もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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case1.『彼』の名前を呼ぶ(上)

 夏の風音がする。

 

 屋内の立て付けの悪い窓がカタカタと耳障りな音を立てた。しかし外の熱気は届かない。クーラーの効きすぎた屋内にいるアオイは薄手の長袖が必要なほどだった。そういえば温いコーヒーを受け取って、まだ飲みきっていない。せめて、飲みきってから研究棟へ行こう。さて、カップはどこへ置いたのだったか。

 

 ビクリと体が震える。浅い眠りに浸かりそうになった時におきる反射行動だ。パチ、と目を開いたアオイは頭を上げた。

 

「アオイ? どうかしたのかい」

 

「あ……パンジャ」

 

 雑誌の上に投げていた手が、パンジャに握られていた。頭では分かっているが一瞬だけ、メアリーと言いそうになってしまったことを反省する。応えたことで返事に伺うように見つめていた彼女が視線を逸らす。感じていた手の重みが無くなった。視界の端で彼女の手が握られているのを見た。

 

「眠いのなら無理はしないほうがいい。今日の実験はわたしがやろう」

 

「それには及ばない。ああいや、君の腕を信用していないわけではなくて……パンジャ、あの、私は」

 

「ん?」

 

 言い淀んだアオイは考えていた。

 

『私は……私が、実験を執り行おうと思っている。だが、必ず失敗してしまうだろう。その時に「彼」を連れて逃げてほしい』

 

 このことを、彼女は承服するだろうか。思考は3秒。

 

(無理だ)

 

 別の方策を考えよう。

 実験は通常に行う。出力を限定して、被害を最小限にする。そうすれば自身の被害も少なくなり、動ける余地が生まれるだろう。もともと、この足の怪我は瓦礫に貫かれたのだ。爆発さえ小規模に押さえ込むことができればかすり傷程度で済むかもしれない。

 

「アオイ?」

 

「何でもない。準備に取りかからないといけない時間だ。手伝ってくれるか」

 

「もちろん。……ところで、先に何か言いかけたような。所用でも?」

 

「あぁ、それは――」

 

 パンジャは、自分に注意を向けられたことを決して忘れない。ここで答えをはぐらかせば、いつかどこかの機会で同じ問いを繰り返すことだろう。

 

「アロエ所長のスケジュールを確認したかったんだ。朝にも聞いたのだが、その時は他のことを考えていて……ええと、17時まで帰ってこないんだっけ」

 

 適当な時刻を言うと彼女の眉がピクリと動いた。実験前のピリピリした雰囲気だ。

 

「いいや、違う。16時だ」

 

「ああ、そうか。そうだったか。……なるほど」

 

 現実における事故後のアロエ所長の動向について、実のところアオイにはほとんど記憶が無い。事故前に所長のスケジュールを聞いたという記憶はある。けれど内容はさっぱり思い出せない。当時の意識において優先順位が低かったのだろう。そういえば事故後に炎上した建物に入るところだったパンジャを止めたという話を聞いた。

 

 しかし、ここで明示された「16時」は新しい情報なのに、懐かしい。どうして16時に引っかかりを覚えるのか。アオイは額に手を当てて考えた。

 

(かつての私ならば、16時が終了時間の限界だと考えていたのだろう)

 

 今の時間は15時。

 

 復元に必要な照射時間は10分だが準備と片付けで所要時間は30分。それから別室に移動して分析を行う予定だった。

 

(……ギリギリな予定を立てていたんだな、私)

 

 腕時計を確認したアオイは、慣れない溜息を吐いた。隣でパンジャが驚いたように顔をこちらへ向けたのを感じた。

 

 アロエは道路に渋滞が起きればしばらく帰ってこないが、パンジャから聞いた予定の通りであれば実験後20分で彼女は研究室へ帰ってきてしまう。実験時のトラブルは、事故にならずとも多少なり発生する。隠滅できない問題が発生した時点で、この秘密実験は破綻しそうだ。

 

 どれだけ心の余裕が無かったんだろう。

 今思えば、呆れてしまう杜撰なスケジュールだ。

 

 唸っていると焦っていた理由を思い出した。この焦りはこの時始まったものではない。事故にいたる半年ほど前から焦っていたのだ。いくら復元の可能性が低い欠損のある化石といえど、一般人にとっては等しく化石。安くない価格で取引されている。予算を誤魔化して買いあさるには限界があった。

 

