もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

85 / 107
予約済みの栄光を君に

 

 マニ・クレオは、混乱の極みにいた。ひどく取り乱したせいで一緒にいるメタモンだけでなく、なんとヤドンにまで気遣われてしまうという、世にも稀な事態は進行形だった。

 

「アオイさんが、熱中症ですって?」

 

 当事者以外では、事の――限りなく真相を知るマニは、できるだけ「初めて聞いた、驚きだ!」という顔を作っては、大袈裟に肩をすくめて見せた。

 

 マニが空とぼけて見せたのは、ハクタイシティの街、アオイの家から一番近いカラマツ病院だ。

 

 カラマツ医師は分厚い老眼鏡の向こうから、本日最後の問診者に訝しむ目を向けた。

 

「あぁ、僕は、その、アオイさんの、後輩? あ、いいや、僕の方が勤め始めて早いのだから、僕が先輩か。まあ、そんな感じです」

 

「個人情報だよ。患者の知り合いとはいえ、答えることはできない。マニ君。君は、病人でないのなら帰りなさい。予防接種の時期には、まだ早いよ」

 

 追い返されそうになり、マニは頭を下げた。

 

「そこをなんとか! お願いです! アオイさんのことが、本当に心配で……僕、イッシュから帰ってきたんですよ。熱中症で3日も寝込むはずがないでしょう。あの人は、起きているんですか? ご自宅にはいなかったのですが……」

 

 カラマツ医師は、無言で立ち上がると奥の部屋に消えた。

 

「あ、あの!」

 

 ちょっと待って、と言いかけたが、カラマツ医師の背中は拒絶を雄弁に語るもので、マニは思わず黙ってしまった。

 

「ああ~っ……」

 

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 マニは両手で顔を覆うと天井を仰ぐ。この病院の病室は2階だと聞く。医師の了解が得られないのなら、このまま2階に突入するか。

 

 つい先日、イッシュ地方から戻ったマニは、すぐにアオイが利用していたはくたい生活支援センターのチャチャへ連絡をとった。するとアオイとの連絡が途絶した1日後に、彼女は自宅を訪れたのだという。そこで寝室で昏睡しているアオイを見つけて……。という流れらしい。

 

 ひとまずアオイが生きていることが分かり、帰宅途中の車の中で、マニはようやく胸をなで下ろした。

 

『寝室で、意識が無くて……ああ、本当に驚いてしまって、とりあえず病院へ運びました』

 

 そう語るチャチャに運ばれ、やってきたのがこのカラマツ病院だ。こじんまりとした医院だが、地方病院としては設備は整っていることが幸いだ。――普通の病気ならば、さらに安心できたのだが。

 

 ひとまず、入院したことで、脱水症状による死因は遠ざかった。マニがすべきことは、これからだ。

 

 アオイの状態は、普通では無いのだと医師に伝えなければならない。誤解を与えないように、慎重に。しかし、伝えてどうするという問題もある。アオイがダークライの悪夢にいるとすれば外界――アオイの身体のある、この現実世界のことだ――の刺激で起こせるのだろうか。分からないことだらけで、問題は山積みだ。

 

 だが、何もしないではいられない。

 

 マニは、パンジャの尊重という名の停滞を否定したい。

 

 アオイを叩き起こして、悪夢から醒めるならば、迷わずそうする心算だ。

 

(医師に悪夢だ何だと説明して、信じてもらえるものか……? でも、3日も動かないアオイさんを見ていたんだ……何かおかしいと気付いているはず。今話していいものか……)

 

 医師の後を追いかけよう。そう思って立ち上がった。見計らったように、奥の扉からカラマツ医師が顔を出した。

 

「マニ君、来なさい」

 

「あの、カラマツ先生、僕は――」

 

 アオイさんのことを話しに来たんです。小声で伝えた、それは最後まで形ある言葉になっていたのか。

 

 扉の向こうに置いてあるベッド。誰がいるかもしれないそれに目が離せない。この街は、マニの生まれ育った街だ。誰か、僕の知っている人だろうか。もし、知っている人だったらどうしよう。足を動かすが、嫌な予感はつきまとう。マニは知らず知らず頬が強ばっていくのを感じた。

 

