もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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あなたの焼き直しで焼き増しになれる、僕は。

 

 

(イッシュまで来て……無駄足とは。アオイさんも抜け目がない。――「性格が悪すぎる」の間違いかもしれないけれど)

 

 その公園は、奇しくもアオイとパンジャにも縁の深い場所だ。

 マニ・クレオは、そこにあるベンチに座っている。

 今では疲れ切った体で、思考をするのが精一杯だ。

 慰めるように緩く吹く風が、アスファルトの香りで頬を撫でた。

 

(パンジャさんは、アオイさんの研究に協力していた。……だけど)

 

 出会って話を聞くまで、そんな可能性があるなんて考えもしなかった。

 

(心の摩耗、ストレス加重、抑圧された自我、引き起こされた健忘症――信じがたいことに、彼女は記憶を失っている)

 

 そのせいでアオイが行っていた実験について、詳しいことは分からずじまいだ。唯一確実になったことは、実験の情報は、彼と彼の持つUSBに存在する、ということだけだ。振り出しに戻った感が否めない。

 

 マニは、話を聞いただけなのに疲れ切っている自分を、まるで遠くから見た時のように考えていた。

 

(パンジャさんに聞けば、アオイさんの実験のことが分かると思ったのに。……僕は、知ってどうこうしたいわけじゃない。広めたいわけでも、その詳細を理解したいわけでもない)

 

 ただ、知りたいと思う。何にも情熱を持てず、諦めていた自分を変えてくれた彼が、そこまで固執する理由を。

 

『アオイさん。夢を叶えることは、命をなげうってまで行うことなんでしょうか』

 

 アオイの返答は分かりきっている。きっと、そうだと頷くに違いない。

 

『他人を害してまで、ポケモンを傷付けて、失ってまで、行うことなんでしょうか』

 

 この問いにも、彼は頷くに違いない。あの人は、わがままな人だから。

 そうして考えていたマニは、ようやくアオイが自分のことを「わがまま」と言った理由が分かった。

 きっと、あれはせめてもの誠意だったのだ。どんなに高尚な理由があるにしろ、害をこうむる他者にとっては理不尽なものだ。だからこそ、引き起こされるあらゆる憎悪が、正しく自分へ傾いてくるための「わがまま」。

 

 夢を追うのは、苦しいことだっただろう。彼の心情を思えば思うほどに、マニの疑問は深まる。夢に触れようと思えば思うほど、痛みは強く、苦みは増した。記憶を消失しなければ耐えきれないほどの辛苦とは何だろう。アオイがそれを強要したのならば、彼は酷い人だ。でも、彼は、本質的には優しく穏やかな人だ。

 

 本質と現実の言動はかけ離れている。自然に逆らうことは、心に起きるささくれだ。常に痛みが伴う。きっと苦しかったはずなのに、彼らはやめなかった。

 

 彼は常識を持っている。規範を知っている。友情を重んじた。――それを超越しえたのは、狂える理性を愛していたからだろう。そうでなければ冷静に――世間一般でいうところの――悪事ができたはずがない。

 

 彼には自分の良心を騙しおおせるだけの嘘があったのだ。

 

「…………」

 

 履き慣れない革靴の先が、街頭を受けて光っている。その反射光をぼんやりと見ていた。ただ、僕はここまで歩いてきたんだなと思う。アオイに出会うまで、ハクタイから出ずに死ぬこともあるだろう。そう考えていたことが遠い昔の出来事のようだった。

 

 マニは、夢を持つことに、ずっと憧れていた。

 

 自分という存在は、まったく平凡で、なんとなく生きて、死ぬだけだと思っていた。刺激的な過去もなく、無駄に多い選択肢の世界で、自由という原野に放たれたばかりに「もったいない」という焦燥に駆られながら絶えるのだろう。それも仕方がない。そう思っていた。

 

 アオイに話しかけてみたのは、今にして思えば、ただの気まぐれだった。――と思う。

 

 彼は車イスなので、博物館の職員のなかでは一番年若い自分が何か世話を焼いてやるべきだろうか。横柄なことを、これまたぼんやりと考えていたのだ。もっとも、そんな思考さえ失礼なことだったと知るまでに時間はかからなかった。

 

