もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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あなたの夢は、わたしの麻酔。

 アオイの身の上に何か起こったようだ。

 

 シッポウの研究所にいるパンジャ・カレンがシンオウからの客人、マニ・クレオから電話でもたらされた情報を処理するのは長い時間を要した。頭のなかで裁断機が絶えず鳴っているため、どうにも集中できない。やっと仕事用の手帳を開き、書き込んだ文字と言えば「アオイが、危ない、らしい」の言葉だった。マニが忘れないでほしいと言ったのでこうした対処を行った。結果、自ら書いた真新しい文字を、しげしげ見るハメになった。パンジャはひどく喉が渇いていたが、職場の椅子に腰掛けたまま動けなかった。

 

 頭の感情的な部分は、すぐにシンオウへ向かわなければならないと思う。アオイの身に何か危険が迫っているのならば、特にそうするべきだ。彼の死体を見つめる状況は、物質的な納得が得られる。最も自分がいやというほど納得できることだろう。自己防衛の観点からも、支持される選択肢だ。

 

 心の感傷的な部分は、シンオウへ行くべきではないと囁いている。イッシュを離れるアオイへ「帰ってくるか」と問うた時、頷いた。彼に質問したのは自分だ。その自分が彼の言葉を疑い、シンオウへ行くことは友情に対する不義だ。自分から彼の信頼を裏切るようなことは、してはいけない。

 

 アオイと話がしたい。パンジャは自分の席を立ち、コーヒーを淹れに向かった。

 

 アオイの元いた席は主が使っていた状態から、ほとんど物が動いていない――と記憶にある者が見れば錯覚するほど、昔の風景が再現されている。

 

 パンジャは椅子を引き寄せ、彼がもといた席の隣に座る。それからアオイの席にコーヒーを置いて、目を閉じた。

 

 いかにも業務用といった安っぽいコーヒーの香りに意識を集中する。必要なのは、想像。そして、構成力。経験から要点を引き抜いて、現実にあてはめる。空想に肉付けする作業の間、注意は限りなく内面へ向かい、外界からの感覚を遮断する。内側にこもる焙煎の香りが妙に懐かしい。その懐かしさに集中する。

 

 頭に抱える軽い疼痛で平衡感覚を一瞬だけ喪失する。認識が歪み、空席だった椅子に誰かが座っている気配がした。目を開き、現実を直視しない限りはしばらく夢のような空間に飛んでいける。

 

 つい先日、アオイは悪夢のなかでパンジャに出会い「いいじゃないか、イマジナリーフレンドのひとりやふたり夢のなかにいたって」という発言を受けたが、まさかそれが真実から生まれた言葉とは思うまい。

 

 パンジャにとって、アオイが隣にいない現実世界は幻の夢に等しい。

 

『……いや、悪いと思っているが』

 

 声は、外側から聞こえる。たとえ、現実に空気を振動させるものが無くとも彼女にはそう感じられる。感じられる限り、幻は彼女にとっての真実だった。

 

 聞き慣れたアオイの声に、パンジャは安心した。

 

「わたしは、まだ何も言っていない」

 

『それでも私には分かるのだ。君は責めたいのだろう。それだけのことをしている』

 

「……。わたしは今でも、あなたの意向に従うよ。あなたの意に沿わないことはわたしの本意ではない。選ぶことであなたの気が済むのならば、それは正解なのだろう」

 

 隣にある存在感――便宜上、アオイとする――彼は、溜息のようなものを吐いた。彼らしくない仕草に「幸せが逃げてしまうよ」と言う。自分の声は想像よりも柔らかいものだった。

 

「あなたは、何をしている? 養生を勧めたはずだ。責めているのではない。納得が欲しいだけだ」

 

「ポケモンのためだ。私のためでもある」

 

「…………」

 

 自分の空想のなかで行われている会話に、真実はなにひとつ無い。パンジャが知ることのできない情報は、この世界において存在しないからだ。生産性という観点において不毛だ。全て妄想なのだから。

 

 それが分かっているうちは(自分もまだまだ正常だな)と思う。この空想の出来事を現実に持ち込むようになったら(いよいよ自分はダメだな)と思うことにしている。そういえば、コウタとの会話は失敗した。不意打ちの状況で問い詰められると認識のズレが表立つ。

 

 パンジャは話題を変えた。

 

