もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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case11+悪夢の先へ(下)

 

 

 

 アオイ・キリフリは、目を開いた。

 どうやら寝ていたらしい。しかし、目が開いても物の輪郭が分からない。目が眩むほど明るいのだ。

 そういえば、実験開始時間は正午だ。すると、底なしの明るさが降り注ぐここは現実だろうか。

 

 彼は、大きく息を吸い込んだ。

 

「やったか!」

 

「残念ながら、まだ悪夢だ」

 

 アオイは、ポカンとして目の前に現れたメアリー・スーを見つめた。

 彼の顔は、分かりやすい動揺が現れていた。――悪夢? え? うそ、ほんとうに?

 

 それが、ようやく言葉の形を得たとき、声は感情の波で震えていた。

 

「お、おい……おいおい、嘘だろう」

 

「嘘ではない。――何度も呼んでやっただろう」

 

 彼女の手を見れば、はて、どこかで見たような黒電話が……。

 

「しかし――わたしが」

 

「う、うわあああああああ――!」

 

 アオイは、衝動的に跳びはねた。

 だって、まだ悪夢なのだ。絶対時間切れになっているに違いない。

 

「観測の技術的な――」

 

「どうしよう――ッ! わああああーっ!」

 

 まだ取り得る方法があるだろうか。いや、なんとしてでも探さなければならない。

 

「つまり、わたしが優秀であるからして――」

 

「ミアカシさーん! どこだーッ!」

 

 ああ、こんな時にまたしてもヒトモシのミアカシさんはアオイの目の届くところにいない。つい、右手の爪を噛む。やがて狼狽のあまり、駆け出しそうになったアオイの脚は止まった。

 

「うるさい! 人の話を聞け! 時間が無いんだ、コノヤロウ!」

 

 キリリとつり上がった目をしたメアリーが、黒電話をアオイに投げた。

 それが臑を直撃する。強打したアオイは「ひぐッ」と呻いた。片足でぴょんぴょん跳びながら、また辺りを見回した。

 

 メアリーの背後には1本の樹木が生えていた。ここには覚えがある。最初に悪夢に入り込んだ時に、『アオイがシンオウ地方に来なかった』場合のパンジャがいた場所だ。

 

「こ、これが落ち着いていられるか……!」

 

「ところで君は、スイングバイを知っているか?」

 

 まったく関係の無い話題に、アオイは悪夢らしさを実感する。

 

「質問を質問で返すのは、君の悪い癖だぞ、パンジャ――ではない、メアリー! ……そ、そんな目で見るなよ……。ス、スイングバイ、たしか、物理学の、ええと、宇宙の話ではなかったか? ああいや、質量の話だったか……?」

 

「まあ、イメージは合っていそうだ。簡単に言うと、運動ベクトルが通過前と通過後で違う、という話だ。運動量と運動ベクトルとの関係や加速や減速の種類など、状態に応じ様々な――」

 

「ああそう。どうだっていい! 問題は、私が最も関心のある問題は、それが私の状態と何の関係があるのかという一点のみだ! 答えてくれ、メアリー・スー!」

 

 アオイは、メアリーに詰め寄る。彼女は、パタパタと手を振った。

 

「アオイ、悪夢から戻る方法を君はロクに検討してこなかったな。『悪夢から目を醒ますには、どうすればよいか』。実に、気がかりな問題だ。目を醒ませばいい、と簡単に考えてはいけない。高く上がるためには、一度深く落ちる必要がある」

 

 人差し指を天に差す――アオイは、その先を見つめ、気付いたことを言った。

 

「分かった。メアリー。理解した。君が想像しているのは、トランポリンだ」

 

「おお、さすが。4点だ。発想は悪くない。『いきはヨイヨイ、かえりはコワイ』というヤツさ。落ちて来るときは、重ければ重いほどいい。帰るときは、削いで剥いで軽くなるくらいがちょうどいい」

 

「来た時より、何かを得て帰ることはできない? ……それは」

 

 ここでは存在の全てが重量を持つのだ。即ち、ここで得た経験の代わりに、自分を構成する何かを失い、答えの代わりに、何かを無くす必要がある。

 

 メアリーは端正な顎を上げた。

 

