もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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case11. 午後3時26分まで(下)

「アイツ! あの野郎! 普段は石を割るしか能のないくせに、どうしてこうも舞台演者がペラペラと――!」

 

 悪夢の中のどこかにある研究室。

 アオイの意識が戻ってきた時、悪夢の全権能を握るメアリー・スーは荒れていた。椅子を見つければ椅子を蹴り、握ったチョークが音を立てて指の隙間から零れていく。

 

 いや、よく見れば違う。あれは、荒れるというよりも。

 

「何を狼狽えているんだ?」

 

「な、なんだと? この完全にして無欠の勝者が狼狽えるわけないだろう!」

 

 結っていても腰まで届く長い髪を振り乱し、メアリーは声を荒げた。

 

「あなたの足を引っ張るだけで失敗の7割を占めているパンジャが、今度もやらかしてくれたと、笑っていたところだ。あははははっ」

 

「ずいぶん動揺しているように見える。そうだ、そういえば先の悪夢の途切れ方が妙だった。アレは、まるでバグだ。――無理矢理に終わらせたような風に見えたが?」

 

 ポップできるウィンドウがありません等という文句が出てきそうだった状況は、アオイにとってはじめてのことだ。メアリーが特殊な行動、いわゆる強制終了をかけたように思える。

 

 その疑問に、メアリーは目を泳がせつつ言った。

 

「あれはぁ、だな、あれ以上続けても無意味な時間だったのでキリのいいところで切り上げただけだ。君のためを思ってのことさ」

 

「ふぅん……。それではそういうことにしておこう」

 

 アオイは、額面のとおり言葉を受け取らなかった。

 悪夢の中、パンジャが言ったことが――核心に近い。

 メアリー・スーの今までにない慌てようは、それを示唆しているかのようだ。

 

「枝葉末節も極まる世界だ。無意味な時間を過ごしたな。アイツも無茶で無責任なことを言う。彼女はたいそう罪作りなことをした!」

 

 気を取り直したように、メアリーが唇をつり上げた。それにイラッとしたアオイは「意義は有った」と言い、次の試行へ飛ぶために扉を掴んだ。

 

「メアリー・スー、あまり人間をバカにするなよ」

 

「悪夢から抜け出せたら、検討するとしよう。――アオイ、あまり時間がないぞ」

 

「知っている。だから進むんだ」

 

 アオイは、まだ自分が進めると思えた。足の震えが止まる。

 知りたかった未来のひとつを見たからだ。

 

「メアリー・スー。風見鶏が廻っている間は、夢なんだろう?」

 

 彼女は「ハン」と小馬鹿にしたように笑って、取り合わなかった。

 

 

 

◆ ◆ □

 

 

 

 何度巡っても、研究室は変わらない。

 けれど、パンジャとの関係性をすこしだけ変える瞬間があるとしたら今だった。

 

「パ、パンジャ」

 

「どうしたんだい?」

 

 うぅ、とアオイは口ごもり、俯いた。顔が熱い。耳の先まで真っ赤になっていた。

 言え、言ってしまえ。――精一杯、振り絞った勇気は、10回目の精算だった。

 

「あ、あの……。ありがとう、パンジャ」

 

「はっ? ど、どうした、アオイ。お腹痛いのか。頭が痛いか」

 

 正気を心配されるとは思わず、彼はますます俯いた。

 

「大丈夫だ。正常だ。……いや、日頃の感謝を述べておこうと思って、だな。最近は一緒にいても仕事の話ばかりで、ゆっくり話す暇が無かっただろう」

 

「それは、そうだが――ハッ!? アオイ、あなたはもしかして」

 

「ん?」

 

「わたしより腕の良い助手を見つけたのか!?」

 

 アオイはとうとう顔を上げた。パンジャは気の毒になるほど青ざめていた。腕を強く握られて、アオイは椅子の上でよろけた。

 

「な、なんでそうなるんだ。君ほど付き合いの良い友人はいないよ。いつだって君だけだ。だから、ありがとう」

 

「……そう。そうか」

 

 パンジャは、手を離すとそれきり椅子の上で動かなくなってしまった。「研究室に行くよ」と声をかけても生返事しか返ってこない。アオイは彼女の机に飴をひとつ置いて部屋を出た。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 相変わらず、天気が良い。

