暗い。
寒い。
感覚ばかり先立ち、理屈ある思考ができない。
考え事をしていたはずなのに、いつの間にか、頭の中が平坦になってしまう。
暗闇は、屍が押し込められた棺の四隅の香りがした。
そんな――永遠に続くかと思われる、暗闇のなか、アオイ・キリフリ、だった、ものは蠢き続けていた。
(私は……いったい、何を……)
身体の輪郭さえ正確につかめない。
そもそも身体があったことさえ忘れかけている。なかでも。
(あれ私だっけ? わたし……? 俺……違うかな、僕……これも、何か違う)
自分、というものを見失って久しい。
身体が重い。何も考えが思い浮かばない。
歩く度に、存在に必要な何かが欠けてしまう。
握った砂が隙間から抜け落ちる気分だ。こぼれ落ちる砂を止めることはできない。だから足を止めようと、止めまいと、落ちる時間は変わらない……気が、する。
時折、怖くなって自分の身体を抱きしめる。
大事なものが欠け落ちて、無くなってしまったことにさえ気付かない、今の自分が怖かった。もう自分が誰で、何のためにここを彷徨っているのか分からない。ずっと長い時間いたような気がするが、数分前にやってきたような気もする。
ただ。
(寒い)
存在しているかどうか曖昧な身体は、しきりに震え、重圧に耐えかねる足は止まりそうになる。
(ここは、洞窟は、電気の……名前は……、何だか、忘れたが……似ている、ような……似ていない、ような……)
底の無い暗闇を、彼は歩く。
じっとして待つことができなかった。自我が削り落とされようと、人間の根源にある喪失への恐怖は消えない。
「……、…………、……」
何か。
(…………?)
天上から音が聞こえたような気がして、立ち止まって振り返る。
まだ音は聞こえるが、姿が見えない。
ほんの先にある自分の手さえ見えない暗闇だ。
(……音)
それが、何なのか。
不思議に思っていたが、意識に長く留めていくことができなかった。だが。
(……どこかで、聞いた声だった、かもしれない)
感想も忘れてしまい、彼は歩き始めた。
(そういえば、私は、何か探していたような、気がするが……)
こんなところで。果たして。何を探していたのだろう。どこまで歩いても、暗闇しかないのに。
□ ■ ■
ここは、メアリー・スーさえ観測の『目』が届かない、意識の水底。
睡眠の先にある、絶対封鎖領域。
即ち、忘我の境地。
□ ■ ■
目を閉じているのか、開いているのか。
足は動いているのか、止まっているか。
何も分からなくなってしまいかけた、その時。
もぞりと不明瞭に動く身体を、照らしたものがある。
「……あ」
ぽつん。
遠くに見える青白い焔が、永遠に思えた暗闇の先にあった。
それに引き寄せられるように、彼は動く。
すると靄が晴れていくように、世界が明確になりはじめた。
青い光に近付くにつれ、この暗闇が洞窟のようなものだということが分かってきた。
青白い光は、近付くに薄れ、洞窟の外にある白い光と同化する。洞窟の先は、目がくらむほどに明るいい。白昼に似た透明な光が降り注ぐ空間があった。
何も無い暗闇の先に、どうして、穏やかな光が満ちているのだろう。
光は、喩えるなら雨だった。ただ、降り注ぐもの。
それは、身震いするほど美しい。しかも平等だった。
だが。
(……探していたものではない)
平等であることは、良いことだが、欲しいものではない。
けれど、棺桶の空気が沈殿する暗闇より、清らかで輝かしい空間には違いない。
ここよりマシだという一点だけで、彼は洞窟の先へ歩き出そうとする。
その時。暗がりに慣れた虚ろな瞳に、青白い光が横切る。
何だろう。焦点を合わせる前に、目の前で、焔が弾けた。
「うわっ」
しりもちをついた彼は、洞窟の暗がりに戻された。
色鮮やかに爆ぜた焔が、体をチリチリと焦がす。
服がほつれて線維が固まる――この景色を、彼は知っていた。
「焔が……なんだか、懐かしい。君の存在を、かつての私は待ち遠しく思っていたような、長い間、君の焔を見ていたような、そんな気がする……」
彼は、名前の知らないポケモンに話しかけた。きっとかつては名前を知っていたが、今は思い出せない。そもそも、ポケモンという生物の存在を、たった今思い出した。
一見してロウソクのポケモンは、ゆらゆらと青白い焔を揺らしている。しかし、その焔の熱量は、風が吹けば、いや、吐息一つで消えてしまうほどのか細いものだった。それでも、目の前にあるはずの自分の手さえ見えない暗闇で、息絶えようとしていた彼にとっては光明だった。
――ひょっとすると、この存在が、彷徨い続けた私の存在を終わらせてくれるのだろうか。たとえば、焔を消してしまうとか、そういう行いで。
体中が重い。それでも、どっちつかずの状態に耐えきれなくなった彼は、ようやくの思いで手を伸ばした。しかし、そのポケモンは彼の手をすり抜け、体に飛びついた。
「なっ――」
燃えてしまう。
危機感の残滓が、そんなことを思う。
しかし、彼に熱が訪れることはなかった。
「……?」
彼は振り返る。そういえば、久しぶりに振り返った。彼は歩き続けて、振り返り方を忘れていたのだ。
「モシモシッ! モシッ!」
振り返った先では、ポケモンの怒りによって、何かが燃えていた。
匂いが曖昧なここでは、判断材料の足しにならない。
彼はしりもちから立ち上がり、近寄った。
「なにを……なにを、もやして……」
焔に包まれ、ギギギ、と鳴いた――形在る怨恨をアオイは知っている。
「あ……ぁ、あ……!」
悲鳴さえあげる暇は無い。
それは『彼』じゃない。だって『彼』は死んでしまった。それが分かる。分かってしまう。視線の先にある、『彼』に似た『彼』ではないもの。
――私の執着は、何のために?