 はじめに見えたのは、銀色だった。釣り下げられた袋が、重たげに水滴を垂らしている。目で、緩く弧を描く透明な点滴チューブの先を追った。

 

 その先で白い顔をして横たわるアオイの姿に、これまで積み上げた思考が飛んでいった。

 

「ア、アオイさん! アオイさん……アオイさん……そ、そんな……ほ、ほ、ほんとに、あなたって人は……! ……寝てるだけなんでしょう、アオイさん、お願い、お願い……起きて! 起きてくださいよ!」

 

 アオイの胸は、浅く、深く、上下し規則正しく動いている。だが、彼は反応を示さない。その無関心が気に触る。マニは病衣の襟を握った。

 

「あなたのせいで! あなたの納得のせいで! あなたを悼む人がいるのに、どうして無茶するんだ、こ、この……! この! ばか! 僕だって、コウタさんだって、パンジャさんだって、救われないのに!」

 

 アオイの呼吸は、乱れない。常に一定で、恨めしいほど外界の刺激に鈍感だ。

 

 一息で言いたいことを全て言ったマニは、アオイから手を離した。

 

「カラマツ先生、どうしよう、先生! 僕、アオイさんを救いたくて帰ってきたのに、方法が、僕には分からない……。ああ! 僕はいつもこうだ! 何も知らない! 何も分からない! こんなざまで、いつも……今だって!」

 

「マニ君は、何を、どこまで、知っているのかね?」

 

 カラマツ医師は、静かに訊ねた。泣き崩れるマニの腕を引き、病床の隣に置かれたパイプ椅子に座らせた。パイプ椅子は、ギシ、と軋む音がした。

 

「彼の状態は、熱中症が原因ではない。運ばれた時は、脱水症ではあったが、症状としては軽微。水分補給で1本、栄養を3本、点滴から行っている。だが、ここに運び込まれた最初から意識が無かった。今も深い昏睡状態だ」

 

「瞳孔は? ちゃ、ちゃんと、動いているんでしょうね?」

 

 医師は頷いた。マニは目を腫らして、ぐずぐず鼻をすすった。

 

「精密検査をしてみても結果はグリーン。外傷は認められず、彼は、データ上ちょっぴり痩せている健康体だ。脳波も昏睡あるいは、ただの睡眠と変わりがない」

 

「ほんとに寝ているだけ……なんですね。身体は……」

 

「君は、眠りの理由を知っているのか?」

 

「たぶん。でも……確信がなくて……僕、まだ、はっきりと、した、ことは言えないかも、です。……ただ、連絡がとれなくなって。倒れているんじゃないかって心配していたら、もう……」

 

 マニは、ダークライのことを言うべきかどうか迷い、ひとまず伏せた。アオイの昏睡は、恐らく計画的なものだ。ならばきっと、実験の計画がどこかにあるはずだ。医師には悪いが、アオイの家にあるであろう、それを確認してから話そうと思う。

 

「……そうか。君、アオイさんの家は知っているかね」

 

「はい。これから訪ねてみようと思います。同居人はいませんが、アオイさんのポケモンが――あれ、ミアカシさんは?」

 

 アオイの状態にばかり気を取られてしまい、忘れていたが、そういえばヒトモシのミアカシがいない。それからいつもひっそりと付き合っているラルトスも。

 

 彼を覆っている薄い毛布の下をめくっても、ベッドの下にも彼女達はいなかった。

 

「運び込まれた時から、いなかったようだ」

 

「本当ですか? あの子、いつも一緒なのに……どこかで迷子になっているのかな」

 

「そのあたりの事情は、アオイさんを運んできた、センターのチャチャさんが詳しいだろう。……もっとも、今会いにいくのはオススメしないがね」

 

 どうしてだろうか。

 マニが不思議そうな顔をすると、医師が肩を落とした。

 

「彼女が第一発見者だから」

 

「あっ。そっかぁ。ショックですよね……。アオイさん、あなたは……もうちょっと取るべき手段があったはずですよ。今のあなたに言っても、しょうがないんですけど……」

 

 そう言い残してマニは病院を出た。嵐が近づいている。雨は地面が白く煙って見えるほど、激しく降り続いていた。マニは医院に傘を忘れてきたことに気付いたが、構わずに走り出した。横たわるアオイの白い顔が、妙に印象に残って、檻じみた病院から逃げ出したかった。