 これまでの周回で何度も見上げていたはずの青空が、今は真新しいものに見える。アオイは妙な達成感で頭がぼんやりしていた。

 

 別棟へ行く通路を歩いているとジュペッタとバニプッチが暑さに耐えられなくなっているらしい。日陰で涼んでいた。ジュペッタはアオイを見つけるなり、憚ることなく「ゲェ」と嫌な顔をした。

 

 それを見かねたバニプッチが諭すように小さな手を上下するが、ジュペッタは知らんぷりを決め込んでいた。

 

「いいよ。ありがとう、バニプッチ。いま開けるから」

 

 そう言って、別棟の出入り口を開くと足下を涼しい風が吹き抜けていった。別棟は出入りする人が少ないので、2階であっても夏は寒いくらいに冷えているのだ。

 

 ジュペッタはさっさと入っていったが、バニプッチは溶けそうな体でアオイの肩越しに遠くを見ていた。パンジャを探しているのだろう。

 

「パンジャは遅れてくるそうだ。中で待っているといい」

 

 そうかそうかと安心したようにバニプッチは別棟に入った。

 

「バニィ、パンジャが来るまでここで待っていてくれ。いいね?」

 

 冷たい空気が吹き出る通風口に陣取ったバニプッチにそう言うと、アオイは1階の研究室へ向かった。

 

「ジュペッタ」

 

 この際、「行くぞ」とか「来てくれ」と言うと9割の確率でヘソを曲げ、いつもりより2割増しで反抗的になるので、アオイはできるだけ感情をこめずに名前を呼んだ。チラと後ろを振り返ると渋りながらもついてくる様子が見えた。

 

 階段を降りるといっそう冷えた空気が、体を包んだ。

 

「ジュペッタ、そのぅ……」

 

 機材の準備を始めながら、不機嫌そうなぬいぐるみに話しかける。しかし言葉が見つからない。だいたい、まだ事故が発生していないのに「どうして私を助けたんだ」とは聞けない。ジュペッタだって意味がさっぱり分からないだろう。だから、今の時点で言えることは限られている。

 

「もし――『もしも』の話だが、たとえば、酷い事故が起きて、私が動けなくなったり、死んでしまった時は、迷わず君だけは逃げて生きるんだ」

 

「…………」

 

 ジュペッタは発言の意図が分からないらしく「なに言ってんだ、コイツ」という顔をした。言葉は無くとも、子どもの時からの長い付き合いだ、前回のパンジャの言うとおり意味は分からなくとも話は通じるらしい。

 

「君は怨念だ。古いぬいぐるみに宿った思念。アララギ女史が監修したポケモン図鑑の説明が正しいのなら、他のポケモンとは異なる出自を持っている。――『発生が明確に分かる』という点において、ね」

 

 説明がましいアオイの言葉は、早口になりジュペッタは呆れて話半分に聞いているようだった。その顔を見て、アオイも言い訳っぽい話はやめようと思う。

 

 だから核心を口にした。

 

「君は、私の母、ヒイロ・キリフリの所有――だった、ぬいぐるみだろう」

 

「…………」

 

「屋根裏部屋で君を見つけたのは私だが、おもちゃ箱には母の名前が書かれていた。君を捨てたのは母、君が本当に会いたいのは私ではなく母だ。だから、たとえ私がここでくたばろうと君は気にしてはいけない。君は、君自身のため、自分の目的のために生きるべきだ」

 

 アオイはコンソールの上で最終調整する手を休めず言った。目だけは、一瞬たりともジュペッタから離さなかった。

 

「私もそうする。だから、君もそうしてほしい。……それが最初で最後の私から君への願いだ」

 

 ジュペッタは、シケた顔をしていた。まるで自宅の住処であるクローゼットに湿気が沸いた時の顔だった。

 

 アオイは言葉が続かなかった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 ああ、今回も、ダメかもしれない。――アオイは、そっと目を逸らした。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 それは。

 悪夢の中天に座する眼。

 メアリー・スーは、観測する。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 15時20分、実験を開始したアオイを直撃したのは、現実と同じ硝子破片だった。

