暗がりの森を駆ける。
月明かりすら遮る木々の影の間を、俺は無音で駆けていた。
冷たい空気に、白い息が淡く溶ける。息と共に、今にも消えそうになる体、でも月光に濡れた暗い瞳だけは、何もかも飲み込む闇として、確かにそこに存在していると思う。
一寸先もわからぬ闇を、我が庭の如く容易に駆け抜ける。木々を縫いながら、迷いなく疾駆して向かう先からは、聞こえてくる僅かなざわめきが聞こえた。
「……」
言葉もなく、ざわめき元へと駆けつける。そこに現れている無数の妖怪変化を、俺は腰の鞘から抜刀した冷たい鋼の煌きで、歓迎した。
月夜の光は、濡らすように鋼の鈍さを照らし出す。
直後、解き放った銀色が、その場に居た全ての妖魔を斬り滅ぼした。
空気すらも、斬り裂かない。
斬りたいものだけ、今回は妖怪だけを斬り裂く刃。
俺は、俺の斬りたいものしか斬らない。だから、この生い茂る自然も、空気も、全部全部、斬るつもりはない。
でも、妖怪だけは、正しくはその繋がりは斬る。
単純だ。
選択された斬撃対象。結果、俺の振りに耐えられなかった刀の刀身が半ばから斬れたのは、まぁ、悲しいことで。
「……うん」
煙に消える妖怪達を見送るでもなく、今の斬撃で半ばから失われた刀身を、ぼんやりと見つめた。
「……」
俺は、俺の太刀に耐え切れぬ刀に申し訳なさを感じていた。
君を斬ってしまった。敵を斬るだけではなく、俺は君の鋭利すら斬ってしまった。
悲しいと思う。刀に生き、刀と進みながら、刀を殺してしまう。そんな自分が情けなくもあり、仕方なく感じる。
素子姉さんの仕合で使った十代目なら、この斬撃にも二千くらいなら耐えたのだが、ないものねだりは意味なしである。
なんにせよ、俺は斬るのだ。
それは、使うべき刀に関しても同じである。
斬る対象は決められる。
その分だけ、刀─俺─も斬ってしまう。
それが、俺が見つけた、斬るということへの答えだったから。
まぁ、斬れるのだから斬るだけで。
それ以上もそれ以下もないだけの話なのだ。
とても、つまらない話である。
「……冷たい、いや、暖かい?」
軽いとはいえ運動をしたために、夜の空気が体を冷やす。一方、内側から火照った体は熱く、胃袋にカイロを突っ込んだような感覚。
そんな当たり前の感覚を、当たり前のように自覚して、ほぅっとため息が漏れる。
清掃員として働き始めてから一週間。
この学園に現れた侵入者を、今日始めて斬った。
といっても、妖魔達と現世を繋ぐ糸のようなものを斬っただけなのだが。
これは、なるべく殺しはしてはいけないと、学園長さんに頼まれたからだ。
なんというか、ちょっとばかし納得がいかないところがある。確かに俺は青山ではあるが、別に好き好んで人や妖魔を殺しているわけではない。
ただ、斬っただけである。
それだけだったのになぁ。
いやいや。違うだろう。
結果、殺している者もいるのだ。ちょっと我がまま過ぎたな。学園長さん達から見れば俺は危険人物である。ちょっとばかしのんびりしただけで、それを忘れるとは恥ずかしい。
何たる無様。
恥ずかしいなぁ。
「まぁ……」
どうせ、斬るけど。
にしても、面白い境遇だ。
初仕事、のち、初仕事である。まぁしかし、一週間という期間で二つも仕事をこなすのだから、もしかしたら俺はなかなか忙しいご身分ではないのだろうか。
歩く。というよりかは、コソ泥の如き逃走。周囲から殺到してくる気やら魔力やらから逃れつつである。夜道を一人、暗い森を散策するのは乙なものだ。
とはいえ、同僚に会えないのは、少々寂しさを感じないでもないが。
俺である。
俺は、青山である。
であれば、可能な限り、出会わないほうがいい。
「……」
さておき、麻帆良学園には、こうして時たまに侵入者のようなものが現れるらしい。
らしい、というのも、まぁあれだ。俺はこの仕事が初めてなのである。だから、そう何度も襲撃が来るものかと、心のどこかで疑いを持っているのだが。
斬れるのならなんでもいいやという短絡思考によって、その疑いも彼方に飛ぶ。我が身ながら、恥ずかしい、思考を手放すやり方というのは、どうにも刹那的過ぎて、人には誇れぬ考えだ。
恥ずかしく。
恥ずべき。
でも、斬るのかなぁ。
「……お?」
少し離れた場所で、大きな気と魔力の膨らみを感じた。