 彼は自分のことは自分で行う。誰の手助けも必要としたくないようだった。仕事は真面目で、契約以外のことはしない。すぐに仕事上の問題は杞憂だと知れた。一つの問題が消えれば、もう一つ問題が起きる。やがてマニは、誰かに向ける彼の笑顔がぎこちないことに気付いた。

 

 マニは、その顔が気になって、つい目で追ってしまうようになった。

 次第に顔を見ていると、イライラするようになった。不幸だと叫んで歩く、その面が、ズルかった。自業自得が極まった体には、きっと後悔が詰め込まれている。

 

 ズルいと思ったのは、羨ましいと思ったからだ。もし、彼の現状が夢を追った末路だとしたら、傷も勲章に思えた。だから、興味をひかれて声をかけた。それでも彼が部屋にひとりでいなければ、コーヒーを淹れただけで終わっただろう。気分とタイミングが合致した。

 

 今でも彼と出会ったことに後悔は無い。彼はマニの思い描いたように、夢の中に生きる人だったからだ。

 

 人付き合いが苦手で、感情表現も下手。けれど、何を犠牲にしても、栄光をつかもうと足掻いた彼に好感が持てた。彼の夢につきまとう実験のことだけは消化できない感情を伴うが、それを善悪と割り切るほうが不健全だ。それは立場と正義の問題だからだ。

 

 彼のことを軽蔑している気持ちもある。でも、最初に抱えた羨望も真実だった。

 

(アオイさん、隣にいるペースメイカーを作れって、こういう時のためだったんだ)

 

 マニは、ベンチの上でうずくまり頭を抱えた。

 

(僕……聞いたことを、誰かに話したい。聞いて欲しい。できれば、共感して欲しい)

 

 独りでいられるのは一種の才能で、孤高な生き方だ。だから、マニにはできない。ひとりで抱え込んで、黙っているなんて無理だ。

 

 彼は理不尽に憤る。終ぞ音にならなかった優しさを嘆く。失われた命を悲しむ。生まれ直すことができなかった生命を哀れんだ。感情は渦をまき、気持ちの高ぶりが抑えきれない。顔を覆うとぽろぽろ涙が零れた。

 

(アオイさん……夢は……夢を叶えることは、命をなげうってまで行うことなんでしょうか)

 

 彼が言いそうなことは分かる。パンジャのように想定はできる。

 でも、真実は彼にしか分からない。それを知りたいと思う。

 

 もう精一杯考えた。話を聞いて、さんざん歩いて、足は棒のようだ。疲れてしまった。だから、答えをおしえてください。――そう伝えようと思って、モバイルを取り出したところでアオイに連絡がつかないことを思い出す。

 

 小さく呻いて、それをベンチに置いた。鼻をすすり、ポケットに入れたハンカチを探しているとモバイルが光っていることに気付いた。サイレントモードになっていたので気付かなかったが、メールが来ていたようだ。

 

 都合良くアオイからメールでも入っていないかな、と思うマニは宛名を確認した。それから思わず「えっ」と声が出た。本当にアオイからのメールだったのだ。

 

『マニさんへ。課題ができたので取りに来てほしい。メールや手紙では、課題の説明が難しい。手間をかけさせてしまい申し訳ないが、できれば、早いうちに来てくれると嬉しい。――君の自宅へ郵送した物がある。それも確認してほしい』

 

 課題。お洒落な喫茶店で空気を読まずにパソコンを叩いていたことを思い出す。ああ、そういうものもあったな。イッシュの出来事がずいぶん遠い過去に感じられた。

 メールは、短い文章で、内容は端的なものだ。それなのに、マニは何度もその文章を読んだ。この文章は、読めば読むほど何かを見落としている不安定な気分になるのだ。

 

(『課題の説明が難しい』って何だろう。実技なのかな? でも『来てほしい』ってどうしたんだろうか。僕が帰ってから職場で話せば済むことなんじゃないのか? これだと家に来て欲しいってことだ。研究のことで心変わりしたのかな……。それに『自宅へ郵送した物がある』って何だろう。説明が難しいから資料だけ前もって送ったってことか……?)

 

 何度目か読み終えたところで困惑の正体が分かった。情報量が少ないのだ。普段から懇切丁寧な説明をするアオイにしては、言葉足らずの文面だ。

 

(アオイさんらしくない。焦っていたのかな……?)

