アオイ・キリフリは、世界を見つめていた。
――これが正解。
これが、これが、これが。
アオイは目を見開いて『現実』を見た。
痛みのせいで力を抜くと意識が遠のいてしまうのだが、手を伸ばした先に欲しかった光景があった。
誰も欠けていない。
誰も死んでいない。
何も、取りこぼしがない。
手に触れられる物全てを掴んだ、完璧な世界だ。
笑った。意味はない。
ぽろりと転がり出るように笑いが出た。
――喜ばしくあれど、面白いことなど、何も、何一つとして無かったのに。
アオイは、地面に敷かれた白衣の上に身体を横たえていた。周囲は同僚が忙しなく往来している。衆目は、にわかに集まり始めているらしい。
この世界、きっと我が身の罪は暴かれることだろう。
アオイは想像する。――この世界の未来があったのならば、と。
だが、これは、悪夢。
泡沫の夢に過ぎない。
手が届くだけ可能性が『在った』だけの、もう世界のどこにも存在しない世界だ。
笑うための呼吸が終わるとゆるゆると瞼が下がり、瞬きをした。どうして自分が泣いているのか、アオイは感情の起源に触れかねていた。それを理解するとき、痛みを伴うことになるだろう。
ぼんやりと涙の滲む視界に黒っぽいごわごわしたものが近付いた。全体の輪郭をつかむ間もなく、それが視界一面を覆った。
「ぐあぁ……人の顔を椅子にしないでくれよ」
ついでに金色の金具が額を突いて痛いのだと告げると、焦げた匂いのする彼――ジュペッタが離れた。アオイを見る目は、平時と変わらない。いかにも「嫌なヤツがいる」という顔だ。動く彼を見て、未だひどく感動しているアオイとは対照的だった。しかし。それにしても。アオイは気になっていたことを訊ねた。
「助けてくれて、ありがとう。だが、なぜ逃げなかった。君は逃げてもよかったのに」
その言葉はアオイの優しさだ。
同時に、願望に由縁する真心だった。口にしてしまってから、思う。
(現実の私は、かつて同じことを思っていた。もういないジュペッタに言っても仕方が無いので、忘れることにしていたが。……ああ、たしかに、私は、かつてこんなことを考えていたんだ。言いたかった。聞きたかった。「どうして、私を庇ったりなんかしたんだ」と)
現実で生かされた命は、かつて考え込んで足を止めた。
『果たして、この命は誰かを犠牲にした後で生き延びるに値するのだろうか』
アオイの目から、止まらない涙が落ちた。
「君は……逃げればよかった。本当に。私は、君に、逃げてほしかった。生きてほしかった。ずっと、生きて、生きて……いつか私が母に会うとき、一緒にいてほしかった」
アオイは言った。
ジュペッタは聞いた。
すると彼は軽蔑的な視線をアオイに向けた。しまいにはファスナーで閉じられた口でもごもごと何か言った。……たぶん、恨み言だろう。
どうしてそんな顔をするのか分からず、アオイは考える。
「私でも君と同じようにしたとは思うが……。そうだな。君を見捨てるのは、何というか、きっと、後味が悪い……。……そうか……だから、君は選んだのか」
ジュペッタは、ぬいぐるみ――だった。
捨てられた成れの果てが、同類を哀れむのは当然のことだったのかもしれない。
アオイは、答えを得た。
ずっと知りたかったこと、その片鱗を知った。
この苦悩に、意味はあったのだ。報われた気分になり、アオイは目を閉じた。
「アオイ。起きているか」
どれくらい時間が経ったのか、アオイを揺り起こしたのはパンジャだった。
アオイは貧血だった。痛みは常時。しかも気怠い。それでも、この夢の一時のことだと自分を奮い立たせ、口を開いて頷く。
「怪我は?」
「問題ない……」
隣に座ってしばし茫然としていたパンジャは、いつの間にか我に返っていた。
何度も目を擦ったせいで目が赤い。じっと見つめていると「これは、煙にやられただけだ」と、恥ずかしそうに言った。どうして恥じるのか分からず、アオイはその後も長い間彼女を見つめた。
「パンジャ。……君は、たしかに私を救えたよ」
「嫌味か? 君を救ったのはアロエ所長じゃないか」
「……君が諦めていたなら、私はとっくに死んでいたよ。君の行動の結果だ。誇っていいと思うよ」
「君がそう言うなら……そう。……そうか。……そう。そう、なら……よかった、のかな」
お互いに片手を上げて、コツンと合わせた。
「ありがとう」
「わたしは、君の労いを聞きたいわけではないと思っていたが……ああ、意外に気持ちがいいものだな」
