もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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アオイの夢
認識確立現象、メアリー・スー


 私――アオイ・キリフリは、物心ついた時から絶えず誰かを羨ましがっている。そして、羨んでばかりで何もできない自分のことが嫌いだった。

 

(……何も持っていない)

 

 空っぽの自分が嫌いだ。

 虚ろな空気に満たされている、思考が憎い。

 何食わぬ顔で生きている自分がひどく苦手だった。

 

(コウタは独りでも大丈夫。パンジャは私がいれば大丈夫。では、私は……私は……何をよすがに生きたらいい)

 

 私は、勉強しかしてこなかった。その果てを喩えるならば、一本のナイフになりたかった。自己を研鑽し続ければ自分に誇れる何かになれるのではないかと思った。

 

 知識は救いだった。それと同じくらいに無知は罪で、罰で、救いだった。

 

(気付かぬくらい、もう少し愚かであればよかったが)

 

 賢いつもりで世を見ようとするから、こんなことになる。だから人間に期待せず、頓着しないことを装うことにした。それで思う存分をポケモンに費やすことができる。

 

 

 事故のことがあっても、私は実験を行ったこと自体は後悔していないのだ。

 

 

 後悔は、実験記録の成果が少なかったこと、そして『彼』を失うまで、その価値が分からなかったことだ。

 

 実験の成果については、いい。時間が経てばいずれパンジャが真相に辿り着くだろう。

 

(『彼』は……)

 

 本当は、ずっと疎ましいと思っていた。

 母が我知らず置いた、最初で最後の誕生日プレゼント。

 埃にまみれた天井裏の子ども部屋は、遊び飽きた玩具の墓場だった。

 

(私は一緒だと思ったんだ。……置いていかれた者同士、分かり合えると思っていた)

 

 だから、最初は手をはね除けられた意味が分からなかった。同じ立場の者なのに、どうしてこうも在り方が違うのだろう。

 

(私は心から誰かを恨みたいわけではない……。でも恨めたら、楽なのだろうか)

 

『彼』に寄せる期待は空回った分、失望は大きい。

 けれど、今になって『彼』のことを思う。

 

(恨んでいたのは、もう一度会いたかったのは……呪うためではなくて)

 

『彼』も懐かしい、あの腕にもう一度抱かれたかったのだろうか。今の私がそれを思うように。

 

 最期の瞬間にさえ、その夢を見たのだろうか。

 

 

 

◆ ◇ ◇

 

 

 

 悪夢とは?

 

 恐らくなのだが――アオイは朦朧とする意識の中で考えた。

 

(この実験は、ひどく後味の悪いものになるだろう)

 

 失敗するつもりは無い。必ず成功させるつもりだ。

 

 だが、不確定要素に仮定を積み上げただけの脆弱な仮説はどこかで破綻を期すだろう。その時に、危険に晒される我が身の行く末だけが心配だ。もっとも命の問題ではない。引き返すことのできなかった状態で、いかに長く悪夢に留まり研究をし続けられるか――それだけが心掛かりだ。

 

(そういえば、ミオシティの少年の顛末を知らなかったな)

 

 先行研究をしようにも情報が足りな過ぎる。アオイは過去に早々に見切りを付けた自分を遠くに感じた。

 

(噂話は、どれも「悪夢にとりこまれた」で終わっている。死んだと明言されていない。すると、まだ死んでいない? しかし、ダークライの伝承は8日目に命を奪うとも聞いた)

 

 どちらが正しい情報なのだろう。

 どちらも間違っている? いいや、どちらも正しいとしたら?

 

(今と昔では、死に至る理由が異なるとしたら――。ああ、これは面白い発想だ。ペンを……私は……どこに、置いたのだったか……)

 

 パンジャ、探してくれないか。たぶん、その辺にあるんだ。

 

 意識が眩む瞬間に呟いた声は、しっかりとした言葉になっていたのか。彼はついぞ聞き届けることができなかった。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 アオイは、眩しい光を感じて目を覚ます。その光は薄手のカーテンから透ける陽のようで、ずっと眠っていた意識をゆるやかに浮上させた。

 

「夢……?」

 

 私は、これまで何をしていたのか。

 

 

 頭からすっぽ抜けている。何か重大なこと――そうだ。ダークライの悪夢について研究を始めた!