 怪しまれない程度に使い込む予算が尽きて材料不足に陥る前に、実験の成果を出そうと躍起になっていたのだ。

 

 身動きを止めて黙ってしまったアオイに、パンジャが提案した。

 

「所長の帰りについて再確認の必要があれば応えよう。少々、時間が要るが」

 

「いや、その必要は無い。早く行こう」

 

「今日のアオイはずいぶんやる気が、いいや、積極的なことは概ね良いことだけど」

 

「ん……?」

 

 廊下を歩き、外を見ていたパンジャが意外なことを言った。

 

 アオイには自分でもどうかと思うことがあるほど機嫌の上下が激しい時がある。だいたいは手に入らないものに嫉妬して落ち込んでいるか、吹っ切れて開き直っている時のどちらかなのだが、だいたい一緒にいるパンジャには、この悪癖で本当に迷惑をかけていると思う。笑顔だと思った数秒後には世界の終わりを見たような顔をして沈み込んでいるのだから、面倒くさいことこの上ない。

 

 そんな人物と付き合うなかで、彼女なりの処世術を身につけたのだろう。そのなかのひとつが機嫌について言及しないことだった。それを破ってしまうほど今の私は彼女にとって異常に思えるらしい。

 

 アオイは宙を見て思案した後に、思い切って訊ねてみた。

 

「普段の私は、その、嫌々行っているように見えているのか?」

 

 今回の悪夢で『彼』を救えば、もう二度とこの夢に来ることはできないだろう。そんな予感があった。だから、魔が差した。この夢は精緻だ。質問すれば、必ず答えがある。その場の言葉として相応しいものを作り出して応じてくれる。誰かに卑怯と罵られても彼女が自分のことをどう思っているか知りたい。

 

「あなたの希望に、わたしが口入れすることはない。けれど最近のあなたは疲れていた」

 

 口出すことはない――とは言ったが、今の彼女の口ぶりには咎める響きがあった。心配されていることが面映ゆい。アオイはぶつぶつ低い声で応えた。

 

「君だって似たようなものだろう」

 

「ふふっ」

 

 パンジャは柔らかく微笑んだ。パチリと視線が交わる。『あなたの気遣いに感謝する』。瞬きで伝えられた自己主張は、どこまでも控えめだった。ほんの数秒目を逸らしていれば見逃してしまっていただろう。

 

「私は……あの……。その、パンジャ……私は……」

 

 視線が落ちる。室内用の革靴の先を見た。彼女の小さな心遣いを見落として、見過ごしてしまって、ここまで来てしまったのだな、と思う。きまりが悪く不機嫌になっていた自分が愚かに思えた。やるせない。消化しきれない感情がじくじくと心の内側にこもった。

 

「疲れているのだろう。今日は早めに休息をとることを推奨する。わたしもすこしだけ目がチカチカしてきたよ」

 

「君には無理をさせている。ずっと、昔から……。すまない」

 

「あなたの望みはわたしの望みでもある。無理など何も。あなたの友情に感謝を」

 

「私こそ、君に……」

 

 パンジャは「うふっ」と失笑した。それは彼女にしては珍しく陰の無い笑みだった。

 

「どうしたんだ、アオイ。今日のあなたはずいぶん機嫌が良いようだ。何か心境の変化が? 心躍る話を聞いただろうか?」

 

 アオイは返事に困る。すっかり彼女への対応方法が分からなくなっていた。この頃の自分はどうやってパンジャと話していたのか分からない。何を感じて、何を思って彼女に接していただろう。

 

 アオイは歩きながら、視線を上げた。

 

「ああ、ちょっと…………ね。そうだ、パンジャ。この仕事が終わったらどこへ行きたい? 旅行をしよう」

 

 思いつきにしては上出来な提案にアオイは明るく顔を上げた。

 

「あなたの望む街に」

 

 笑みのまま条件反射に答えた彼女に、アオイは首を振った。

 

「違う違う、旅先を決めるのは私ではいけないんだ。君の好きな街へ行きたい。君と一緒に、山でも海でも。どこでもいい。……すぐに決めて欲しいとは言わない。でも、考えてほしい」

 

「……あなたが、わたしの望みを聞くというのか?」

 

「そういえば君はいつも私の願いを聞いてばかりで、君自身との話はあまりできていなかった」

 