 

 しかし、この発想自体がおかしなものだ。マニは気付いた。

 

 焦る? 焦るって、何を焦っているのだろう? だって、アオイさんは家にいるはず……あれ? 家にいるんだっけ? あれ? あれ? そういえば、アオイと連絡がつかなくなるのはなぜだっけ? アオイが「電話にでられなくなりますよ」と言うから「そうなんだ」と思っていたが、理由を――そういえば、知らない。教えられていない。

 

 マニは鈍い思考を動かし、現状の説明を考えた。

 

(電話が通じないのは、アオイさんのモバイルが故障したのかもしれない……)

 

 それならばメールはできて、電話に出られなくなる状況に説明ができる。では、急いでいるような、肝心の要領を得ないメールはどう理解すればよいのだろう。

 

(いいや。考えすぎだ。いまメールが来たってことは、アオイさんはパソコンの前にいるんだろう。「分かりました。ご指導よろしくお願いします」って返信したら、また何か返事が返ってくるだろう)

 

 ぽちぽち。いつになくゆっくりボタンを押すマニは、物事を深く考えそうになる頭を振る。

 いよいよ送信するという段になったが、なかなか指が動かない。ぼんやり時刻を眺めて、今日は時間の進みが遅いんだな、と考える。

 

「きっとヒトモシアーカイブを見て、気もそぞろな時にメール書いたとか、そんなオチのはずだ。アオイさんに限って、何か、あるわけが。そんなわけが……。そんなことが…………おひっ!」

 

 突飛な声を上げたマニは、思わず辺りを見回し誰もいないことを確認した。取り落としそうになったモバイルを宙でキャッチする。画面を見て、ガッカリした。こんな時に、見知らぬ番号だ。

 

「はぁ~。困るんだよなぁ。ほんっと困るんだよな。こんな時に、変な期待をさせないでよ……」

 

 切ってやろうかどうか迷ったが、結局通話ボタンを押して耳元へ持って行った。

 

「あの、どなた……です?」

 

『俺だ』

 

「誰だよ」

 

『コウタ・トウマだぜ。――あ、そういや俺からは名刺を渡してなかったか。悪い』

 

 コウタ。

 アオイとパンジャの友人の名前に、目を見開く。

 

「コウタさんっ! あ、あの、何か? あったんですか……?」

 

『俺の取り越し苦労であれば一番いいんだがな。――お前、さっきアオイからメールが来なかったか?』

 

「えっ」

 

 どうして、そのことを知っているんだ。

 

 マニは胸に手を当てて、言葉を考えた。その間にある沈黙を肯定と受け取ったのだろう。コウタは「そうか」と小さく電話の向こうで呟いた。

 

「俺宛にメールが来た。今から3分ほど前のことだ。『私に万一のことがあったら、ポケモンを託したい』という内容だ。ご丁寧に添付ファイルが付いていた。直筆の委任状――のコピーだ」

 

「うそでしょ」

 

『こんなこと嘘吐いてどうすんだよ』

 

 コウタの声を、マニは意識の遠くで聞いていた。もっともだ。今日は、手足がずいぶん遠くにある。ベンチに座っているはずなのに、フラフラする。

 

「嘘だ。嘘だ……! 嘘でしょう! だって、それならどうして僕には……! 僕には、課題を取りに来て欲しいと言ったのに!」

 

『それはいつのことだ? メールが来た時刻を知りたい。できれば時分まで正確に』

 

「時間……? 時間は……」

 

 マニは先刻までじっと見つめていた時間を呟いた。それから『時間はぴったり同時刻だな』と言うコウタの声を信じられない気持ちで聞いた。

 

 一切の感情を押し殺した声で、電話の向こうにいる彼は言った。

 

『マニ、落ち着いて聞け。――アオイが何をしているのか分からないが、どうにも「まとも」じゃないことが予想される。だが、突発的な行動じゃない。委任状の日付は昨日だ』

 

「昨日……昨日からおかしいってことですか? でも、どうして。メールが来たのはさっきでしょう」

 

『メールはアテにならない。あらかじめ送信を予約していたんだろう。メールの受信時刻はほとんど同じ。これは、計画されたことだ』

 