「あなたの研究に打開策を見つけた。これが証明できれば、この世界に新しい問題提起ができるだろう。あなたが発展性が無いと切り捨てた仮説だ。――『復元されたポケモンに「いわ」タイプが確認される原因について』だ」

 

「ほう。なんだい」

 

 彼の声に熱がこもる。自分が捨てた議論を、拾われて緊張したらしい。

 

「かせきポケモンは総じて、かせきになってから長い時間、石そのものの状態だった。生きていた時より遥かに長い時間だ。その間に、ポケモンとしての在り方が変化してしまったのではないだろうか。恐らく、細胞のレベルで」

 

「融合してしまったと? シェルダーがヤドンにとりつくように?」

 

「そう。当然だが石は生物ではない。だから復元がうまくいかないのだ。復元装置のもとは、ポケモンセンターにある回復装置だ。今では快復装置に特化しているが、そのどちらも生きたポケモンを対象にしている。死んだポケモンにも岩石にも対応していない。だから復元されたポケモンに、復元しきれなかった『いわ』成分がタイプとして付与される――のではないかなと思うんだが、どうだろうか」

 

「……ふぅん。まあまあ、と言ったところだな。しかし、そうだとするとますます進展が見込めそうにない」

 

「なぜだい」

 

 パンジャは、顔を上げて彼の席を見ようとする頭を意識して下げた。もうすこしだけ、この幻に騙されていたかった。

 

「問題の根幹が変わるからだ。上手くいかない原因が私の仮定ではなく、機械に求められる。となれば復元装置そのものを作り直さなければならないだろう。私達は技術屋ではない」

 

「…………」

 

 それはそうだ。事件は研究室ではなく、工場で起こるべきなのだ。

 

 原因が変われば、対処の仕方も変わる。当たり前のことが頭からすっぽ抜けていた。パンジャは幻であれ話をまとめてくれるアオイの存在を失いがたいと思った。この幻の世界では、パンジャの知らないことは起こらないが、知っている事物について別の観点から話を聞ける時がある。

 

 そして、パンジャはその問題を打開するアテがあった。アオイが繋いだ友好関係というのは本当に上手いこと巡るものだ……。彼女は薄く笑った。

 

「ありがとう。アオイ。あなたは、いつだってわたしの味方だ。心からの感謝を」

 

「それはシンオウで死にかけているらしい私に伝えてくれ」

 

「機会があったらそうするとも。だからあなたも」

 

 どうか、生きてほしい。

 

 目を開いたパンジャは、ぼんやりした視界で彼が困ったように笑うのを見た。二度も瞬きすれば、その幻は消え去った。

 

 それはパンジャが以前に同じことを言った時の焼き増しのようで、シクリと胸が痛かった。

 

 アオイの席に置いた温いコーヒーを一気に飲む。その苦みで痛みが上書きできないかと試みたが、効果は無かった。

 

「ひどいな……これ」

 

 ソーダに慣れた舌には、ただ苦すぎた。

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 博物館の裏手にある研究室に来客が来る。

 それ自体は珍しいことではない。

 

「このご時世に白昼堂々と。感服いたしますよ」

 

 問題は、ドクター=アクロマがプラズマ団としての立場で来たことだ。

 

 パンジャは、それを聞いた時に驚いた。今回の会議もとい密談は、パンジャが以前に後輩で部下のベルガ・ユリインが化石を落として壊すという、なんともありがちで重大な失敗のフォローにアクロマの助力を必要としたことがきっかけだ。

 

 アクロマ個人に対する依頼だと認識していたのだが――。

 

「この立場になるまで分からなかったことなのですがね、堂々としていれば意外にバレないものですよ、ええ」

 

 という方針のもと、プラズマ団の代表としてやって来たらしい。

 

 昨年に起こしたプラズマ団の一連の騒動は記憶に新しい。だが世論に憚ることなく、むしろトップが替わり「リニューアルした」とクリーンな印象さえ与える今年のプラズマ団――その表向きトップがのこのこやって来たというのだから、研究室にはひそかな驚きが溢れていた。

 

 しかし、過去は過去。怪しむ声は多々あるとしても、今のところ前回のような悪事が明るみになっているわけではない。かの団体からの共同開発の申し出というのは、金食いムシの研究職にとって魅力的なのもひとつだった。

 

 パンジャの言葉は、人々のさざめきを代弁したようなものだ。隣にたっているベルガがしきりに咳をした。

 対するアクロマは気を害することなく、肩をすくめた。

 