 

(では、ここは悪夢の中だろうか?)

 

 アオイはぼんやりする頭を振ってあたりを見回した。

 椅子に座っている。デスク上の書類に見覚えがある。整然と並んだ書類。この風景をずっと見ていた、そう、ここは、イッシュの研究室だ。

 

 思わず椅子から立ち上がったアオイは、隣の席にいる人物に気付いた。

 

「パンジャ……! どうして君が!」

 

「ひとまず疑問に答えよう、アオイ。幸運なことにこれは夢だよ。それもとびっきりの悪夢だ」

 

 その言葉に再び名前を言いかけた彼は、口を噤む。

 彼女の容姿はパンジャだが、彼女はアオイの知っているパンジャではない。雰囲気や物言いが彼女らしくない。

 

 ここは悪夢。だから、これは彼女の姿を借りた贋物だ。

 

「君が悪夢の水先案内人か?」

 

「まあ、そのようなものだ。現状、悪夢を支配するマスターといったところかな」

 

「なぜダークライは出て来ない? まさか、来られないというわけではないだろう。実際に悪夢の中では何度か出会っている」

 

「そこは察してくれたまえよ。彼は、君に嫌われたくないそうだ」

 

 予想外の言葉に、アオイは顔をしかめた。

 

「嫌うなど……。悪夢の研究のために協力を依頼したのは私だ。どんなことがあろうと全て私が招いた、私の責任だ。彼を責めることなどありえない」

 

 アオイは、自分の意志が伝わっていなかったのではないかと思った。ダークライは、おじけづいて実験には消極的なのだろうか。もし、そうならば自分は中途半端な悪夢に没入しているのだろうか。

 

 危機感を覚えようとするアオイを制して、彼女は首を横に振った。

 

「『今はそう言うだろうが、これから先もそうであるとは思えない』という判断をしたのだ、ダークライは。そして、代わりにわたしが呼ばれた。憎悪の対象としての造形、即ちメアリー・スーがあなたの悪夢を執行する」

 

「メアリー? 知人にそんな人物はいないが……失礼、どこかでお目にかかっただろうか?」

 

 パンジャ似の知人ならば絶対に忘れることはないのだが、いまいち心当たりが無い。顔をまじまじと見ても。

 

「パンジャだろ、君。中身はともかく、顔は」

 

 すると、私の知らない彼女の人格だろうか。そこまで君を追い詰めてしまったのか……。 罪悪感で憂鬱になっていると「違う、違う」と彼女、メアリーが声を上げた。

 

「違うと言っているだろう、聞かないか。――この造形は、あなたの趣味だ」

 

「それは失敬なことを。なおさら聞きたくなかったな!」

 

「ご要望とあらば別の造形に変化しようか。そうだな、あなたのご母堂あたりに」

 

「……そのままでいてくれ、頼む」

 

 アオイは顔を覆って呻いた。悪夢だ。いや、悪夢の中だからか。理解にはまだ遠いが、納得の仕打ちだった。

 

「わたしの造形は、さておき。問題はあなたのことだ。とびっきりの悪夢を馳走するまえに前回の復習をしよう」

 

「なんだって?」

 

「これからあなたには『彼』を救うために試行錯誤をしてもらう」

 

 ダークライに依頼したのは、そういう内容だろう。――メアリーは羽織っていた白衣のポケットから一枚の紙を取り出して言った。

 

「ここは悪夢だ。あなたにとって都合の良い現象は起きないことが、すでに確立している。あなたは理解が及ぶだろうか?」

 

「……うん? もうすこし、分かりやすく言ってくれ。私の悪夢なのに、どうして私が言いそうにない言葉をチョイスするんだ」

 

