もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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鐘が鳴り終える前に、花を摘め (中)

 朝起きたアオイは、ベッドの中で(今日は、タワーオブヘブンに行くのだ)と考えていた。昨夜は早く寝たせいか。妙に目が冴えている。

 

 タワーオブヘブン。魂を送る塔。

 きっと、その役割は、死んだポケモンを悼むこと。そして、生者に死者と自分の違いを理解させることだ。

 

 ぷうぷう、と寝ているヒトモシのミアカシをつついたアオイは、目で車イスを探して――今の自分は歩けるのだと思い出した。そして、アオイはふらふらしながらも歩いて顔を洗った。パンジャの迎えが来る前に確かめたいことがあったのだ。しかもそれはひとりでは耐えがたいものだった。

 

「ミアカシさん、朝だ。起きてくれよ」

 

「モシ、ャ……モシ……」

 

 昨日は、かなり運動をしたらしい。

 ようやく起きたミアカシは、また床で寝そうになった。それを急かながらアオイは階段へやって来た。

 

「ミアカシさん、実は私の部屋は2階にあるんだ。まあ、子どもの時に使っていただけで、大人になってからはああして客間で寝ているんだけど」

 

 2階へ繋がる階段は、昨日パンジャが箒で軽く掃いただけで指で掬える埃が積もっていた。

 転ばないように。

 慎重に、ふたりは階段を上る。そのうちミアカシがアオイを追い越して階段の数段上で待っていた。

 

「ありがとう。……助かるよ、本当に。ひとりだと、こればかりは、辛いものだ」

 

 辛いのは、階段を上ることが、ではない。

 アオイが目指すのは2階の自室――のさらに上階。収納された階段の先にある、屋根裏部屋へ行きたいのだ。

 

 タワーオブヘブンに行く前に、確認しなければならない。いいや、次にイッシュの地を踏むという時はそうしようと心に決めていたことを果たそう。

 

 2階は誰も立ち入っていない証に埃が積もり、空気が淀んでいた。ミアカシのうきうきと歩く背に声をかけた。

 天井にある折りたたみ式の階段を下ろすと、一段一段を踏みしめながら上った。

 

 屋根裏部屋は、静謐な朝の光も届かない。この家で、どこよりも天に近いはずの空間は最も暗い場所だ。

 

 子どもの時分は何も届かない隔絶された空間が、特別な秘密基地に思えたのだ。

 

「……モシモシ!」

 

 アオイと一緒に屋根裏部屋を見ていたミアカシが大きな箱を見つけて飛び出す。

 彼女の向かう先、色あせた包装紙に包まれた箱を、アオイは知っている。

 

(この中に……『彼』がいた)

 

 ひっそり暗い屋根裏部屋。それは、母からのプレゼント――の心算だったのだろう。彼女はアオイに渡す前にそれを忘れ、出て行ってしまったので、アオイはそれを自分の所有だと思っていない。だから、プレゼントのぬいぐるみであったジュペッタは『母の持ち物』だった。

 

 痛む胸を押さえて、アオイは屋根裏を這いずった。

 ミアカシがアオイの手元を照らす。

 

「ありがとう……本当に、暗いな……ん?」

 

 指先にふれた紙を見る。過去の自分が破ったバースデーカードがあった。

 

「……当時は、捨てることもできなかった。受け止めることもできなかった。今でも……どうしていいか分からないな」

 

「モシ、モシモシ?」

 

 ミアカシは紙切れをひとつ、つまんでアオイに見せた。諦めのような顔をして、アオイはバースデーカードを読み上げた。

 

「『お誕生日おめでとう』と書いてあるんだ。……そう。私は母に『生まれてきてありがとう』と言われたかった」

 

 ここにあるのは、全て愛の残骸だった。

 ミアカシが、紙切れをアオイに渡す。彼女は理解の及ばない顔をして屋根裏部屋を眺めていた。

 

「……私の大切な場所だ。嫌な思い出ばかりではないが……良い思い出とも言い難い」

 

 ジュペッタを最初に見つけたのは、ここだった。

 アオイは膝をついて、プレゼントの箱を手元に引き寄せた。

 

 手の中は、ひどく汗をかいていた。

 箱を揺する。音はしない。いいや、落ち着け。まだ判断するのは、早い。アオイは自分を窘めた。

 中を開けるまで何が入っているか、誰にも分からないのだ。

 

「…………」

 

 アオイは、ここまで来てフタを開けるのを躊躇った。

 