「私が動くとすぐにこれです。トップなんて安請け合いするものではないですね」

 

「失礼、ドクター。私の口が悪いのは、どうかご容赦を。ご案内いたしましょう」

 

「先輩、ひとこと多いですってば。――気にしないでください、ドクター。先輩、ちょっと情緒不安定なんです」

 

 辛辣なクチをきいたベルガには後で教育するとしよう。

 首を傾げたアクロマはタブレットを取り出した。

 

「パンジャさんのおかげで、こちらの研究はだいぶショートカットができそうですよ。先行研究の調査がいかに大切か分かります」

 

「イッシュで最も先進的な研究室ですから」

 

 通路を抜ける。研究室の前まで来たところでパンジャはベルガを呼び止めた。

 

「すまない、ベルガ。サイコソーダを買ってきてくれ」

 

「はっ? い、いま? 今ですか? 来客対応中の今ですか?」

 

 突然の命令にベルガは牛乳瓶の底のように丸い眼鏡の奥で、パチパチと瞬きをした。分厚いファイルと書類に目を落とし、どうすべきか迷っている。アクロマだけが二人のやりとりを面白そうに見ていた。

 

「ああ、今だ。いますぐ飲みたい。早く買ってきてくれ」

 

「あぃぇぇ……」

 

「私の分もお願いしますね」

 

「ドクターまで……! もう! わ、分かりましたよ。…………はやってるのかなぁ」

 

 彼女がとぼとぼ去った後で、パンジャは和やかに笑って扉を開けた。お互いに、ようやく外聞を気にせず話せる。アクロマの顔もわずかに緩んだ。

 

「パンジャさん、あなたが出迎えてくれるとは、私にとっても驚きでした」

 

「そうですか? あなたとの窓口は私が担当ですからね」

 

 あなたの対応をすることは自然なことです、とパンジャはいいかける。しかし。

 

「いえいえ、仕事のことではなく、アオイさんのことです」

 

 薄いレンズの奥。子供じみた好奇心がキラリと光った瞬間をパンジャは見た。

 

「――なぜ、あなたがアオイのことを?」

 

 扉が閉まる。後ろ手に鍵をしめた。

 おや、ご存じではない? とぼけた口調ではない。ささやかな驚きで応えたアクロマは手近な椅子に座った。

 

「彼は、いま実験中ですよ。やはり情熱は燃え尽きていなかったようです」

 

「実験……中? いったい、何の……? あなたは、何の話をなさっているのか?」

 

 アオイと連絡がつかない。実験中。情熱。

 彼がどこかに埋めて無くしてしまったもの。いずれわたしが元通りにするもの。

 

 そのことを、なぜ彼が知っている?

 

(わたしは、夢を、見ているのか? いいや、違う。私の意識はここにある。眠ってはいない。……絶賛覚醒中だ)

 

 ならば幻覚か。幻聴か。どちらも違う。アオイと自分以外の声は聞こえず、姿を見たことはない。

 

「本当にご存じではないようだ。ダークライの能力に共存の活路を見つける研究ですよ」

 

「ダー……?。あの、ダークライか、あの、悪夢を見せるというポケモンの……」

 

 昔、アオイが買ってきた雑誌にダークライの記事が載っていた。恐らく、足で稼いだであろうダークライにまつわる泥臭い情報で、ストレンジャーハウスにまつわる話――それを記憶から思い出そうとするが、時系列が分からない。

 

 パンジャは頭の奥に疼痛を感じて左のこめかみをおさえた。アオイとの思い出は――実験中を除き――気分の良いものばかりで忘れることは滅多にないのだが、記憶が穴だらけのせいで思い出す作業は苦手だった。『忘れたこと』を忘れることができない彼女にとって、失われた記憶の輪郭をなぞるには痛みが伴う。

 

 数秒動きをとめて記憶を引っ張り出すことに成功する。ダークライの存在は確認できるが、その性能はサンプルになりえるデータが少なすぎて考察に値しない、とアオイは言った。しかし、それは『サンプルになるデータがあれば、検討台にあがる』という意味にもとれる。信じられないことだが、もしやアオイはダークライとの接触ができたのだろうか。そして、ダークライの活用法を探して実験中――なのだろうか。

 

 それらを訊ねると、彼は頷く。そのダークライです。

 

「それで進捗はどのようだと連絡はありましたか?」

 

「いいえ、何もありません」

 

 何もない。

 何もないって何だ。

 成果がなければ、成長と言えない。

 

「連絡は一昨日から途絶えています。アオイさんからの連絡は、ダークライについての実験結果を共有するための連絡ではなく、ダークライについての情報を、私にまとめてほしいという依頼だったんですよ」

 

 頭の中で裁断機がうるさい。

 この情報はわたしに有害だ。わたしの根幹を揺るがす重大な情報だ。頭が痛い。頭が、割れそうだ。アオイが、わたしのアオイが、何をしているって?