 

「ぐっ!」

 

 衝撃波で壁に叩き付けられたアオイは、まだ意識があることを幸いに思った。しかし、破片が当たった場所は悪そうだ。震える手で探る。当たったのは膝ではない。――大腿だ。マズイ。どれくらいマズイかというと頭と胸の次に当たってはいけないところだ。

 

「どこだ、ジュペッタ――!」

 

 機材のエラーメッセージがうるさい。耳が役に立たない。爆発の煙で目が開けることができない。いつもの時間ならば、いち早く復元したカブトプスの相手をしていることだろう。

 

 また繰り返しだ。この繰り返しに価値を見いだすために、ここに来た。乗り越えるために、来たんだろう!

 

「ぐぅぅ、ぎ、ぎいぃッ……」

 

 想像を絶する痛みをアオイは許容した。反射で震えるズボンのポケットからハンカチを取り出すと右脚に結ぼうとした。けれど痛みに悴み、上手く縛れない。だからハンカチの端を噛んで脚を縛った。

 

(右の大腿だけだ、動かないのは。――この程度。たかが、この程度だ! ジュペッタを止める。そして、出るんだ!)

 

 痛みに喚く声を止めた瞬間。11回目にして初めて誰かの気配を感じた。

 

「そこに、いる、のか……?」

 

 ジュペッタが、手の届くところにいる。

 

 煙が、一瞬だけ薄れた――気がする。目がかすれただけかもしれない。

 機材の警戒音が遠くに聞こえる――気がする。血が足りていないかもしれない。

 

 

 そんなこと、もう、どうでもよかった。

 

 

 新しい可能性が、目の前に立っている。そして理解した。

 

(私の現実に足りなかったのは、たった「ひとこと」だった)

 

『君の会いたい人は母だから、出会うまで何があっても、生きるんだ』

 

 そんな言葉。そんな一節があれば、現実は様相を変えた「かも」しれない。

 そのことに気付いた時、衝撃を受けてアオイの思考は再び停止した。

 

 あまりに他愛ない。

 単純だ。

 単純すぎる。

 簡単だ。

 簡単すぎる。

 ほんのすこしの違いだ。

 

 ほら、見ろよ。

 私にさえできた。

 

 誤差だ。

 こんなもの。

 ひとことだなんて。

 それだけ。

 たったそれだけが、違いだなんて。

 あんな結末を防ぐ手立てが、こんなに安易なものなんて。

 

 世界と現実世界の違いが、本当にこれだけなら。

 

「全部、私のせいじゃないか……」

 

 暗い。視界が暗い。目を開いているのに。

 11回目にしてようやく巡り会えた奇跡とも言える事態なのに、体が動かない。これは好機だ。千載一遇の好機のはずなのに。ああ、どうして。せっかく彼がそこにいるのに――。

 

 そんなアオイの視界の端で、青白い光が瞬いた。

 

「れいとうビーム、照射――はじめッ!」

 

 凜とした号令が、粉塵を一掃した。

 発せられた光線に迷いはない。一直線に台座のカブトプスに命中した。

 

 階段を駆け下りたパンジャは、カブトプスの姿を認め、アオイの名前を呼んだ。  

 

「アオイ! これは、どういう……君、怪我を!? ――バニィ、ひかりのかべ! いま、左脚の止血をする」

 

「パンジャ……す、すまない」

 

 彼女は前回の試行時にアオイの首を絞めたベルトで、右脚を堅く縛った。

 

 それからアオイの肩を担ぎ、腰のベルトを握りしめたパンジャは、未だ倒れないカブトプスを見て「化け物だな」と言った。

 

「フリィ、バニィ、カブトプスから目を離さないように! ニューラ、一緒に来て――」

 

「待ってくれ。……ジュペッタ。行こう」

 

 ジュペッタは、アオイのそばから動かなかった。

 これまでの試行ように攻撃をしかけるでもなく、ただアオイを見ていた。

 

 そして、今。

 

「…………」

 

 ふてくされたように、そっぽを向いて――アオイの手を取った。

 

「……!」

 

「なんだ、君。仲直りしたのか。……よかったじゃないか」

 

「え、いや、どう、だろう……」

 