「当然それは、等価交換ではない。0を1にする、意識の跳躍だ。軽ければ軽いほど成功の確率は上がる」

 

 では、失う何かとは、何なのか。

 訊ねようとした先で。メアリーは薄い色の唇を、憎々しげに歪めた。

 

「……しかし、悪夢はすでに対価を得た」

 

「それは、私が目覚めるために必要十分な対価なのか?」

 

「君がここに存在する理由を抹消するには十分すぎる」

 

 微妙に答えは、アオイの欲しいものではない。けれど、得るものを得てしまったメアリーは、これ以上に価値のある物を受け取ることができないのだ。

 

 それでもなお、パンジャの顔で邪悪に微笑むメアリーは、面白いものを見つけたと目を輝かせていた。彼女と同じ顔を嫌に思ったことだろう。かつてのアオイならば。

 

 アオイは、彼女の名前を呼んだ。

 

「メアリー・スー、君に……敬意と感謝を」

 

 先ほど元通りになった右手で、アオイは握手を求めた。

 

「なっ。何の真似だ……」

 

「私のこの状態は、ミアカシさんが引き戻し、君が観測し引き上げて、辛うじて繋がった生命だ。君の忠告を聞いていれば、これよりマシだったかもしれない」

 

「……そんなこと」

 

「『視』えていたんだろう。メアリー・スー(創作された、もうひとりの私)、君は最強に卑怯で、しかも最高に最善を選べる、この世界の主人公なのだから」

 

「買いかぶりだ……。正直に言おう。この未来だけは『視』えなかったよ。外界からの干渉があった。ヒトモシだ。死の喪失、その一瞬につけ込まれた。悪夢は、魂に触れることはできない。肉体が存在してこその悪夢だ」

 

「……。まさか、君が……。いや、それが本当だとすると、私にしては、ずいぶん」

 

「そう、運が良かった。ふん。――ああ、話すのも業腹だ。さっさと往けばいい。わたしの負けだ、アオイ・キリフリ。君は目覚め、悪夢は解ける。わたしの終焉をもって、君は生き続ける」

 

 メアリーは、アオイの手をはたき落とす。それでも、伸ばそうとした理解しがたい右手を、ほんの一瞬だけ目に留めたが、やがて背中を向けた。

 

「せいぜい生きろ、アオイ。悪夢に怯えて生きるがいい。『人々のため悪夢を利用する』のだろう。この事業は、君が始めたことだ」

 

「ああ、その言葉を違えることはない。私の真新しい夢だ」

 

 その言葉に、背中を向けたままのメアリーが、わずかに笑った。

 

 強固に束ねた糸が千切れ、世界が解ける。

 

 目に映る全てが、捉えきれない細かな粒子に変化した。

 美しい光の羅列は、努力を労う賞賛のようだった。

 

(……ああ、ああ、綺麗、だ……)

 

 美しい気配に囲まれていると明敏に感じていたはずの体の感覚が遠ざかった。一瞬だったので気のせいかと思う。しかし、また遠ざかる。さざ波のように伝わる意識の変化をアオイは受け入れた。きっと、現実の肉体に意識が統合されているのだ。瞼が重い。これは眠る間際に似ている。

 

 この世界が終わるまで、ずっとメアリーを見つめていた。

 なんとなく。名前を、呼んだ。最強は持ちえた権能ゆえに孤独だろう。

 

 私の最期にさえ誰かはいた。――その思いを遮ったのは、誰かの涙だった。

 

「おお、友よ! 幕引きだ!」

 

 その仕草はいつものように、仰々しい。

 歌劇じみて、アオイには馴染みの無い動き――けれど、美しい。

 白衣を翻し、彼女が振り返る。裾をつまみ、緩い弧を描いた指先が伸びる。

 

 そして、たったひとりの観客に向けて、一礼をした。

 

「然様! さようならば、二度と君に会いませんことを! わたしにカーテンコールは要らないんだ」

 

 

 

□ □ □

 

 

メアリー・スーは、観測を終了した。

 

 

□ □ □

 

 

 

 アオイ・キリフリは、息を吹き返す。偶然にもカラマツ医師が懐中時計を握りしめた瞬間だった。

 