 開けなければ、確認しなければ、アオイの願望――新しいジュペッタが中にいるかもしれない、という事実は永遠の謎になる。確かめようがない。それは生傷を抉られる痛みがあるが、同時に、それ以上の傷を負うことはないだろうと思えた。生きている状態と死んでいる状態。そのふたつは両立するものではない。だが、今はそのふたつの可能性は、折り合わさり、重なり合っている。

 

 これは、これで、いいのかもしれない。気弱な心に流されそうになる。

 

「モシ!」

 

 蓋から手を離しかけたアオイの手を止めたのは、ミアカシだ。不自然に震えた手を見つめていた。

 どうして開けないのか。不思議そうな顔をする彼女に、アオイは答える言葉を窮した。

 

「いや……! これは……これは、違う、いや、私は……私は……可能性の問題として……! ……。ああ。もう。言い訳は、やめよう。私は、怖いんだ。ここにジュペッタが『いない』ことを知って、もう一度立ち上がれなくなりそうな自分が、怖いんだ……」

 

「…………?」

 

「ごめんね。難しい話をした。開けたくないが……開けないと、確かめないといけないんだ」

 

 そうでなくては。――今日、タワーオブヘブンに行く意味を無くしてしまう。

 

 アオイは、震える手で蓋を掴み、開けた。

 

「モシ!」

 

「…………」

 

 そこには。

 

「からっぽだ」 

 

 何もなかった。

 まだ震えている手で、箱の中へ手を入れる。

 指先が箱の底を突くばかりで、何もない。

 

(ああ、何もない)

 

 きっと何年も前から、ここには何も無かったのだ。

 ただの空箱だ。虚空を収めただけの、箱だ。

 

(やはり、そうだったか)

 

 分かりきっていた結末だ。

 諦念が去来する。そして、わずかに抱いた希望はアオイ自身把握しようのない感情になって消えていった。

 

(……ああ、それでも私は)

 

 虚ろな箱にさえ期待をこめて、大切にしたかったのだ。

 蓋を握ったまま動けなくなっているアオイを、小さなつぶらな瞳で見上げていたミアカシは何を思ったのか。彼の膝をよじ登り、箱の中に入った。

 

「あ……ちょっと、そこは……」

 

 大切な場所なんだと言うアオイの言葉には力がない。そのうち、ミアカシは小さな手をひょいひょいと動かす。蓋を催促されているのだ。それに気付いたアオイは、言われるがままに蓋を箱の上に置く。そして一拍。蓋を開いた。

 

「モシ!」

 

 箱から顔を出したミアカシが、アオイに飛び付いてきた。面食らったが、すんでのところで掴まえた。

 屋根裏部屋で埃だらけになりながら、転がったアオイは側頭をぶつけていたが、痛みは無かった。それよりも。ジュペッタは『わたし自身がプレゼント』というつもりだろうか。無邪気に笑う彼女が、暗闇では眩しかった。

 

 悪夢を経過したアオイにとって、ジュペッタとの生活は既に記録でしかない。

 時間を経れば、いずれ薄れ消えていくものだ。

 それでも、今この胸にある痛みは、悲しみは、喜びは、確かに以前感じたものと同じだった。

 

「は……は、ははは……ははははは……!」

 

 アオイは、笑った。それから、泣いた。

 どうしても言葉にならなかった。

 彼の胸の痛みが和らぐまでミアカシは、じっと動かなかった。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 擦りすぎた目の腫れが引くまで時間がかかりそうだ。

 アオイは、ミアカシと食事を摂った後で固く絞ったハンカチを目に乗せていた。

 

「あー……ミアカシさん、パンジャが来たら教えてくれー……」

 

「モシ!」

 

 ミアカシの仕事は早く、アオイの膝をトントン叩いた。

 

「いや、だから、来たらって話で――」

 

 ピンポーン。

 ちょうどよく鳴り響いた来客を告げるベルにアオイはハンカチをたたんだ。

 

「早いな! いったそばからじゃないか……」

 

 外出の気配にミアカシはそわそわとアオイの周りを回った。

 

「行くよ、ミアカシさん」

 

「モシモシ!」

 

 玄関を出ると、パンジャがぼんやり立っていた。

 なんとなく、だが――昨日の様子からすると、緊張感のある顔で立っていると思っていたので、アオイはかすかな驚きを抱いた。

 

「パンジャ。朝早くありがとう」

 

「……あ。ううん。大丈夫だ。これ、忘れ物。支度はいい?」

 

