もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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case1.『彼』の名前を呼ぶ(下)

「はッ!?」

 

 アオイは、起きた。

 

 水中から引き上げられた人間が、今一度息をするとしたらこんな心地になるだろう。

 体を起こそうとすると首の上で頭が据わらずにぐらぐらした。この眩暈には覚えがある。

 

 そうたしか、あれは病院の出来事で――。

 

「この世界は、間違っている。私だって間違っている。正しいとは口が裂けても、とても……。だが、私と同じくらい、この世界は、間違っている……のに」

 

 まだ、生きている。生きている。生きて、いるのだ。――残念なことに、とは思いたくない。

 

 眩暈が収まり、むくりと体を起こすと意外なことにすんなり起きることができた。あぁ、うぅ、と言葉にならない呻き声が漏れた。そんな彼に――。

 

「やあ、アオイ。ご機嫌はいかが?」

 

「最悪だ……最悪だとも……最低が地の底を這っている」

 

 アオイは、彼女の声に吐き気を覚えてベッド上で嘔吐いた。本当に残念なことに何も出てこなかった。血反吐が吐ければ、気分がすこしは変わったのだが。

 

 彼女、メアリー・スーは面白そうな声音で彼の機嫌を転がした。

 

「苦悩を有する理性を愛せよ、アオイ。まあ、このわたし、メアリー・スーのプロデュース悪夢だからね、そりゃあ最悪の災厄だっただろう」

 

「メアリー……」

 

 アオイは病室にいた。この病室は、事故後に運び込まれた近所の病院の一室。かつてこの空間を満たしていた痛々しいほどの沈黙が、思考を迫った日を覚えている。完璧に再現されたその病室に、無いものといえばアオイ自身の怪我とパンジャの存在だった。

 

「あなたには必要のないものだ。すぐに次の悪夢にレッツゴー」

 

「は……? 次……だって?」

 

 アオイの声は、動揺のあまりかすれきっていた。

 

 ベッドの隣においてある椅子から立ち上がったメアリーは、ニヤリと笑ってから、しかし、思い出したようにまた椅子に座った。

 

「ああ、そうだ。作戦会議をしてから行こう。そうだな、アオイ?」

 

「メアリー、次……って何だ……?」

 

「決まっている! 君が『彼』を救う未来を見つけるんだ! さあ、君の手で輝かしい未来を作り出そうじゃないか!」

 

 アオイの心は、安堵と恐怖がない交ぜになった。

 

(――ああ、また『彼』に会える。失敗するかもしれない。でも会える。死ぬかもしれない。会えるんだ。生きている『彼』にもう一度!)

 

 ああ、とか、うん、とか言ってアオイは頷く。さまざまな可能性が目の前を忙しく行き交っていて、思考は正常に働いていなかった。

 

 上機嫌なメアリーを放って、ベッドの上に投げ出された体を見つめる。そのうち左手が震えながら、目のあたりを押さえた。怪我は跡形もない。もちろん、火傷の痕のケロイドも無い。しかし、アオイには、さっき一度、死んだ記憶があった。

 

(高圧電流、まともに当たった……ような、気がする)

 

 目か瞼か、そのあたりに飛んできたが、目の焦点がその先にあったせいでよく分からない。ただ死をもたらすと直感できた青白い光が、視界を埋めていた。

 

 失敗で学んだことのひとつ、きっと死んだ記憶は蓄積され、都合良く無くなってしまわないのだろう。もしも、これから先もこの試行が続くのならば、恐らく、8日経つより先に心が死ぬ。摩耗する間もなく、消費されてしまう。

 

 人間の心は、他者の死を乗り越える強さを持っているが、自分の死を乗り越える強さを持っていない。通常では起こりえないからだ。しかし、乗り越えることができるとしたら、心の強度はいかほどか。そしてその先に、何があるというのだろう。

 

(私は……ああして死んでしまうのか。死とは、あのようなものなのか。熱いとか、寒いとか、感じる暇が、無かっ、た)

 

 これは、知ってはいけないことだ。頭の、まだ正常な思考が叫んでいる。アオイは死を垣間見た。人間として、大切な一線を越えてしまった。その一瞬、恐怖が安堵を上回った。

 

 パン、と手を合わせる音に、アオイは思考から病室へ戻り、体をビクつかせた。

 

