もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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希え! 世界は君を選んだのだ!(上)

 この日は、夢を見なかった。

 ああ。喉が乾く。

 喉が、腹が、頭が、ひどい飢餓感に嘖まれ、彼女――パンジャ・カレンは目を醒ました。正しくは目が醒めてしまった。

 

 今が昼なのか、夜なのか分からない。意識は回転するように、ぐるぐると円を描き現実に着地した。暗い。きっと今は夜なのだろう。暗闇の底からチクタクと忙しく動く秒針の音が聞こえた。

 

 彼女は自分に疑問を抱く。すり切れたテープを巻き戻すように、記憶は蘇った。その果て。しばらく茫然と天井のシミを見ていた。 

 

(なぜ生きているんだろう)

 

 人生の絶頂を味わった。

 それで全て報われたはずだった――のだが。

 

「いよう。早いお目覚めで感激だぜ」

 

 どろりと粘っこい声音に引かれ、気怠く首を傾ける。モンスターボールが3つ。それとコウタだ。

 何だか怒った顔をしたコウタが、闇の暗がりから見つめていた。

 

 自分さえ良ければどうでもいいと公言してやまないコウタが、怒っているのは新鮮で――パンジャは彼をジッと見つめる。それに対して、コウタは居心地悪そうに身体を揺すった。彼は椅子に座っているらしい。

 

「え。おいおい、まさか、この期に及んで忘れたなんて面白いこと言うんじゃあないだろうな?」

 

「み、ず……の……」

 

 パンジャの声は掠れていたが、何とか言うことができた。

 彼は舌打ちをして足下をごそごそと漁った。

 

「ほらよ。ったく。アオイに感謝しろよ、このバカヤロウが……」

 

「ん……。ぎ……!」

 

 ペットボトルを受け取ろうとした右腕が動かない。

 不思議に思っていると、そのうち激痛が脳天まで突き抜けた。何が起きたか分からず、パンジャは息を詰まらせた。

 

「あー。お前、腕折ってるんだぜ……言うのちょっと遅かったみたいだな。痛み止めが切れるから、そろそろ目が醒めるんじゃないかってな。起きてて正解だったみたいだ」

 

 上体を起こし、ペットボトルのフタを取ってもらったパンジャは、一息に半分ほど飲んだ。

 

「……何で折れているんだ?」

 

「それを言うなら、何で生きてるか、だろ。お互いな」

 

「まあ、それも気になる。君は……わたしを殺してしまってもよかったのに」

 

 パチ、という作動音。デスクライトのオレンジ色の光が眩しい。目を細めながら見たコウタは、疲れ切っていた。

 ここは、フキヨセシティのポケモンセンター。そう言ったコウタは、パンジャを厳しい目で見た。

 

「バカを言うんじゃねーよ。そっちが殺す気なら、俺は救う気でいるんだ」

 

「それでも君はそうすべきだったと思う」

 

 パンジャの声は、まだ掠れていた。それは水が足りないせいではなかった。

 動く左手が何かに触れる。それはベッドに上体を預けて眠っているアオイだった。

 

「そうは思わねーな。……今、お前と話せて俺は心底ホッとしているんだぜ」

 

「…………」

 

 パンジャは人差し指で、アオイの髪をすくった。

 

「『私』は君がいなくなって……ホッとしたよ」

 

 今日は、アオイの精神には堪える日だっただろう。繊細な心を弄んでしまった。それはコウタに対しても言えることだった。

 

「……邪魔をする人がいなくなった。それがどれだけの安心感を『私』にもたらしたか」

 

「俺は、喧嘩の続きは嫌だぜ」

 

「あの時、君がいなくなってホッとしたっていうのに……今の『わたし』は君と同じ意見だ。君と話せてホッとしている。アオイと会えて、ホッとしているんだ。何も怖いことなど無かったはずなのに。どうしてだろうか。いいや、酷い人間だ、踏みにじったものを省みるなど……わたし……わたしは」

 

「後悔から学べるんだから、まあまあ賢いってことだろ。俺もお前も、もちろんアオイもな」

 

 今の自分では何を言っても空虚になるような気がして、パンジャは答える言葉を持てなかった。慣れない左手で錠剤のパッケージを開け、薬を飲んだ。できればこれが毒であって欲しいと思う。今なら皿まで飲んでしまえそうだ。

 

「俺が生きているのは、ヒトモシのミアカシさんが機転を利かせたからだぜ」

 

「……サイコキネシスか」

 

 パンジャは一度、瞬きをした。

 

(――アオイは余計なことをしたものだ)