「ここは理性にとって災厄の環境だと言っているんだ! 苦痛と辛苦の堆積場! 分かるか? 救いは無い! どんなに現実に似せても所詮は悪夢だ、この性質だけはマスター権限が与えられているわたしでも制御ができない」

 

 何となく彼女の言いたいことが分かり、アオイは頷いた。まるでゲームのようだな、と頭のどこかで理解が追いついた。

 

「『彼』を救う間に、現実では起こらなかった問題がたくさん起きるということか。ただ過去を改竄すればいいという話ではないと。しかも私の夢だからといって、私に都合の良い現象は起きない」

 

「そうだ。それでも、悲観することはない。悪夢の性質が物理的な現象に干渉することはできないからだ」

 

「突然、物が増えたり、減ったり、あるいは、無くなったり現れたりしないということか?」

 

「例外はあるが、概ねその認識で問題無い」

 

「その例外を聞きたい」

 

「ここは現実世界の法則ではなく、あなたの認識に依る法則で成り立っている」

 

「それは……」

 

 自分に有利にはたらくものか、それとも悪夢を後押しするものなのか、判断が難しい。勘違いや思い込みが物事を動かすことがあるかもしれない、とだけ今は心に留めておこう。

 

 アオイは話の先を促した。

 

「苦悩を有する理性を愛せよ。ここでは幸運に左右されない。運命さえ手引きを許されない。あなたの頭の中にある世界で一番、理知的な実験場だ。たくさん試行錯誤してくれ。――気が済むまで。できれば死ぬほどに」

 

 彼女の瞳はいつも何かに狂える情熱を向けていた。今も冬に凍えた水面が、こちらを見ている。

 

 凍える風で撫でられたように身体が震えた。

 この世界はの日差しは夏の陽光なのに肌を刺さない。しかし、その柔らかさに隠された毒は優しくない。悪夢は、身を腐らせ堕とすことを狙っている。そして自覚できたとき戸惑った。、この瞬間にも現実世界にいる命は、すり減っているのだ。

 

 時間は、限られている。

 

 手が足が、震えていた。この様でできるのか。――いいや、やるのだ。

 ここまで来て、引き下がれない。間違いだとしても、取り返しのつかない過ちだとしても、何かを失ったとしても、これ以上は退きたくないから、ここにいる。

 

「分かっている。そのために来た」

 

 胸に手を当てる。夢の中でさえ鼓動は力強く手を押し返していた。

 

 そうか。彼女は感情を伴わない声で、ぽつり呟いた。そして、椅子から立ち上がる。怪我の無い、生白い指先が妙にアオイの印象に残った。

 

「私は、後悔しないだろうさ」

 

「――わたしは君の願いを受諾した。トップ・オーダー。悪夢に依って叶えよう」

 

 彼女が指を鳴らした。

 空間が歪み、平常に戻る。ここは、イッシュ地方と見紛う風景。そして今は取り壊されたと風伝いに聞いた――地下研究棟の中にいた。

 

 一瞬だけ、呼吸が乱れる。

 

 アオイは時を超え、かつて自分のなかにあった情熱の終焉地にいた。顔を上げれば青い空が見えた。事故の後に空いた空洞は、アオイのなかに空いた空洞に似ていた。階層から剥き出しになった高圧電線、水道管のパイプ、コンクリートから飛び出た胴金は細長い、しかも壊れている。

 

 長い影を見る度に心がささくれの痛みを覚えた。

 

「ここは悪夢。過去から剥がれ、現実へ至ることのない隔絶した境地。表に現れることないイフの風景。風見鶏が回っている間の走馬燈。そして、在りし日の夢物語――あなたの世界」

 

「それは夢のような世界だな。いいや、皮肉だとも」

 

 足を動かすと砂利が転がる音が響いた。鉄筋コンクリート構造の研究棟だ。爆発の影響で粉々になったのだろう。精緻な再現にアオイはますますこの現実へ没入感を深めた。

 