どうやら、いい感じに戦っているらしい。中々の使い手が揃っているようで、正直俺などという者は必要ないのではないのだろうか。
だがまぁ、こうして俺が戦えば、それだけで周りの苦労が少しはなくなるのであれば、俺も社会に貢献できていると実感できるので、別に余計なおせっかいというわけでもないのだろう。
いいこと。
嬉しいことだ。
人のためとは、よき響き。
俺の刀が、平穏を守っている。
うんうん。これは、よきことだ。
「……」
そういうわけで足取りは軽く。また新たに発生した別働隊の元に俺は走る。腰には残り三本の刀。といっても、そこらに転がっていた真剣なのだが。
急ごしらえのため、これしか用意できなかった。
まぁ、ないものねだりは意味なしである。
夜闇を裂いて、一直線。周りの気配は──あぁ、高畑さんが同じ場所に向かっている。他は、まだ少しだけかかりそうだ。
どうしようかなぁ。
会ってもいいのかなぁ。
「……」
走りながら思考。あまりよろしくないが、そこはご愛嬌。
どうやら高畑さんはそこまで本気で駆けつけているわけではないらしい。場所は俺よりも近いが、これなら瞬き程度先に俺が到着するだろう。
どれどれ。
ここは初仕事ということで、少しはいいところを見せてみよう。やる気が沸けば俄然、足も軽くなる。
無論、そんなの気のせいだけど。
そして、月を背中に俺は刃を解き放った。月光と刀の相性はいい。冷たい光が、冷たい鋼を、冷たくする。その様にいつ見ても心が落ち着く。
斬れるのだ。
そう、わかる。
「……」
音もなく現れた俺に、妖怪達が気付くことはなかった。見ている方向は、どうやらもう目の前まで来た高畑さんのほうである。
ちょうどいい。
斬った。
それだけ。
─
タカミチが見たのは、常軌を逸した光景であった。
それは突然のこと。
目の前で、そこにいた妖魔が全員、真一文字に泣き別れしたのだ。
まるで最初からそうだったかのように。
あっさりと。
とりとめもなく。
違和感なんて、まるでない。さっきまで繋がっていた姿を確認していなかったら、目の前の妖魔は、最初から身体が真っ二つであったのだと納得してしまうくらい。
それは当たり前のように。
綺麗さっぱり、斬られていた。
当然、痛烈な一撃を受けた妖魔達は煙となって消えていく。
驚きは特になかった。ということにタカミチは驚いた。最初からそうであったという事実に、一瞬前までそうではなかったことを、あたかもそうであるとした太刀筋、太刀筋か? をぼんやりと見て、ぼんやりしていた自分に驚く。
その直後、鈴の音のような清涼な響きが周囲に鳴った。
「ッ……!?」
タカミチの背筋が凍った。喉元はおろか、体中に刃を突きつけられたような錯覚。死を意識するのではなく、斬られると意識してしまう。
それほど冷たい空気に、タカミチは咄嗟に、だが遅いと感じながらも最大級の警戒態勢に入り。
音もなく、砕けた刃と共に着地した男を見て、目を疑った。
「……青山、君?」
砕けた刀を手に持った男は、つい先日も会ったばかりの青年だった。だというのに、タカミチは目の前の青年が、先日も会ったあの素朴な青年とは見えなかった。
夜の闇のせいとは言えない。ちょうど月明かりが照らす場所に青山は立っており、強化された身体を持つタカミチであれば、この程度の闇は視界を妨げることはない。
だというのに、その顔を正しく直視したというのに、タカミチは青山のことを疑ってしまった。
無表情も、無感動な瞳も、何一つ変わっていないというのに。
そこにいるのは、別の何かであった。
「……」
青山は静かに会釈をした。常と変わらない、礼儀正しい所作だ。
だがその腰に携えられた刀が、何処にでもありそうな、ただの刀があるだけで、彼の印象はまるで様変わりしていた。
なんということだ。
タカミチはこれまで、沢山の人間、人間でない種族、それらが持つあらゆる善と悪を見てきた経験がある。だから、人の善悪を感じ取る術には、常人よりかは長けている自信はあった。
だが目の前のそれは、尊敬すべき正義でもなく、唾棄すべき邪悪でもない。
そこにいるそれは、どちらともかけ離れていた。
「君、は……」
──なんて、様なんだ。