アオイは、肺が震えるような声で笑って仰向けになった。
「あまり動くと痛むぞ」
「とっくに痛いさ」
これは、夢だ。痛い。それでも夢だ。
「しかし。まあ、あぁ……痛い。あちこち痛む。ひどい怪我だ。こんなに痛いのになぁ」
――悪夢だなんて。
アオイは、また笑う。解しきれないようにパンジャが怪訝な顔をした。
「メアリー・スー。もういいよ。この世界を解いてくれ」
見るべきものは見た。
聞きたかった言葉を聞いた。
信じたものに救われた。
この世界は終わるだろう。
それでいい。満足だ。
これ以上、望むものはない。
「メアリー……?」
どうしたことだろう。彼女の喧しいまでに高い声が聞こえない。さっきまで干渉していたはずだ。わざわざ時間を止めてまで這い出て来たのだから――。
ああ、風の音がうるさい。
衆目のざわめく声が遠くに聞こえる。
「何を言っているんだ。アオイ」
世界の音が不明瞭に聞こえるここで、パンジャの声だけが明確な輪郭をもって聞こえた。
「ここが『現実』でいいじゃないか」
彼女が受け入れるためにパッと広げた両手を、アオイは見なかったことにした。
「ダメなんだ、パンジャ。私は帰らないと」
「『外の現実』が嫌で『この現実』に来たのに?」
「……君は、誰だ」
アオイは軋む身体を起こした。
身体は肉を削がれ、血を失って酷いありさまだったが、気力だけで起き上がることができた。
今は、そうすべきなのだと頭のどこかが分かっていた。
「誰って? Who? 『誰』かと聞いたのか? この『わたし』に向かって誰と聞くのか、よりにもよって君が」
ああ、これは、憎しみだ。触れれば、血が流れる新鮮な憎しみだ。
夕陽が、彼女の横顔を紅く照らした。口惜しい、と呟いた唇は不愉快そうに歪んでいる。それなのに、緑色の綺麗な目だけは何かに取り憑かれたように輝いていた。
「わたしは、君のための花弁。わたしは、君のための鏡。『現在』という座標に留まるために変幻し続ける『わたし』に対して『誰』かだと? おかしなことを言うなよ。面白くない。ちっともね。君にしちゃ笑えない冗談でジョークで酔狂だ。――わたしは、紛れなく君の親友のパンジャだ」
いや、違う、君は――うぅ。
アオイは貧血で目が暗み、言葉を続けることができなかった。
覚束ない意識の手をパンジャが握った。変わらない温かさを持つそれは、懐かしい。現実ではとうに失われれている、柔らかい肌の感触だった。
「――ねえ、アオイ、このままでいよう。ここにいよう。わたし、ようやく君と対等に、肩を並べて歩いていける。きっと母のこともうまくやれる。コウタと3人で、また楽しくやろう。わたし達、仲がいいからずっと一緒にやっていける」
「それは、ダメなんだ、パンジャ。ここは、悪夢なんだ。それは選べない。私は、それを選んではいけないんだ」
「でも君は、今この瞬間だけ『選べる』権利を持っている。全部『うまく』いったこの世界で、やり直そう。わたしが一緒にいる。君の現実より悪くはならない」
「そうかもしれない。その可能性は……否定できない。でも、それを検証することは、決して許されない。私は、皆が救われる可能性があったことだけ、知ることができたのなら――それで、それだけでいいんだ」
「…………だ」
パンジャは手を握った。握り続けた。
骨を砕かんばかりの強さに、アオイは顔をしかめた。
「っ。パンジャ、私の話を、聞いてくれ――」
「議論の余地もないのに! あはははっ。ねえ、何を? 話そうと? 今さら? 明日の天気の話とか? ――嗚呼、いっそ狂えてしまえたら!」
彼女の心の声が、アオイには確かに聞こえた。
決して逃がさないように、パンジャがアオイの身体を押さえつけた。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、君は、嘘をついている! 嘘だ! 君は『また』わたしに嘘をついている! わたしのアオイが、こんなことを言うはずがないんだ! わたしを救えた? ジュペッタを救えた? それがなんだ、そんなことが何だって言うんだ! 君が救われていないじゃないか!」
「私は救われた! 君が救ったじゃないか。死にそうで、落ちそうなところを君が救ったじゃないか!」
「わたしが救ったのは命だけだ! じゃあ、心は? 君の心はどうなる? 誰が救うというのだ!? この世界で見た可能性の空漠を、現実の何が埋め合わせしてくれるんだ!? 外の現実世界に救いがあるのか!? この可能性にさえたどり着けなかった世界が、今さら君を救うことなんてあるものか!」