 パンジャは「あぁ」と曖昧に声をこぼした。「そういえばそうだった」と言わんばかりのごく軽い調子の声だ。この時期の彼女とどんな話をしたのか記憶にないが、それは大した中身のある話をしていなかったからだろう。習慣と惰性で会話をしていたことを後悔している。

 

 お互いのプライバシーをいやというほど知っている仲なので、あらためて話をするとするならば――許されるならば、夢の話をしたい。

 

 彼女は天井の染みを数えるように視線を右上へ飛ばした。

 

「うーん。しかし、アオイもわたしもここ数年忙しかったのだから仕方がないよ。わたしは気にしていない。支障がなければ問題にならないだろう」

 

「そうだが……きちんと自分の思っていることを話すことは、とても大切なことで……この大切さにもっと早く気付けていたら、お互い良かったかもしれない」

 

「今からでは、ダメなのか」

 

 彼女は足を止める。ふたりだけの静かな廊下にカツリと革靴の音が響いた。声音は疑問にまみれている。

 

 アオイは問いに応えることができなかった。このパンジャは、未来を知らない。これから起こる事故を知らない。灼熱に晒されたアオイの本性を知らない。なにより悪夢に、未来は無い。何を答えても嘘になってしまう。

 

 アオイの問いかけに答えはあるが、彼女の問いに対する答えを彼は持っていない。自分はとても卑怯なことをしている。その思いが再びアオイを俯かせた。

 

「それは……」

 

「願うことが許されるのならば、わたしはあなたの――君の心を知りたい」

 

 その願いに「私は君が思うような男ではない」と言えたのなら、かつての自分はどれほど楽だっただろう。

 

「わたしはずっと知りたかった。でも、君はきっと嫌がるだろうと思って……ずっとずっと黙っていた」

 

 その願いに「その通りだから、まだまだ黙っていてくれ」と言えたのなら、今の自分はどれだけ救われるだろう。

 

「あっいっいや、もちろん、教えてくれなくともわたしは変わらない。何も、何も変わらないと君に誓おう。このことも忘れる。君はすこし調子が悪いのだろう。……そういうことにしてくれていいんだ」

 

「そういうわけには、いかないだろう」

 

 アオイの心は決まっている。ここに来る前、ずっと昔から、彼女のためにある願いは変わらない。

 

「私は、君が笑っていられるようにしたい――と思う」

 

 声帯が震え、ぽつり、這い出たような音だった。この言葉に嘘はない。だが、この願いはもう腐り堕ちたものだった。

 

 アオイはパンジャのことを大切に思っている。『彼』とは異なる、けれど同種の傷を負い続ける彼女のことが大切だ。ひょっとすると自分は、彼女から他者を愛することを学べるかもしれないとさえ思う。――今でさえ。

 

 パンジャは救われている。

 

 アオイという存在を得て彼女は救われた。彼はそのことを誇ってもよいはずだった。人を救うことは並大抵に易しいことではないのだから。

 

 だが、彼はそう思えない。

 

(私とパンジャは、似すぎたのだ)

 

 誰の罪を問うものではない。それでも問うのならば、罪は自らの身のうちにあった。

 

 ――限りなく同質に近い、『私』でありえた彼女が救われているのに、どうして私は『そのまま』でいるのだろう。彼女が私を得て救われたのならば、私の救いはどこにある。

 

 パンジャは幸福だ。

 私は、不幸なままなのに!

 

 パンジャは忘れることができる。

 私は、覚えたままなのに!

 

 パンジャは幸運だ。

 私が、こんなにも不運だから!

 

 では。

 

(夢は、救いになりうるだろうか?)

 

 答えの分からない思いつきをアオイは信じ、そのために彼女を犠牲にした。躊躇いは無かった。救いがたい。けれど清々した思いだった。自分のために努力することはどれほど心地の良いものか。夢の手触りさえ掴んだこの手がどれだけ誇らしいものだったか。

 

 アオイは小さく頭を振った。

 

 こんなことを考えたことは無かった。無いはずだった。アオイは今でも彼女の幸福を願っていたい。それでも、無意識のうちに気付いた時、願いが歪んでしまったのだ。その歪みにさえ気付かなかった。彼女から離れ、独りになって、最初の願いから遠く離れた場所にいたことに気付いた。

 

 こんなザマではいけない。

 パンジャが過去に縋った自分は頼りなかったかもしれないが、きっと今よりも誠実であったはずだ。

 彼女の隣に立つ自分は、もっと素晴らしいはずの存在だ。

 そうでなければいけない。

 

(現在において、過去において、未来において、わたしは『そう』でなければならなかったのだ!)

