかかっているのが現状です。
66話「あなたはそんな顔で泣くのですね」時点では、本当は、2018年の9月までに投稿を終えたいと考えていましたが……登場人物達の思考は、もっと書いておきたいと思うようになったため、さらに時間がかかっています。

今後も、相変わらずの不定期更新となります。
また感想を書いていただいている方の返信も休日が中心となります。これは、本当にすみません! 皆様の励ましの言葉に支えられています!

ついでに。これまでの話を見返すと誤字脱字がいろいろとあるのですが、訂正にかける注意を最新話に注いでいるため、作者が行う訂正は完結後を予定しています。お気づきの方は、誤字報告の機能で通知していただければ幸いです! 確認次第に訂正させていただきます。

今後とも、お楽しみいただければ幸いです。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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