その言葉を、教師として、立派な魔法使いとして、ぎりぎりのところで飲み込んだ。相手は人間である。生きている、考えもする、それに礼儀もしっかりしている人間である。そんな人間に、僕はなんてことを言おうとしたのか。
なんて言い訳を、そう、彼の印象を、自分が覚えた彼のいいところを、タカミチは全て、その様を否定したいがために、言い訳に使ってしまった。そんな言葉を、頭の中に思い浮かべてしまった。
それは、青山という化生を認めたということに他ならぬ。
だがしかしタカミチは、それでも青山を、青山とは認めようとはしなかった。それはタカミチの優しさであり、まさに立派な魔法使いとして、人々を助ける崇高な精神がなせる心である。
だって、それでは、そう認めてしまったら──
そんな彼の思考を察したように、青山は再び頭を下げた。
「この様、なのです」
「……」
「だから、斬れます」
何よりも説得力のある言葉だった。
人は、人間は、『ここまで行けてしまう』。恐るべきは、若干二十歳前後の年齢でありながら、青山がそこに到達していたということである。
人間は行けるのだ。道の果て、道の終わりで、完結できる。それ以上行けない場所へ、行けてしまう。
だから青年は、『青山』と呼ばれている。
「……初仕事、お疲れ様」
苦し紛れの一言に近かった。青山はそれを聞き届けると、ここに集まってくる気配を察して闇の中に消えていく。
完璧な隠行だ。少なくとも、タカミチですら、青山が消えたのを見なければ、そこにいた事実にも気付かなかっただろう。
タカミチはそれを見届けるしか出来なかった。かける言葉は見つからなかった。何を言えばいいのか、全部が全部、言い訳にしかならない気がした。
「高畑先生?」
直後、森の木々を潜り抜けて一番に到着したのは、教え子でもある桜咲刹那であった。呆然と、いや、憔悴しきった顔で立つタカミチの顔を、訝しげに見上げている。
「いや……なんでもないよ」
タカミチは懐から煙草を取り出すと、まるでその内心を覆い隠すように火を点けて、紫煙で顔を覆い隠した。
そんなあからさまな動揺を見せる彼の動作に、刹那は驚きを隠せない。
一体、この場所で何があったというのか。あっという間に、この学園でも最強の使い手が妖魔を一掃した、それ以外の何かがあったのか。
刹那はまるで戦いの痕跡すら残っていないその場所の中央にまで向かい、ふと、月明かりに照らされた大地が光っていることに気付いた。
「これは……」
光に近づき、拾い上げる。それは砕けた鋼の一欠けらであった。よく見れば、それはあたり一面に、月の光を反射して、まるで空に輝く星のように散乱している。
やはり、何かがあったのだ。刹那はそう直感した。だが何があったのかすらわからない。散乱する鋼以外、まるで問題などなかった空間では、それ以上の推察は不可能だ。
本当に、何もなかった。
だが刹那は気付いていない。最も重要な違和感に、気付くことも出来ない。
そもそも、妖魔が居たはずの場所が何もなかったように思えること自体、異常なのだということに。
タカミチだけは、その違和感に気付く。どうしてそうなったのか、アレを見たからこそわかる。
「斬った、のか」
「え?」
「……独り言さ」
繋がりを、斬った。
だからここには、何もない。
あの青年はそれが出来る。あんな状態だというのに、こんな絶技が出来てしまう。
それが、あの有り様でそれが出来ることに、タカミチは末恐ろしい何かを感じる。
ふとタカミチは空を見上げた。雲がかかった月が、何処となく波紋が波打つ日本刀に似ているような。
そんな、気がした。
─
麻帆良学園で働き始めてから、もう二週間もの時間が流れた。警備の仕事からは一週間、英雄の息子さんが来るまでは大体残り二週間といったところである。
そういうわけで、まだ仕事を始めて二週間しか経っていないというのに、俺は一週間のお休みをいただくことにした。大丈夫なのかとも思ったけれど、学園長自ら一筆書いてくれたこともあり、清掃員の皆様にはからかわれつつも、概ね受け入れてもらえた。
勿論、警護、侵入者を撃退する仕事は、そもそも俺はいないという前提なので、いようがいまいが関係ない。
気分は人知れず学園の平和を守るヒーローである。ちょっと寂しいけれど、こういう立場も悪くはないと思うのだ。
さて。