「この世界で何かを願うのは無駄なことだ。すべてが幻。望みの通り、叶わないことが確立されている。あなたが徒労で呆れてしまわないことを願っているよ」

 

 待ってくれ。アオイは「パンジャ」と言いかけながら、メアリーを呼び止めた。

 

「君の願いはどこへいくんだ」

 

 メアリーは、目を瞠った後でフイと遠くを見た。

 

「風見鶏が運んでくれるだろう。ペリッパーがいいと思っているがキャモメかもしれない。――さあ、もう一度席につきたまえ。この世界と心中したいのならば止めないが」

 

 メアリーは肩をすくめて「それも面白いかもしれない」と言った。アオイはちっとも面白くない。しかし、笑えない話をする時だけ、彼女はパンジャと似ているらしかった。

 

 彼女が指差した先には、扉があった。ポンとマヌケな音を立てて出てきたそれには見覚えがある。アオイの生家にある自室の扉なのだ。苦い思い出が胸に蘇るアオイは――悪夢とは、こんな些細な演出まで気をつかうらしい、と思った。それでも。

 

「メアリー、いや、ダークライ。君の悪夢が人間の認識を元に現実とは異なる過去を再構築する余地があるのならば――君は人間の後悔を正せる」

 

 現状では第一段階をクリアしつつある。

 第一、すなわちダークライに悪夢について設定させることだ。指向性を持たせることが可能ならば、悪夢を安全に取り扱う方策にも繋がる。『ダークライは任意に見せる悪夢の制御ができる』。これが分かっただけでも研究した甲斐がある、行う以前は仮定でしかなかったが、今では確実な事実として理解できる。大した進歩だ。

 

 ダークライは、無差別に害を振りまく存在ではない。胸を張ってそう言える日は遠くないだろう。アオイは思った。

 

「それは僥倖。――事前検討会に移ろう、アオイ」

 

 事前検討会、とは。

 

 夢に似つかわしくない理性的な単語に聞こえて、アオイは数秒ほど「はあ」と言ったきり、何をすればいいのか分からなかった。ボーッと突っ立ってないで、さっさと座れ。そう指図されて近くに転がっていたパイプ椅子を掴んだ。

 

「時間が無いと言っているだろう。夢の狭間で永遠彷徨いたいなら止めないがね」

 

「わかった、わかった。すまない……。それで、事前検討とは何を?」

 

「そんなことは決まっている、どうすれば『彼』を救えたのか、を検討するのだ」

 

 事故現場に連れて行かない。――これが第一だろう。

 意見しようと思った矢先、彼女はどこからか出してきた黒板をバシリと叩いた。

 

「先に言っておこう。事故が起きる前に、『彼』を連れてどこか、例えば屋外に出た瞬間、隕石が降ってきてあなた達は死ぬだろう」

 

「は……え……え?」

 

 隕石とは何だ。なぜそんなものが降ってくるんだ。

 自分が気を失っている間に隕石墜落事件があったのだろうか。

 必死に思い出そうとしているアオイだが、空しく終わった。

 

「何度も言うが、ここはあなたの認識に基づく世界。『彼』を連れて逃げるなんて、あなたは最初から検討にもあげていないということだ」

 

 うぅん、と唸る。彼女の言い分が理屈ではなく感覚で理解できてしまった。

 

「まあ、そんなことをしても……納得できるかといえば、できないことだしな。なんせ事実とかけ離れている」

 

 その通り。

 メアリーはチョークで黒板に何かを書き付けた。

 

「あなたの認識で、『必ずと言っていいほど起こる。避けられないと思っている』事態の起点がいくつかある。まずひとつ。事故は必ず起きる」

 

「では、事前に事故が起きないようにする行動をしたらどうなる? 今は跡形もなくなっているが、復元装置は電力で起動する。たとえば棟のブレーカーを落とすとか」

 

