アオイがヒトモシのミアカシと塔のなかへ入ってから数十分。
ようやく呼吸が落ち着きを取り戻し、階段の途中に置いてあるベンチに座っていた。そして、ここは間違いなく、現実だ。ミアカシさんがいるし……そう考えたアオイはだいぶ平静を取り戻した。ドキドキ震える胸を押さえる。何度も確認して、頬を抓る。それでも気を抜いてしまうと、パンジャの花に似た香りがまだ頭の中をぐるぐると攪拌していた。彼女がなぜメアリーのことを知っているのかは後で問い詰めよう。ここは間違いなく、現実なのだから突飛な手段があるわけがない。彼女にとって何か手がかりがあったはずなのだ。
そうして過ごした十数分。落ち着け、落ち着けと自らに言い聞かせ、ベンチに座っているが、慌てて走ってしまった膝はガクガクしている。果たして最上階まで保つだろうか。
「ああぁぁ……私はいったい全体、何をしているんだ……。というか、パンジャ――いやいや、やけに静かだなと思ってはいたんだ。でも、こんなことをしているとは思わないだろう、普通。っていうか、やっちゃいけないヤツだろう、これは……」
ぶつぶつと呟いているベンチの青年を、人々は、そっと距離を置いて通り過ぎていく。ここに来る誰もが、程度の差こそあれ病んでいるのだ。アオイのこれはよく見られる病だった。誤解なのだが。
さておき。
化石からポケモンを復元するように、遺骸からポケモンを再生する。
その発想自体は、技術を知る誰もが考えつくことだ。だが、それを実行しようとして上手くいった試みは聞いたことが無い。それは倫理的な問題、いわゆる「誰もがいけないことだと分かっている」から――ではない。化石で復元する技術では、どう頑張っても『不可能』なのだ。喩えるならば、ポケモンは本質的に小さくなれる性質を持っているが、細かく刻んでも平気かと言われると全く大丈夫ではない。このような感覚の違いだ。一見、復元という一点において技術的な近似性がありそうにみえるが、実態はかけ離れている。研究者間ではよく知られていることであるが、分かりやすく「無理!」なのである。
――というのが、これまでの定説であった。
パンジャはいかなる方法で、解決したのだろうか? というか、そもそも本当なのだろうか? それとも、今日は頭――いや、精神的な――調子が悪く、空想をまことしやかに話しているのか?
しかし、万一、億が一、本当だとしたら。
「なにが『石を割ることしか能が無い』だ! 本当に実現までこぎつけたとしたら、君は間違いない天才だぞ!」
アオイは、不意に恐ろしくなった。――ひょっとすると、私は、とんでもない人材を飼い殺ししていたのでは?
「……うわあ、あああ……私は何をしていたんだ……んん?」
うなだれるアオイの隣でミアカシが、気にするなよ、と言うかのように彼の膝をぽんぽん叩いた。ありがとう。でも気にする。
(パンジャ……)
最近まで初心を忘れていたアオイは、本当に心苦しい思いでいっぱいだ。
(彼女の献身は、最初から最後まで……本当に私だけのものだった)
正直なところ、ありがとう、と言いたい。
こんな私のことを大切に思ってくれる彼女の存在は、アオイにとっても失いがたい、大切にしたい存在だ。
(そういえば、まだ昨日の返答を聞いていなかったな。……鐘を鳴らしている間に彼女も落ち着くだろうか)
アオイは延々と続く階段を見上げた。巡礼は、まだ始まったばかりだ。
「モシモシ?」
ちょうど立ち上がろうとしたアオイは声を探した。近くの墓石からひょっこり顔を出したヒトモシがいる。
「あ……野生のヒトモシのようだ。やあ、ちょっと通らせてもらうよ」
ミアカシが、近くに寄って姿をまじまじと見ている。そういえば、ミアカシは他のヒトモシと出会うのは初めてかもしれない。
「タワーオブヘブン、ここは……ミアカシさんの故郷かもしれないね」
厳選中に生まれた個体であるが、きっと、元の個体の出身地はここだろう。このタワーオブヘブンは、ヒトモシの発生地として有名だ。数を多くつかまえるのであれば、ここは絶好の場所である。
モシモシ、と言うヒトモシ達は通じ合うことがあるのだろうか。次々姿を現すヒトモシにミアカシは挨拶した。それを眺めながら、アオイは急かすことなく、ゆっくりと階段をのぼることにした。