 

 だからこそ。彼は振り返って、パンジャと対峙した。

 

「ずっと昔、そう思っていた。――今もそう思いたい」

 

 願わくば、幸せに。そのために助けたい。

 最初の願いは、たしかにこうだった。

 

 果たして。パンジャは笑っていなかった。目は落ち着かず、アオイの右目を見るべきか左目を見るべきか分からずに彷徨っていた。

 

「アオイ……どうしてしまったんだ……。……君は! そんなことを言わない……!」

 

 ショックを受けた顔で彼女が言う。そのことにアオイもショックを受けた。この頃の自分はどれほど彼女に辛くあたっていたのだろう。ちょっとした混乱状態に陥ったアオイは、顔を赤くした。

 

「い、言ってもいいだろう! 私は、君のことが大切なんだ。ちょっと、いや、だいぶ、私の心根が歪んでしまって、こんな現状になっているから、本当に申し訳ないと思っているが……」

 

「君が罪に思うことは何も無い。何を謝ることがあるんだ? 君が預けてくれる重みは心地良い。でも、それを重荷に思ったことは一度だって無いんだ」

 

「いや、しかし」

 

 それは、君が忘れてしまっているからで本当は負担に思っているんだ。――言葉を正直に伝えることを躊躇った彼は、手をすくわれた。

 

「アオイ、どうかわたしを信じてほしい。疑わないで。わたしが君を信じているように、君もわたしを信じてほしい」

 

 手を握り、目を見つめてくる彼女に、アオイは正面から問いかけようと思う。それは現実にいる彼女にもいずれ訊ねようと思っていた質問だった。

 

「君……君は、私の何を信じている? 友情か、親愛か、それとも実験の成果か?」

 

「すべてだ!」

 

 思いがけない強さで手を握られる。その強さにアオイは息を止めて彼女を見つめた。

 

「わたしは君を信じている。友情により、親愛により、言動により、そのすべてで、わたしは君を信じている。――君のためならば、わたしは何も恐くない。分かるかい? 分かるだろう? わたしは君のことを完全に理解できていないが、君は、君だけはわたしを理解してくれる。君は自分を信じるように、わたしを信じてほしい」

 

「その真心に私は応えられない。応えたい! けれど、きっと、私には何より難しいことだ……」

 

 応えないまま、アオイはダークライの悪夢に身を投じた。現実世界に戻ったら彼女とは話し合おうと思う。しかしそれさえ、できるかどうか今では分からなくなってしまった。アオイの認識において無償の愛が存在しないように、無償の労働はあり得ない。

 

「見返りは求めていない。決して、何も。ただ、わたしは君の役に立っていたいんだ」

 

「その理由を訊ねることは、許される、だろうか?」

 

「君の夢を、わたしも一緒に見たいからだ」

 

「その夢が追えなくなった時、君はどうする?」

 

 私の夢は、私だけのものだった。実現に救いを重ねたものだ。それを追うことは、彼女にとって徒労のはずだった。

 

「君と一緒にまた夢を見つけるよ。わたしは何度だって、何だって構わないんだ」

 

「見つからなかったらどうする? 何も思い浮かばなかったら? 私が逃げたらどうする? 君の手が届かないところまで逃げたら、君はどうなってしまうんだ」

 

「そんな時は……そうだな、上手く想像できないけれど、きっと君の遺した事業を続けると思う。君が見たかった景色を、君の見られなかった光景を、わたしが知るために。そして、いつか君に伝えるために。――しかし、あまり楽しくない想像だ。君と一緒に作業するほうが楽しいよ」

 

 彼女の言葉は、アオイにひとつの納得を与えた。イッシュ地方からシンオウ地方へ渡った自分を追いかけるでもなく、彼女が静かに待っていられる理由。彼女にはやるべきことがあるのだ。――アオイが一度手放した夢を、彼女はまだ抱えている。

 

 そのことを思うと胸の奥がカッと熱くなった。

 

「そうか……そう、選ぶんだな、君は……いいや、知っていた気がするよ。それなら、ひとつ訂正だ。私だけの夢ではない。――すでに我々の夢だ。血塗れだが、ここまでやり遂げた我々の成果だ。胸を張ってほしい。できれば……その、誇りに思ってほしい」

 

「分かっているよ」

 