「な、なんだ……!」

 

「作戦会議だとも。ホワイトボードに注目したまえ」

 

 メアリーが指を鳴らす、どこからともなく現れたホワイトボードには、時系列にアオイと周囲環境のことが羅列してある。

 

 その末尾に書かれた言葉に、アオイは歓喜も恐怖も忘れて叫んだ。白板曰く――カブトプス、励起。

 

 視界が、ここには存在しないはずの赤色をチカチカ点滅して訴えた。

 

「パンジャ…………パ、パンジャ! あの裏切り者! ああ、あぁ、あ、あ、あの野郎! 私を! この私を騙すなんて! 君が私を信じるように――研究に関しては、君を、君だけは信じていたのに! 実験は成功していたじゃないか! あれは、大成功の部類だ! なんてことだ! こんな、こと、あってはならないのに……! あってはならなかったのに!」

 

 ぜいぜいと息を切らしたアオイは、両手で顔を覆う。

 どんなに喚き散らしても、この悪態が晴れることはない。シーツを引き裂くように、爪を立てた。

 

「なぜだ! なぜなんだ!? パンジャ! 私を騙すなんて! 私の夢は、私のものだが……! この実験は、君のためでもあったのに! 私達のッ……未来の、ため、なのに…………!」

 

 裏切られるなんて思わなかった。そう言えば嘘になる。――――などということ、疑心のひとつさえ、アオイの心には無かった。

 

 自分が酷く傷ついていることにアオイは衝撃を受けていた。そして、彼女を心の底から信頼していたことを理解した。今さらだった。取り返しのつかない後悔はいくつもしてきたが、これは本当に今さらで、酷い傷跡だった。

 

「ああ、君が憎らしい! こんな感情を向ける最初が、君なんて最悪だ。大切に思っていたのに、本当に、大切に思っていたかったのに……でも、君が悪いんだ。ぜんぶ、君が……君が、君さえ嘘をつかなければ、私は……このザマになっていなかったかもしれないのに! パンジャ……どうして私に、嘘を……? どうして……君は……!」

 

 分からない。彼女のことはたいてい知っているつもりだったが、今は、何も分からない。実験の重要性ならば知っていたはずだ。

 パンジャの顔で、メアリー・スーは笑った。

 

「いち、実験の成功を教えるとアオイが実験を続けるから。にい、なんとなくアオイに意地悪したい年ごろだった。さん、アオイの実験結果を横取りしたかったから。――さあ、好きなものを選ぶといい!」

 

 メアリー・スーは言う。実験中、経過観察の様子を実況するような声音だった。

 アオイは、涙を滲ませた目を擦った。

 

「パンジャが……そんなことをするはず、ないだろう。何があっても私が彼女の味方であるように、彼女も私の味方だ。――信じなければ、救われない。きっと事情があるのだろう……事情、そう、事情が」

 

 アオイの発想はすでに現実逃避だったが、こうでも考えなければ頭がおかしくなりそうだ。パンジャは迎合的で――依存性が高いといったのは私だったか、その真偽は今となっては怪しい。

 

「違う違う、信じろ、アオイ。お前が信じなくて、誰がパンジャを信じると言うんだ……パンジャが……私のことを……裏切るわけがない、きっと、何か……私の不利益を……許さなかっただけだ……と思うことにしよう…………うんうん」

 

「呆れるな。本当に依存していたのは、どちらだったのだろう」

 

「……何の話だ」

 

「はあぁ。健常者は良心が過ぎる、という話さ。もたれかかって疲弊するのなら共倒れが精々なのに」

 

「……前向きに考えよう。一回死んだ程度で実験の成果が分かって良かったのだと。うん、それだ、そうしよう」

 

「ずいぶんと高い対価だな。実験の結果は、本来無償でもらえたはずの情報だ」

 

 アオイは、その言葉に答えず、代わりに建設的な話題を提供した。パンジャのことはできるだけ考えたくなかった。

 

「ジュペッタが動いていた。……不覚にも、本当に思いがけず……感動してしまって、正常な判断ができていなかったように思う。研究棟に入るまで、もっと打ち解けられるような会話をするべきだったのでは……なんて、いまになって思うのだが」

 

 からから、と軽薄にメアリー・スーは笑った。

 