◆ ◇ ◆
なぜ、こんなことになっているのか。
コウタ・トウマにとって、現在の状況は本当に理解しがたいことだった。
平時にあっては、思考ごとぶん投げて済ます事態を解明し、解決しようと思っているのは偏に友情のためだ。
その解決が穏便なものであれば、本当に良かったのだが。
コウタは、立ち尽くすパンジャ・カレンを見つめて、つくづく思った。
「ど、どうして――なんで、なんで、君が、ここに……?」
端正な顔立ちが焦りで歪む。パンジャは唇を戦慄かせた。
「そりゃこっちの台詞なんだぜ。お前こそ、こんなところで何してるんだ? 血相変えて走ってよ。アオイと一緒って風じゃあねーよなぁ?」
「……アオイとは別行動中だ」
パンジャは、冷静を装っているが、不意にコウタの足下でくつろぐチョロネコを認めて、眉を寄せた。
「ふぅん。まあ、いいさ。俺は、そうさな、ここにいちゃいけないんだろう。鎮魂の想いもなく、悼むべき者もない。居心地が悪いぜ。お前もだろう?」
「私には祈るべき魂がある。君とは違う」
「分かってない。全然分かってないようだな。ここで俺に出会う時点で、お前もここにいちゃいけないんだぜ?」
「――――」
言い返せないということは、認めたということだ。普段ならばそう言うつもりだったコウタは、剣呑に細められたパンジャの目を見て、口を噤んだ。軽口を叩いて、わざわざ火に油を注ぐことはない。だから核心だけを口にした。
「俺はアオイから『ちょっとタワーオブヘブンに寄ってからライモンに行くので、遅れるかもしれない』って連絡を受けた。それで、ちょっと寄ってみたらこれだぜ。なあ、パンジャ。お前、何しようとしてたんだよ」
違う、違う――。
彼女自身、気付いていない。いったい何を否定しているのだろうか。
階段の遊び場から一歩、踏み出す。彼女は一歩下がった。しかし、それを取り戻すように、2歩進んだ。
「私は、私は、決して間違っていないのに――どうして、君が私を責めるんだ!? アオイに何もできなかった君が、どうして私を責められる!? 刹那の快楽主義者が、何をもって私を責めるのだ!?」
「別に責めちゃいないさ。俺は、お前みたいにアオイに何かしてやれることは無いからな。ただ、度が過ぎたことをやめさせようとしているだけだ。それと、今の俺は現状に満足できる人間じゃあない。お前らと一緒に、一喜一憂しているんだぜ」
「くだらない。今さら、のこのこ出てきて私達を裁定しようというのか!? それは、傲慢だ! コウタ! 君は今まで『何もしなかった』! それなら、最後まで引っ込んでいろ! 人間のクズが――」
許せない。その怠惰を、私は決して許さない。
その思いに滾る瞳は、白昼に煮えたぎる浅瀬の色をしていた。
「なら、俺が思わず止めに入らない程度のことで済ませろよ。傲慢はお前だぜ、パンジャ」
「なに――」
「押しつけがましいって言っているんだよ、実験はアオイが拒否したら『やめる』って話だっただろ?」
「違う、違う、違う! アオイは『やめろ』と言わなかった!」
これだけは譲れない、とパンジャは言った。
そんなに言うのだ。
事実なのだろう、とコウタは思う。だが、同時にこうも思った。
「じゃあ『やってみたら?』とか言ったのか?」
「……っ。彼は、否定しなかった。それは、肯定と同じだ!」
「明言しなきゃ同意ある肯定じゃあないんだぜ? ……今からでも遅くない。早く戻れ、パンジャ。俺とお前は『ここで出会わなかった』。それで一切、仕舞いだ。そしてアオイと話をしろ。ふたりで、よく考えて、選ぶんだ。もしも、お前達が納得する方法があるのなら、それだけじゃないか?」
「嫌、嫌だ、嫌だ嫌だ! 高いところから指図をするな! 私は、私が正しいと思ったことをやる! 私は、アオイのために何でもできるんだ! 何もできない君とは違う――! 君にアオイが救えるわけがないのだから!」
それだけが自分の価値であるかように彼女は言った。
そんなわけがないのに。
コウタもアオイもそんなことを思ったことはないのに、彼女だけがそう信じている。
頑なに信じる理由は何だ?