 

 やがて車に駆け込むと雨粒が滴る顔を拭った。全身が冷える。ひょっとしたら、風邪を引くかもしれないと思うが、思考に上せるだけで、だからどうした、という気分が大きい。

 

 ハンドルを握る手から力が抜けた。マニは、目を閉じて額をハンドルに押し当てた。ゴツリと固い感触が、これまた絶妙に現実的で、夢ならいいのに、と柄にもなく思った。

 

「しっかり、しろ、僕。決めたんだろ、アオイさんを助けるって。決めたんだ。それなら、僕は、やらなくちゃ」

 

 エンジンをかける。熱い湯が空っぽの容器を満たすように、指先まで力がこもった。

 

 

◇ ◆ ◆

 

 

 

 アオイの家に着く頃には、もう夜になっていた。

 

 着いてから、家に入る手段が無いことに思い至り、マニはエンジンを止めると同時に、ハンドルに項垂れた。

 

「だ、だめだ、入れない。鍵だって……アオイさん、几帳面そうだしなぁ、開いてないだろうし」

 

 今から生活支援センターへ行って、チャチャさんにアオイの家の鍵があるかどうか確認を取ろうか、いやいや、もう夜中だ。普段の僕ならお風呂に入ってアイスを食べながらゴロゴロしている時間だ。

 

 しかし、ここまで来て何もしないというのも、あんまりなのでマニはひとまず車から降りた。

 

「な、なんか、僕、ドロボーっぽくない? 大丈夫? た、たぶん、大丈夫だって、アオイさんから呼び出したのだし……」

 

 自問自答をして、取っ手に手をかける。そこでハタと思い出した。「呼び出し」といえば「課題」のためだった。「課題」と言えば、もうひとつ用件があったような気がする。

 

「なんだっけ。わりと、重要な、気が――」

 

 その時、携帯の着信音が響いた。

 

「ひっ! うおおおおおおあああッ! な、なんだ……?」

 

 着信の表示を見れば、同じアパートに住んでいる妹からだった。画面を殴ってもしょうがないので、マニは電話に出た。ちょうど2コール目が鳴り終わろうとした頃で、電話の向こうにいる彼女は、機嫌を損ねていた。

 

「も、もしもし? な、なんだよぉ……!?」

 

『あっ! 兄さん? シンオウに戻ってきたの? もー、今日帰ってくるなら、帰ってくるって言ってよね。わたし、友達呼んじゃったよ』

 

「え、ああ、うん。でも、それ、僕と関係ある?」

 

『アリアリよ。兄さんの寝床は無いから』

 

「な、なんでだよ!? 僕、帰っちゃいけないっていうのか! 僕のアパートなのに!」

 

 一方的な都合を押しつけられ、マニは、アオイの自宅前で目を白黒させた。そして、心の安定を求めるために自宅へ帰りたいと思っていたらしいことに気づいた。

 

「僕、めちゃくちゃ疲れてるんだ……頼むよ」

 

『そう言っても予定を変更したのは兄さんでしょ。もう友達来てるし、アオイさん家に泊まるって話じゃないの?』

 

「と、泊まれるなら、泊まりたいけどさあ、アオイさんが…………」

 

 事情を話すわけにもいけない。マニは咄嗟に口を噤んだ。何となく、後頭部が寒くなり、結んだ髪を撫でた。

 

『兄さん、アオイさんと喧嘩したの?』

 

「そういうわけじゃないけど、アオイさんが……その、体調不良で……」

 

『そっかぁ……。でも、アオイさんは兄さんを泊めるつもりなんじゃないかな』

 

「さっきから、どうしてアオイさんが僕を泊めるって話になっているんだ? なに、もしかして僕の留守中に、アオイさんから電話来た?」

 

 まさかと思って言った言葉に、電話の向こうにいる妹は「まあ、近しいものは」と言った。

 

「はッ? なに!? いつ!? どこで!?」

 

 アオイの遺書めいた連絡は、数人の友人と知人の連絡網に行われた。

 

 マニが気になっていることのひとつに「最後の通知は、いつなのだろう?」という疑問がある。

 