 パンジャが持っていたのはアオイのパソコンケースだった。「あっ」とアオイは声を出した。無かったことに気付いていなかったのだ。

 バニプッチが彼女の陰からひょろりと出て、引っ込み、出て、引っ込み、ミアカシをからかった。

 

「問題ない。君こそ大丈夫か? なんだか眠そうに見えるが」

 

「ああ、すこし。夜更かししてしまってね。途中でコーヒーでも飲もうかな」

 

「何か心躍る書籍を見つけたのか?」

 

 昨日の反省もなく、あっさり挑発に乗るミアカシを「どうどう」とおさめた。助手席に乗り込みながら、訊ねる。彼女の返答は、これまたぼんやりしたものだった。

 

「そういうわけではないんだ。昨日のことは、さっぱり覚えていなくてね。まあ、頭も痛かった。確かなことは眠ったのが今日の3時ということだけだ」

 

「だ、大丈夫なのか……」

 

「よくあることじゃないか。仮眠はとったし大丈夫だ」

 

 そう言って、彼女は車を走らせた。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

「仕事の方は順調か?」

 

 変わらない景色。

 変わっている景色。

 しばし新しい発見をミアカシと眺めながら、アオイは眠気防止のためにパンジャに話しかけた。

 

「ああ。うまくやっているよ」

 

「ベルガさんとはどうだ? うまくやっているのか? ベルガ・ユリイン。彼女は、ちょっと気の強そうな子で……君と上手くやれるか心配していたんだが」

 

「ああ、よくやってくれているよ。ちょっぴり恨まれているかもだが」

 

「喧嘩したのか?」

 

「音楽性の違いでグループが解散するのは、よくあることだとも」

 

 分かりそうで分からないたとえにアオイは混乱した。

 

「ん? ……致命的という感じではないのか? 女性の人間関係は、私にはどうにも……」

 

「厄介な先輩だと思われているだろうが、毛嫌いされているわけではないよ。冬でもサイコソーダを差し入れてくれる」

 

 それは、嫌がらせなのでは? でも、パンジャはコーヒーとか飲まないし……好きな物を買ってきているだけなのかもしれない。うーん。判断に迷う。悩んだ結果、アオイは結論をみつけた。

 

「そうだ。イッシュを起つ前にベルガさんとも会いたいのだが、どこかで会えるだろうか?」

 

「休みの日でも研究室にいることがある。それに、所長にも挨拶したほうが良いのではないか?」

 

「そうだな。そのうち博物館に行けばいいだろうか」

 

「行く時は声をかけてくれ、車を出そう」

 

「君に迷惑をかけるのは……気が引ける。歩いて行くよ」

 

「途中で倒れると困ると言っているだろう。何度も言わせないでくれ。君に指図するのは、本当に嫌なんだ」

 

「ぐぅ……。そ、そこまでいうことじゃあないだろう……」

 

 うっすら傷ついたので顔をそむけた。その先で、赤信号で止まった車中、アオイは案内標識にタワーオブヘブンの名前を見つけた。ぼんやり車窓を見ているうちに、あと数キロの地点まで来ていたらしい。

 

 そろそろのようだぞ、パンジャ。――声をかけようとしたアオイは、ほんの一瞬、陰のある彼女の横顔を見た。衝動性を秘めた暗い瞳を、アオイは知っているような気がした。かつて、公園で未来の死因を問うた時の瞳は、きっとこれだ。

 

「ん。何か言ったか、アオイ」

 

「眠くないか? コンビニがあるが」

 

「問題ない」

 

 アオイの膝に座るミアカシの焔が小さく震える。その理由を考えようとして、やめた。最悪の想定をアオイは無意識に避けたのだ。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 辿り着いたタワーオブヘブンには、すでに車が数台止まっていた。

 鬱蒼と茂る木々を見た時は遠くに聳える塔とも相まって不気味な印象を受けたが、近くまで来てみると落ち着いた雰囲気のところだ。

 

(もうすこし、早く来てもよかったのかもしれない)

 

 もっと怖いところだと思っていたアオイは、静謐さをたたえる空間を見上げていた。

 

「来るのは初めてだが……入り口はどこだろう。ああ、先客がいるようだ。まあ、今日は一般に休日だからね」

 

 シートベルトを外すアオイの隣で、パンジャは黙ったままだ。眠いわけではなさそうだ。タワーオブヘブンに近づくにつれ、無口になっていった彼女は、今も何か考え事をしているようだ。風船のように膨らんだ何かが破裂する瞬間はそう遠くない未来にある。アオイの予感は正しいだろう。ならば、それは衝動的なものではなく、まだ言語化が可能のうちに発露するほうが精神衛生上良さそうだ。アオイは話を切り出した。

 

「パンジャ……何か怒っているのか?」

 

 彼女は、手袋に包まれた手を擦り合わせた。

 それは、些細な仕草だったが、今のアオイには何かに祈るように見えた。

 彼女が祈るとしたら、それは何なのだろう?