パンジャの言うとおりだ。現実世界は、厳しい。
やり直しのきかない、ただ一度だけの人生。
アオイは思う。この先もきっと後悔の多い生を歩むのだろう。
「それでも私は! 未来でヒトモシのミアカシさんと出会えて嬉しかったんだ」
悲観していない。
アオイは、ここで見たかったものを見た、欲しかった未来は存在したことを知った。それだけで満足をした。
もう前を向く時間が来たのだ。
アオイは、彼女の身体を押し返すように肩に手を置いた。
「パンジャ、認めよう。この世界は、本音のところ、とても羨ましい。誰も死なず、何も欠けず、皆が生きて、笑っている。これがどんな幸福で満ち足りたものなのか。間違い続けた今の私ならば理解できる」
「君は――」
「だからこそ。私は、今後こそ正しく選ばなければならないんだ」
くしゃりと彼女の顔は感情で歪んだ。そのなかに、痛ましさを見つけて彼はゆっくり瞬きをした。
ひどい遠回りだった。
けれどその先で正しい道を選ぶことができるのなら、それでいい。
それこそが、納得なのだ。
「私は、これでいいんだ、パンジャ」
パンジャは言葉を失って、アオイの首を絞めた。
責めたいわけではない。
殺したいわけではない。
ただ大切にしていたい。
――彼女のなかで最も美しく、最も混沌の有様を呈している感情の末路は、いつだって袋小路だ。
彼女の腕は震えて力が入っていない。怪我をしているのだ。アオイさえ気付く、そんな当然のことにさえ気付いていない。それでも無我夢中に浮かんだ涙の理由を、今のアオイは理解できる。
彼女の破壊は、自己矛盾を解決する唯一にして次点の解決手段なのだ。
理性的に狂って絡まった糸を解くには、時間が足りない。
「私は、ッ! 失った過去のために、未来を無くしたくない。私は、前を向いて生きていたい! そこを退け、パンジャ。私は現実の明日に行く!」
「……違う……違う……違う……! 君は、そんなことを言ってはいけない! いけないんだ! どうして、君はそんなことを言うの!? わたしを分かって、アオイ。君を理解できない『わたし』を常に理解して! あぁ、ダメなんだ、ダメダメ! 無駄なのに! ――君を救えないその世界に、意味なんてないのに!」
「君の良心は、間違いの無い善性だ。人を救いたいという願いは尊いものだ。――でも、私の救済は考えなくて良い。私の問題は私のものだ。後悔は、自分で始末を付けるものだ!」
「黙れ、黙れ! もう黙れ! その口を永遠に閉じろ! かつての自分が救われたくて、わたしを救ったんだろうがッ! それなら、大人しく救われろ! ここで破滅したいのか!? それもいいだろう! いいだろうさ! いいのだろうな! 君を破滅させることができるのなら、わたしも喜んで滅びよう! 愛しい、忌まわしい、哀しき君よ!」
彼女の祈りは怨嗟になり果てた。
過ぎた善性は、悪性に反転する。理想が高すぎるのだ――アオイは、狂乱に陥るパンジャを見つめていた。
狂おしい。北方の深い海の色をした瞳が、夕陽で赤く染まった。
「アオイ、ああ、わたしは、わたしは、何と言えば君を止められるだろう。あとどれくらい言葉を尽くせばいい!? 何百の台詞を尽くし、何千の詩を紡ぎ、何万の歌が必要か! わたしの努力は、わたしの親愛は、わたしの人生は、今のこの時のために『ある』というのに!」
焦りの浮かぶ、パンジャの腕を握った。
「私の選択を許さなくていい。私と君は似ているが、別人だ。まったくの別物なんだ、パンジャ。私は君を理解できても、君にはなれない。君も……私を理解できるかもしれないが、私にはなれないだろう? 矛盾を解決するために、自分が矛盾になる心算か?」
「わたしは、君を救いたいだけなんだ! これは、この願いは、わたしが救われたいからじゃない! ああ、愛を知らない、哀しき君よ! 君は、わたしの、わたしの……大切な、親友……なの、に」
首を絞めているのか、縋っているのか、もう分からなかった。
アオイは、痛む腕を彼女の背に回す。力なく項垂れたパンジャのつむじを、彼は見ていた。
はらはらと雨のように落ちた滴が、アオイの頬に落ちる。
「わたしは、ただ……君に健やかであったほしい……君に幸せでいてほしい……笑って……君に、笑っていてほしい、だけ、だったんだ……。なぜ選ばないんだ。幸せは、そこにあるのに。分かっているんだろう? 世界など主観でしかない。精巧な夢に、現実と違いなどあるものか。『自分が何を選択するか』。ただ、それだけなのに」