何故俺が一週間もの休みをいただいたのかというと、それはここで英雄の息子を護衛するにあたって使うことになる刀を作るためである。主兵装になる十一代目の真剣は、素子姉さんに十代目を砕かれてからこれまで、暇があれば元になる鋼に気を浸透させ続けていたので、多分あと二ヶ月もすれば完成する。
だがいつもの護衛で真剣を持ち歩くわけにもいかない。夜道ともなれば、見つかる可能性はまずないとはいえ、もし見つかった場合、真剣なぞをぶら下げていたら捕まるのは自明の理である。
そういうわけで、上手く擬態した刀作り。使うのは気の浸透率が高い木をモップ大の長さの棒にしたものを七つ。材質が木であるために、耐久性には些か不安が残るが、ちょっと組み立てればあら不思議、いつでもモップ部分が着脱可能な棒の出来上がりとなる。
これを一つずつ、七日かけて気を浸透させるのが、この一週間の休みで行うことだ。まぁ俺はそこらへんが下手糞なので七日もかかってしまうのが恥ずかしい限り。
しかも浸透中は気が外部に漏れてしまうので、気付かれないようにやるのは一苦労だ。
「……」
そういうわけで、一週間、楽しく製作に取り掛かるぞ。
─
青山が一週間の暇を貰ったと学園長から聞いたとき、タカミチはいい機会かもしれないと思い、青山が住んでいる麻帆良の郊外にある小屋に向けて歩いていた。
一週間前、あの夜。月光に照らされた姿を見て思ったことを、タカミチは悔やんでいた。
無表情で、言葉も少ない、だが根は素朴で、空気のような自然体は、沈黙が続いても苦しくない雰囲気を作り出してくれる。
いい友人になれると、そう思ったのだ。学園を案内している間、感情は読めないけれど、色んな場所を見て興味を示している姿は子どものようで、見ていて面白かった。常に自分を下にする態度は、謙虚というにはやや過剰すぎるが、それでも彼の人柄を表しているようで、好感を覚えた。
そんな全てを、一週間前、タカミチは砕かれた。
酷いのでも、見るにも耐えられないのでも、気持ち悪いのでも、怖いのでもない。
何たる様だと、そう思ってしまった。
刀を携えただけで、それ以外、最初に会ったときの印象とまるで変わりはなかった。なのに、刀があるだけで崩れてしまう。
それは、立派な魔法使いとして、抱いてはいけない感情だとタカミチは思っていた。同時に、そんな彼に人としての道を示してあげなくてはと、そうも思った。
傲慢な考えなのかもしれないし、そんなことは不要だと言われるかもしれない。だが、アレを見たからにはそうしなければならない。教師として、立派な魔法使いとして、タカミチはそんな使命感を感じていた。
「……それにしても、随分と遠いな」
驚いたことに、青山の住居は麻帆良郊外の山の方に存在していた。敷地内どころの騒ぎではない。これでは毎日学園に来るのさえ一苦労ではないかと思い、その考えを振り払う。
何せ、青山だ。この程度の草木を掻き分けて、車よりも速く走ることなど造作もないだろう。
朝の鍛錬ついでと考えれば、この場所にあるのも、納得。
「いや、納得は出来ないなぁ」
タカミチは僅かに苦笑した。
仕事終わりということもあり、もう日の光は落ちきっていた。あの日を思い出すようで何とも言えなくなるが、出来るだけあの日を思い出さないようにしてタカミチは青山の住居を目指して進む。
学園長が言うには、一週間家からは出ないと言っていたので、多分この時間帯はいるはずだ。
そうこう考えながら山を登っていき、タカミチはようやく僅かな明かりを発見した。
小さな小屋だ。物置といわれても不思議ではない木造の小屋は、どうやら建てられてまだ日が浅いせいか、随分と小奇麗であった。
周囲には人避けの札が貼られており、どうやら可能な限り接触は控えると言った言葉は本当だったらしい。
「青山君」
タカミチは小屋の入り口をノックした。すると、僅かに床が軋む音が聞こえてから、ゆっくりと小屋の入り口の扉が開く。
現れたのは、藍色に染められた着物を着た青山であった。光のない瞳で僅かにタカミチを見つめると、ゆっくり頭を下げてから、タカミチに見せるように、自分の喉下を指差した。
「喉が渇いて、声が出せないのかい?」
「……」
声が出せるのなら、「恥ずかしながら」とでも言いそうな感じで小さく頷く。