 

 落下の直前ならば、そう思ったことだろう。

 だが今のパンジャは自分には関係ない感情の出来事のように感じられた。だから、心の底から思ったことを離すことにした。

 

「ねんりきじゃなくて良かったな。君の身体が雑巾絞りみたいになっていなくて」

 

「そりゃな。俺もそう思うぜ。なあ、パンジャ。元気そうなんで聞くが、お前はどうして助かったと思う?」

 

「……さあ、分からない。この期に及んで、あの瞬間には何も間に合うはずがないと思っている。実のところ。わたしの心の半分くらいは、この世界がまだ死後の世界なんじゃないかと期待している。アオイもいるし……わたしは幸せな夢を見ているのではないだろうか?」

 

「相変わらず思考がカッ飛んでるな。もっと自分のポケモンを信じてやれよ。れいとうビームが間に合ったんだぜ」

 

 どういうことなのか。話を聞いたパンジャは、驚いた。

 

「氷がいくらかの抵抗になったんだろうぜ。たしかに氷柱ができていたし……。まあ、直接見たワケじゃない。だがアオイはそう言っていた」

 

「氷……そう……氷か……」

 

 れいとうビームの照射は自分ではなく、落下地点である地面に対して行われた。フリージオ達は地面に衝突する直前、生成した氷で受け止めようとした――のだろうか。事態を解釈したパンジャは、それから思考を重ねて落ち着いた。可能性はそれしかなさそうだった。

 

「死に損ねたな……」

 

「なんだ? 喧嘩売ってるのか?」

 

「ああ、ちがう。残念に思っているワケじゃない。わたしは……きっと凍死して死んでしまうと思っていたんだ」

 

「こおりポケモンと一緒に生活しているからか?」

 

「いいや、違う。……ただ……冷たい氷の中で無機物に成り果てることを夢見ていたのだ」

 

「嫌な死に方じゃねえか」

 

「きっと氷の中は静かだ。いつもうるさいわたしの頭の中が……静かになると思っていた。だが、ダメだったようだ。そして二度目は無いだろう。もう、寒いのは嫌だ……今も酷く凍えてしまっているのに……」

 

 冷たい指先で触れるアオイが、ピクリと眉を寄せた。

 

「次は火の中なんて言うんじゃねえよ?」

 

「……今は、次の死に様なんて考えられないな」

 

 小さく笑って、パンジャは体の力を抜いた。

 痛みが遠のいていく。

 

 さまざまなものが氷解したところで、身体が重くなってきた。

 まだ痛みは鈍く身体に残るが、休息を欲しているようだ。

 

「眠るのか? じゃあ、今度は夢を見ないようにな。……ああったく、何で俺がお前にこんなこといわなきゃならねーんだ! 昨日今日、命取り合いした仲だっていうのに。くそ、アオイ、起きろ、ばか。なぁにが『私はパンジャが起きるまで、ここにいる!』だ! さっそく寝てるじゃねーか!」

 

「アオイは疲れているんだ」

 

「俺は疲れていないみたいな言い方しやがって! あーもう、めんどくさ。いいや、寝ろ寝ろ。俺も寝る。ふて寝してやる」

 

 コウタは、パチン、とデスクの明かりを消す。

 

 

 

 安眠の浅い泥濘に沈む意識が、夢のなかに火災を探した。

 

(――わたしのなかにも、もう……あの事故の焔は無いのか)

 

 毎夜、見ていた焔の景色の残滓すらない夢現を微睡む。

 そして、悟った。

 

(わたしの夢は潰えた)

 

 これで終いなのだ。

 

 でも、これは、この決断は、今しかできなかった。

 今以上の時が経っても、今以前の時でも未だ不可能だっただろう。

 導いたこの結果は。

 

『きっとアオイも焔の夢を見ているだろう』

 

 無自覚に信じ、信じすぎた今でなければ、中途のここまでさえやり遂げることができなかった。やれることをやった。何もかもをやった。考え得る限りの全てに備え、やり尽くした。全身全霊を懸けた。

 

(ここが、わたしの水際。これが事象の瀬戸。今こそが……わたしの選んだ未来)

 

 ままならない。

 これは望み通りではない。

 パンジャの考え、欲した現状では無い。

 

 ――でも、きっと、これで、これが、これだけで……よかったのだ。

 

 胸にある安心感が、そう囁く。

 後悔は心を妬く小氷として残る。けれど、それだけだ。今さら何かをしようとは思わない。それはアオイが現状を望むからではない。パンジャ自身、心からそう思うのだ。

 