「すまない、パンジャ。でも、その幸せを選ばないことを私は後悔しないだろう」
「惜しい人……ああ……わたしの、祈りは、潰えた」
パンジャは、アオイの首から手を引いた。傷ついた腕を庇うように抱え、元の通り隣に座る。それから遠くを見て、嘆息した。
「わたしは君の親友なのに、どうして君が一番辛いときに役に立てないんだろう……。何だか、ずっとこんな感じだ。そして、これからもきっとこうなんだろう。君の役に立てないわたしなんて、何の意味もないのに」
傷だらけの手で、アオイはパンジャの手をつかんだ。
いつも手を繋ぐときは、彼女からだったことを思い出す。――ただ手を伸ばす。掴む。握る。単純な動作だ。引き留めるのは、こんなに簡単なことだったのかとアオイは気付く。今さらだ。でも、『今さら』に追いついた今が、ここだった。
鈍く。
彼女は目を動かした。
「そんなことはない! 私は、君がいてくれたから頑張ることができていたんだ。君の前だと、私は『しゃん』としていられるんだ。虚勢だったが、それでも必要だった。……私は、君が私を思ってくれたように、私も君を幸せにしたかった。もっとも、夢に欲目が眩んで、いつの間にか私はそれを忘れてしまっていたが……それでもたしかに、最初の願いはそうだった。いろいろと秘密にしていたのは、悪かったと思っている」
パンジャは、それを聞いて泣きそうな顔をした。
そして、悩んだ末に笑うことにしたらしい。
「そういうことは……! もうちょっと、早く言うべきだったよ、君」
「勇気が無かったんだ。君に夢を見せると豪語している以上、私は完璧でなければならなかった。いいや……完璧を演じている自分に酔っていたんだ」
「無理をさせたね」
「無理じゃない。ここまで、やり遂げたとも。……まあ、爆発してしまったが」
アオイがおどけて言い、研究所を指差すとパンジャは明るく笑って、そばで喧嘩を見ていたジュペッタを抱え上げた。
「何だよ、私が同じことをすれば暴れるくせに」
「あれ? 仲良くなったんじゃないのか?」
「なったさ! なった! なった、はずなんだけどなぁ……」
動いているジュペッタをもう一度見ることができた。
パンジャの気遣いに、アオイは感謝した。
世界が滲み出した。
もう、涙ではない。
「ほら、ジュペッタ。最後に何か伝えたら?」
すると彼はわざわざ口のファスナーを開くと、べえー、と舌を出した。
よりにもよって、最後の挨拶がそれとは。アオイは、ちょっとでも、彼がしおらしい反応を見せてくれるのではないかと期待した数秒前の自分を張り倒したいと思った。
「こンの……! 君ってヤツは、本当に!」
「はっはっは! いや、笑って悪いが、これを笑わずには……はっはっは!」
「パンジャまで! なんてことだ……!」
世界は綻び、解れていく。
瞬きをすれば消えてしまう世界は、こうして穏やかに終焉を迎えた。
どこか狂の醒めた顔をして、彼女は手を振った。
「アオイ、生命に祈りを! 君の人生に幸あれ! Best wish!」
さようならの代わりに、パンジャは笑った。
祈りの先へ、迷い無く進めるように。
◆ ◇ ◆
悪夢基準時間16:20
メアリー・スーは、観測を終了した。
◆ ◇ ◆
「終わったな」
「ああ。……ありがとう、メアリー」
この悪夢の管理者であるメアリー・スーは、不本意そうな顔をした。
どことも知れぬ真っ白で平坦な世界で、ふたりの存在は浮いて見えた。
「礼など言われる筋はない」
「でも、君がいなければ悪夢の運営は易しくなかっただろう」
「まあ、完全無欠のあなたの神様だからな。崇めるが良いよ」
「はいはい。……。……。……。……。……あの、そろそろ出たいのだが」
メアリー・スーは無邪気に首を傾げた。
いや、だから悪夢から出たいのだが。いつ目が醒めるんだ?――そんな言葉を発しようとして、アオイは見てしまった。
メアリー・スーの背後にひかえる、見慣れた赤い屋根。そう、あれは。
「リリさんの家――」
違う。重要なのは、それじゃない。
「どうして、まだ、風見鶏が廻っているんだ……?」
カラカラ、カラカラ。……カラカラ、と。
無風の世界で、軽薄な音を立てて回り続ける風見鶏を見ていると気が遠くなった。
アオイは左目を押さえた。
(マズイ。何がどうということは分からないが、何か、マズイ。とてもマズイことが起こっている!)