「それは無理だろう、アオイ。あなたとジュペッタの不仲は年季の入ったものだ。それが会話のひとつふたつで『お手々繋いで帰りましょう』には変化しない。水と油が溶け合う性質に変わるくらいに問題のあることだ」

 

「それは……! そうだが。一度目の爆発の後にジュペッタは照射室へ入ってしまった。その理由は分からないが、私は、危ないことをしてほしくないんだ。今回ばかりは制御しなければならない。……できるものならば、私が爆発の直後、起き上がってジュペッタを抱えて外に出てしまいたい。だが、できないだろう」

 

 アオイは無意識のうちに脚を撫でていた。この時点において、研究室の出来事は「無かった」ことになっているのだろう。身体のどこにも怪我は無かった。

 

「ああ、そういえば。あなたの怪我の具合は、ずいぶん酷かったね。よくもまぁ動けたものだと感心して、観測していたよ」

 

 今は怪我一つない腕を撫でて、アオイは考える。

 それから、実験の前は、と整理するように言った。

 

「装置の出力を落とすことで、爆発の勢いを削ぐことができるのではないかと考えていたが、爆発が機材ではなく、復元したポケモン由来のものであったのなら、話はまったくの別物になる」

 

「カブトプスが出てくるとは意外だったかい?」

 

「カブトプスの状態で出現することは、意外だった。てっきりカブトで出てくるかと……爆発は、何のわざだろう。あれを防ぐことができれば、私の怪我も減って生存率が上がるのだが……」

 

「それにしても、あなたは惨いことをしたものだ。見たかい、あのカブトプスを。上体しか復元できていなかっただろう」

 

「欠損した化石が原材料なのだから、仕方がない。あのパターンを考察できれば、7割程度しか見つからなかった化石でもメタモンから作った幹細胞を癒着させて復元確率が上がるだろう。上がる、だろう、上がって私達の成果が…………だから――パンジャぁぁッ! なぜだ! なぜだああぁッ!」

 

 アオイは再び頭を抱えた。気を抜くとパンジャへの疑問で思考が埋め尽くされてしまう。

 悪夢の奥底、ど真ん中で精神の主体性が揺らぐことの危険性は、頭のどこかで理解しているのだが、感情の抑えが利かない。怒りなのか、悲しみなのか、簡単な感情の判別さえつかなかった。

 

「アオイ、しっかりしろ、アオイってば」

 

 メアリーが、背中をさする。その声音が面白がっていたので、アオイの感情は怒りに振り切れた。

 

「うるさい! 黙れ! 黙っていろ! パンジャの顔で! 声で! 私の名前を呼ぶな! この裏切り者がッ!」

 

「ほう。それじゃ君のご母堂に化けてやろうか」

 

「うぅ……それはやめてくれ……。取り乱してしまった。これはいけない、とてもいけない、いけない……」

 

 アオイは努めて冷静を取り繕い、ホワイトボードを見つめた。

 

 次の方策を練らなければならない。

 

 必ず成功する、一手。

 

「…………悔しいが、いまは無理だ」

 

 長い沈黙の後で、アオイは言った。

 

「おや、アオイったら諦めるのかい?」

 

「いいや。諦めないが、分からないことが多すぎる。カブトプスが使ったわざも分からないのでは、対策の練りようが無い。姿を見たのだって、ほんの一瞬だ。どの程度身体の機能が使える状態だったのか分からない。今のところ、カブトプスを倒す方向で打開を目指しているが、状態によっては放置して逃走に徹した方が安全かもしれない」

 

「まあ、たしかに。あなたの主観では、まだまだ情報が欠けているな。――だが、それを言う意味を分かっているのか? すべての情報が出揃うまで君は失敗し続ける。つまり死に続けるだろう」

 

「メアリー・スー。私は、博打をしない。必ず負けるだろうからな」

 

 確率に願いを託して、このありさまだ。だから勝負はしない。

 それでも。

 

「もし、勝負をするのならば、悪夢の尽きる階。8日目の最終回だ。……柄にもない大勝負を賭けるだろう。これまでそうしてきたように、今度も性懲り無く」

 

 その手を使わないに越したことはない。

 だが、望んだ未来に「もうすこし」で届く時、勝負をする必要がある。

 