 アオイを引きずりながらパンジャは上階への階段へ脚をかけた。

 

「良いことじゃないか。君もやっと協調性という言葉を覚えたらしい」

 

「私は、協調性の塊のような、人間だぞ。君より、よっぽど、だなぁ……」

 

「はいはい……」

 

 パンジャが、わざと頭にカチンと来る話をしているのだとアオイは分かっていた。会話をすることが、こんなに楽しいと思うのはいつ以来だろう。初めてかもしれない。パンジャが言葉を交わすことが好きと言った気持ちが、いまではすこし分かる。生きているからできる。

 

「君が死んでしまうなんて、わたしは嫌だ」

 

「死とは。君の定義する死とは、存在が忘却された時に訪れるのではないか?」

 

「そうだ。そうだとも。でも、温かい君を失うのは、なんだか違う。嫌な、とても嫌な、気がする。君がいなくなったら、ダメだと思うんだ」

 

「パンジャ……」

 

 アオイにも、思いがけないパンジャの変化があった。決して変えることができないと思っていた価値観に、変化の兆しが生まれた。

 

 深い蒼の髪の向こう側にある瞳は、焔の色を受けて不思議な色に変わっていた。

 

「今日は変な気分だ。君のために死にたいじゃなくて、君と一緒に生きたいと思う」

 

 一歩。一歩。一歩。

 

 確実に、上階へ向かう。下から、ぜったいれいどを放つフリージオの鋭い金属音が聞こえた。まだ倒しきれないのか。朦朧とする裏側でアオイは心配になった。

 

 でも、彼女は振り返らない。

 

「パンジャ、フリージオとバニプッチは……」

 

「大丈夫。あの子達は、わたしよりずっと強いから」

 

 質問は、愚問だったらしい。彼女は信じているのだ。負けないと。

 

「大丈夫だから。アオイ」

 

 アオイは、凜と響く清々しい声音から連想した。

 さっき見た、真っ新な青空。お互い、同じ気分なのかもしれない。

 

 我知らず、抱き上げたジュペッタをギュッと握った。

 

「私も、君達と一緒に生きたいと思う。でも、ずっと昔から間違いだらけで、今は穴だらけで、ひどい状態なんだ。それでも、生きていいだろうか」

 

 体から力が抜けていく。目を開いているのに、暗い。しがみつくジュペッタの力強さにハッとして、抱き寄せた。

 

 それだけ。

 たったそれだけの動作だったが、肯定された思いがして、アオイは涙を流した。

 

「…………」

 

「アオイ……」

 

「!――パンジャ、危ない!」

 

 アオイは、霞む視界に映ったカブトプスを見て、パンジャから離れた。

 

 突き飛ばしたパンジャがいた場所に突き刺さったのは、原始のちからをまとった鋭利な岩石だ。

 

「アオイ!」

 

 階段が壊され、パンジャは降りるに降りれなくなっている。その彼女も無事ではない。咄嗟に防御に上げた手が切り裂かれたが、それでもまだニューラが「まもる」で防御したから軽傷で済んでいるようだ。

 

 登ってきた分、階段を転げていくアオイは不自由に体を曲げてジュペッタを守った。壁と瓦礫に激突して、ようやく止まる頃、アオイは体の鈍痛で目が冴えた心地だった。

 

(最後の、最後で――破れた夢が立ちふさがるのか……!)

 

 カブトプスは、実験室を這い出ていた。

 体に繋がった岩石はそのままに、凍てついた体を軋ませながら、まだ生きていた。鎌の前肢を器用に使い、自分を生み出した「元凶」を狙っている。

 

 ぞわり。力が収斂していくのが、気配に疎いアオイにさえ分かった。

 

「ジュペッタ、行くんだ。狙いは私だろう、だから、行くんだ――」

 

 アオイの手から離れたジュペッタは、そそくさと瓦礫の陰に隠れた。

 アオイも、瓦礫から這い出ることにした。

 どうせ隠れることはできない。それならば。

 

「私は、ここだ! 分かりやすい的だろう! だから絶対に外すんじゃない! あと何発も撃てないだろう! これまでのように、一撃で仕留めてみせろ!」

 

「やめろ、アオイ!」

 