 そして物わかりの良い友人は、静かに頷いた。

 

「――アオイ、君はいろいろと考えすぎるから未来が不安なのだろう。わたしがその不安を摘めるとは思わない。だが、わたしを信じてほしい。君の友人であるわたしを、未来でも共にあるわたしを」

 

「いつも信じている。信じて、信じて、信じすぎて……私は」

 

 何も返せるものはない。友情の保証は、最初から口実だ。救われた彼女はきっと誰とでもうまくやっていけるだろう。そう考えると救いたいという願いさえ、押しつけがましいものに思える。アオイは言葉を無くして黙り込んだ。

 

 会話が途切れそうになる。それを紡ぐように、パンジャは言った。

 

「アオイ、わたしは今の『わたし』が好きだ。君に必要とされている『わたし』を愛おしく思っている。わたしは、これで良いと思っている。だから、何も気にすることではないよ」

 

「……普通に考えて『気にするな』は無理だよ、パンジャ」

 

 無茶を言うんじゃない。ややこしい糸を紐解くようにアオイも言葉を考える。彼女を納得させられるには、どうすればよいか。今日に限って頭の回転は鈍かった。

 

「うぅん。今日のアオイはいつに増して手強いなぁ。――まあ、何かわたしが困るというわけではないし、コウタほど単純になられても困るが。何の心配も要らないことを、どうすれば分かってくれるだろうか?」

 

「君、言うほど大丈夫じゃないだろう。精神的に、だいぶ、ほら、あれじゃないか」

 

 アオイは、手をぱらぱらと動かした。彼女はそれだけで全て察してくれた。

 

「生活記憶に支障は少ないし、大事なことは君が覚えてくれているじゃないか。それに、そうだ、第一に君より母のほうがこの件に関しては影響が大きいんだ。主に母の愛情、父の不在、つまり家庭の事情というやつで」

 

 彼女は呟きつつ、困ったふうに顔をしかめた。

 

「わたしは母を愛しているよ。愛しているからこそ目に余るというか、余りあるというか……。うーん、ともあれ、わたしでは母を変えることはできないし、父は帰ってこないし、だいぶ昔から詰んでいる。やはり君の気にすることではないよ」

 

「いや、しかし、人格があやふやになりはじめたのは私の実験に参加し始めた頃だっただろう」

 

「最適に動き続けられるように整理しただけだ。それに時間がかかってしまっただけだよ。人格は統合すれば良いというものではないのだし。愛すべき隣人で、わたしの一部だから」

 

「それでいいのか、君は」

 

「これでいいんだよ、わたしは」

 

 アオイは、この点においてパンジャのことを一切信用していなかった。普段の自分が精神的に頼られる立場であるせいだろう。彼女の大丈夫は信号で喩えれば赤信号3秒前のようなものだ。目が離せない。アオイは心配を顔に出さないように、ともかく頷いてみた。――こうしてアオイの心の柔らかいところは削りに削られ、荒んでいったことを双方が無自覚だった。それが不幸なのか、幸運なことなのか、判断できそうな者は今のところいなかった。

 

 会話が一段落したことで、ふたりそろって歩き出す。天気や気温、季節のことを話している時は心が安らいだ。アオイには最近こんな話をできる人がいなかった。マニとはよく話をしていて会話に困らないが、天気予報を毎日チェックしているわけではなく、運命論に傾倒していた頃のマニを思い出すのが嫌なのでアオイのほうからなるたけ触れないようにしていたのだ。

 

(……この日常を、私は愛していたのかもしれない)

 

 別棟へ向かうための外廊下を歩いていると風が切りそろえた前髪を揺らした。日当たりはジリジリと焦げるほどに熱いのに、ここは涼しい。現実では、爆発の影響でこの廊下も封鎖になっていたらしい。今では修理も済んだだろうか。変わらないことは悪いことだともてはやされるが、変わらなくとも良いこともある。この日常のように。

 

「穏やかだな」

 

「そうだね。今日はいい日だ。天気も最高。月の暦は満月だったはずだ」

 

「そうか。……なんだか、仕事をしているのがバカらしくなる日だな」

 

 シンオウ地方では在宅の仕事をし、最近では博物館の事務員として勤めはじめたが研究室で過ごした以前の調子はまだ取り戻していない。そのおかげで体はまだ「毎日が日曜日」だと勘違いしているらしかった。

 

「今から車をとばして海でも見に行くかい? 運転するよ」

 

