月は、紅く。
揺蕩う水面にその光を落とした月は、何処までも冷たく下界を見下ろし。この世界になど何の思いも抱きはしないとでも言うかのように、高い、高い天蓋に浮かぶ。
灯りは、一つの影を生み。黒く歪な、巨大な姿形は、紅い光を受けて、鈍く、怪しく光沢を放つ。
首を失くした巨人。その手に握るのは、世界を滅ぼす災いの枝。黒い肉と外の世界の魔法の組み重なった奇怪な容姿は、そこらの妖怪よりも余程、妖怪らしいもので。
スルトと呼ばれた、アラガミ。幻想郷の欠片を抱いた魔物……いや、その欠片たるフランドール自身と言ったほうが、正しいのであろう。姉と似た白く透き通った肌も、薄い黄色の髪も、七色の羽もそこにはなく。あるのは唯、醜く哀しい一体の怪物。
「……アレだね」
装甲車を走らせるコウタが、呟く。幻想郷では乗る機会も無かった、鉄の車。エンジン音を響かせて走るそれは、深山の里には似付かわしくない、外の魔法。乗るのは、私と霊夢と、コウタとリンドウ。慣れた様子で座席に坐る二人と、慣れているはずなど無いのに落ち着いた、霊夢。
何とは無しに、変わり果てたフランから、視線を外す。窓から見えるのは、幻想郷ではまずお目にかかれない、海。
愚者の空母、と言ったか。聳え立つスルトの体躯でその殆どの部分に影を落としてはいるものの、乗り上げ、折れ曲がった船は相当に大きなもので。船跡に続く橋と言い、その下に覗く海と言い、幻想郷には無かったものだらけの世界に、思わず視線を奪われる。
こつん、と。自身の金髪を軽く小突く。これだから、魔法使いというものはいけない。どんな時でも、どんなものでも私の興味を惹きつける。
「……あれが、フランか」
「そうね。本当、しばらく見ない内に大きくなって」
惚けた返事は、この状況においては逆に、頼もしく。しかし。
その立ち位置は、私の場所だぜ。
「年相応の大きさなのかもしれん。私もあと五百年もすれば……」
「あんたがデカくなっても気持ち悪いわよ」
軽く、笑い。近付くフランの影を見据えたまま、神機を握る。
戦いが、始まる。否。
もう、始まっている。
「避けろ! コウタ!」
「え、ええ?」
スルトの両横に取り付けられた発射口が開き、闇の中から何かが打ち上がる。
あれは――
「時期狙いなんて、遊びのつもりかしら。夢符『二重結界』」
装甲車を狙って撃ち出されたのは、ミサイル。しかし、大して早くもない弾幕……いや、弾幕とも言えないような、単発の、弾丸。結界にぶつかり、車の数メートル先で爆発したそれを彼女は一瞥し、静かに立ちはだかる巨人へと視線を移す。
「フランドール。意識、あるんでしょう?」
ギチギチと音を立て、巨人は、その体を屈め。まるで、此方を見下ろすように、首を向ける。
止まった車と、近付く鉄棺。本当、悪趣味な姿になったものだと胸の内で毒吐きながら、その姿を、顔とも呼べないそれを、睨む。
『本当に霊夢なのね。こんな所まで、ごくろうさま』
「魔理沙もいるぜ。私も労え」
『はいはい。お疲れ様。じゃあ』
帰って、と。告げる彼女の口調は、変わらず。しかし。
「……本気か?」
聞くまでも無い。今の彼女の言葉は、お巫山戯のそれとは違う。それが分からぬ程に、私は鈍くはないつもりである。
『貴女たちは、死ぬには早過ぎるわ。まだ二桁でしょう?』
「大抵の人間は、二桁で死ぬがな」
『巫山戯てる場合じゃないわ。弱い弱い人間は、もっと自分の寿命を伸ばすことを考えた方がいい。ほら、さっさと帰りなさい』
フランの声で、怪物は言う。しかし、だからと言って彼女に背を向けることなど、出来るわけも無く。
私が口を開こうとした、その時だった。
「なんだよそれ!」
怒声。今までに聞いたことないその声に、思考が、止まる。
「霊夢や魔理沙は……あんたや、幻想郷の仲間を助ける為にすごい苦労してるんだ! それなのに、助けられるあんたはなんで、そんな態度なんだよ!」
叫ぶのは、コウタ。私は、そして、霊夢は。始めて見る彼の怒った姿に、かける言葉なんて持たずに。
「本当なら感謝するところだろ!? 俺たちは、てか、霊夢達は助けに来たんだよ! アラガミに食われたあんたをさ! それなのに、それなのに……」
『煩いな』
刹那。コウタの右隣り、後方を確認する為の鏡が、爆発する。
「っ……!?」
『ほら。狙いが狂った。外してあげたわけじゃないよ。本当に、狙いが定まらないの』
苛立たしげにそう告げる、フランドール。その、魔物の巨大な右手は、確かに、閉じられていて。
狙いが狂った。ならば、もし、狂わなかったら? もし、狙い通りのものを、破壊していたなら?