(わたしは生きている。……彼らは、前を向いて生きていくのだろうか)

 

 パンジャはずっと目を背けていた。

 本当は、最初から分かっていたのだ。

 

 過去は辛い。しかも横たわる亡骸のように背中を見つめている。

 

(わたしは、その冷たさを知っていても、慣れてはいけなかったのだ)

 

 眠りに落ちる。その最中。

 

(未来へ。……わたしも生きていきたいな)

 

 指先に触れたアオイの温もりに、新しい願いを見いだした。

 

 生きて、いくのだ。

 これから。

 何があろうと。

 いつか死ぬまで。

 

 願い祈り、果てに夢を掴むことを想像しながら生きていく。

 

 だから。

 

 今日だけは、これまでの生き方を悼むことを許してほしい。

 

「ああ……わたしは、これまで……なにを……」

 

 許して。許してほしい。許しを請うことを、わたしを、許してほしい。

 今までの全てに対する侮辱だと知りながら嘆くことを、許してほしかった。

 

 

 

■ □ □

 

 

 

「パンジャは……優しすぎるのだ」

 

 翌日。

 

 目覚めたアオイは、身なりを整えてから椅子に座りパンジャ――ではなく、ヒトモシのミアカシを見ながら所感を述べた。というのもコウタが話を差し向けたのである。絶えず騒音を鳴らしては、空を駆ける飛行機を聞きながら――彼は自分の考えを整理するように、目を細めながら続けた。

 

「いいや、違うか。優しさを表明する前に同情になってしまうというか」

 

「どういう意味だ、そりゃ」

 

「思いやりが過ぎる、ということだ」

 

「思いやりがあるなら結構なことだ。それは、優しいってことなんじゃないのか?」

 

 コウタは、思いやりがない人間を想像しようとしてやめた。その想像が、想像以上に不愉快な人間だったからだ。

 

「彼女の場合は、そうでもない。思いやりがあるということは、相手の立場になって考える想像力があるということだ。そして、この場合の想像は『もしも、彼/彼女が自分だったら』の形で働く。『もしも、わたしがあなたなら』と。楽しいことも、辛いことも我が事のように感じてしまいがちだ」

 

「……想像力も考えものだな」

 

「自分と他人の境界が曖昧になってしまう。彼女も辛かっただろう。人は自分で制御できる以上の悩みを抱えてしまうとどうにもならない」

 

 コウタはアオイの言外に『私なんかのために』という響きが無くなったことに気付いた。

 

(……すっかり、前向きに変わっちまって)

 

 コウタにはパンジャの衝動性にトドメを刺した自覚はあるが、アオイの影響も多大にあったことだろう。そう思っていた。彼女はジュペッタを復活させることでアオイを『元に戻そう』と画策していた。そのアオイが、シンオウ地方から1年ぶりに戻ってきたと思ったら、以前より明るく柔らかい性格で帰ってきた現状は堪えたに違いない。彼女が直接的に何もしないうちにアオイは元通り以上の仕上がりで帰ってきた。

 

 パンジャは、何もしなかったコウタを傲慢な人間のクズだと責めた。それは果たして。正しくコウタにだけ突き立てられた言葉だったのだろうか?

 

「パンジャが落ち込むワケだぜ」

 

 無力感は彼女の身を蝕んだことだろう。

 

「私はそんなに変わっただろうか?」

 

 アオイに心当たりは無いようで、ミアカシの焔から目を離した。

 

「柔らかくなったと思う。――っていうかさ、アオイはパンジャのこと結構分かってるじゃねーの」

 

「まあ、四六時中一緒だったからな」

 

「四六時中?」

 

「仕事中は一緒だろう? 帰ってから次回の打ち合わせをするためにパンジャは私の家に来て、夜遅くなるから泊まって、朝食摂りながら駄弁って、仕事して……四六時中だったな」

 

「うわぁ……公私混同してるじゃねーの……うわぁ……なんていうか、うわぁ……。パンジャじゃなくてもおかしくなるわな、そりゃ」

 

「ま、まあ、今思えばやりすぎと思えなくもないかもしれないが……私達は夢のために、ひいては世界を明るくするために頑張っていたんだ」

 

「その果てに、明るみにしちゃいけないものを明るいところに引っ張りだそうってなるのはどうかと思うぜ。――パンジャの実験がまともに成功したら、世の中、墓荒らしばかりになるだろうさ。ミアカシさんだって商売あがったりだろう。……まあ、魂がどうなるかはパンジャも分かっていないらしいが」

 

「ふむ。まあ、実に気がかりだよな。まあまあ、興味は、私はあまり、だが」

 