「違う……」
――信念は何を生みだすために?
「違うんだ……」
――この執念が、燃えているものだとするならば。
「それは……私の魂にこびりついた怨嗟だ」
たまらず、駆けだした先で、彼は抱きしめた。
「やめて、やめてくれ……。ああ、ああ、そうだ、君は、ヒトモシ。君は、私の知っている、ミアカシさんだろう」
重かったはずの体が動く。思考は、水路の流水如く滔々と流れた。
重荷を下ろした肩の、なんと軽いことか。
「モシ、モシッ!」
――だから、燃やさないと。
罪を知らない透明な決意で、ミアカシが醜い塊を指差す。
彼――アオイは、首を振った。
「あれは、いいんだ。放っておいて、いいんだ。私が死ぬまで背負っていくものだから。私は、ジュペッタを亡くしてしまった……。背負ってしまった。後退るには重い荷を背負ったが……それでも、私は、よかったんだ」
アオイは、ミアカシを足下に置いた。
この体の軽さに慣れてしまわないうちに、手を伸ばそうとした。
燃え滓になりそうなそれに、アオイは屈んで声をかけた。
「君……なんて言うべきなのか、ジュペッタではないし……」
言葉を探す目を離した一瞬に、アオイの右手は食いつかれて、千切れた。
痛みを訴える一瞬さえない。
後生大事に呑み込まれて、それは視界から消えた。
茫然とするアオイをすり抜けた焔がある。
「あ、ちょっと、待って――!」
ミアカシが飛びだし、容赦の無いひのこを放った。
「ミ、ミアカシさんっ! あ……ああ……」
今度こそとばかりに。焔がそれを燃やし尽くした。細やかな仕事は、念入りだった。
「あ、あぁ……燃える……燃えて……燃えてしまう……」
その光景を見る、彼のなかにフッと事実が浮かび上がった。――私の執着は、終焉を終えてしまった。
それは。
「……惜しいくらいに、綺麗だ」
執念は燃え、消えてしまった。塵ひとつ残らない。
その光景を見たアオイは、乾いた笑いが出た。
(ミアカシさんが、この執着を良いと思うはずはないんだ)
だって、いま『生きている』のは彼女だ。
『死』に触れながら『死』を知らない彼女には、生きる者が死したものを留める意味が分からないのだろう。まだ、ちゃんと死んだものを見たことがないから。
それを愚かと笑うことはできない。
なぜなら、良いことだ。過去より、未来を見つめて生きることは、良いことに決まっている。
それができないアオイの代わりに、彼女がやってくれた。
『重い物なら下ろせばいい、できないのなら、無くしてしまえばいい』――無邪気な発想に、救われていた。
「は……ははは、はははっ……! 私の執着とは! 実にこのような! 火を付ければ燃えて終いになるものだったのか! これは、傑作だ、傑作だとも! なあ!?」
呆気ない。
呆気なさ過ぎる。
しかも私の人生のように滑稽だ。
ひとしきり笑った後で、彼は膝から崩れ落ちた。
悲しいのか、苦しいのか、分からない。けれど、体が軽かった。悲しいくらいに、体が軽かった。
「モシ!」
やり遂げた顔で、ミアカシが振り返る。
リアクションをすこし考えて、アオイは頷いた。
「え。あ、あの……ありがとう、なのだが、……その、私の手も……燃えたのだが……」
ピョンと飛び跳ねたミアカシは、消し炭の中から手を探すようにキョロキョロした。
それから。
「モシ、モシ……」
不幸な行き違いがあったのだ、と言うように、ミアカシはアオイの足をポンポン叩いた。
「あ、うん」
わりと重大な問題だとアオイは思うのだが、ミアカシはそうではないらしい。ま、気にするな、と言わんばかりで、慰めもそこそこに歩き出した。
「あ……あ、どこに行くんだ」
「モシ! モシ!」
彼女は手招きする。
アオイは、一度だけ振り返る。光の降り注ぐ空間は、いまだ煌々と輝いていた。
あそこにはきっと永遠の安らぎがある。
それでも、アオイは選んだ。
「ま、待ってくれ、ミアカシさん」
踵を返す。
このまま、彷徨うことになろうと、アオイは信じたいものを信じることに決めたのだ。
歩き方を忘れかけた足は、何度も転びそうになり、初めて歩く人のように、ぎこちなく動いた。