その時。コウタは、どうなった。
「フランドール!」
二つの怒声が、重なる。
神機を握り締め、車から転がり出るように飛び出した私と霊夢に、彼女は嗤う。
『あははっ……魔理沙に、博麗の巫女まで男の子の身の心配? 半分人間を辞めたような魔女と、何にも染まらない巫女が?』
「煩いッ! 今、あんたをそこから引き摺り降ろすッ!」
霊夢は銃形態に変形させた神機を、彼女に向け。私と共に撃ち出した数発の弾丸は、フラン……アラガミの身体目掛けて、襲いかかる。
『そうそう。やるなら全力で……
振り抜くは、火炎の剣。塵芥のように吹き飛ぶのは、私たちの弾丸。
『壊してよ。私が貴方たちを壊す、その前に』
消炎を振り切った銃と、変形させたばかりの剣は、その銃口を、切っ先を標的へと向け。
私達の、フランドールとの戦いは、幕を開けたのであった。
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夜空に浮かぶ、紅い焔。
太陽が如き輝きを以て、それは、舞う。
此方の動きなど、構いなどしないとでも言うように……否、これだけ接近してもまだ、相手は気付いてすらいないのだろう。中空をくるくると回り、抜け落ちてもなお燃え続ける、灼熱の羽を撒き散らす。
接触禁忌。その言葉は、このアラガミの為にあるのではないかというほどに……そのタグの意味を、取り違えていることは分かっていても、なお……触る事すら躊躇われるほど。その輝きは、明るく、そして、他の何よりも純粋な……
「綺麗……」
呟いたのは、カノンか。見れば其処には、瞳を輝かせ、夜天に浮かぶ太陽を見上げる、少女の姿。彼女だけではない。一緒に来たサクヤ、ジーナまでもが、空を舞うそれに見惚れている。はためく翼、燃ゆる空。空気さえも焦がさんと散る、火の粉。
フェニックス。つい最近発見されたばかりの、ハンニバルの変種。全身が炎に包まれ、その頭部は鳥のそれにへと変わり、背に生やした一対の翼で空を駆け……そして、ダメージを食らった端から再生し始める、反則級の敵。その様は正に、不死鳥と言ったところで。
倒すのに必要なのは、圧倒的な火力と、手数。殺すには至らずとも、こんな敵を制した第一部隊隊長……あいつは、どれだけの力を秘めているのだろうか、など。
考えた所で、仕方のないこと。今は、自分達の持つ力の、全てをぶつけるまで。
「カノン!」
「は、はいっ!」
「やっちまえ」
いつも通りの、カノン。しかし、それももう、終わり。
「……了、解!」
言うが早いか、彼女が抱いた砲身は、轟音を響かせ。静寂の世界は、まるで割れるように。空間は、神の舞い降りる聖域から、戦場のそれに変わり。
ついに、フェニックスが俺たちに気付く。ふわりと浮上し、カノンの撃ち出した弾丸を、避け。
「避けんなッ!」
二発目、三発目。苛立たしげに、しかし何処か楽しげに。普段は少女少女している彼女の変貌ぶりは、いつもならば不安要素に他ならない、が。
今ばかりは、その力強い勢いに、同調して。
「全員、集中放火! フェニックスを叩き落とせ!」
カノンの打ち出す巨大な弾丸と、二人の撃ち出すレーザー弾が空中に入り乱れる。対するアラガミは、錐揉みで降下し。回転を繰り返して獲物へと向かう炎鳥は、時に銃弾にぶつかり、レーザーに貫かれてもなお、高速を維持したまま。
「三人とも、退避ッ!」
三人が下がったのを見届けるや否や、シールドを展開。突進するフェニックスの嘴目掛け、一直線に――
「うぉらああ!」
思い切り、かち上げる。身体中に走る衝撃を、痛みを噛み殺し、足を地面に沈めながらもなお、倒れることは、俺自身が許さず。