 

 一瞬だけ平衡感覚を失う。

 

「わたしは……」

 

 体を支えるために、テーブルに手をついた。

 

「私は、ダークライについてほとんど情報を持っていないが……」

 

 するり。自分の頬を撫でたパンジャは、低い声で言った。

 

「危険な実験だ。かのポケモンは悪夢を見せ、8日目に命を奪うと聞く。……実験の安全性に問題がある。それも著しい問題だ」

 

「そうですね」

 

「彼の実験は、あなたが進言したことか?」

 

「いいえ、まさか違います。彼と実験の話をしたのは初めて出会った時に、『もう一度、頑張ってみたらどう?』という話をしたのですよ。その時に断られました。これが春先の話です。今回は私から連絡をしましたが、ちょっとした取引上のことです」

 

「それは?」

 

 パンジャは歩き出し、アクロマの席へコーヒーを置いた。

 取引。

 

「アオイさん、実は小説をお書きになっているんですよ。アクロ――プラズマ団のプロパガンダに活用するので、その権利を譲ってほしいという話です」

 

 彼と対面して、お茶を一口飲んでいたパンジャはむせた。彼にはいろいろと聞きたいことがあった。

 

「げは……アオイが……意外だな。うん。意外だ……。い、いったい、どういう話なんだ。ま、まさか! 恋愛小説なのでは――いやいや、アオイにそんな器用な真似ができるわけない。サイコホラーだろう! そうだろう! それかスプラッター小説だろうなぁ」

 

「ところがどっこい。ハードボイルド系ミステリーSFファンタジーエッセイです」

 

 属性過多にパンジャの思考はクラッシュした。想像が及んだのは「ハードボイルド系ミステリー」までだった。

 

「たいそう複雑な物語なんだな!? そ、それをプラズマ団のプロパガンダに? あぁ、その、なんというか、団体の喧伝というのも、あの、大変なんだな……」

 

「半分くらい冗談です。笑ってくれなければ困ります。ともかく、アオイさんの作品がうちの団体で使えることが判明しましてね。代償が私に労働をすることで、快く承諾していただけました」

 

 パンジャは、彼のひとこと、一音ごと神経質に耳を傾けた。言葉は嘘ではなさそうだ。

 

 真実だとすれば、本当に、アオイらしくない。

 もし、彼が死んでしまうのだとしたら、アクロマを信じるのは危うい賭だ。本当に彼が約定を果たすとは限らない。反故にすることだって考えられる。

 

 誰を選ぶべきか。何が信じられるか。

 彼は、分かっていたはずだ。それなのに。

 

「……彼も困っていたようです。自分の実験の結果がどうなってしまうのか。どのような結果になるとしても、ダークライと接触し悪夢について観測した希少な情報になるでしょう。適切に取り扱われるべきものです。私も無下には扱いませんよ」

 

 胸をチリリと焦がす羨望が、不意に消えた。

 こういう人物だからこそアオイは、結果を託そうとしたのだろう。

 

「その言葉が真実でありますように。わたしも彼と同じようにあなたを信じています」

 

 頭を下げたパンジャは自分の革靴の先を見ていた。

 アオイがわたし以外の他人を信じるとは――意外なこともあるものだ。

 

(それとも、これが成果だというのか?)