 アオイはそわそわして、パンジャの荷物をちらりと見た。実に分かりやすい。アオイはこの期に及んで研究結果にも大きな関心を寄せているのだ。コウタだって、そりゃあ気になる。気になるが、倫理的にダメなものはダメだ。

 

 彼に釘を刺すつもりで、コウタは「ああ!」とほんのり大きな声を出した。

 

「そういや、パンジャはお前のこと監禁したいって言ってたぜ~」

 

「それは困るな。生活に支障が出る」

 

「えー、なんでビックリしないんだよ……普通のリアクションが怖いわ……。なにこれ、知ってたってパターンか?」

 

「聞いたことがない。だが、パンジャの気持ちはすこし理解できるんだ。――あ、監禁じゃないぞ、そっちじゃないぞ、友情的な話だ、コウタ、おい、ちょっと、今いいこと言うところだから」

 

「あっぶねー。友情崩壊5秒前だったぜ」

 

 コウタは浮かしかけた腰を椅子に落とした。

 

「話をふっておいて逃げるなよ。彼女はきっと……私もそうなのだが、そばにいて心地良いのだろう。お互いがお互いのことを分かっている。心の奥底まで手が届かなくとも、表層を撫でる程度の交流ができる。プライバシーを知っているから気遣いがいらないという点で気に入っている、ということなのだろう。監禁はー……その、穏やかな手段とは言いがたいが、それくらい手放しがたいという表現の極端な例示と捉えている」

 

「あー、そーすかー」

 

 コイツ、そのうち電波の通じない場所に連れて行かれてからパンジャがマジだったと気付くんだろうなぁ。――コウタは、対面した時の危機感からそれを確信していたが黙っていた。少なくともアオイを生け贄にすれば、パンジャは大人しくなるのだ。世界平和のためにアオイには尊い犠牲になってもらおう。

 

「じゃ、骨は拾うぜ」

 

「縁起でもないし、ジョークにも聞こえない。パンジャも話せば分かってくれる。閉塞的な環境では健全な生活を営めないものだ。彼女ならそれがよくよく、身にしみて分かっているだろう。だが、コウタ。きっと勘違いしているので言うが、パンジャはきっと、君が私の立場だったとしたらこうして同じ事をしたと思う」

 

「はぁ? コイツが? アオイだからここまでやったんだろう」

 

「『誰かに助けてあげたい。できるなら救いたい』。そうすることが良い人間になることだから、彼女はきっとコウタを助けたよ。良い人間になりたくて、彼女は生きている」

 

 特別なことじゃない。

 

 アオイは、ベッド脇に置かれた手袋を見て言う。

 ふぅん、とコウタは鼻を鳴らした。神妙な面持ちで理屈をこねたアオイが、癪に障ったように眉を寄せる。

 コウタはこの日初めて、笑わずに初めてパンジャを見た。

 

「俺は逆だな、アオイ。――頭でっかちの理屈を投げ捨てて、最後の最後に、コイツはお前にとって良い人間になることを選んだように見えたぜ」

 

「なに……?」

 

 アオイは、噛みつくようにカチリと歯を鳴らした。

 その目が、徐々に驚愕に見開いていくのをコウタは見つめている。

 

「『私は、私が正しいと思ったことをやる』って言ってたんだ。それは、つまりさ、世界にとって都合の良い人間よりもアオイにとっての良い人間になるってことじゃないのか?」

 

「…………」

 

「俺はその時、ゾッとしたけどホッとした。世界平和を掲げるより、隣のヤツと仲が良いほうが人生楽しく生きていけると思う。お前もだぜ、アオイ」

 

「……私はきっとその道を選べない。パンジャだって、そんなことを……そんなことは……」

 

「お前らさ、戻る道がなくなったって思うなよ。不本意だろうとずっと歩いてきたんだ。後ろに戻ることだって悪いことじゃないさ。俺だって、久しぶりに真面目に生きて……『ああ、悩んだり、悲しんだりすることも悪いことじゃないな』って思えたんだ」

 

 何かが足りずとも、それを満ち足りた状態として受け入れることができる、というコウタの本質は、何者も冒すことのできない一種の才能であった。光と水と栄養が十分な植物のような生き様は安定している分、味気ない。

 

 何が起きても満足できるはずなのに、いつの日か、そんな自分に嫌気が差していた。

 

 何が起きても平気なら、何も起きずとも平気だ。目の前で人が死んでも生きても、ポケモンが潰されようと潰されずとも、起こる感情が一緒なら――この世界にも、自分にも生きている意味なんか無いんじゃないか。なんて。一度でも思ってしまった自分を恐れた。