「ははっ。そりゃいい提案だ」

 

 悪夢のなかではなかったら、本当に実行に移していたかもしれない。アオイは一瞬止めかけた脚を大きく踏み出す。

 

 その脚は、しかし再び止まった。

 

「アオイ? ――ああ、バニィ。戻ってきたんだね。暑かっただろう」

 

 アオイを通り越して歩くパンジャの向こうにバニプッチがよろよろ浮いている。彼女のバニプッチはお昼を食べるとよく外に出たがるのだ。帰ってきたら冷蔵庫で冷えている様子を見ると温度差が気持ちいいのだろう。しかし、午後3時に戻ってくるとはよっぽど暑さに参ってしまったらしい。よく見れば普段より溶けていることが分かる。

 

 だが、アオイの目は別なものを見つめていた。

 

「君は……」

 

 アオイは、暑さのあまり建物の日陰に避難したポケモンの姿を認めた。暗がりにもぞもぞ動く『彼』には見覚えがある。ああ、目の奥がジンと痛い。

 

 この瞬間を待っていた。

 悪夢のなかに入らなければ二度と訪れない、この瞬間をアオイはずっと待っていた。『彼』を失った後、ずっと抱え続けていた願い。

 

 願いが叶うと、ひとは言葉を失うらしい。満ちることを知らなかった心が、深い充足感を覚える。この感情は生まれてはじめてかもしれないという考えがよぎった。

 

「ジュペッタ」

 

 アオイの声は、言葉になっていなかった。二度目に呼んだ時は最初より音が出た。存在を確かめるように三度目を呼んだ。ジッパーで閉じられた『彼』――ジュペッタの口が名前を呼ばれて不快そうに歪んだ。

 

 それでも良かった。彼の名を呼んだアオイは自然に笑うことができた。どんな顔をされようと、何をされようと、動いている『彼』より重要な物は、この瞬間ここに存在しなかった。

 

 

 ――ああ、私の望みは、本当の望みは、ただもう一目だけ、動く『彼』の姿を見ることができれば……それだけでよかったのかもしれない。

 

 失われたものが、もう一度この手に戻ってくるのならば何を代償にしても構わない。

 

 見解の対岸にいた彼は、その心情の一片を理解した。

 




【『彼』の名前を呼んで】
 ようやく呼ぶことができた。作者はホッとしている。このシーンは小説を書き始める前に固まっていたが、形にするまでにずいぶん時間がかかってしまった。
「見捨てられた」「抱きしめられたい」「金色の金属のようなもの」「お口にチャック」「おもちゃ箱」――これまでクイズにもならない仄めかしに、もだもださせてしまったかもしれない……申し訳ない……。もし別の検討を付けていた人がいるのならば、それはそれで作者的にちょっぴり嬉しい。

【「私」でありえた「彼女」】
 作中、アオイと同一であることにこだわっているのはパンジャである。アオイはそれを認識しても、同一に固執することはない。まして同一に成ろうとすることもない。母の愛を与えられた者、与えられなかった者、その差は許容できる。過ぎたるは及ばざるが如し。母の愛が過剰・過激・過重であったパンジャを見ては「あんなのなら無くても良いな」と思っているアオイにとってそれは彼女限定で誤差の範囲なのだ。しかし、救われた者と救われない者。どれだけ似ていても決定的に違うそれを怒りや後悔、羞恥により決して許容できないのだ。

【作中の登場人物達の身体能力について】
 限界はどのあたりなのか。図鑑にある数値を参考にするとサトシは大変な力持ち、頑強な人物になってしまう。本作の限界はBW2のCMに登場するダークトリニティを上限としたいと思う。
 アオイは50mを走った後でタイムを聞き「う、うそだろう!」と思った。9.8秒。とても遅い、というわけではないが、もうすこし速いと思っていたらしい。もともとインドアなせいかなかなか筋力もつかず、最終的に彼は「今後の肉体労働はパンジャに任せよう」という結論になった。それが悪夢の世界において「できる」「できない」の可能性を決定的に分けることになるとは、彼自身まだ気付かないことであった……。

【バニプッチは溶けるのか?】
 溶ける可能性があるから温度変化の少ない洞窟のなかを住処にいるのではないか、と予想しています。いくらマイナス50度の息を吐けるからといって夏の暑さは難しいでしょう……たぶん。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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  • 物語(ストーリーの展開)
  • 世界観
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