 パンジャが引き攣ったような声を上げた。けれどカブトプスは彼女の方をちらりとも見ない。ポケモンは正直だ。誰が一番悪いか、分かっているのだ。――自業自得で、つい笑ってしまう。

 

「バニィ! フリィ!」

 

 パンジャが、相棒を叫んだ。

 

 バニプッチもフリージオも、すっかりやられてしまったわけではないようだった。だが、相手が悪い。相性が良くても、相手がまったく倒れないポケモンならば動揺もするだろう。

 

「…………」

 

 ああ、今回は、かなりいい線をいっていたと思ったのだが。

 

 アオイは諦めようとして、止まったはずの涙がまた溢れだしていることに気付いた。視界が滲む。体中が痛い。手が震える。

 

 死にかけている今になって、どうして生を実感してしまうのか。生きてきた時間を惜しむに、あと数秒は短すぎる。

 

「きっと、君のいる世界で前を向いて生きていけると思ったんだ……」

 

 げんしのちからは、確実に威力を増している。

 ピリピリした空気が冷えた空気を焦がす。何か、ないか。まだ、何か方法。私が打てる手立ては! 今はまだ死にたくない! ここで死にたくない!可能性だけで終わらせたくない! ここで! ここまで来て! 絶対に、諦めたくない!

 

 その時。

 

 物陰から小さな影が飛び出した。――ジュペッタだった。

 岩石に身を裂かれながら、禍々しい呪詛を放つ。あれは「おんねん」だ。

 

 ちょうどアオイとカブトプスの直線上に飛び出したジュペッタは綺麗な放物線を描いて床に墜落――しなかった。滑り込んだフリージオが、平たいからだで瓦礫に直撃する手前でジュペッタをつまみ上げた。

 

(でも、直撃だ――生きているはずがない……)

 

 アオイは恐怖のあまり、ジュペッタを直視することができなかった。

 その代わり、カブトプスを見ていた。見る限り、おんねんは効いたようだった。カブトプスは口を塞がれたように、もがき苦しんでいる。あれではもう技は繰り出せない。バニプッチが駄目押しのれいとうビームを浴びせている。氷漬けになるまで、時間はかからないだろう。

 

 現実逃避の分析を続けていると、目の前にポテンとジュペッタが降ってきた。

 

「うわっ! ……あわわわ、チャック開いてる!」

 

 普段は閉じている、恨み言がたくさん入ったファスナーの口が開いていたので、アオイは慌てて閉じた。ジュペッタは、これが開いていると途端に元気がなくなってしまうのだ。

 

「……生きて、る。……あは、あはは、生きてる……」

 

 ジュペッタは「きゅー」と鳴いて目を回しているが、生きている。

 0ではなく1だ。1は依然1のままだった。

 

 誰も、欠けていない。

 誰も、死んでいない。

 

 こんな未来が、可能性は、確かに存在したのだ!

 

 腕時計を確認すると、時間は15時55分。いつの間にか、高い壁に思えた26分を大幅に越えていた。

 

 アオイはジュペッタを抱えて、立ち上がろうとしたが、自分が怪我をしていることに気付いて、肘で床を這った。

 

 フリージオとバニプッチが、カブトプスを念入りに氷漬けにすると研究室は水をうった静けさに満たされた。

 

「やった……のか?」

 

 階段の上でパンジャが、ぽつりと呟き、アオイは頷いた。

 

 フリージオがふわりと浮いたまま、アオイの目の前に降りてきた。ヒョイヒョイと身体を傾けて促す。掴まれ、ということらしい。

 

「ありがとう、助かる……」

 

 ふゆうの特性を持つフリージオであっても成人男性ひとりを宙に浮かべる浮力は無い。それでもアオイが瓦礫だらけの地べたを這いずるよりはよほどマシだった。足先だけが地面を擦り、階段をひとつずつ登っていく。

 

「アオイ、手を!」

 

 階段は、攻撃のせいで途切れていた。上階の末端で手を伸ばすパンジャに、アオイはホッとした。

 

「――ジュペッタ、先に」

 