 

 だからもう一度、拾ってみたかった。3人の日常を取り戻したかった。そうして、悩むようになったコウタにとってパンジャやアオイのことを考えている時間は、悪いものではなかった。どうして真剣になるのか――は最後まで分からなかったが、それでも、彼らの情熱の一片に触れることができたからだ。パンジャには怒られてしまったが。

 

 アオイが、ベッドを挟んだ向かいの席で呟いた。

 

「私は、ずっと君が羨ましかった。君はいつでも誰も助けも必要としていない。私もそういう人間になりたかった。持たざることを怨んで、妬んで、その挙げ句が……この私だ。今は後悔していない、またするつもりもないが……事故の前の私は、たしかに君の安定性を羨んでいた」

 

「意外だ。すごく意外だ。こんなつまらない俺を羨ましいって……バカなやつ。本当に、バカなヤツだよ、お前……。この感性だと、人生すごくつまらないんだからな」

 

「でも、苦しくないんだろう。どうせ他人事だと全て割り切ってしまったら、そうできたなら……きっと、何もかもどうでもよくなって自分だけは守り切れる」

 

「……そうできりゃ、楽だったかもな。でも、俺は」

 

 コウタはそれを選ばなかった。言えずに唇を白むほど噛んだ。アオイに放った言葉が、そのまま自分に戻ってきた。

 

「どちらが悪いなんてことはないのだろう。どちらが良いなんて話も。――話して楽になった。ありがとう」

 

「…………」

 

 アオイは暇そうに天井を見ているミアカシをちょんちょんとつついた。彼女があまりに天井を見つめているのでそこに何か浮いているのではないかと思ったのだ。

 そのうちコウタが手招きしてミアカシを呼ぶ。パンジャが眠っているベッドの上をぽんぽん跳ねるようにミアカシは歩いた。

 

「うわぉ。……意外と柔らかいんだな」

 

 指先でミアカシをつつきまわしながらコウタは感心した声を上げた。キャッキャと賑やかになるふたりを横目に、積極的なアプローチが好きなのかと思う。アオイは妙な敗北感で自信を無くしそうだった。

 

「…………」

 

 そんなアオイを見つめる目がある。

 

「……。お、あ、パンジャ!」

 

 アオイは思わず叫んでしまった。

 起きたパンジャは、折れている腕が痛むという渋い顔をする。ごく自然な反応にアオイはホッとしていた。

 

「パンジャ……ああ、その、あれだ、き、気分はどう」

 

「あちこち痛むが、悪い気分ではないよ」

 

「そうか。コウタ、言いたいことはたくさんあると思うが――」

 

「あんまり無いぜ」

 

「ふたりにしてくれないか」

 

 

 

■ □ □

 

 

 コウタは一度、パンジャの顔色を覗き込むように見ると手を振って出て行った。

 ぽつん。椅子に残されたミアカシの頭上で青い焔がひゅるりと揺れる。その焔を見たパンジャが、薄い唇を開いた。

 

「綺麗だ。……アオイ。命の輝きとは、焔の如しだ」

 

「……そうだな」

 

 ふたりの沈黙は、お互い同じ事を考えているだろうという推測によるものだった。

 

 この会話が終わったら、きっと心の内を話さなければならない。

 沈黙を破るのは、いつも彼女だった。

 

「……ごめんね。もうすこし、いろいろとうまくできたら良かったのだけど。君のためを思っていたが、それさえ本当は失っていたのに気付かなかった。……最後はもう自分のために走っていた。わたしは、ただ止まることを恐れていた……」

 

「初心を忘れていたのは私も同じだ。私の最初の願いは『君を幸せにしたい』というものだったのに、夢に目が眩んで忘れてしまっていた」

 

「君がわたしを……?」

 

 掠れた声が、不思議そうな声色で囁いた。

 アオイは、伝わるように呼吸を落ち着かせた。

 

「そんなに意外そうに言わないでくれ。震えて私の家に駆けて込んできた君を守りたいと思ったんだ。あの時は、夢よりも大切な君を」

 

 その言葉に、パンジャは目の色を変えて手を伸ばした。

 

「それはいけない! いけない! ダメだ! わたしは夢を追う君が、大切なんだ……応援したいと思う、支えたいと思う、糧でありたいと思う。私は油であり、酸素でなくてはならない。焔は――」

 

 急に起き上がろうとしたパンジャは、痛みで身体を強張らせた。身体を押さえたアオイは、忙しい呼吸の合間に彼女の嗚咽を聞いた。

 