 アオイが疑問を自覚した直後、彼女は重い口を開いた。

 

「いいや、違う。そうではない。そうではなく。そうでは、ない、はずなのだが……」

 

「疑問でも何でもいい。話してみないか? ひとりで抱え込むよりも、誰かに話してみるというのもいいものだ」 

 

「……きっと……君とよく、話した方がいいことは分かっている。分かっている、のだが……今は心の整理が付かなくて、誤解されてしまうような気がする」

 

 彼女は自信無さそうに言った。

 アオイは、彼女が怒っているわけではないと知り、言葉を尽くした。

 お互いのことを深く知っている親友は、ほかにいない。良い相談相手になれると思ったのだ。

 

「言葉にすることが大切なんだ。あ、いや、もちろん、無理にとは言わないが……」

 

 パンジャは車のハンドルを縋るように握る。

 そして、何度か呼吸を整えた後で、言った。

 

「行かないで……ほしい」

 

「え……?」 

 

「だから、行かないでほしい」

 

「どういう意味だ? それは、いったいどういう……?」

 

 タワーオブヘブンに行かないでほしい。彼女の言葉をアオイはそう受け取った。

 ミアカシが小さな声で「モシ?」と呟く。焔が踊るように揺れた。警戒だ。アオイは、我知らず唇を噛んだ。ミアカシだけは、頭上で行われている会話が不穏な響きを得たことに気付いたかもしれない。

 

 しかし。

 

「わたしの手の届かないところに、行かないでほしい。ああ、ダメだ。言葉にすると、どうしても……わたしは……」

 

「パンジャ、私はこれからも無茶をするかもしれないが、それでも次回からは君へ通達の上で行う予定だ。私に万一のことがあれば事業を引き継ぐのは、願わくば……君にお願いしたいと思っている」

 

 彼女は、その言葉を聞いて目を輝かせた。

 アオイの方針は、事故以前から変わっていない。だからこそ、本当に大切な実験記録のパスワードは最もファイルに触れる可能性が高いパンジャ、ひいては花のパンジアを採用している。もっとも、その決定には次に開く人が彼女であって欲しいというアオイの願望が多分に含まれていたが――。

 

「ああ、君はそんなことを言うんだね。嬉しい。とても嬉しい。嬉しいんだが、違う、アオイ、それは違うんだ、わたしは、わたしは、決して、君の代わりにはなれない。君の夢は、君の実験は、君がいてこそのものだ。……わたしではダメなんだ。大した功績も無いしね。石を割るだけしか能が無いんだ」

 

「ダメじゃないだろう。君だってやれるさ。私は、君を信じている。君は自分を信じていないのか?」

 

「信じていたいが、たまに正気ではない時があるからね」

 

「ならば私が保証しよう。君は正気だ。自信を持ってくれ」 

 

「ありがとう。アオイ。君は優しい人だ。優しすぎて不安になってしまうわたしを、これ以上、困らせないで欲しい」

 

 冷たく言い放った言葉を、アオイは即座に理解ができなかった。だから、きっと、変な顔をしてしまっただろう。笑ったような、泣きたいような、そんな顔を。そして、まるで見知らぬ人を見る彼女の目を、アオイは生涯忘れることはないだろう。

 

「わたしの正気を君が保証するのか。結構なことだ。大層なことさ。果報な話なのだ。ならば――君の正気は誰が保証する?」

 

「私の正気を疑っているのか? パンジャ、よりにもよって君が? 私の正気を?」

 

 アオイに苦い思いがこみ上げる。それは悪夢から覚めた後、マニに心配されたことだ。――もしも、僕の知るアオイさんじゃなくなっていたらどうしよう、と。

 過去、一笑に付した話をここでしようと言うのだ。百歩譲る話。悪夢から起きた直後に疑うのは分かる。心配したのだから、それくらい聞いてもいいだろう。特に、マニは悪夢に魘され狂乱した自分を見て、知っている。彼の性格から心配は当然のことだ。だが、彼女はそれを知らない。そして、何より昨日たくさん話した彼女から疑われるのは、アオイの体温を上げた。

 

「ああ、すまない。私から話せと言ったのに、こんな物言いは良くなかったな。反省しよう。しかし、なぜそんな思考に至った? 誰かに何か聞いたのか?」

 

 アオイに心当たりがあるとすれば、筆頭でマニ、次点でカラマツ医師だが、ふたりがパンジャに話す用件があるとは思えない。パンジャから話しかけたのだろうか。しかし、ふたりにはそうぺらぺら話す印象はない。特に、カラマツ医師は、医師である。患者のプライバシーを守ってくれるだろう。マニは、醜態に関することであれば、事前に連絡を取るだろう。からかうことはあるかもしれないが、本当に嫌がることはしない人だと知っている。

 

 では、誰が?