ぐるぐると目を動かし、情報を集める。胸の不安は爆発的に大きくなりつつあった。
そういえば、最後の周回の時にメアリーは、何か不吉なことを言っていなかったか? 時間が尽きるとか、何とか。
「中途半端に賢いのも、いやはや実に残酷なものだな」
「えっ」
「あなたは悪夢に長居しすぎたんだ。もう目の醒まし方も忘れてしまったんじゃないか?」
まさか、と笑えたのなら、どれだけよかっただろう。アオイは、指摘を受けて気付いた。眠りにつく方法は分かっても、目を覚ます方法が分からなくなっていた。
(毎朝、私はどうやって起きていたのだろう)
風見鶏の廻る音ばかりが、規則正しく響く。その音を止めたくて耳を塞いだ。
「違う、私は――帰るんだ!」
「この悪夢は、脳に現実を『誤認』させる。そうして構築する現実は多重の演算結果だ。そんなことをした、君の目は醒めているだろう。現実の世界でも『二度』も目を醒ますことはできない」
「そんな……」
いま、悪夢でこうして動いていること事態が問題なのだ。しかし、ここで目を閉じたらどうなるのだろう。そのまま二度と目覚めないのではないか。
きっと、アオイがいる悪夢の内側からでは、もうダメなのだ。
外側からの刺激がなければ目を覚ますことができない。
アオイは何も見えない目で上を見上げた。
メアリーが、急かすようにアオイの肩を押した。
「『まだ』だ。まだ君の夢路は続いているよ」
「続くから何だ。……私は、どうなって」
――しまうんだ?
音にすると、不安に押しつぶされそうになる。だから、その言葉だけは何とか飲み込んだ。
「気にするな。人生は、瞬きの夢だ」
メアリーの感情の無い。けれど良く響く声は悲壮感なく、凜と聞こえた。それに、何としても抗いたくなる。アオイは、叫んだ。
「違う! メアリー・スー! 君が、超越者の君が! 人の生を騙るな! 人の生が無意味だと無価値だと、決める権利は誰にも無い――」
「まあ、君なら、そう言うのだろう。これまでの試行が無意味だったと、認めたくはないだろうからな」
この空間は、ただ真白で平坦な世界だ。
しかし。
アオイが押し出された一歩先は、何も無かった。
「は……?」
認識の狭間にアオイは落ちた。
夢でよくある、階段を踏み外したような感覚が、意識あるアオイが最後に知覚できたものだった。
その後に。
「本当に、運のない男だよ、君は」
彼の沈んだ暗い水面を見て、メアリー・スーは思索を巡らせた。
泡沫が浮かんできやしないかと、期待して見つめていた自分がいた。
やがて、無意味に気付くと彼女は、嘆息の末、呟いた。
「君が……もう少しばかり病んでいたならば、愚かなら、現実を認めて未来を愛していたのならば、悪夢を利用しようなんて思わなかっただろう」
きっと、彼は自分でも識ることのできない、意識の深く深くに堕ちていく。
「こんなに危ないところで、危ないことをしようなんて、思わないだろう」
目に見えていたはずの、今では見えなくなった危険だ。
「果てない砂漠に、水源を求めるようなバカな真似はしなかっただろうね」
死が近い。
その闇は、泥濘のようでいて、内容を失った空のようである。
手触りのない。手がかりのない果てを、アオイは見るだろう。
不運で、不幸で、人生の有様まで不格好だ。
「でも君は、一時の救いのために、毒を呷ったのだ」
意志や思考をそぎ落とされ、魂まで純化する。
死ぬその瞬間まで、意識はあるだろう。
それがどれだけの恐怖か。
死を知らないメアリー・スーには分からない。
「苦悩を有する理性を愛せよ、アオイ」
メアリー・スーは嘆じる。
死とは、いかばかりの恐怖か。
憂う意識の先では、呆れもあった。
なんせ、この苦悩でさえ彼の信念は歓迎するらしいので。
「本当に、運が悪い男だよ、君は」
【あとがき】
申し訳ない! 今年中に終わらなかった!
来年も頑張ります! あと数年続くということはないのですが、もうちょっとだけ続きます!
今年もあと数日ですが、更新できたら、します!(次話進捗0字)
さて、今年はたくさんの感想、評価等ありがとうございました!
来年もおつきあいの程いただけたら、幸いです。面白いお話を届けられるよう、精進したいと思います。
それでは、みなさま、風邪・インフルに気をつけて、良いお年を!
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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登場人物たち
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物語(ストーリーの展開)
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世界観
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文章表現
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結果だけ見たい!