 

 本心を知らなくとも利害の一致で成立していた友情を、お互いを信じることしかできなかった過去から――パンジャは見つめていた。

 

 シンオウ地方へ渡った彼は、変わってしまった。自分の知っているアオイではないことを嘆く気持ちがある。それでも、彼が別の誰かを信じてみたいと思ったことは進歩だろうと思えた。

 

(君が彼を信じるというのならば、わたしも、それでいいんだ。君の選んだことに、わたしは異議を挟まない。君がそうと選んだのならば、わたしだってそれで構わないんだ。最初から、今まで……ずっと)

 

 黙ったままのパンジャに、何か感じるところがあったのだろうか。穏やかに目礼したアクロマは、コーヒーをわきへ置いた。

 

「だからこそ。私は意外だったのですよ。あなたが未だここに留まっていることに。――アオイさんの実験は、恐らく失敗するでしょう」

 

「そうですね」

 

 顔を上げた彼女は、アクロマを見据えた。指を組んだ上に顎を乗せ、研究者らしく笑う彼を見た。それが、早く結果が転がり込んでこないかと待ち構えているように見える。事実、そうなのだろう。

 

 そうだとしても。

 

「私は、ここを動くことはないでしょう」

 

 パンジャは、きっぱりと言い放つ。対峙するアクロマは、困惑して眉を寄せた。

 

「アオイさんのことが惜しくはないのですか? これも恐らくですが、アオイさんの現状を最も正しく理解しているのは私とあなたです。ハクタイの人々が、ダークライの存在を認知しているとは思えない」

 

 認知していたら街の近くにいるわけがない。

 アクロマの推測は正しいだろう。彼女も同感だった。しかし。

 

「あなたが本当に心配しているのは『被験者』のことではなく、研究環境のことでしょう。データの精度について心配は無用です。彼には有望な後輩がいますから」

 

「いえいえ、人並みにアオイさんのことも心配していますよ。ですが、もう我々の手の届かないところへ行ってしまった。物理的に。タイフーン程度の低気圧が西から押し寄せているらしい。これからシンオウ地方へ行くとして、渡航手段は限られることでしょう。我々の取るべき手段も同様です」

 

「今の私には関係のないことです。全て計画通りならば彼も覚悟していることでしょう。たとえ、その判断が狂気にまみれても選択したのは彼。この期に及んで、まだ夢を諦めていない彼の問題だ。――私はここで私の役割を果たしましょう。それがわたしとアオイの契約です。いついかなる状況であれ、例外は無い」

 

 手袋に包まれた、焼けた手を擦り合わせ、パンジャは告げた。

 

 ニッとアクロマが笑ったのを見た。歳にあわない少年のような顔だった。

 

「分かりました。いいでしょう。役割を理解している人間ほど取引に向いているものはありません。私も仕事をするとしましょうかね。我々の要求を先に述べても?」

 

 パンジャは促すように手を差し向けた。

 彼らは、コーヒーやお茶を飲んでいたため、すっかり忘れていた。サイコソーダを買いに行かせた後輩がいたことを。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 最近はとても暑くて、外を歩いているだけで汗が出る。がちゃがちゃとサイコーダの瓶を揺らす。ベルガは研究室の日陰に入った。そうして日傘をたたみながら、はるか南方を見た。湿気がある風だ。ほのかにタイフーンの香りがする。

 

 冷房の効いた研究室に入ると、ハンカチで額の汗を拭った。これで化粧が落ちそうになるので夏というのは好きではない。

 

 トントントン。軽やかに階段を降りたベルガはドアノブに手をかける。その瞬間、耳を疑うような情報が飛び込んできた。

 

『カセキ復元装置に関する全て。知識と技術の一式を、我がプラズマ団に売り渡していただきたい』

 

 は? 何を言っているんだ、コイツは。

 

 およそ正気ではない言葉は、紛れもなくアクロマのものだ。ベルガは動揺を通り越し冷静になっていた。

 

 すぐさま扉を開いて飛び込んでいかなかったのは、単純な理由だった。

 

『私はあなたの願いを受諾しよう。その代わりに、あなたとあなたの団体には我々の夢に助力をいただきたい』

 

 何を言っているのか。

 パンジャ先輩は、おかしい。

 何度だって言おう。

 

「あなたは……なにを……言っているのですか……?」

 

 白くなるほど手を握る。顔が強張る。しかし声はほとんど音にならなかった。

 

 研究室の密室で、恐ろしい取引が行われている。――この想像は、恐らく正しい。間違っていてほしいけれど、何一つ間違っていないのだ。ひやり。背中に感じた寒気に思わず振り返った。そこにはパンジャのフリージオもバニプッチもニューラもいなかった。こんなにも体が震えているのに。

  

(研究室の成果を売り渡すだって!? そんなことが許されることが……! ダメだ! 許されるわけがない……! だって、それはこの研究室が積み上げた成果だ!)