 

「君から聞いたよ」

 

「は……? そ、それは」

 

 どういう意味なのか。アオイがそれを問うことはゆるされなかった。

 

「さあ、どうなんだ? 君の正気は誰が保証する? まさか『メアリー・スー』なんて言わないだろう?」

 

 アオイの呼吸は止まった。正確には、息をし過ぎて息ができなくなっていた――彼は、顔を白くして過呼吸を起こしていた。 

 目の前が赤く、黒く、見えなくなっていった。

 

(私は、まだ悪い夢を見ているのか?)

 

 咄嗟に浮かぶ思いは、それだった。

 メアリ・スーの存在は、アオイとマニ、そしてカラマツ医師しか知らない。――はずだった。

 

 なぜ知っているのだ? ――おかしなことが起きている。――なぜ、パンジャが知っているのだ? ――知らないはずの情報を知っている。なぜ? なぜ? なぜだ? ――この理不尽さを、アオイは以前に体験している。

 

 全ての非常識、不条理、道理をねじ曲げる存在を知っている。

 アオイが持っている情報で、導き出せる答えはひとつしかなかった。

 視界が暗くなっていく。アオイは息苦しさに胸を掻いた。

 

「メアリー・スー? 君は、メアリーなのか? い、いや、嘘、嘘だろう、嘘だ、だって君は、私と別れたじゃないか。あの場所で。君も、あの時に手を――だから、君は、君は間違いなく、パンジャ――って、あ、あれ? でも、パンジャは? パンジャは、メアリーのことを知らないはずで……え? ……え。え? 何で? どうして? 私は……現実にいるはずなのに……?」

 

 現実と夢想の境を見失ったアオイは錯乱した。目の前の彼女がパンジャなのかメアリーなのかさえ判断が覚束なくなっていた。もっとも、どちらかであっても『知らないはずのことを知っている』時点で、安心も納得もできるはずがなかった。

 

 体中に氷を詰め込まれたような感覚が、アオイを狂わす。

 

「今は何日目だ!? ここに来てから、何日経った!? ああ、どこから、どこまでが悪夢なのだ!?」

 

 驚いてアオイの服を掴むミアカシの声も聞こえていなかった。ただ、『死んでしまうかもしれない』という、純粋な恐怖が彼を蝕んでいた。彼は悪夢の中で何度か死んでしまったとはいえ、全て不測の事態によるものだ。それゆえ死に慣れたことはなく、むしろいっそう忌避すべきものとして深く恐怖と共に精神に刻まれている。

 

「あまり正気ではないようだな。いいや、軽蔑などしない。むしろ――そうだな、『安心した』といったところだ。では、アオイ、あらためて提案があるのだが」

 

「な、なんだ……!」

 

 現状の把握ができていないアオイは、何か不条理を言われるのではないかと顔を引き攣らせた。

 

「わたしは、君を元に戻したいと思う。この場合、わたしの見識において原状回復した時点で君を『元に戻した』と解釈をしたい。そこで、原状回復の手段として失われたジュペッタを復元したいと思う。同意してくれるだろうか?」

 

「そ、そ、れは……? そ、そんなことが、できるはずがない! ポケモンで『できる』のなら、人間にだってできる! 行き着く先は死者の蘇生だぞ! 何を……? いったい何を言っているんだ、パンジャ? メアリー? ああ、もう、どちらか分からない! わ、私のパンジャは、こんなことを言わない! ならば、ここはやはり悪夢なのだ!」

 

「君がそれでいいのならば、わたしもそれでいい。これを見て決めてくれ」

 

 そう言った彼女がポケットから取り出した――金色の、金属らしき物をアオイは一目で理解した。あれは、ジュペッタの口、ファスナーにあったものだ。

 だが、それは、西から太陽が昇ることや、真昼に月が輝くことがない事と同じくらい、この世にあってはいけない物だった。

 