並の人間ならば、即死しても不思議ではない衝撃。しかし、偏食因子を身体に取り込み、制御されたアラガミ化の施された俺たちの体でならば、耐え切る事だって、可能で。
斬撃と違って然程のダメージは期待出来ないものの、怯ませるならば、これで十分。
「もういっちょッ!」
体勢を崩し、衝撃に怯むフェニックスに、手にした剣で斬りかかる。
発熱ナイフ。俺の獲物は、斬りつけると共に高温を発する、炎の剣。燃え盛るアラガミを相手として、その相性は、良いとは言えない。しかし、それでも俺を選んで送り出した皆の期待は、裏切れない。
俺は、防衛隊班長、タツミなのだ。死ぬまで防衛班と言ったのは、決して嘘偽りなどでは、ない。
「さあ、ここでお前さんの進軍は終わりだ。ちょっくら遊ぼうぜ、フェニックス」
神機は、捕食形態に。発現させたる黒い獣に、思いを乗せて。
不死と呼ばれたそのアラガミに、顎は、何処までも力強く、その牙を立てた。
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闇の中に、紅。
暗い暗い、廃教会の影。覗くのは、暗がりの溶けきれなかった真紅の体躯と、二つの瞳。
――形からすれば、ヴァジュラ神族の変種。今までに目撃例が上がっていないことから、新種と見て間違いないだろう。虎の形をしたヴァジュラでありながら、その顔貌は、何処か蝙蝠のそれに似て。背に生やした一対の翼も、また。
紅いヴァジュラ。神を模したにしては、禍々しく。そして、凶悪で。
轟、と。一発の弾丸が、歩を進めようとしたヴァジュラの足元の地面を穿つ。
踏み出そうとした前足は、元の位置へ。ゆっくりとした、それでいて隙の無いその動作からは、高い知能と、余裕さが垣間見え。厄介な相手に出会したものだと、一つ、小さく溜息を吐く。
静かに。唯々静かに。
空の色は、廃墟の影と重なり。雲の切れ目から溢れ出した月明かりは、やけに紅く。
対峙するのは、唯のアラガミではない。似た感覚は、そう。あの人がアラガミと化した姿と向かい合った、あの時のそれに似ていて。
『……人間、ね』
――口を、きけるのか。
『その辺の化け物たちと、一緒にしないで欲しいわね』
人ならぬ魔物との会話。しかし、今更何が起ころうとも、驚くようなことなどない。返す言葉を用意するのは、訳無い。
貴方も、妖怪か。
『ふふ。誰に会ったのかしら。不死人? それとも……可愛い妹かしら』
おそらくは、不死と一度。そして、鳥の翼をもつ妖と。
『ああ……夜雀ね……まあ、貴方が誰に会ったかなんて、些細なことなのだけど』
アラガミは……妖怪は、笑う。小さな命を前に、二つの眼は、全てを見透かすように。この身に秘めた運命を、弄ぶように。
感じるのは、殺気。相手は……敵は、戦いを求めている。
神機を、強く握りしめる。今まで幾多のアラガミを喰らった……共に喰らった、相棒を。
『へえ。恐れないのかい。この、私を前にして』
何を、今更。覚悟など、遥か昔に出来ているというのに。
『死ぬ覚悟?』
否。それは。
それは、生き抜く覚悟。
「……貴方を探している人がいる。強引にでも、連れ戻させてもらう」
『残念だけど、まだ……やることがあるんでね。軽く遊んでやるよ』
妖怪は……敵は、吠える。その咆哮は、狂気を孕んだ子供の笑い声にもまた、似て。
『抗え。足掻け。私は夜王――』
――レミリア・スカーレット。
言葉は、闇に溶けて。握る神機が、やけに冷たく感じる、紅夜。
二つの影は、その、形を重ねる。
紅い、紅い夜に、三体の荒神は、数人の神喰らいは、大地を駆け。
重なり合った運命は、静かに、その時を刻み始めた。