「ああ……わたしは決して、君に、傷を負わせたくないのに……」

 

「あまり私のことで落ち込むな、パンジャ。あの時は、子どもだったから何かを犠牲にするしかなかった。だが、私達はもう大人だ」

 

 彼女の深海色をした瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。

 泣き出したパンジャにアオイは動揺した。誰かの泣き顔を、彼はもう何十年と見たことがなかったのだ。手順を間違えてはいないだろうか。不安で覚束ない指でハンカチを取り出すと、左手に握らせた。

 

「ふたりで、もう一度やり直さないか。過去の精算ではなく、今度こそ未来を目指して歩いて行こう」

 

「……でも、わたし……きっと、変わるのは難しい」

 

 分かるんだ、とパンジャは言う。

 アオイは、それを否定しなかった。その難しさと恐怖を知っていた。

 

「それは……そうだな、人が変わるのだ。簡単にはいかない。好機も少ないだろう。だが諦めて顔を伏せっていると見えるものも見えなくなる。無理に変わらなくてもいい。変えようとしなくていい。良い変化というものは自然にうまれるものだ」

 

 パンジャはハンカチで目を押さえ――拭った後で、アオイを見上げた。

 

「昨日、ふと死にたくないって思った。生きたいとも思えた。だから……今日から、君と一緒に歩いてもいいだろうか」

 

「ああ、私からお願いするところだ。――私と一緒にいこう。ふたりで成し遂げよう。ひとりよりふたりで。きっと上手くいくだろう」

 

 アオイは、右手を差し出し、慌てて左手を伸ばした。パンジャの右腕が折れていることを失念していたのだ。

 その様子を見て、彼女は痛みよりも愉快さが勝ったらしい。くすくす笑う。アオイは照れた。

 

「いや、その、恥ずかしいな……舞い上がってしまった」

 

「気にしないで、君の気持ちが嬉しいからね」

 

 火傷であちこちが堅い彼女の手に触れる。1年ぶりだった。痛みに気をつかって握力を緩めたが、何倍も強く握られた。

 

「パンジャ――」

 

「嬉しくて涙がでることがあるんだね。……こんなの、初めて」

 

 ずっと張り詰めていた糸が解ける。

 はにかんだように微笑むパンジャが涙を流していた。その頬に、手を伸ばしたアオイも泣いてしまいたかった。

 

 人は変われるとアオイは思う。何度か自分がそう言われたように、柔らかくなる、とはこういうことを指すのだろうか。

 

 アオイは彼女がベッドに落としたハンカチを握った。

 

「モシ」

 

 小声で、ミアカシが言った。

 アオイが彼女を見た時、煌々と輝いていた焔は姿を消していた。

 

 初めて見る姿に、アオイは目を見開いた。驚く彼とは対照に、けれどミアカシは満足そうに椅子の上で「モシモシ」と謳うように唱えた。

 

(燃やすに惜しい感情が――私のなかにも、あったのか)

 

 指先を絡めたふたりは、しばらく身を預け合ったままだった。

 お互いのことを、これまで以上に分かりあっていると思える。大切だ。無くしたくない。衝動に似た想いが浮かんだ。

 

(ああ、そうか。この感情を……人は――)

 

 愛と呼ぶのだろうか。

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「本当に君には悪いことをしたと思っている。必要であればまたやるが、今は心からの謝罪をしたい。わたしにできる償いであれば何でもしよう。さあ、アオイに迷惑のかからない範囲で遠慮無く言いたまえよ」

 

「彼女もこう言っていることだ。穏便にすませるというのはどうだろうか?」

 

 荷物をまとめたアオイとパンジャが出てきた矢先に、これである。

 アオイは遂に洗脳でもされたのだろうか。コウタは一瞬だけ、茫然とした後で控えめにキレた。

 

「ぜってー悪いと思ってねえだろうがッ! あと『またやる』って言ってるぞ! こっちの正気を疑う顔をするんじゃねえ! アオイ、これはどうなんだ、再犯の余地ありありだぞ!」

 

「なに? そうなのか? パンジャ?」

 

「滅相も無い。アオイ。わたしは嘘を吐いたことが無いんだ。知っているだろう?」

 

「本人がこう言っているんだ。大丈夫だよ、コウタ」

 

「どこがだッ! 『またやる(仮定)』が『またやる(確定)』になっただけだろうが! くそくそ! お前ら本当にお似合いだぜ!」

 

「あ、あまり言うな、照れる」

 