『彼』は燃えて、燃えて、燃え尽きて、死んでしまったのだから。

 

 知らないことを知っているパンジャ。そして、現実にあるはずがないはずのものが現れた。現実感を無くしたアオイは、夢なのか現実なのか、いよいよ分からなくなっていた。

 

「あ……あ……ああ…………あ……ぁ」

 

 金属らしき物に触れる。

 この手触りを、アオイは覚えている。

 間違いない。

 最初に『彼』を見つけたのは、アオイだ。

 もう思い出は内実を失い、記録の重みしか無いが体は知っている。

 

 悪夢で、アオイは自分の望みに気付いた。ああ、私の望みは、本当の望みは、ただもう一目だけ、動く『彼』の姿を見ることができれば……それだけでよかったのかもしれない、と。その望みは、ここでもう一度、叶うだろうか。不埒な思いが混迷を極めた思考を過ぎた。失われたものが、もう一度でも、この手に戻ってくるのならば――。

 

「……ほ、本当、に……? できると、言うのか?」

 

 パンジャは、震えるアオイの手にそれを置いた。

 彼の所有物を彼に返した。その代わりと言うように、パンジャはアオイの肩に手を置いた。

 

「君が願う限り、わたしはそれに応えよう。そのためのわたしだ。だから、わたしを肯定してくれないか。『これでいい』と言ってくれないか」

 

「し、しかし……死んだものは、死んだものだ……いまさら覆す、わけ、には……」

 

「だが、衝撃だ。世界に与える衝撃は、それはそれは凄まじいものになるだろう。ねえ、アオイ?」

 

 道徳的に良くないだろう。

 辛うじて残る倫理観が警鐘を鳴らした。

 

「それに『彼』が戻ってくる。戻ってきたら、アオイは嬉しいだろう?」

 

「それは、そ、うだが……」

 

 思考力が落ちているせいか誘導の意志を感じるものの、本音を引き出されてしまった。相手がメアリーにしろパンジャにしろ、悪い手を引いたと思う。

 するり。

 繊手が未だ苦しい呼吸を繰り返すアオイの襟を緩める。抵抗には動かない体が、反射的に跳ねるように震えた。彼女は寄り添うように、身を近づける。そっと耳元で囁く声に、頭が冒されそうだった。

 

「悲しいことは悪いことだ。でも、喜ぶことは良いことだ。わたしは、この世界に『良いこと』を増やしたい。……アオイは、わたしの夢を応援してくれるだろう?」

 

「し、したいが……だが、これは、その、どうなんだ? あ、ぁ、いや、別に君の夢を否定するわけではなくて、その、できる、できないという次元において、あ、あ、つまり現実的なのかという点において……」

 

「わたしも1年サボっていたわけではない。手はずは整えた。少々、時間はかかってしまったが。……でも、技術の多くは化石を復元することで夢を達成しようとした君の功績でもあるから、ちゃんと許可を取っておかないと。そう思ってね」

 

「わ、私の言葉に何の意味がある? だって、君は私を正気と思っていないんだろう? それなら意味なんて無いじゃないか」

 

 パニックをぎりぎりのところで押し込めたアオイは、我ながら冴えた返答をした。それに対するパンジャの応答は、熱心なものだった。

 

「意味ならあるとも。『アオイが下した決定』なのだから。君さえいれば、わたしはそれでいいんだ。言っただろう。わたしは君に……なれないことはないが、一人二役は負担があるし、何より楽しくない。わたしは、やはり君がいい。君でなければならないんだ。たとえ狂気に塗れていようと君が必要なんだ」

 

「君は……! どうして、私にこだわるんだ? メアリー? いや、パンジャか。君は、どうして……!?」

 

「最初にわたしを救ったのは君だ、アオイ。君がくれたものを、わたしは返したい。そうしたら、わたしは――」

 

 わたしは。その後、何と続いたのだろう? アオイに、もっと時間があれば「もっと別な方策を探そう」という言葉を言い出せたかもしれない。だが、現実は常に性急で抜き差しならない状況に追い詰められていた。ふたりの関係はどこまでいっても袋小路で、その先があることを知らないのだ。

 

 突如噴出した焔が、ふたりの身を怯ませる。互いに火の心的障害をもつ同士だ。パンジャはパッと手を離し、アオイから身を遠ざけた。同じように火に目が眩み、身を固くしたアオイの頬を叩く小さな手があった。

 

 我に返ったアオイは手を握りしめ、杖を引っかけると転がるように車外へ出た。

 