「――パンジャ、そういえば、俺は以前にお前の夢を聞いたよな? あれ、本当はすぐに聞き返したかったんだ。風が強くて、声が聞こえなかったんだ」
彼女は、あの出来事を覚えていた。マニがイッシュ地方にやってきた時、正午の話だ。
あの日とは違う、温い春の風がふたりの髪をささやかに揺らした。
「教えてくれ。パンジャ。『わたしは、アオイに――』その後、何を言おうとしたんだ?」
コウタの言葉を聞いて、パンジャは嗤った。
この世の全てを嘲笑する、耳障りな声。ソワリ。トリハダが止まらないコウタは、見ていた。
細められた目が、そんな彼をまっすぐに見つめる。善意を通り越した悪意だった。
「何を言おうかだって? ははは、そんなこと、もう何十年も前から決まっている! ――私は、アオイになりたいんだ!」
「は……?」
その後、彼女の口から淀みなく溢れた言葉は、コウタの理解を超えていた。両手で顔を覆った彼女は、淀みを吐き出すように言った。
「ただ穏やかに暮らしたい。もっとアオイと過ごしたい。誰も見て欲しくない。アオイのそばにいたい。名誉が欲しい。ふたりでいたい。命令しないほしい。何も欲しくない。放っておいてほしい。叱らないで。生きていたい。人生に喜劇を。温かいのが欲しい。できれば愛してほしい。あの人がほしい。――うるさい、黙れ! うぅ……」
パンジャは虚空に向かって叫んだ。すでに相手はコウタではなかった。彼の足下で怯えたチョロネコが脚の後ろに隠れる。ポケモンの勘は貴重だ。彼女に、良くないことが起きていた。
呻いて頭を抱えているパンジャは、よろけたと思った瞬間、登りかけた階段を転がり落ちていった。
コウタの視界からパンジャが消えた。
呆然と立ち尽くしていた彼は、チョロネコの鳴き声で我に返った。――階段から落ちた?
「え? お、おい……パンジャ!? だ、大丈夫か?」
錯乱しているのか?
酔っ払いの乗客より性質の悪そうな現象に、コウタは顔色を悪くした。
階段の先、柵にぶつかって止まったパンジャは、頭を押さえたまま蹲っている。気絶しているわけではない。
近づくべきか。いいや、罠だろうか。迂闊に近づいたら、ストレートの一発でもとんでくるのか。かといって、放っておくわけには――。
「ああ、もう! おい、大丈夫か? なんで、今、俺がお前の心配しなきゃならねーんだよ!」
階段を降りて駆け寄ったコウタは、パンジャを抱き起こした。
「おい、しっかりしろって」
「君はアオイではない。……アオイではない。ああ、どうして君も、私もアオイじゃないんだ……」
「俺たちは、自分以外の誰にもなれないものなんだ。なあ、おい。しっかりしろ、頭が痛むのか?」
パンジャは痛みをこらえるように目を硬く閉じていた。
「じっとしていれば、落ち着くのか?」
「いや……もう、きっとダメだろう」
彼女は、コウタの手を払った。
ほんの一瞬、目を開いてコウタを映す。瞳は潤んでいた。手を払う腕は、力が入っていなかった。気弱な仕草にコウタは揺れた。
「……なあ、パンジャ。お前って、アオイのことが好きなんだろう? そういう在り方じゃダメなのか? 同僚でもなく、部下でもなく、友人でもなく、もっと別な形の……そういう在り方は、ダメなのか?」
「ダメに決まっているだろう。私はアオイを閉じ込めたい! どこにも行かないでほしい! 何もしないでほしい! ただ私を見てほしい! ――きっと、アオイはこれを愛とは呼ばない。私もこれを愛とは呼ばない。アオイに必要なのは……もっと柔らかくて……優しい春風のような……レース越しに緩む白い光のような……午睡に捧ぐ清廉な祈りのような……微睡む泥濘みような……。きっとそういう愛なのだと思う」
「うーん。ダメか……残念だぜ、本当に。その執着がもうすこし違う性質のものなら、ふたりはお似合いだと思うぜ」
「今の私に並び立つ資格は無い」
「それがマジだから何も言えないんだよな」