 まだ意識の戻らないジュペッタは、バニプッチが抱えてくれた。カチコチ、と氷の割れる音が聞こえる。パンジャのバニプッチはストレスを感じると内部の氷が割れてしまうのだという。彼女のポケモンのなかで一番ジュペッタと仲の良いバニプッチは、この状況をよく耐えてくれた。

 

 アオイは重く、怠い手を伸ばした。

 指先が触れる。

 

「せーので引き上げる。せーの!」

 

 手袋越しに伝わる鈍い温度は、きっと懐かしいだろう。

 意識が朦朧としてきたアオイは体に伝わる感覚が、妙に鋭敏だった。

 

 だから、誰もが安心して見落としたことに気付いた。

 

(なんだ。熱い……ひどく、熱い……。この熱さを知っている……そうだ、事故のあとに何かあったな……何か、何かって何だっけ。……これは、何だっけ、赤い……赤い……赤い……焼けた、焦げた、これは)

 

 フリージオが驚いて声を張り上げ、ビクッと震えた。階段の欠けた空漠にいたアオイは取りすがるものがなくなり靴先が宙を掻いた。

 

 ずるりとタイミングを逸した手先が滑る。

 パンジャの目が驚愕に見開かれ――。

 

「あっ……」

 

 どちらともなく、そんな声が漏れた。 

 

 一方、ポケモン達も混乱していた。これまでどんな逆境にも冷静に対処してきた兄貴分であるフリージオが慌てふためくさまに、ニューラとバニプッチが感染して取り乱した。

 

 こうなれば誰もが事態を把握した。

 

 空気が熱い。熱すぎる。どこかで急速に火の手が上がっている。そのことを察した彼らは、恐怖で身が竦んでいるのだ。

 

 パンジャは、空中でアオイの手を掴まえた。

 階段から大きく身を乗り出した状態であって、叫んだ。

 

「行け! わたしに構うな! 早く行くんだッ! みすみす死ぬんじゃないッ! くっ! ――さっさと行けッ! 砕くぞッ!」

 

 拳で掴んでいた手すりを殴りつける。ガァンという乱暴な金属音で我に返ったポケモン達は上階へ殺到した。

 

 アオイは、その声を聞いていた。凜とした声音だ。

 こんな状況であっても――ぼんやりした頭の奥まで、よく響く。

 

「……優しいな、君は」

 

 私ならば、気が回らなかったと言い訳にして道連れにすることだろう。そんなことをうっすらぼんやりした口調で言うと、彼女はますますアオイの左手を握る右手に、力を入れた。

 

「いいや、怖いだけだ。失うことが怖くなってしまった。わたしは……変わってしまった」

 

「でも、良い変化だ……誇るといい」

 

「そうかな。弱くなった気がする。君がいなくなることを考えると挫けそうになる」

 

「…………」

 

 焔が、脚を舐める。

 痛い。熱い。鋭く肌を差すようだった感覚が、今は鈍い。

 

 だが、彼女が震えていることは分かる。

 

 彼女が怪我を負ったのは、今握っている右手だ。

 

 力を入れているはずなのに、血で滑るせいで、うまく握れない。

 

 彼女には、アオイと異なり二度目はない。いつだって、この一度きりだ。かけがえのない命を握っている緊張が彼女を押しつぶそうとしている。震えている。――ああ、パンジャも恐怖を覚える人間だったんだな。

 

「前はこんなじゃなかった! 前のわたしはもっとがむしゃらだった! 君を救う手段があれば躊躇はしなかった! でも、今は違うんだ。……わたしは、もう君に救われたことを重荷にしない!」

 

「……ああ、それでいい」

 

 ずるり。

 指が滑る。

 

 ああ、と泣き出しそうな声でパンジャが言った。

 

「だから、ねえ――もう一度、『生きたい』と言って! わたしの手を握って! 生きて! 生きて、わたしに君を殺させないで!」

 

 ずるり。

 指が一本、滑る。

 

 二本目の指が滑ろうとした瞬間。

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 それは。

 悪夢の中天に座する眼。

 メアリー・スーは、瞬きした。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 その世界は、あたかも時を止めたかのようだった。

 

 厳密には過程が異なった。

 

『時を止める』感覚をアオイは観測したことがない。そのため、擬似的な時間定時状態を生み出すため、常に動き続けているはずの原子が一切の運動を停止しているのだ。

 