 微妙に秒数が違うのはモバイルの契約会社の問題だろう。コウタの推察に、マニは何も言えなくなっていた。疲れきった体はピクリとも動かず、思考もろくに回らない。それでも、最も恐ろしい想像には考えが及び、モバイルを握りしめた。

 

「アオイさん! もしかして死ん――」

 

『まだ死んじゃいないだろう』

 

「どうして言い切れるんだ! そうであってほしいけど! そうだと願っているけれど! 違うかもしれないのに! 僕を、期待させないでください!」

 

『落ち着けって言ってんだろうが。アイツは、叶えることのできない約束はしないヤツなんだよ』

 

「そんなもの保証になるか! 死を目前にした人が、バカ真面目に守ると思うのか!? 心を病んだ人に何を期待しているんだ! そんな信条、死んだら何にもなりゃしないのに!」

 

 僕が死んでしまうのなら、せいぜい辺りの人に僕がいたことを忘れさせないように、派手に死ぬと思うね。――よっぽど言おうかと思った言葉は、なんとかのみ込んだ。声は荒げない、けれど、電話の向こうの彼の声がひどく動揺していたからだ。

 

『まだ生きているんだろう。たぶん。これから「どうなるか」じゃねえの』

 

「どうなるって」

 

 何が、どうなるって言うんですか。マニは泣きそうな声で言った。

 

『俺とお前に送られたメールの内容は、正反対だ。俺に送られたのは「死んだ時」のために。お前に送られたのは「死ななかった時」のために。およそ考えられることは3つだ』

 

「……はい。何ですか」

 

 本当は、なにも考えたくなかった。今すぐ電話を切って投げてしまいたかった。それでも声を絞りだした。

 

『アオイは「今後生きていられる確率が半々」あるいは「生きる時限があるか」、または「死ぬ気はないが、念のためにメールを書いてみた」だ。最後の選択肢は、まあ、無いだろう。実質は前のふたつだ』

 

「どっちにしろ絶望的じゃないですか。アオイさんが……そんな……」

 

 アオイが何を考えているかは分からない。

 けれど、彼は自分の生死さえ度外視した、その行いでもって自分を納得させようとしているのではないか。そんな考えがチラチラと脳裏をよぎった。

 

 それなら。

 

 惜しいけれど、悔しいけれど、悲しいけれど、彼の好きにさせたらいいと思う。それを遂げることで彼が納得を得られるのならば――それだけが救いになるのならば。

 

 彼を止められない手足が震えた。

 

「アオイさんが選んだことだ……。僕には、僕らには、何もできない。たとえ、それが正しくなくとも、間違いでも、あの人の選んだことだ」

 

『そうだ。アイツが死ぬ間際にどれだけ後悔しようが、全部ひっくるめて、アイツの責任だ。――それは間違いのないことだ』

 

 それでも。

 

『アイツが我を通すなら、俺だって通してやる! 俺は嫌だぜ。アイツは、俺の親友なんだ。勝手に満足して、勝手に死ぬなっつーの! 第一、パンジャに説明できないだろ! そのうち問い詰められる俺が困るじゃねえか! ――大人しく療養してれば黙って見守るつもりだったが、このままじゃいつまでたっても、俺は現状に満足できない!』

 

 コウタは、選択した。彼同様の「わがまま」だ。アオイにとっては身勝手な理由だろう。

 それが、清々しいと思えた。

 

「僕は……」

 

 ――何をするべきだろう?

 

 マニには、アオイを止める動機が無い。コウタのように「俺のためにやめさせる」と言えたら、楽なんだろうなと思った。マニだって、アオイが死んでしまうことは悲しい。できればやめて欲しいと思う。目の前にいたら実際に言うと思う。それでも、アオイにとって内面の決着を付ける手段が、その唯一であれば、とても止められない。

 

 きっと、僕は何でもできるんだろう。――でも、何のために?