それでも焔に照らされる、小さく白い形を賢明に追う。
「まっ待って、くれないか……。ミアカシさん、もう、ずっと歩いて帰り道が分からないんだ……。君は、どうやって来たんだ? いいや、君だけでも帰るんだ。コウタが面倒を看てくれる。コウタのことは、覚えているだろう?」
「モシモシ……!」
彼女は振り返ることなく、歩き続ける。瞬きのように明滅を繰り返す灯火を見失わないように。
一歩。二歩。三歩。
歩く度に、ここに来るまでに欠けたものを拾っては、空っぽの体に詰め込んだ。
名前や性別。言葉や知識。思考や信念。
死の香りがする暗闇から、出口まで光という糸をたぐる。
そのなかで。最後に、拾ったのは。
「私の夢……。ああ。いろいろだ。やりたいことが多すぎて、あっちこっちに散らかっている。でも、大きな夢は、そうだ、私は世界を変えたかった。もっと良い方向へ。もっと美しく。……私達の生きる世界は、素晴らしいものに満ちあふれていて、生きるに値したのだと胸を張るために」
しっかりした足取りになったアオイは、ミアカシが足を止めたので、止まった。また、光の降る場所があるのかと思ったが、辺りを見回しても何も無い。
どうしたんだい。そんな声をかけようとして、天を仰いだ。
――……、……、……ジ。ジリ……ジ……。
天上から、音が聞こえた。
その音は職場では、よく聞いていた音だ。
なぜ夢の中で聞こえる音が、この音でなければならなかったのか。
音の意図に気付いたとき、アオイは失笑した。
「外から伝わってくる音なら、これが最適だ」
「モシ!」
ミアカシにとって電話ベルの音は、気分がよくなるものらしい。
仕事ではいつもふたり一緒にいられるからだろうか。この予想が合っていたら、アオイもちょっぴり嬉しい。
ぴょんぴょんと跳ねてアオイの視界を照らすミアカシは、とうとうお目当てのものを見つけた。アオイも音の位置が分かり、歩き出す。
次第に、ベルの音は大きく明瞭になっていった。
「とはいえ、誰からの電話なのか。マニさん? いや分からないな。しかし、分からないということは、私にとって『誰からでもいい』のだろう。――たとえば、それがどんな世界であろうと」
暗闇から現れた古風な黒電話に語りかけ、手を伸ばしかけたアオイは、一瞬だけ思いとどまり――ミアカシが目を合わせ頷く――彼は、受話器を取る。
そして。
震える胸を押さえ、果ての無い暗闇に向かって告げた。
「もしもし、君と私の世界」
◇ ◇
□ □ □
メアリー・スーは、観測した。
◆ ◆
■ ■ ■
【あとがき】
アオイの夢章はあと1話で終了になります。
【今後の見通しについて】
・次章:魂の昇る階
・終章 で終了になります。
・現在、60万字くらいですが、もう、そんなに、長くはなら、なら……なららら……ないと思います……はい……頑張って書いています。終わるまでお楽しみいただけたら幸いです!
【本作における、あとがきについて】
これまで実はコツコツ消していましたが、作品について語る以外の文章、時事的な報告等は近々削除する方針です。
【本作の誤字脱字について】
筆者は作品完成後に、まとめて推敲を行います。でも、誤字脱字はありがたいので、ご報告いただけたら幸いです。
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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登場人物たち
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物語(ストーリーの展開)
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世界観
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文章表現
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結果だけ見たい!