 何も動かないそこに、人が現れた。

 

「やあ、アオイ。顔色が悪いね」

 

 数字の羅列を隠れ蓑にやってきたのは、悪夢の化生――メアリー・スーだ。アオイに近づいてトントンと頬を叩く。

 

「悪いだろうなぁ。なんせ君は『ここ』までだ」

 

 アオイは動かないはずの口を動かし、目を動かし、メアリー・スーを観た。

 

 誰よりも脇役であらねばならない彼女が、表舞台に出てきた。

 

 その意味を察することができないほどアオイは夢を見ていない。

 

「時間か」

 

「そうだ。時間だ。君の命はそろそろ潰えるらしい」

 

「……そうか」

 

 メアリーは「つまらない」と言った。

 

「なんだ。反応が悪いな。分の悪い賭をした――と後悔しているのではないかと笑いに来たのだが。まあ、なんだ。焔に絡め取られずとも、失血で死にそうだ。さて、彼女の努力も無駄に終わるかな」

 

「いや、終わらないよ」

 

 メアリーは、ますます「つまらない」と語気を強めた。

 

「アオイ、君はいつもそうだ。認めない。諦めない。だから意地を張ってここにいる。大人しく現実世界で腐っていれば……それでもいつか、自分で過去を乗り越えることができたかもしれないのに」

 

「そんな時は来なかった。悪夢で再現を繰り返す。この手法の持つ可能性を知ってしまったら、何をしても無駄だっただろう」

 

「悔いはないと?」

 

「無い。――なぜなら、この試行は『成功』するからだ」

 

 アオイは、メアリーの目を見て言った。パンジャによく似た、けれど異なる紅の瞳が、憎しみに似た焔を宿していた。

 

「まだ、まだ言うか! この期に及んで!」

 

 メアリーは、両手を広げた。もう薄ら笑いも飾っていられない。

 

「見ろ! 君は今にも死んでしまうぞ! パンジャの手は、あと数十秒と持たないだろう! 骨がやられているのだ! 彼女のポケモンは去った! ジュペッタはまだ起きない!」

 

 歯噛みする彼女は、持ちうる限りの絶望を突き付ける。それなのに、アオイはまだ前を見ている。言葉に一喜一憂することがない。

 

 絶望するどころか、アオイは超然としていた。

 

「ああ、君の言うとおり、私にできるのは『ここ』までだ。これが、私の夢見た可能性。最高の最善策だ。だから、『このまま』でいい」

 

 メアリーの顔はいっそう険しいものに変わった。

 

 彼女には、きっと分からない。アオイは、メアリー・スーを哀れんだ。

 

 彼女は、外の世界における、所謂――便宜上「神」と呼称する――それと同じ能力を有しているのだろう。

 

 完全無欠は、誰の手助けも要らないのだ。それが、あまりに完成されているがゆえに。

 

 自分の行いに過ちがあったとしても、それを帳消しにできる「能力」を持っている。

 

 あったことを、無かったことに。無かったことを、あったことに。

 気が狂っている。そんなの、とんでもないイカサマだ。

 

 だからこそ。

 

 自分の一挙一動に、細心の注意を払わない。全能であっても、全智ではなくなってしまう。そして『アオイが何をしようとしているか分からない』という事態が発生する。

 

「なぜだ――なぜだ、なぜ――どうして、どうして? どうして、堕ちてこないの? まだ何か、何か――あ、あ、あ、ああっ、あああああッ!」

 

「この世界には、決して覆すことのできないルールが存在するんだったな」

 

 それは。

 

「現実世界で起こった出来事の『いくつか』は、必ず起こる。ひとつは事故。ひとつは怪我。そして、基本的な物理法則」

 

 アオイの目は、すでにメアリーを見てない。

 ずっと昔から壁にかかっている電波時計を見ていた。

 

 それに気付いたメアリーが声を荒げた。

 

「ダメだ、ダメダメ! 違う、違う、違う! 君は『それ』を見ていない! 『彼女』を見ていない! 見ていたのは、パンジャだ! 君は、それを『知らなかった』はずなんだ! だから、起こりえない!」

 