 迷っていると電話の向こうで、タイヤがアスファルトを蹴る音が聞こえた。

 

『俺はシンオウへ向かう。――それを伝えたかっただけだ』

 

「えっ」

 

『じゃあな。悩めよ、マニ。せいぜい、後悔しないようにな』

 

 電話は切れた。

 ツー、ツー、という音だけが頭の中に、いつまでも鳴っていた。

 

 マニは、重い頭でうなだれた。街灯下にひとりきりだった。革靴が鈍く光っている。

 

 何ができるだろう。

 それが分からなくなった時、見つめなければならないのは過去だ。

 

(僕は……何を、していたんだろう)

 

 頭がおかしくなりそうだ。

 

 僕は、何を見落としたのだろう。アオイの言動におかしなところはあっただろうか。あったとしたら、どうして気付けなかったのだろう。いいや。誰も気付けるはずがない。彼は研究室で非道を積み上げた時、周囲の同僚に決して気取られることはなかった。誰にも本心を明かすことをしない彼が、僕ひとりに異変を悟られないことは容易いことだっただろう。

 

 でも――本当は――きっと――おかしなことがあって――もし、彼の秘密に気付けた者がいたとしたら――それは。

 

 

 

「僕しかいなかったんだ」

 

 

 

 電話が鳴った。

 知らない番号。

 ほとんど思考が停止した状態で、マニは電話に出た。

 

『マニ君か? こちらは私、パンジャ・カレンだ』

 

「あ……あ、あ……」

 

 パンジャに、話さなければならない。

 心の隅に居着いた義務感に突き動かされ、マニは一生懸命に言葉を探した。しかし、探せば探そうとするほど相応しい言葉はこぼれおちていく。

 

「あの、アオイさん……」

 

 彼女に、何と言えばよいのだろう。アオイさんと連絡がつかない? アオイさんが死にそうかもしれない? ダメだ。どれもダメだ。ダメすぎる。パンジャに伝えた後の行動が予測できない。彼女に、これ以上の負荷をかけてはいけない。

 

「アオイさんから、そのぅ、連絡が、来ませんでしたか? マメな人ですから、僕のことお節介しているんじゃないかなって思って」

 

『君に関しては何も。メールも黙りだ。もっとも、私達は手紙でやりとりをしているが。それよりも、聞いてくれないか。どうにも嬉しくなってしまって、けれど、研究室で話し回るのは気が引ける』

 

「な、なんですか?」

 

 よほど嬉しいことらしい。彼女の声は弾んでいた。どんより沈み込んだマニは、きっと頼んでいた資料のことだと思った。アオイが持ち去らなかった「本業」のレポートが見たいと頼んだことを彼女は忘れていなかったのだろう。

 

 ほんの一時でも現実から目を背けることができる。マニは、とびっきり難解で学術的な話題を期待した。

 

『アオイが次の春に帰ってくるそうだ。「君とゆっくり話がしたい」と先ほどメールが来た』

 

「……!」

 

 マニは、胸の奥が痛かった。苦い。酸っぱい。辛い。こみあげたものが喉を焼く。返事の仕方が分からない。息の仕方さえ忘れてしまった。

 

(今ならば、あなたが分かります。アオイさん)

 

 あなたが、この地を去った本当の理由は。

 

(とても大切な人に、こうして真実を話すのを避けたんですね)

 

 実験に失敗し、ポケモンを失って、躓いた先で――あなたは、とうとう追いつかれた。

 

 いつかのあなたが「くだらない」と言った良心に。「愚か」と嗤った善心に。これまでさんざん低位と見下していた感情全てに。そして、これまで省みることのなかった親愛に触れた。彼女の脆さに気付き、途端に触れるのが恐ろしくなったのだろう。

 

(僕は、どうするべきだろう)

 

 僕は、繰り返すのだろうか。

 

 彼のようになりたくないと願いながら、彼に憧れて、彼と同じ轍を踏むのだろうか。物語が役者を変えて繰り返すように、僕もまたアオイの焼き直しになるのだろうか。

 

 不都合な真実を「あなたのため」に詰め込んで、お口にチャック。自分以外の誰も傷つかない優しさだ。その挙げ句に今の彼は、呼吸さえ止めようとしている。

 

 正しい行いだ。でも、間違っている。

 間違っている。でも、正しい行いだ。

 

 何が正しくて何が間違いなのか、分からない。

 でも、これは、もう――マニは思う。本当は、誰も正解なんて分からないのだ。みんな、物わかりの良い顔で一番数の多い判断に従っているだけだ。この世界に正しいことは、ひょっとして、ひとつとして存在しないのかもしれない。

 

 昼にパンジャの言ったことは的を射た。

『正解を確かめることができない以上、何を考えても良いのだろう』

 