痛みに顔をしかめながら、パンジャは身を起こした。
会話はそろそろ決裂するだろう。
にらみ合うふたりには、そんな予感があった。どちらが切り出すか、それだけが問題だった。
「君が悪いんだ、コウタ。私の邪魔をする君が、いけない。私の邪魔をしないでくれ。私には今しかない。私が彼に追いつくのは、今、この時しか好機が無いんだ。見逃して欲しい。誰も傷付けたくないんだ。アオイに誓って、私は望んで人を傷付けたことはない。全部、必要に迫られてやった。私は、悪くない。悪いのは、私たちの邪魔をする人なんだ。分かってくれるだろう? きっと君が私だったら、君も同じことをする。不幸が不幸のままでいいはずがない。どんな時でも幸せを求めているんだ。それが、悪いことのはずがない」
座り込む彼女から縋るように伸ばされた手――コウタは、ただ一瞥した。
「それでも、アオイは望まないぜ、きっとな」
「では私は幸せになってはいけないのか?」
「それだけがお前の幸せだと言うのなら、そうだな、自分の理屈を押しつけるお前は幸せになっちゃいけないんだろう」
立ち上がったコウタは、彼女から距離をとった。そして、行動は正しかった。
言葉は、いつだって自体を急変させる火だった。
アオイが予期した、いずれ炸裂する感情は、今この瞬間に、破裂した。
現状に発生した矛盾を解消する――そのためにパンジャの体を支配するのは、無情な裁断機の音だけだ。正気では耐えがたい、この音を無くすために彼女は一線を踏み越える。
砕かんばかりの歯噛みの後で、彼女は叫んだ。
「――私のアオイは、そんなこと言わないんだから!」
パンジャが、立ち上がりざまに振り抜いた拳をコウタは受け止め無かった。その代わり、腕をつかむと思い切り捻った。そして素早く脚を蹴り、後背から頭を押さえた。クッと息を噛む音が、苦しげに聞こえる。人間の構造上、腕をひねられたら曲げられない。それに、痛みで動かせなくなる。
腰のベルトを探りながら、コウタは暴れようとする腕をギリギリと力強く握りしめた。
「鉄道員なんでな! 時には取り押さえるヤツもいる。――ったく、大人しくしろよ、俺だって別にお前を傷付けたいってワケじゃないんだぜ……!」
「それなら! 今からでも殺すつもりでやるべきだ、コウタ。君は私を殺してしまっても構わないんだよ。私もそうするから」
俺は、そこまでやるつもりはない。
そう言おうとした矢先。
「ん、あ?」
足先を突いたモンスターボールにコウタは一瞬、意識を奪われた。
ベルトを外した時に落としたのだろうか。いいや、ラルトスとスコルピの入ったコウタのボールはベルトは付いたままだ。では。これは。この2つボールは何なのか。
ボールから光が放たれる。パンジャのポケモン。ここで出てくるとすれば、一撃必殺の強力な技を持っているフリージオだ。
「全開だ。ぜったいれいど!」
「おいおいおいおい、この距離ならお前だって道連れだぜ!」
ほんの一瞬、手を離しかけたコウタは、気を取り直して、腕をひねり続けた。現れたのは、やはりフリージオだ。周囲に冷気が満ちる。だが、彼女のフリージオは賢い。『人質』という習慣がポケモンにあるかどうか分からないが、意味は理解するだろう。
「待てよ、俺が凍るより先に死ぬのは、コイツだぜ」」
光は白より白く、現実に空いた穴のように収束する。コウタの予想は、綺麗に裏切られた。
「くそっ」
コウタは見切りを付けて、パンジャを階段へ蹴り落とした。反動でコウタも転がる。その瞬間、ふたりがいた空間に絶対零度の光線が照射された。
触れれば灼ける氷を横目に、彼は指示を飛ばした。
「チョロネコ、上だ!」
ボールは2つだった。あと1つ。それは。
「逃がさない。――ニューラ、みだれひっかき!」
小さな体で階段を3次元にとび回るニューラ。獲物が射程に入る。攻撃は、急転直下だった。
「チョロネコ!」