 

 あなたのものじゃない。あなたの一存で好き勝手するものでは――。

 

『それで、いいのですか? 我々には金銭の準備がある。あなたがひとり、身を隠して偽り、遊んで暮らすには十分なものです』

 

『私にその選択肢は許されていない。私個人の幸福には意味が無い。全ては我々の夢のために願う。――私の提案は以上だ。あなたには賢明な判断を期待する。私とて乱暴な手段は使いたくない』

 

『要求の、具体的な内容を聞かせていただけませんか?』

 

『我々はポケモンセンターの回復装置を改造しなければならない。カセキから完全なるポケモンを復活させるためには、それが必要だ』

 

 扉の向こうには、溜息のような息と衣擦れの音が聞こえた。たぶん、アクロマが脚を組みかえたのだ。ベルガは扉に耳を当てた。パンジャの言葉は続く。

 

『モンスターボールが無い世界では何が不安か。人々はポケモンの本能の赴くままにバトルさせている。現在の現実のように手早く手軽に回復できないことを憂うのだ。人間は、手に入れた利便を手放すことができない。ならば心痛まない「代替」を用意すべきだ。――貴団体が、一度でもポケモンの解放を謳った覚えがあるのなら、その理想が腐り堕ちていないのなら、本当に願ったことがあるのならば、実行を推奨する』

 

『いいでしょう。我々の謳い文句のままとはいきませんが、それがカセキの復元に必要というのであれば取りかかりましょう。あなたには、その結果を通知するということでよろしいか』

 

『了承した。それで手を打とう。――これがデータだ。事故後にアオイが提案したリカバリー案も入っている』

 

『ありがとうございます。あなたが話の分かる方でよかった。アオイさんは良い友人をお持ちのようだ』

 

 謙遜の言葉と、感謝の言葉。

 話は始まった時と同じように、終わってしまった。

 

(こんなにあっさり……こんなに、簡単に……売り渡すなんて)

 

 彼女に罪の意識はないのだろうか?

 

 所長のアロエに悪いことをしたと本当に思わないのだろうか。取り返しのつかないことをしたとは、ほんのすこしも。世界征服を企んでいたと称されるプラズマ団に、売り渡す危険性に――彼女は考えが及ばないのだろうか?

 

 ドアノブを握ったまま、ベルガは動けない。

 

(どうして……わたしの、脚は、動かないの……? 止めないと。でも、止めたら、わたしの罪が、壊したことが暴かれる……)

 

 それでも、大きな罪の前には小さな罪とは些細なものだ。一人と多数。天秤がどちらに傾くかなんて簡単な話だ。

 

 これは、利害の問題ではない。ただの正義の問題だ。

 

 ――止めなくてはならない。

 

 あの時に失った正義をもって留めなければならない。判断に逡巡したことを後悔した今ならば、今だからこそ、今後こそは正しい選択をしなければならない。

 

 ――いざとなれば、こちらにも武器がある。喫茶店でマニと話していた時の会話の録音。あなたは、多重人格者。研究者としての信用を失墜させるのには十分な爆弾だ。それでも、研究者として働かせてやる。わたしのために、研究室のために、成果を出すまであなたを終わらせない!

 

 もしも、ベルガが自分の正しさを取り戻すとしたら、今だった。

 ドアノブが勢いよく回る。 

 

「先ぱっ――!」

 

 ベルガは回していない。

 

「おや、戻ってきていたのかい?」

 

 ドアを開けたのはパンジャだった。つんのめるように転んだベルガが抱きとめられる。「ふふっ」とくすぐったい笑いをするパンジャを見て、彼女は毒気を抜かれた。

 

 あれは「夢だ」と思えた。

 

 研究室の情報を一切合切売り渡しておいて、まるで罪を知らない顔で笑えるはずがない。きっとあれは、アクロマのあくどいアプローチの結果で、パンジャは脅されたか何かで仕方なくあんな返事をするハメになったのだ。

 

 そんな躊躇の間に、都合の良い夢を見た。

 

「それでは、私は失敬します」

 

 彼らのわきを通って、こちらもにこやかに笑いながらアクロマが退室する。ああ、送迎は結構。そう告げた背中に、彼女が声をかけた。

 

「ええ。感謝いたします。……とても」

 

 含みのある言葉に、ベルガはビクリと震える。それを見逃すパンジャではなかった。

 

 やがてアクロマは廊下の角を曲がり、姿が見えなくなった。

 

「君は、ひょっとすると何か聞いたかな、ベルガ君」

 