 パンジャは物言いたげに、釣り下げた腕を気にする素振りをした。やがてアオイに促され、覚悟を決めたのかコウタに左手を差し出した。

 

「止めてくれてありがとう……感謝をしている。恐い思いをさせてしまった」

 

「後戻りの仕方が分からなくなったら俺に言え! ばか! いいか!? 足を引っ張るのなら大得意なんだぜ! あとでポケウッドまで付き合え。それでチャラだ。いいな?」

 

「……っ。了解した。演目のチョイスは任せるよ」

 

「当然だっつーの」

 

 コツンと拳を合わせた彼らは、それきり目を合わせなかった。

 言わずとも悟った。またやるなら、同じように止める。無言のうちに交わされた約束は、永劫消えることが無い。

 

 

 外は、春の風が吹いていた。

 大きな機影が3人を追い越して飛ぶ。

 

 故郷の風に涙ぐみそうになっているアオイは、眩しくて涙が出るのだと思い込もうとしているようだった。コウタが隣を見ると、静かな目でパンジャが空を見上げていた。何かが見えるのか。そう聞くと「空が青い」と言って、足下が不安定なアオイを支えた。

 

 3人でポケモンセンターの影を踏む。

 

 影だけを見れば、時は学生の時分と変わっていないように見える。けれど顔を上げれば、たしかに成長した自分たちがいた。

 

 だから、小石を蹴っ飛ばした。

 

「……今度さ、また喫茶店に行こうぜ! そしたらポケモンバトルしにトレインに来いよ。運賃おごってやるからさ!」

 

 コウタの提案に、ふたりは一様に驚いた顔をしてから、笑って頷いた。

 




【友情】と【夢】と【再生】の物語
本作は、作品概況といくつかの感想返信で明示している小テーマが「小さな世界」・「3歩歩いて2歩下がる物語」です。それに含まれる要素は3つ。友情・夢・再生と設定しています。筆者の力量不足により、これ以上の小テーマを描くことができず多角的な作品にすることが困難なのでアオイに関わり深い上記3点に絞られました。(これにより描写のスリム化と筆者の書きすぎる悪癖を直したかったのです。結果? 結果はぁ……)

3点に集中して取りかかろうとした結果、人物設定が初期考案から大きく変化した人物がいます。ひとりはマニ・クレオ。そしてもうひとりは本話(鐘が鳴り終える前に、花を摘め 上~下)で取り上げたパンジャ・カレンです。彼らの内側に設定された作品要素はマニ・クレオ(狂信・無個性)、パンジャ・カレン(盲目・破壊・分離鏡面)です。

この作品プロットができあがるまでの変遷をざっくり示すと。

初期案:箱庭系物語
 再起する話※本当はループしている悪夢の中の人工環境が舞台
 密室で病んだ人が再生できるの?という疑問から作成を断念しましたが「悪夢でループ」、「人の再生」というキーワードは今度使いたいと決意しました。無事、本作にて利用されています。

中期案:勧善懲悪系
 少年漫画的なノリの話にしようと思ったが、断念。本編でいいじゃん(禁句)と思ってしまった。パンジャが墜死しそうになった原因はこの時のプロットにあります。「主人公はヒーローなので敵は倒さないといけない」でも本当に「敵を殺してしまったらそれは悪」では「敵を殺すのではなく、敵には死んでもらいましょう」。そんな形で、墜死はよく見る悪役の末路です。この時の悪は、コウタが留められなかったパンジャでした。

後期案:本作。


本作において、明言を避けている描写のひとつに【神話】と【神】の話があります。マニの神話展示のあたりで「コイツ、逃げてんじゃねーよ」と思った方、申し訳ない。扱いかねるテーマというわけではないので、いつか筆者なりの神話解釈についてお話しできたらと思っています。

【神話】と【神】について、語らないことで影響が出るのが先のマニとパンジャなのです。マニには初期案の時点で(当時名前は決まっていませんでしたが)シンオウ神話の狂信者であると設定がありました。

無個性の狂信者というカレーにコーラのような組み合わせは、本作では最悪の組み合わせでした。人格を構成する1つが欠けているので、もう、どうしようもない。そこで悩んだ結果、主体性が無い、向上心を諦めている、無個性の設定で人物が練られました。
狂信者設定の名残で他者には理解不能の「3による運命決定」が残されました。読者の皆さんには「なんだコイツ」、「もしや、この運命論が後の話で活きてくるのでは!?」と思わせしまったら申し訳ない。これはただの個性、思考の癖以外の何かではないのです。