「その事象はありえない。パンジャが『気をつかって』ブレーカーを修正するだろう」

 

「おぉ、パンジャ。ここまで友情を果たしてくれるのか。ありがたいことだ。……ホントに私は彼女の好意を受けるのに向いていない」

 

 夢のなかまで私を気にしなくていいのに。特に、今なんかは、本当に、特に。

 

 アオイはほんのすこし恨み言を覚え、メアリーの姿を見て納得した。憎悪の形というのは、パンジャに似ている――というか容姿は本人だ――こういうことか。彼はすぐに自分のなかにできたわだかまりを揉み消した。彼女を本心から恨みたいわけではない。

 

「分かった。動かせない事物を考えていても仕方がない。ほかにもあるのか?」

 

「あなたの怪我は避けられない。現在に存在するあなたを構成した要素だからだ」

 

 彼女の言葉の意味が、ぼんやりと分かる。

 

 現在の自分と過去の自分を比較すると、肉体的に変わったのは怪我と体重がすこし減った程度だ。脚の怪我は、悪夢において現在の自分たらしめるために必要な存在なのだろう。現実とは異なる。けれど限りなく現実に近しい世界を演出するための、小道具。

 

 2つのルールは、恐らくこの世界において釘のような存在だ。

 

 悪夢の内容は現在に沿うように発生し、そのなかで悪夢を悪夢と知る自分だけが『彼』を救うために行動する。この悪夢の理想的な最後は、ぼろぼろになって研究室から脱出した自分が生きた『彼』を抱えていることなのだ。アオイは霞みそうになる未来に思いを馳せた。

 

(――分かっていた……気がするが、なんて困難だ)

 

 アオイの身体能力は、実に大したことがない。

 

 万全の状態であっても50M走は9秒を切ったことがない。握力は右手に偏っている。アオイは身近にいる女性であるパンジャと比べて何一つ身体機能で勝っているものは無かった。そこからさらに怪我を負った状態で動くことが可能だろうか。

 

「3つ目に……」

 

「ま、まだあるか」

 

「この悪夢で起きた出来事は、現実に何の影響も及ぼさない」

 

「そんなことは分かっている! 分かっているんだよ、そんな、残酷なこと。わざわざ確認するまでもない……分かっている……」

 

 彼は途中で立ち上がり、その後すぐに椅子を立てて座り直した。なぜ、途中で話すことをやめたのか。彼はパンジャと化石の復元について研究を始めた、その初日に彼女に言われたことを思い出したのだ。

 

『君がこんなことをしても……お母様は、君のことを振り返らないと思う。悲しいと思うのではないだろうか……?』

 

 それから先のことをアオイは一瞬だけ忘れている。あの時は、息が苦しくて目が覚めた。じんじん痛む手と喉が不快で、何よりされるがままに気怠い顔をしていた彼女の貌が嫌だった。

 

 その時に暴力はやめようと心から思ったのだ。なんと後味の悪い。こんなことをしてしまう自分が恐ろしい。だから、本当のことを暴いて欲しくないのだ。大切なものを壊してしまうから。

 

「夢の中でさえ君は……ふむ。殊勝な心がけを評価しよう」

 

「私という人間は、そもそも人間としてどうかと思う。どうしてパンジャは私のことを見捨てなかったんだ? こんなろくでなしを……」

 

「ふはははっわたしを褒め称えろ! もっと! もっとだ! ――そして、つまらない自虐はそこそこに。まあ、苦しみたいのならば止めない。今なら悪夢で嫌悪感倍増キャンペーン、トラウマランダムピックアップ中だ」

 

「あーあー、やめてくれ!」

 

 頭を振って思考を切り換える。アオイは今度こそ椅子から立ち上がった。

 

 話は、聞いた。

 要は前提条件。

 全て、これに基づいて行動する。

 

 事故は起こる。怪我を避けられない。

 どちらも0にはできない。

 

(それでも、規模を小さくすることはできる)

 