 姿勢を正したベルガは、正面からパンジャを見つめる――勇気はなかった。

 

「わたしは、何も聞いていませんし、見ていません」

 

「…………」

 

「そういう契約でしょう、我々は」

 

 挽回を可能にした一瞬を奪われた時点で、この返答は定まっていた。

 だから。

 

「ならばいい。ソーダをくれ。一等冷えているヤツで頼むよ」

 

 パンジャは背中を向けた。

 その背に、刃向かってくるものは無い。

 

 そんなこと、彼女はとうに知っていたのだ。

 

「先輩、教えてください。あなたにとって夢とは何ですか」

 

 声が、今さらになって出た。

 もっと違う状況で声を出すべきだった音。

 

 ずっと昔に聞くべきだった疑問だった。

 

 最近、よく聞かれるな、それ。彼女の言葉で胸がシクリと痛かった。

 

「わたしを現実に引き留めておくための麻酔だよ」

 

 それが魅入るほど美しいのだから、たまらないね。

 

 

 

 ソーダの栓を抜く空虚な音で、ベルガは崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




【あとがき】

 下記はもう尺の都合上書くことが無いであろう、地の文にも使えないネタです。

◆ベルガの脅しはパンジャに通用するか?
 →基本的に通用しない。「知られたとパンジャが気付く」+「敵意を持って脅す」の条件を満たすことで「海か山か、それとも川か」ルートが発生しBad End。

 プロットを考えるなかベルガの顛末のほぼ全てがパンジャの地雷を踏む案件(「こんなことしたって、アオイさんは振り向きませんよ!」、「そんな夢、くだらない!」等)であるため、ベルガは――死が隣接しているという意味で――作中稀に見る難しい立場にあります。もっとも、パンジャの近くにいるというだけで時にはアオイですらBad Endルートが出現するため、ベルガだけが悪いわけではない、というのがミソです。


◆プラズマ団の科学力がヤバイ。
 ポケモン図鑑を見ていらっしゃる皆さんならばご存じの通り、プラズマ団は3億年前にいたポケモンを復元させ、改造した。珍しくアニメで映画との繋がりが察することができるシーンがある。Nが事件後の研究室にやってきて話題に触れたポケモン――そう、ゲノセクトである。

 ゲノセクトの驚くべきことのひとつに、カセキから復元されたポケモンにつきものの「いわ」タイプが付与されていないことがある。その特徴と改造されたポケモンという成り立ちのインパクトで「カセキから復元された」ことにあまり注目されていないのだが、筆者的には驚きだった。

 古代は「いわ」タイプが生態系を席巻していたわけではなく『死骸の状態で岩石との融和を果たした種類だけが復元できる』という説を推していたので、朗報でした。

 やはり復元されたポケモンは、実際に動いているけれど「いわ」タイプが付属している限り本来の姿ではないのではないか? プラズマ団は、とうとうその「いわ」を除去する方法を得たのでは? などなど。空想は広がりました。

 それにしても、ゼロからカセキ復元装置作って「いわ」を除去するのって大変じゃないか? 自分の研究に懸命なアクロマが外部委託の(自分の研究の一助になる内容としても、野望透け透けな)仕事を頑張るだろうか? 彼はだいぶクレイジーでマッドが入っていますが、根は善人(主人公にマシーンくれるし、どちらかといえば)なので――疑問もあり、今回のような話の流れができました。

 先行研究の研究は大切です。……マジで。これは、本当に、時間と手間と労力の関係でマジのマジで大切なのです。

 さて、本作において、プラズマ団はBW2の設定で動かしていますが、あまり秘密結社っぽいことをしていません。むしろメディア露出が多く、大々的に打って出る団体のイメージで書いています。
 ゲーム内の情報と矛盾することですが、あからさまに世界征服を行うより、地道なイメージ回復で手駒を増やしてから行う方が、なんとなくゲーチスっぽい感じがします。あの人、イメージ戦略とかセンセーショナルな観衆操作が得意そうですし。表向きトップで実質は傀儡政権だとしても、Nからアクロマへ団体のトップをすげ替えたのは、少なからずリニューアル&クリーンな印象を内外へ与えたかったのだと本作では解釈しています。


【これから】
 本話にて、イッシュからの旅人章が終了します。
 次回、シンオウ地方の話に戻ります。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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  • 物語(ストーリーの展開)
  • 世界観
  • 文章表現
  • 結果だけ見たい!

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