 彼はいつから眠りの中にいるのだろうか。

 

 その正確な情報は分かっていない。それさえ別れば残り時間が分かる。これが手がかりの一助になるのではないか。その閃きがマニを焦らせた。

 

『これは、郵送で兄さんが出かけた日に届いたの。「入れ違いになったのね」って思った記憶があるから、間違いはないはず。速達で届いて、受け取りのサインをしたよ』

 

「出立日…………いまから、4日前じゃないか」

 

 片手で取っ手を握っていたマニは、のろのろと手を解いた。

 

 郵送は、恐らく、メールより前に発送されたものだ。時間の余裕がなければ、到着通知が届く郵送を使わないだろう。

 

 ――やっぱり、計画的だ。

 

 この家のどこかに、きっと企画書がある。

 確信を得たマニはガラスを割ろうと辺りの地面に、手頃な石が無いかどうか探した。

 

『それで兄さんの仕事関係だといけないと思って、封筒を開けたら鍵が入っていたの』

 

「なんだって? か、鍵?」

 

 マニは、泥だらけになった手を握る。

 

『付箋紙が入っていたの。アオイさんから……ええと「必要になった時に、いつでも訪ねてきてください」って。とても丁寧な文章だったわ』

 

 顔を上げた彼は、黒々と横たわる夏の夜に、一筋の光明を見た。

 

 

 

 

◆ ◇ ◇

 

 

 

 手段があれば、事態は動く。

 数十分後。

 アオイの家の鍵を入手したマニは、彼の書斎に立っていた。 寝室から漂う酒臭い香りが、彼に似つかわしくない

 

 物が整理されたリビングや廊下と異なり、ここは乱雑に書物が置かれていた。いつか積み上げた本が倒れたのだろう。スペースといえば車イスを放置するために開けられた小さな場所と彼が這いずるための道があった。

 

「…………」

 

 書類をかきわけて、書斎のテーブルに近づいた。そして、これみよしがに置かれたオフラインのノートパソコンを開く。

 

 スリープ状態から立ち上がると、パスワードを要求された。

 

「えっ!? 僕、知らないぞ!」

 

 とりあえずアオイの誕生日を入力してみる。パスワードが違います。あまりに妥当な返答だ。

 

「アオイさんのフルネーム……いやいや、安直すぎる。ミアカシさんは……」

 

 パスワードが違います。これも安直すぎた。

 

「ほかに何か。他のみんなが知らなくて、僕だけが知っていること……」

 

 マニは、考える。

 

「コウタさん、とか。親友だって言っていたし……」

 

 パスワードが違います。間違えた回数は3回。

 パチリ。スクリーンに警告が表示された。曰く。あと2回でロックされます。

 

「それじゃ、パンジャさん……かな」

 

 キーを間違えないように、慎重にひとつひとつ丁寧に押した

 しかし。

 

 パスワードが違います。

 

 表示された無機質なメッセージに、マニは固まった。

 

「えっ!?」

 

 これ以外のパスワードはさっぱり思い浮かばない。ミアカシさんの誕生日? コウタの誕生日? それともパンジャの? それとも、ほかに何か特別な名称があるだろうか。

 

(僕でも分かることで、僕にしか分からないこと、アオイさんことを知っている僕だから分かること)

 

 今だから、大切にしているもの。

 

「でも、あなたは不器用でわがままだから、こんな時でさえ、素直に言えないんでしょう」

 

 気付いてしまえば、最後の1回を躊躇うことも迷うこともなかった。

 

 パンジア。

 

「アーオーイーさんッ! このぉ!  も、もう! 僕のこと、バカにして!」

 

 これはきっとアオイの性格の悪さが反映された、だが良心だった。

 

「マニさんにも分かるように、簡単なパスワードに変更しておこう。しかし、そのままだと安全上問題が……彼でも思いつくような、ひとひねりを加えておこう」とか考えたのだろう。

 

 彼のやりそうなことだった。そして助かった。これ以上のパスワードらしい単語をマニは見つけられそうにない。

 

 今はそれでもよかった。

 

「……どこだ、どこに、あるんだ。企画書、実験の……手順書は……」

 