 憂いを帯びた冬湖の色を思い出した。その瞳をこれ以上澱ませたくない。僕さえ思ったのだ。アオイだって――それを願っただろう。

 

「パンジャさん、僕の話を聞いてください」

 

 声は、指は、足先は震えていた。それを堪えて、言葉を選んだ。

 

『ん? どうしたんだい? あらたまって』

 

「聞いたら、留めてください。どうか、どうか、忘れないでください。お願いです。――アオイさんから送られたメールは、あらかじめ送信が予約されていたものです」

 

『え……?』

 

 それは、どうして。いったい、なんのために。

 感情が抜け落ち、力無く呟かれた言葉に、マニは応えた。

 

「アオイさんの身の上に何か起きたようです。僕は、これからシンオウへ戻ります」

 

『……そうか。それは残念だ。とても残念だ。しかし、アオイに何があったというのだ』

 

「僕にも詳しくは分かりません。ああ、でも、アオイさん、僕にもメールを送ってくれたんです。『課題を取りに来てほしい』って内容のメールでした。なので、ちょっと会って、連絡が取りにくくなっている原因を解消してきます」

 

『……ああ。そうか。助かるよ。私はもうしばらく、ここを動くわけにはいかない』

 

 実は、来客の予定を入れてしまった、と彼女は言う。その言葉に、すこしだけホッとしている自分がいた。

 

「ええ、ええ。……ねえ、パンジャさん。僕、今度は、アオイさんと一緒にイッシュに来たいです」

 

『それはアオイも喜ぶことだろう。隣に誰かがいるというのは、心が安らぐものだ。それが気の置けない友人であればなおのこと。――彼が何か困っているのならば、ぜひ助けになってほしい』

 

「分かりました。それでは、失礼します」

 

 会話が終わる。マニはモバイルを鞄に放ると顔を覆って泣いた。

 

(僕は――僕は、なんてことを……アオイさんより酷いかもしれない)

 

 彼女に本当のことを伝えなければならない。――半端な決心で行った会話では、彼女にとって都合の良いことばかり言ってしまった。コウタのメールの内容を伝えなかった。きっと、情報の差異こそ重要なことに違いないのに!

 

 しかし、マニは限界だった。これ以上の勇気を振り絞ることはできそうにない。正しく、誤解を招かない言葉で彼女を諭すことはできない。

 

(でも、行かなくちゃ……)

 

 ふらふらと立ち上がった彼は港を目指す。

 逃げるように、ほとんど駆け足でもつれそうになる脚を動かした。

 

 もう一秒たりと、この土地にはいられなかった。

 

 罪を見咎められることが恐い。結果が分からないことが怖い。正しさを見失ったことの、なんという心細さか。世界が自分を狙っているような心地だった。

 

 それでも、一度だけ振り返った。

 

 街灯下は相変わらずの空漠だ。

 

 そこに、いつの日か、ふたりがいた。

 ふたりは、夢を追っていた。

 

 相対的に間違える彼らは、必ず他方に存在する正解を選ぶことができる。マニは、それを羨ましく思う。

 

「僕は、独りでいきます。これまでも、これからも。……悲しいし寂しいけど」

 

 鼻をすする。滲む視界で懸命に脚を動かした。

 孤独で押しつぶされそうだ。だが、行かなければならない。アオイが何か取り返しの付かないことをしようとしているのであれば、止めなければならない。

 

 アオイがパンジャと交わした約束を破ってしまわないように。――マニは動機を、得た。

 

「僕にとっての正しさを選んでいたいので、あなたの焼き直しにも焼き増しにもなりませんよ」

 

 マニは照明に背を向けた。

 

 

 ――そうか。それは残念だ。……ほんのちょっとだが、私は期待していたんだがね。

 

 

 夏の温い風と一緒に、彼の声が聞こえる。

 すこしだけ笑った声に、マニは苦笑を返す。

 

 

 こうして、マニのイッシュ旅行は終わった。

 

 

 彼がシンオウ地方の土地を踏んだのは、翌日のこと。

 後に、記録的な暴風を伴う低気圧がイッシュ地方に上陸する前日。

 

 そして。

 アオイが昏睡状態に陥ってから、約3日目のことだった。

 

 

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