コウタはかけ声で手の中に収まった、チョロネコを上へ投げた。
高い、鋭い音と共に2体が激突する。
互角だった。
しなやかに肢体をくねらせ着地したチョロネコが、ニューラを認めて、唸り声を上げた。
カン、と低いヒールが金属を叩く音がする。上段にいるコウタには見えないが、パンジャが体勢を整えたのだろう。
「うわ、やば――」
容赦なくれいとうビームを浴びせようとするフリージオがカチカチと駆動音を鳴らす。
コウタは、短期決戦を予定していた。パンジャの動きを封じることができれば、あとは何とかなるだろう。そう思っていた。成人とはいえ相手は内勤の多い女性である。頑張れば取り押さえられるだろう。――しかし、その予定は数秒で瓦解した。
コウタは一直線に屋上を目指した。こうなれば人目のある場所まで逃げるしかない。
「おおおおお、落ち着け、パンジャ!」
「……逃がさない」
猛然と追跡を開始した彼女には、もう声は届いていないようだった。これでは、アオイの声でさえ届くか怪しい。
右足に直撃しかけたれいとうビームを避けて、コウタは階段を3段とばしで駆け上がる。
今日、もう何度目かも分からない。なぜ、こんなことになっているのか。疑問が頭を目まぐるしく往来した。
「ちっ。今さら喚いたって格好悪いよなぁ!」
コウタは、階段の上階にボールを投げた。
パンジャのポケモンによる追跡は2体。
あと1体、バニプッチがいるはずだ。
この状況で最大の攻撃を加えるためにポケモンをどこに設置すべきか? ――そんなの決まっている。屋上にたどり着いた瞬間、狙い撃ちの攻撃だ。
「――上へ! 屋上だ! そこにバニプッチがいる!」
スコルピは指示を受けて先行する。
シャカシャカと多脚を器用に動かしては階段の手すりを伝い、上っていった。
(あと1階!)
震える脚を叱咤したコウタは、風に乗って聞こえた音に足を止めた。
時間が、止まってしまったようだった。
「鐘、の」
同じ頃、パンジャの耳にも届いていた。
「音が――」
鎮魂の音が聞こえる。
コウタがパンジャに出会ってから10分。彼女はアオイを追っていたのだから、彼はそれ以前にこの塔の中に入っている。この鐘を鳴らしたのは、アオイかもしれない。その可能性に至ったのだろう。パンジャも足を止めている。
彼は登りかけていた階段から脚を離した。
「どうするよ、パンジャ。アイツが祈ったんだ。魂が存在するとしたら、きっとジュペッタは還ってしまうよ」
「…………」
静かに。
半階下の階段の遊び場まで上ってきたパンジャは空を見上げていた。
相槌ではない「ああ」という感嘆詞が彼女の切れた唇から零れた。
「だいたい、お前の研究において、魂ってのはどういう扱いなんだ? 肉の器だけ再生して……それから、どうなるんだ?」
これは、煽りではない。
コウタの純粋な疑問だった。
「私は魂の存在を認めていない」
「いや、でも、じゃあランプラーやシャンデラが食べているものは何だって説明するんだよ」
「観測されないものを、認めるわけにはいかない。私は、我々は、どうあっても研究者なのだ。――図鑑は、時に正確性よりも理解の易しさを優先することがある。人間の精神活動が、便宜上の魂と呼称されているのだろう」
「そう。それで……どうする。この追いかけっこさ」
コウタは手を広げた。
緊張感の無い物言いだな、とパンジャは言った。
その言い草ひとつひとつが癪に障る、とも。
「私には後がない。死ぬまで立ち止まらない。ここまで来た。やり遂げる。――それだけ。ただ、それだけだ」
「頑是無いぜ……!」
「君に言われたくはない。鐘が鳴り終える前に、君の命を摘み取るだけだ」
ふたりが走り出したのは同時だった。屋上からは、鐘の音を掻き消すほど高い、金属を叩き切る音が響いていた。バニプッチとスコルピが交戦しているのだろう。コウタは最後は4段飛ばしに、屋上へ飛び出す。
(誰もいない……?)