「アオイ! ダメ、待って……」

 

「後で。戻ったら、話し合おう。必ずだ、パンジャ」

 

 悪夢の名残を振り切るようにアオイは、駆けた。走る練習はしていなかったが、ここにもう数秒もとどまることはできなかった。

 追いすがる自分の影にさえ怯えながら、アオイは去った。

 

 去って、しまった。

 

「……ああ、ダメ……ダメ、ダメ、ダメだ、……行かないで、わたしを、置いていかないで……!」

 

 パンジャの体は、思うように動かなかった。理由は様々だ。睡眠不足が祟ったのかもしれないし、火のトラウマが深刻だったのかもしれない、あるいはアオイに拒絶されたことがショックだったのかもしれない。ともあれ、彼女はすぐに動くことができなかった。

 

(アオイが持って行ってしまったのか……)

 

 ジュペッタの部品は、彼が握っていた。きっと埋葬するのだろう。

 

(…………)

 

 パンジャは、アオイを救いたい。

 安易にもたらすことができる死による、苦痛からの解放ではない。

 別の方法で救うとしたら今回の方法しかなかった。

 

(願いは……潰えた……。ああ、アオイ。君が、君自身の救済を望まないのなら……わたしも『それでいい』と思うしかないのだろうか?)

 

 これ以上。

 これ以外。

 この結果。

 

 果てに、わたしは何ができるだろう?

 ねえ、アオイ。

 わたしが、君にできることは何?

 

 涙が、溢れる。

 息を吸い込む、その瞬間。

 

(『私』は裁定を得た。もう、いいだろう。これ以上は私の存在意義に関わることだ)

 

 今日も頭のどこかで、裁断機が鳴っていた。

 

 

 

◆ ◇ ◆

 

 

 

 パンジャ・カレン。

 

 彼女は家庭の事情――主に母の多大な愛と父の不在で、子ども時代を奪われていた。それだけならば、まだ、控えめに見積もって人格が歪む程度で済んだかもしれない。または母に対して盲目的にいられたかもしれない。だが、そうはならなかった。彼女の決定的な異変は知らなくともいいことを知ってしまったことに尽きる。

 

 ――この人が、あなたのお父さんよ。ちょうど帰ってこなくなる、ひと月前……だったかしら?

 ――若いですね。いつ帰ってくるのですか。

 ――さあ、いつかしら。わからないわ。

 

 リビングに置かれた写真立てを見ながら交わした会話の数年後、幼いながらパンジャは悟った。

 

 本当は父という存在は、とっくに死んでいるのだ。だから帰ってくることはない。しかし、母は仕事から帰ってくると毎日、パンジャに聞いた。父は帰ってきたかと。母はこの事実を幼い自分から隠したいのだろうか。それとも、隠したくない? 気付いてほしい? 彼女の本心のところは成人後に至った今に置いて、よく分からない。ただ生活において存在は空白の輪郭を型どり、不気味なほど質量をもって生活に溶け込んでいた。

 

 ある日、幼いパンジャは疑問に思ってリビングにある写真立てを手に取った。そして、見てしまった。重なった写真。ふたりの男性。母がパンジャに見せた写真の裏側は――どうあっても、パンジャが存在するにはつじつまが合わない撮影日時だった。

 

 気付いてしまった。知らないはずだったことを知ってしまった。きっと母は許すことはしないだろう。殺されてしまう。

 

 それは、思考の跳躍ではなかった。たしかにそうなるだろう。アオイもその考えを肯定した。パンジャが相談できるのは隣家に住む同じ年頃の彼だけだった。泣き叫ぶパンジャに困ったような顔をしたが、要領の得ない話を何度も聞いて、彼は助言した。

 

『パンジャ。君は、忘れるんだ。見たことを。聞いたことを。考えたことを。全て。全て。全てだ。――「できない」? いいや、やるんだ。そして、演じるんだ。これまでのように何一つ変わらない、変わっていない、と。…………忘れたことなら、僕が――私が、覚えていよう。私は君を助ける。そう。私の夢は大きなものなんだ。君ひとり救えなくて夢の実現はできない。だからね、パンジャ。何があっても私は君の味方だ』

 

 アオイの存在は、救いだった。どんなに最悪で最低な時でも、神にも等しい存在がいるのだと思えた。アオイは、パンジャにとっての救済の光であり、信仰する存在になった。そして、彼から差し伸ばされた手を握る、その時から、パンジャは自分の不都合なことを忘れることにした。

 