「だから? 『だから』何だと言うんだ、メアリー・スー!? 最後の最期に賭けるには上等だ!」

 

「来るわけがない! 来るわけが……!」

 

「時計の針は、あと2秒で午後4時00分を指す。――メアリー・スー。私は賭けた! 私はこれを何百、何千、何万通りあった選択の、唯一の正解にしたい!」

 

 アオイは、声の限り伝えた。

 

 私は、ここで学んだことを、選んだことを、決意したことを、間違いにしたくない。

 

 メアリーがアオイに手を伸ばす。その手は。

 

「そんなものは、まやかしだ! 悪い夢だ! だって――だって、君は運が悪いんだから!」

 

 ついぞ、届くことはなかった。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 それは。

 悪夢の中天に座する眼。

 メアリー・スーは、観測する。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 世界は、息を吹き返した。

 焔はゴウゴウと音を立て歪な建物を揺るがし、上昇気流がふたりの髪の端をチリチリと焼いた。

 

 アオイは、再び終末を感じる微睡みを感じていた。

 

「手を、握っ――」

 

 それでも。

 どこまでが自分なのか分からない意識の中で、手であったところに力を込めた。

 

「アオイ……! わたしが、わたしが! 必ず、助けるんだから!」

 

 よく響く声は、泣いていた。励ますように頷いた。気がする。

 それでも指が滑る。まさに、その時だった。

 

「パンジャ! アオイ!」

 

 遠くに聞こえた深みのある女声を、アオイはよく覚えている。

 

 

 彼女こそ、このシッポウ研究所所長。――アロエだった。

 

「アロエ所長……!?」

 

 かすれた声で、アロエを呼ぶパンジャに、彼女はすぐに気付いたようだった。

 

「よくこらえた! さぁ、引くよ! せーのっ!」

 

 浅黒い肌に筋の筋が浮く。

 力強くアオイを引き上げたアロエが、そのままアオイを背負った。

 

「パンジャ、走れるかい?」

 

「は、はいっ!」

 

 腕を庇いながら、彼女は「早く」と急かした。

 

 この後のことは、アオイにはもう分からなくなっていた。

 ただ。

 

(ああ、助かったんだ……)

 

 その安堵感に、心にあった氷塊がゆっくり溶け出していった。

 

 

 




【あとがき】
やった。『アオイの夢』章が終わった。(H30/12/7追記、終わりませんでした。もうちょっとだけ続きます)本音を言うと本編の恐らく一番か二番に書きにくいところを書き終えた達成感で「やったぜ」という気分です。そしてもし筆が止まるならば、この話だと思っていました。意外と書けちゃいました。(あとで補筆するかもしれませんが……)

【あとがき】
もう紹介する機会が無さそうなので、パンジャとアオイのポケモンのわざ構成をご紹介いたします。恐らく、ポケモン(ゲーム版)ガチ勢からみたら鼻で笑われる構成なのだと思いますが、参考程度に「へー」と思っていただけたら幸いです。
アオイ…わざ構成に関してはノータッチ(壊滅的な仲だったため)ジュペッタ本人任せの状態。何を覚えているかアオイは「おんねん」しか把握していない。
パンジャ…氷タイプは器用貧乏になりがちなところを気に病み、継戦力を念頭に置いている。

ジュペッタ[おみとおし]
・おんねん
・おにび
・シャドーボール
・だましうち

アオイ>負けるのは構わないけど、執拗に「おんねん」を食らわせようとするのはどうかと思う。自分のことは大切にしてくれよ。


バニプッチ[アイスボディ]
・まもる
・れいとうビーム
・あられ
・ひかりのかべ

パンジャ>毎日、あられだったらいいのにね。


フリージオ[ふゆう]
・リフレクター
・しろいきり
・ぜったいれいど
・つじぎり

パンジャ>とりあえず生のノリで「ぜったいれいど」は少し可哀想だと思う時がある。倒せるからいいんだけど。いいんだけどね。

ニューラ[するどいめ]
・こごえるかぜ
・こおりのつぶて
・でんこうせっか
・まもる

パンジャ>命中力が下がらないところに「死んでも当てる」という意志を感じて、嬉しいよ。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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  • 世界観
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