息を切らす。バニプッチとスコルピが相打ちの状態で地面に転がっていた。地面は氷り、ひび割れていた。
「スコルピ――!」
弱々しく動くスコルピに、思わず駆け寄ったコウタは、刺すような視線を感じて後ろを振り返った。
パンジャも息を切らして、辿り着いた。傍らに寄り添うフリージオが光を収束させていく。
「私は、やり遂げる。どこにも退けない。私にはアオイしかいないんだ。だから! だからこそ! 私の邪魔をするな!」
コウタはスコルピを抱え、安全柵の先まで走った。
(高い。分かっちゃいたが、高い――)
飛び降りれば、間違いなく死ぬ。避けられない。
だが。
不意に、握っている安全柵が揺れることに気付いた。
よく見れば、柵は傷ついている。恐らくスコルピの攻撃が激突したのだろう。人々の安全を守る役割を、この柵は果たしていないのだ。
今にも崩れて地上へ落ちそうだ。近づきすぎるのはマズイ。
彼は柵から離れた。
(一か八か、パンジャに特攻かますか……)
最も生存率が高い方法を選択するとすれば、もう正面突破しかない。
決心したコウタの足下で、チョロネコが「ナーア」と鳴いた。
「俺もやるさ。運が悪くて死ぬだけだから――なに?」
どうやら、何か違う。チョロネコが声を低めて柵の下を指す。その先、地面にあるものを――コウタは見つめて、笑い出した。
「いやぁ……あっは、ははは、こんな時に、こんな時でさえ、なあ? パンジャ。おかしいよなあ?」
「何を笑っている?」
不可解そうに言った彼女は、本当に意味が分からないだろう。
俺だってそうだ。どうしてこうなっているのか。本当に分からない。こんなに天気の良い、カラカラに晴れた春の日に、俺は、俺たちは何をやっているのだろう。本来なら素敵なカフェでお茶をしているはずなのに。本気でそう思う。でも、これはきっと精算なのだ。会話の不足、理解の不足、不信感、積み上げた関係の負債の全てが、ここまで捻れた関係を追い込んだ。
ここではないどこか、今ではないいつか。
俺とパンジャには、もっと別な形があったかもしれない。
そんなことを考える空想だけが許されている。
ここまで至った以上、後がないというパンジャの言は俺にも当てはまる。
もう手遅れなのだ。
「それでも、俺は最後までお前に声をかけ続ける。その決心をしたのさ。――お前は俺の言葉に答えることはないかもしれない。最後に行き着く先は、ただの暴力なのかもしれない。それでもいい。それでもいいから……パンジャ、お前はもっといろいろなことを知るべきだ。俺を体よく始末した後も、忘れないで覚えていてくれ。この世界は、俺も全部は知らないが、きっと、俺やお前が想像するよりも広いんだ。お前が見ている世界は広いようで狭いんだぜ」
「言うことはそれだけか?」
パンジャが手を上げてフリージオを制した。その手が振り下ろされた時、必殺のぜったいれいどがとんでくるのだろう。
彼はそれを鼻で笑った。
「これだけだぜ。じゃあな! また、会おう! 俺は会いたくないけどな!」
ひらり。
タワーオブヘブン。その屋上からコウタは、自ら柵を乗り越えて宙へ身を躍らせた。
「――――」
音もなく。声もない。パンジャはただ、その光景を見ていた。
『まるで最初から、いなかったかのようだ。1枚の風景画から、彼の姿は拭い取られた。春、一陣の風がコウタを攫って行ってしまった』
さまざまな言葉が頭の中に浮かんだ。自分が望んで招いた現実を解釈するために、多くの言葉を要した。
ハッと身を堅くしてパンジャはあたりを見回した。この光景を見ていたのは、パンジャだけだ。目撃者はいない。あとは、コウタの後始末をすればいい。まずは、ちゃんと死んだかどうか確かめなければ――。
衝動に突き動かされパンジャは彼が飛び降りた箇所から、すこし離れた柵へ駆け寄った。彼がいた場所に近付くのは、心が痛い。無意識に避けたのだ。
「やったか!? ――――あああっ?」
柵を握った瞬間。
パンジャの視界は反転した。
柵が壊れた音が遠く、歪んで聞こえる。
逆さまの視界で、地面から脚が離れた瞬間がゆっくり見えた。
何が起こったのか分からない。彼女に把握できることは、ただ一つ。
コウタが身を投げたように、パンジャもまた宙を踊っているということだけだ。
◆ ◇ ◆
コウタを追う、自分が自分ではない感覚。夢だろうか。いいや、違う。
世界を呪う、自分の体を遠くから操っている糸がある――そんな感覚だ。
その糸が切れた時、パンジャの意識は覚醒した。
落下し続ける体。死に伴う意識の消滅まで――あと十秒も無い。
命を惜しいと思ったことはなかった。
だが、それは無意識の前提があったのだと気付く。
わたしは『アオイのために死ぬのなら』怖くないだけだったのだ。
では、今は? 今のザマは何だろう?