 そのために、その瞬間のために、準備を。1日目の「できない」が、8日目は「できるかもしれない」に確率を引き上げる情報を探す。

 

「理由があれば、どんな苦痛も耐えられる。私は、信じている」

 

「ふぅん……。それも良い選択なのだろう。わたしは、そうだな。せいぜい君の精神が参ってしまわないことを祈っているよ」

 

 彼は、両手を開く・閉じるを繰り返して、気分を入れ替える。

 そしてベッドから降りて、靴のつま先で真っ白な床を叩いた。

 

 その床に落ちる影はひとつだ。いつも寄り添ってくれたパンジャがいない。左側、彼女がいない空間が、むやみに広い。

 

 だが、立ち止まる時間は惜しい。パンジャへ募る気持ちを押し殺し、アオイは自分の頬を叩いた。

 

「しっかり、しろ! この野郎! ……私は、パンジャを責められない」

 

「へえ。許すのか?」

 

「許すとか、許さないとか、私は言える立場ではないだろう……。だって、実験に巻き込んだのは私だし……」

 

 彼女を巻き込んだきっかけは些細な理由で、軽い動機だったと思う。隣にいた、とかそういう理由だ。

 

「でも、あなたに嘘をついたじゃないか。実験が成功だと知っていれば『彼』を失ったと知っても、あなたの救いになっただろう。――重罪だ。裏切り者だと思うな」

 

「たしかに救いだが、私は『彼』を失った正当性を得る代わりに、いよいよ後には引けない状態になっただろう。パンジャは……私の夢を壊す代わりに、私に退路を作ってくれた……のだと思う、たぶん、彼女のことだからそこまで考えていたのかどうかは、ちょっと、いや、だいぶ……怪しいが……」

 

「では、パンジャは何を考えていたんだ?」

 

 アオイは握っていた指を一本ずつ解いていった。赤色が治まった視界の端に、見慣れた花が映った。ベッドサイドに置かれた花瓶。花器の名前を知らないアオイでも、その花の名前だけは知っていた。

 

 パンジア。彼女の名前の花だ。

 

「私を失うことで傷つきたくなかったのだろう。自分が傷つくことを厭わないパンジャが、そんな行動をするとは想定外だったが……」

 

「なんだ、あまり怒っていないな」

 

 メアリーは、つまらなそうに言った。

 彼女は、退屈している。そうだろう。メアリー・スー(完全無欠で最強 )なのだから。

 

 この世界で、アオイだけがこの感傷を持っている。

 

「私も、パンジャがいなくなったら悲しい。気持ちは分かるんだ。それに、夢の中で騒いでいても仕方がない。彼女には後で、きっちり問い詰めるとしよう。しかし、パンジャ、ま、まさか、ほかに隠し事はないだろうな!」

 

「君の言動がDV男のそれで、さすがのわたしもドン引きだよ」

 

「い、いや、違う、そんなつもりでは……パンジャは私に負担をかけまいと妙なところで気遣いをするから、気になってしまうという、ほ、本当にそれだけなんだ。パンジャと同じ顔の君に言われると、きゅうしょにあたるので、本当にやめてほしい……」

 

 言いわけがましくなってしまうことを承知で言ってみるが、思いの外、惨めな気分になり、アオイはプイとそっぽを向いた。

 

「ふぇ、な、なんだかくしゃみが出そうだよ」

 

「あっち向いてやってくれよ」

 

 アオイは努めて冷たく言い放つと、歩き始めた。

 

「メアリー・スー。私は、次へ行くぞ」

 

 

 限りのある時間を生きている。それも目に見える終わりに向かう夢のなかだ。

 

 

 これから同じ時間を、何度も繰り返す。――きっと正気の沙汰ではない。

 それでも、まだ大丈夫、まだ頑張れるはずだと自分を励ました。

 

 この苦痛の先には、夢見た世界がある。

 始める時には無かった確信が、今の自分にはある。

 

「風見鶏は、まだ回っているか」

 

「回っているし、廻っているとも。未だ君の望むままに」

 

 アオイは、返事代わりに右手を挙げる。

 そして。

 

「試す価値は、充分にある。これもそのひとつだ」

 

 

 かつて這い出ることしかできなかった真っ白な病室を、今は自分の脚で退室した。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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