 そして時は流れ、記憶は積み重なり、蓄積から生まれた影はいくつかの人格を得た。そのどれもが、パンジャが切り捨てたマイナスの感情から生まれたものだ。自己保存を永遠の命題にしながら、不安定で衝動性を秘めている。時に理不尽な精神的な混乱も引き起こす。しかし、誰もがアオイに感謝をしていた。だって、彼がいなければ存在しなかったはずのものだ。

 

 だから、パンジャはアオイを幸せにしたい。

 自分が彼に救われたように、彼を救ってあげたい。信じているとはいえ、ずっとこのままでいいと思っているわけではなかった。アオイは、パンジャにとって大切な存在だったが、彼にも彼の人生がある。アオイがパンジャのために一生を費やすことはあってはいけなかった。彼の親切心という名の愛は全ての人間、全てのポケモンに捧げられるものだ。独占できるものではない。

 

 子が母から独り立ちするように、パンジャもいつの日かアオイに頼らなくとも生きていけるようになりたい。そして、願わくは真の意味でアオイの親友として在りたいと思っている。

 今のままでは昨日伸ばされたアオイの手を取ることができない。過去に救われたことを忘れて隣を歩むことは、決して、できない。だからアオイの救済が必要だ。パンジャがアオイに追いつくために。未来を共に歩む対等の親友になるために!

 

(わたしも未来を生きたい)

 

 だからこそ。

 

「大切な思い出をくれた彼を取り戻すのに何の不安がある? 『幸せにしたい』、『大切にしたい』――この思いが間違いなら、この世界の全ては「まやかし」だ!」

 

 ――私は、走っていた。

 

 生まれた時から、何かに必死で、耐えがたい焦燥感に焼かれていた心がようやく救済される――そう思えることが見つかった。

 

 ジュペッタさえ取り戻せば、きっとアオイを救うことができる! それは今に至っても否定されることのない真理に思える。現にアオイは事実を疑いこそしたが、拒否はしなかった。むしろ良いことだ、喜ばしいことだと肯定したではないか!

 

(これが、間違いのはずがない!)

 

 困難を乗り越えるだけが、克服ではない。

 死者を悼む痛みを消し去るには、痛みを消す対処療法ではいけない。悲しみを作る死者ごと無くしてしまえばいいのだ。アオイは悲しまない。それどころか世界中が幸せになるだろう。

 

(君の悲しみが、世界中の悲しみを殺す! きっと、きっと、アオイは分かってくれる。結果さえあれば、アオイは、もう悲しい思いをしなくとも済む。アオイが本当に記憶を無くしているのなら、好都合だ。新しい関係で、新しくやり直すこともいいだろう。そのために、私は――)

 

 パンジャが目指すのは、屋上だ。

 

 彼は、鎮魂の鐘を鳴らすために最上階へ行くだろう。

 非常階段を駆け上る彼女は、小さな窓からアオイが見えないかどうかを確認しながら登った。もし、アオイの姿が見えたのなら僥倖だ。その階の墓をすべて暴けば復元する触媒に必要な『彼』の部品を取り戻すことができる。

 

 カンカン、とヒールが鳴る。その音が、不意に止まった。

 

「――っ!」

 

 目を見開いたパンジャは、階段の先に信じられないものを見ていた。

 それは、ここにいるはずがない人物。

 

「よう、パンジャ。いやに焦っているな?」

 

 ふたりの親友、コウタ・トウマ。

 現在、ライモンシティにいるはずの彼は――片手を上げて、帽子をかぶり直した後でニヤリ、訳知り顔で笑った。

 

「いいや、その様子はアオイにいよいよフラれたっぽいな」

 

 手足が、震えた。

 自分でも止めようのない、ひどい震えだった。

 怒りではない。

 これは。

 

 階段の広場に立つコウタが言う。笑わない目が、パンジャを射貫いた。

 

 こんなことがあるワケがない。

 こんなことが、こんなことが、こんなことが――!

 

 行動を先読みされた。 いや、きっと彼は自分の行動全てを把握しているのだ。

 パンジャはこの土壇場で、受け止めきれない現実に直面した。

 

「アオイが拒否したら『諦める』。――そういう話だったよなぁ? パンジャ」

 

 私は決して間違っていない。

 

 これが間違いならば、この世界に正しいものはひとつもないとさえ思う。

 私は間違っていない。

 私は正しい。

 私は悪くない。

 これだけが、唯一の正解なのに。

 

 どうしてだろう?

 

 ほんの一瞬、恐怖に身が竦んでしまったのだ。

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