 家の中は綺麗なのに、デスクトップには無数のフォルダが置いてあった。そのうちのほとんどがテキトウな文字を組み合わせたもので、単語にすらなっていないファイル名だった。整理くらいしておけよ!と急いでいるマニは心の中で叫んだ。

 

 当てずっぽうに開いて――そこでは、ミアカシの写真集とSNSに投稿する前に作成しているらしい下書きを見つけてしまった。マニは1・2のポカンで忘れることにした。――最新の更新順に並び替えれば良いと気付けば、そこからは早かった。

 

 これだ! 見つけたものは、2つの何の変哲もない文章作成用ソフトで作られたフォルダだった。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 マニさんへ。

 

 今回のことを君には、なんと申し開きをすればよいのか。私には言葉が見つからない。学習を中途半端にしてしまったことを申し訳なく思う。

 

 恐らく、君がこのパソコンを開く可能性が最も高いだろう。急に呼び立ててしまい、本当に申し訳ないと思っている。そしてさらに申し訳なく、身勝手にもお願いがある。

 

 後味が悪くなるかもしれない仕事を頼みたい。君にしか頼むことができない。

 

 実験中の私は、何か寝言を話していることはないだろうか?

 

 日頃の私は、ストレスを感じた時に歯軋りをする程度で就寝中は大人しい方らしい(たまに泊まるパンジャはそう言っていた。私に気を遣って言ったのかもしれない)のだが、悪夢のなかにいる時はどうなのだろう。外界にいる私は録音機をまわしているはずだが、できれば君が直接経過の観察を行ってほしい。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 マニは同じ文章を3回、繰り返して読んだ。アオイから何かを頼まれることを、すんなり受け入れている自分がいた。悪夢に没入している最中の彼には、知ることができない情報だ。研究者ならば、一般人でさえ、ダークライの悪夢がいかなるものか、それは実に『気がかり』なものだ。

 

 慎重に、マニは文章を閉じる。そして焦りのあまり、立ちっぱなしだったことに気付いて椅子に座った。

 

 そしてもうひとつのファイルを開いた。詳細情報を見るに、このファイルのデータ量は大きい。

 

 細かな文字に目をこらし、画面に鼻をつけるように注視した。

 

 マニはアオイの現役時代を知らない。

 

 彼がどんな文章を書くのか、彼の頭の中はどうなっているのか、頑なに誰にも真実を話すことなく凶行へ旅だった彼は何を考えていたのか。彼の依頼を果たすためにも知りたいと願った。

 

 

 

『これは、論文だが、最初の1ページほど『私』を語りたいと思う。愚か者の話だが、その後に君は悪くない対価を得るだろう』

 

 

 

 ファイルの更新は、こちらの方が先のファイルよりも遅い。

 だが、これは特定の誰かが読むことを想定していないもののようだった。

 

 そこにあったのは、彼――アオイ・キリフリという男の、曰く「愚か者」の話だった。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 私は、母に省みることなく育てられた。

 

 研究者の熱心な母は、仕事にかかりきりだ。平凡な父は、そんな母を愛しているようだが、異才と平凡が釣り合うことは無い。母が自分ではない男と一緒にいることに、普通の男である彼は耐えきれなかったようだ。母は世界を巡り、父は何処へか去って久しい。

 私が研究者になった理由に、母の存在を欠かすことはできない。過去には、ぼんやりとした理由だったが、今にいたり私は答えを見つけたように思う。

 

 私は、母に追いつきたかった。

 

 置いていかれたとずっと思っていた。だから、手を伸ばした。私は、背を向けた父ではなく、真理を探究する母のようになりたかった。

 

 もう私は子どもではない。子どもでは、いられなかった。だから、あの人も母でなくともいい。ただひとりの人として、私は、ヒイロ・キリフリに追いつきたい。あの人と同じものを見たかった。私を置いていった理由が、その目の先にあるのならば、それを知りたかった。あなたが全てを擲って命を懸けるものならば、希望に焼き焦がされたとして素晴らしいものに違いないのだから。

 

 たかが、それ。

 

 真意の分からない要求のために、私は犠牲を払った。私自身のことは些細な問題だ。最大の問題は、私が支払った代償が、私では責任のとれないものから借り出したということだ。

 