そしてパンジャ。パンジャを構成する要素(盲目・破壊・分離鏡面)のうち、神に関連する要素は「盲目」です。盲信としてもよいかもしれません。

パンジャの神とは一般的な神、つまり全知全能を体現するモノです。特に全知であることを重視します。では「全知」とは何か。辞書的な意味では全知は「完全な知恵」です。

ただしパンジャ含め登場人物の全ては情報の格差がある『不完全な人間』なので、パンジャは「完全な知恵があったとして、不完全な観測者(わたし/私=パンジャ)では、全知を全知として把握することができない」と考えています。

たとえば樹木の葉の数を問う話があるとして。アオイの答えは「5万枚」とします。春でこれから葉が生えてくるので、考えても分からない、1枚ずつ樹木から取り外して数える等の観測しようのないものです。そこで便宜上、全知全能の神がいたとして「正解は6万3千枚だ」と答えたとしましょう。パンジャはこれを信じることはありません。得体の知れない何かより、なんとなく答えたアオイを信じることでしょう。パンジャの視点では、全知者の知恵を測ることができないのです。根拠が存在せず実証も不可能で正確性を比べることができないのならば、パンジャは自分の信じたいもの(=この場合は、アオイ)を信じます。

この信念に基づけば、なんとパンジャの「信じたいもの」=「神」=「全知全能」ということになります。飛躍しすぎぃ。しかし、パンジャがアオイにこだわる理由とは、これです。

アオイがパンジャのことを完全に理解すれば、パンジャにとってアオイは神と同一存在になります。作中、悪夢の中で「わたしを理解して」と言っていた動機は、これに由縁します。アオイには当然、この考えはないのでパンジャのように同一の存在になりたいとは思っていません。「孤独を癒やすために、そばにいたいのかな」と悠長でお人好しな考えをしています。ペロ、これは致命傷……。

そしてパンジャはアオイのことも理解したいと思っています。そうすることで、自分がアオイにとっての神になれると信じているからです。『自分の知ることを相手が知っていれば、自分にとってその人は全知の神になり得るのだ』――というものが、パンジャを構成する「盲目」でした。

そのため、本話においては、本来、アオイが「君はどうしてあんなことを」と問い、パンジャの答えは「わたしは、君の神になりたかった。君がわたしの神であるように」旨の答えがある予定でした。そこで2人のお互いの認識の齟齬が発覚し、認め合っていこうという流れでしたが、本作において【神話】と【神】は取り扱わないので友情に焦点を置いた話の構成になりました。

なお後期案におけるアオイへの同一視は、心理学でいうところの防衛機制寄りの考えです。しかしこの点はどちらかといえば「多重人格、と思い込んでいる」系の設定からくるものなので「盲目」ではなく「分離鏡面」の基礎設定から在る要素です。

後期案における「盲目」は単にアオイに対する信頼と一度思い込んだら……等の意志決定に作用しています。

ところでパンジャがアオイに向ける感情には色恋がありません。
恋愛よりも信仰や友情が勝るため何度かの問答で「好きなんだろう」と言われた時、パンジャは必ず否定しています。

使うタイミングを逸し、不適になってしまった地の文の描写として「――あの献身には、たしかな情熱があるが、驚くほどに透明だ。だから周囲は勝手な色を想像する。だがあれは信仰じみている。彼しか見つめていない。重い天秤を下から持ち上げるような信仰だ」というものがパンジャの本質を言い当てたものとして挿入される予定でしたが、やっぱり【神話】と【神】は取り扱わないのでボツになりました。

ボツになったとはいえ、マニは無個性から成長し個性を得ましたが、パンジャは盲目に付随した神に対しての考え方を描写的に削りきることができませんでした。下手に削ると彼女のなかでアオイの存在が軽くなってしまうし、やっぱり色恋沙汰なんだろう、と安易な着陸になってしまうような?……と悩んでしまいましたが、パンジャについては現在の描写で作者的には良かったかなと勝手に納得しています。

アオイやパンジャが愛の存在について自分の心の中で納得を得るのは最終盤、最近の数話でなければならないと考えていましたので。

長々と語りました。要するに、本話にはテーマ的に挿入しようと思ってできなかった話、台詞が多数検討されていたのです。いつか狂信者マニとか書いてみたいですしね。リベンジしたい。ともあれQ.E.D!

最後に、残り話数も少なくなって参りました。惜しむらくは「最終話まで一挙投稿してやるぜええぇぇ!」ができなかいことでしょうか。しかし、ぽつぽつ更新していくので最後までお楽しみいただければ幸いです!

???「導火線の敷設はバッチリですよ! 先輩!」

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

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