 ほんの数分前から呼吸は――自発的に、止まっていたのだが。

 

「はァッ……う……あぁ……!」

 

 体が動く。

 開いた目が、眩しい。光が頭に突き刺さるように痛い。

 

(痛い……痛い……痛い、ああ、痛い……私は、たしかに、生きていた……)

 

 ――痛みを、苦悩を有する未来を……私は、信じていたい。

 

 何度か瞬きする。その間に、息をする度に軋む体を把握する。

 呼吸は不規則だが、たしかに自発呼吸だ。

 人工呼吸器のマスクが吐息で白く濁る。

 

 誰より目をまあるく見開いたマニ・クレオは何かを叫び、カラマツ医師は時計を投げ出して手を叩いた。

 ミアカシは、顔色を覗き込み、ラルトスはホッとしてへたり込む。

 

 そして、正午は喝采に包まれた。

 

 

 

□ □ □

 

 

 

 電話のベルは、懐かしいメロディーが流れた。ピアノの音。ポロン、ポロロン、と弦を弾く音が軽快だ。

 

 爽やかさえ感じられるそれが、陰鬱な現実を払ってはくれないかと、コウタ・トウマは本心から願った。

 

 俯いたまま、腕時計を見る。12:00:28。

 数字だけが明確に事実を伝えていた。

 

「おい、パンジャ、でろよ」

 

「…………」

 

 いつまでも音は鳴っている。

 

「おい、おい……」

 

「や、やっている……!」

 

 パンジャは、ガチガチと両の指をぶつけていた。モバイルを握る彼女の指は、緊張のあまり拘縮して動かなくなっているらしい。

 

「ああ、もう、貸せって!」

 

 指を剥がすことはコウタにもできなかった。だから指からモバイルを引き抜いた。

 

 通話マークを押し込もうとして、指が微かに震える。

 彼女と同じ立場になり、固まってしまう恐怖が分かる。

 

(悪い話なら、知りたくない……よな)

 

 しかし、目を閉じたまま電話に出た。

 恐怖より興味が上回る。コウタは事実が知りたかった。

 

「――もしも」

 

『あ! パンジャさんですか!? アオイさん、生き返りました! やったーっ! あははははははっ! わーい! あははは……!』

 

「ん? ん? あ、お、おい……マジ? マジ?」

 

「どういうことだ……」

 

 これには、モバイルの反対側に耳を押し当てたパンジャも困惑していた。

 電話の向こうの彼らが正気なのかどうか、確かめるまでにその後、数十分を要した。

 

 そして。

 

「……っはー。どんな奇跡があったのか知らないが……生きてんなら、俺は……俺は……それで、いいんだ。それ以上も、それ以下も無いよ」

 

「そう、だな。では、わたしは行く」

 

 パンジャは言葉少ない。

 さすがに、もうすこし喜ぶと思うのだが、麻痺しているのか大きな感情の変化は無い。普段より白い横顔をコウタは、じっと見ていた。

 

 彼女はヘルメットを手に取ると長い髪を束ね、それをかぶった。

 

「約束は、果たさなければならない。彼は来る。わたしは成す。それだけだ」

 

「アオイ、二度死にかけて変わったかもだぜ?」

 

「君たちが変わろうと、わたしは不変だ。――邪魔をすれば容赦はしない」

 

 コウタは返事をしなかった。

 

 最後まで彼女の顔は、透明な硝子じみて何も映さず、窺えないままだった。

 

 




本話で【アオイの夢】章は、終了になります。

【後年の叙述】
メアリー・スー。
彼女は本当に『メアリー・スー』だったのか?
誰かが何かを演じていたのではないだろうか?
もし、そうだとしたら、その動機は何だろう?
何を言ったとして、しかし、彼女が否定する答えがある。
それは、口に出すも憚られる、愛という動力。

――ああ、カーテンコールは要りません。
――万雷の喝采は、どうぞご遠慮を。
――深紅の花束も、心煩うばかりなのです。
――天秤が正しく傾くように、全て全て、主演者へ。

――二度と相見えることがないように。
――幕は固く、閉じて、結んで、繙かないように。
――再び舞い遂げられるほど、わたしは君を憎んでいないから。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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