 怪我をしても、自分が行動不能になることは避けられる、かもしれない。

 そして。

 

(私は『彼』を救える)

 

 アオイは力のこもる手をゆっくりと解いた。この手は誰かを傷つけるためではなく、救うために使いたい。昔のパンジャにそう誓った。

 

 何度も夢で見たように。

 

 異なる未来では『彼』と一緒にいることができたかもしれない。その可能性を試すだけで満足だ。それだけで納得できる。そのための悪夢。ハッピーエンドを迎えることができても、現実にはならない。本当の幸せを鼻先で取り上げる。その結末だけで、まさに悪夢と称えられる所業だ。

 

 ここは悪夢。幸福を辿らない物語。

 

 だからこそ。

 

「メアリー・スー、悪夢を起こせ」

 

 限りなく現実に似た、けれど空想へ。

 深く、深く、意識を研ぎ澄ませる。

 

「私の手で、救ってみせる!」

 

 彼女の薄い唇がニッとつり上がる。

 

「幕を上げてもいいのか? 上げたら最後、踊り続けなければならない」

 

「役者がそれを望んでいる」

 

「そうか……そうだな! 君はやはりわたしには無い発想を提供してくれている。ふむ。見習わなくてはならないな――さあさあ、紳士淑女の観衆諸兄! ご観覧あれ、ご笑覧あれ!」

 

「お! あ、おい、ちょっとまて、メアリー。私の悪夢だろう。他に誰かいるのか?」

 

 悪夢とはいえ自分の夢の中だ。何となく勝手が分かるような予感があり、アオイは突然現れた後に放置されていた扉に向かっていた。しかしメアリーの台詞に慌てて引き返し、辺りを見回した。

 

「いないに決まっているだろう! ここはあなたの精神世界だ! ま、死ぬときは純化して魂ぽっきりになっているかもしれないがね。その頃は自我が保てないだろうし、気にしなくてよろしい! 謳い文句はわたしの気分的な問題だ。カントー=マンガの次回予告っぽくていいだろう? なにより、主人公っぽくてサイコーだ! カントー・トクサツはいいぞ!」

 

「君の趣味がパンジャっぽくて、私の胸のうちを抉るな。心理深層にはそんな趣味があったのだろうか……」

 

 純文学を愛してやまないアオイには理解しがたい領域の話だった。どうして私の夢の具現化のくせに、どうしてメアリーはパンジャらしくパンジャしているのだろう。

 

 そのうち飽きたのか、滔々と謳っていた言葉が途切れた。

 彼女はカツリと踵を鳴らして身体を向けると軽く手を振った。

 

「いってらっしゃい。頑張ってね」

 

「悪夢のくせに、成功を祈るのか」

 

「生きている限り、苦しむことができる。苦悩を有する理性を愛せよ、アオイ」

 

「……考え続けることが、私にできる唯一のことだ」

 

 少し考えて、彼はそう答えた。ある扉の前に立ち、ノブに手を置き、目を閉じる。

 

 本当は、怖い。

 ここまで来て震える手に、もう一方の手を重ねた。

 

 私は、救える。

 大丈夫。

 

 根拠は無い。それでもアオイは信じようと思えた。

 

 悪夢の世界が認識によって成り立つならば、信じ続けることが成功に繋がる。現実の物理世界では意味のない願いだとしても、ここだけは違う。

 

 意志が強さに代わるならば、アオイはこの世界において最強だ。――そう自らを信じていた。

 

 




【メアリー・スー】
言わずと知れた最強主人公、創作された英雄、二次創作の悪夢めいた存在。メアリー・スーの名前自体の意味は薄い。本来であればジョン・ドゥ(あるいは、ジェーン・ドゥ=どちらも「名無しの権兵衛」)でも構わないはずだが、二次創作における「メアリー・スー」は、悪夢を代行するのに相応しい存在である『名称』のため、あえて自らを名乗っている。外見はアオイの友人、パンジャそっくりの存在のようだが……?

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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