残り、たった数秒。
疑問を解消するには、あまりに短く。
信念を貫くためには、あまりに長く。
恐怖を打開するには、あまりに――。
(ああ、死にたくない! 死にたくない……! わたしは死にたくない、のに!)
パンジャは足掻いた。
(こんなところで死んでたまるか! こんな、最期! こんな末路! 認めない! 絶対に、認めない!)
まだ幸せになっていない。
栄光を手にしていない。
何より、アオイを救っていない。
痛む眼から零れた涙が、天に昇って消える。
瞬きの度に、その光景を見ていた。
無力だ。果てのない、無力感が手足の力を奪っていった。
(『あんなこと』を二度と繰り返してはいけないのに!)
パンジャを凶行に駆り立てたのは、何もコウタの言動だけではない。最も大きな要因は、昨夜に不用意に聞いてしまった悪夢の実験音声だ。
『……死にたくない! あ、ああ! 誰か、誰か、誰でもいい! 助けて! これを、やめさせてくれ!……』
彼は弱音を吐かない人だった。研究室に在籍していた頃は演技だったと後に彼は言う。それでも、パンジャにとっては真実だった。この不完全な世界で、唯一綻びの無い人なのだ。そう。盲目に信じていた。
だから。
アオイが泣き喚いて助けを請う様は、パンジャの幻想を丁寧に砕いていった。
同時に誓ったのだ。
(わたしがやらないと。わたしが、あの人を助けないと――)
夜が怖い。本音の吐露は、きっと助けて欲しいという意味なのだ。
彼は、誰にでも本音を話すひとではない。
救ってほしい。私を助けてほしい。きっと。きっと。期待されていた。それに応えるとしたら、今、この時しかなかった。ないはず、だった。
(いけないのに!)
指先が、宙を掻く。
何も掴めなかった手を、どこかに伸ばした。
空が、遠い。延々と広がる晴天でさえ遠いのだ。届かない。誰も救えなかったこの手が、アオイに届くわけがなかったのだ。
体が落ちる勢いのまま、傾いた。その時。
(アオイ――)
遠く。
大きく目を見開き、天を仰ぐ彼を見た。指を差す。何か叫んでいる。――パンジャのいない方向を向いて。
あの先に、コウタがいるのだろう。
不思議と嫉妬はしなかった。
先に飛び降りたのはコウタだ。ほんの数m、ほんの数秒の差だが、そこに横たわる可能性は隔絶している。アオイには木々が邪魔でこちらは容易に見えないだろう。そうなれば当然、アオイに見つかるのもコウタが早い。
(コウタは、アオイがいるから迷わず飛び降りることにしたのか。大胆なことを。追い詰めたつもりが、追い詰められていたとは――)
木々の隙間から見えた彼に、迷いはない。惑いも。躊躇いも、何も無かった。
あるべきものが、あるべきところへ。水が高いところから低いところへ流れるように、ミアカシを急かす彼は、ごく自然な動きに見えた。きっと彼はミアカシに指示を出し、コウタを受け止めるだろう。――もう、本当にこの世界のどこにもジュペッタの居場所は無いのだ。
パンジャはその事実に心を病むことは、もう――しなかった。
溢れた涙が、視界を遮った。
(アオイ、君は、それで……それでいいんだね……。君がそれでいいのなら、わたしも、それで構わなかったんだ……)
寂しさはある。けれど後味はない。
水が乾いた土にしみ入るように、心に空いた穴は塞がった。
(君がわたしを救ったように、わたしも君を救ってあげたかったのに……君は自分で自分を救ってしまった。言い訳を奪われて気付くとは。わたしは君の隣にいたかった――だけ、だった、なんて)
ずっと背中を追っていたから、自分は追いつきたいと思っていたのだと勘違いしていた。
パンジャの本当は、本当の願いは、ただ――アオイの隣で同じ歩幅を歩いていたかったのだ。
白む視界でパンジャは祈った。
神を信奉しない自分の祈りが、どこに届くか分からないと思っていたが、今さら分かった。
(君に幸せがありますように)
ずっとアオイの未来に向けて祈っていたのだ。
地面に香りが近い。空に両手を広げて、微かにパンジャは笑った。
墜落の数瞬。
ようやく理解が及んだ。
(ああ……!)
もしかすると、人は他者へ捧ぐ祈りを『愛』と呼ぶのかもしれなかった。
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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登場人物たち
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物語(ストーリーの展開)
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世界観
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文章表現
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結果だけ見たい!