 ポケモンの命は、何にも代え難いものだ。生命。ジュペッタ……どうして私を庇ったのか。私は今回の悪夢でひとつの答えを得ることができるだろうか。たとえ私が死ぬことになったとしても、その理由が解明されるのならば、それもいいと思っている私がいる。

 

 ああ、パンジャ。君に私は、何をすればいいのか、分からない。何も求めない君に、私は何をしたらいいのだろう。決して、許されたいわけではない。罰ならば甘んじて、償いならば迅速に。

 

 君は、本当のところ何も異常は無い。だが、君は、自分を異常だと信じることで記憶を改竄し、分裂した精神を作り出した。全て、私の事業を効率的に運営するために。私のために。私のせいで。

 

 それを最初に教唆したのは、私だ。

 

 誰よりも優しい君は、私を信じてくれた。ご母堂の狂気に良心を痛めて、私に救いを求めた。私は、それに正しい形で応えることができなかった。私は君より賢いのかもしれないが、君よりもずっと誠実ではなかった。

 

 私は、自分で思っているほど優秀で善良な人物ではなかった。

 母ほど崇高な志を持たず、父ほど身の程を弁えなかった、ただの、わがままな男だ。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 独白。

 

 言葉が、マニの頭に浮かんだ。そして次に。

 

(これは、円満な自殺なのだ)

 

 雨が止んでいた。宙に浮く月が孤独であるように。こぼれおちた感想が、ぽっかり口を開けた闇の中に浮かんだ。

 

 マニの印象では、この文章は、書き殴りの一発書きだと思う。本心を明かすのを恥ずかしいと思っている彼のことだ。二度読む愚行はおかさないだろう。推敲しようものなら、彼は自身の羞恥によって、この文章を消してしまっていたに違いない。

 

 アオイは、母に追いつくために、なりふり構わない努力をした。

 

 その結果が、この現状だ。 

 

「まだ……続けるのか、あなたは。もう、いいじゃないか……あなたはお母さんに追いつけなかったけれど、頑張った。それで、もう、いいじゃないか……まだ、だめなのか。もう、それじゃ、だめなのか」

 

 手にキーが触れる。力の加減を誤って押してしまった文字が、スクリーンに表示される。そこで初めてマニはその文章が読み込み専用ではないことに気付いた。このファイルは書き込める設定になっている。アオイが最後に書いた、いまも命がけで実験している内容を誰かが編集することができる。消してしまうことだって可能だ。それは、とても恐ろしい可能性のように思える。マニはすぐさま誤入力した文字を消した。 

 

 どうして、こんな設定になっているのか。

 それは次の頁が教えてくれた。

 

(表紙だ……)

 

 表題は、『ダークライの悪夢による現実解釈の多相性について』

 

 多相性、マニには分からない言葉で(あとで調べておかないと)と思う。

 

 だが、表紙の設定がおかしいことに気付いた。

 表題以外が無い。あるべきものが、無い。

 

 嘘だ嘘だとマニは思い、正しく現実を受け止めきることができなかった。

 

 愚か者の告白を受けた者だけが、享受することのできる対価。

 それは、とうてい等価とは思えない、過度なものだとマニは思った。

 

「あなたは……あなたは、ここまで来て僕を試すのか! この期に及んで、僕の良心を……!」

 

 マニは、呆然とその頁を見た。

 

 

 表紙には、あるべきところに執筆者の氏名が無かった。 

 

 

 ポケモン研究の分野で名誉を得ることを求め、そのために全てを犠牲にすることにした彼が、最後の最後で権利を放棄した。ここにマニの名前が入ろうが、パンジャの名前が入ろうが、はたまたアクロマの名前が入ろうが、彼はもう気にしないことにしたのだろう。

 

 これは、かつてのアオイが見た、遙かなる夢の残骸。

 

 自己完結する『納得』の世界にいる彼には、もう不必要だ。

 

 

 

 

 アオイが悪夢に没入した4日目の夜、5日目の朝を迎えた日。

 

 栄光を約束された世界に唯一無二の情報が、残り数日分のアオイの命と引き替えにマニの目の前にあった。

 

 

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

  • 登場人物たち
  • 物語(ストーリーの展開)
  • 世界観
  • 文章表現
  • 結果だけ見たい!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。