ならちょうどいい、タカミチはビニール袋一杯に入れた酒やら飲み物やらつまみやらを掲げて、明るく笑った。
「どうだい? 君がよかったら今日は一緒に飲みでもしないか?」
青山は当然として、タカミチも明日は休日である。
ならば新しく出来た同僚と飲み明かす、そういうのも悪くないのではないか。そんなタカミチの思いに、青山は身体を半身にして、タカミチを誘うように道を開けることで応えた。
「お邪魔します」
そう言って中に入ったタカミチが見たのは、壁に立てかけられた無数の真剣だ。そのどれもが野太刀と呼ばれる、神鳴流の使い手が扱う長大な刀身の刀だけではなく、小太刀から鍔もついた立派な刀まで、狭い小屋の壁に隙間なく刀が置かれていた。
だというのに、ポツンとスペースを確保している冷蔵庫が何とも言えぬ哀愁を漂わせている。僅かに驚いたものの、タカミチは部屋の中央、囲炉裏のあるところまで進んだ。
「……」
遅れて入ってきた青山は、急いで出した座布団をタカミチに渡す。「ありがとう」と声を掛ければ、青山は会釈をして、タカミチと向かい合うように腰を下ろした。
タカミチも座布団を敷いてそこに腰を下ろす。そして持ってきたビニール袋からお茶と紙コップを取り出して、まずは並々と注ぎ青山に手渡した。
「まずは喉を潤さないと」
青山は頭を下げ、貪るようにコップの中身を飲み干した。よほど喉が渇いていたのだろう。何処となくその表情は満足そうに、見えないでもないような、気がするような、多分、そんな感じがした。
タカミチはお茶のボトルを青山に寄越した。礼を一つしてから、どんどんお茶を飲んでいく。二リットルのお茶はたちまち半分にまで減り、そこでようやく青山はため息を一つ吐き出した。
「はしたない、ところを、お見せ、しました……」
「いいよ、気にしないで。君と飲むために買ってきたものだからね」
「お金、は」
「それも気にしない。今日は遅れながら君の歓迎パーティーのようなものだから。一週間前はご苦労様、清掃のほうも含めて、初仕事はどうだった?」
朗らかに話し出すタカミチに対して、青山は常の無表情のまま軽く頷いた。
「誇らしい、仕事である、と」
「ほぅ」
「生徒のため、心地良い、場を作り。平穏のため、刀を、振るう……誇らしい、充実が、ありました」
言葉に嘘は出せない。感情が出せないから、青山の言葉はいつだって正直だ。紡がれた言葉の節々に感じる誇らしさは本物で、それを聞けただけでも、タカミチはここに来たかいがあったものだと内心で考えた。
「よかった。慣れないうちに仕事を二つもこなしたからね。疲れているんじゃないかとも思ったけど、それを聞いて安心したよ……ところで、お酒は?」
「嗜む、程度には」
「なら、一杯やろう。紙コップというのが味気なくはあるけどね」
取り出した一升瓶の口を開けて、新たに取り出した二つのコップに半分ほど注いでから、一方を青山に手渡した。
「それじゃ、初仕事兼、就任おめでとう記念で、乾杯」
「乾、杯」
紙コップを掲げてから一口つける。度数の高いお酒ではあったが、囲炉裏から零れる暖かな炎のせいか、幾ら飲んでも酔いが回らないような気がした。
暫くは買ってきたつまみを食べながら、話すこともなく酒を飲み進める。飲みながら、タカミチは部屋の様子を改めて見渡した。
冷蔵庫がなかったら、ただの物置といわれても驚きもしなかっただろう。冷たい刃は、窓から射す月の光に照らされて、とても綺麗な物に見えた。
「ところで、一体どうして一週間も休みを貰ったんだい?」
「……」
タカミチの素朴な質問に、青山は静かに立ち上がると、部屋の隅っこに立てかけられていた、札を貼り付けられた木製の大きな箱からモップを取り出して、タカミチに見せた。
それはただのモップではなかった。ある程度以上、気や魔力に精通しているものが居たら、一目でわかるくらい、そのモップに漲る充実した気は、タカミチすら驚くほどである。
「後は、擬態用の、札を貼れば……」
そういって、囲炉裏の傍に置かれていた木箱を開いて、一枚の札を取り出すと、モップ部分を外して、その溝部分に札を押し込んだ。
小さく呪文を唱えると、貼られていたはずの札は溶けるように消え、改めて棒を取り付ければ、先程までの気の圧力は途端に失われた。
そこにあるのは、何の変哲もないただのモップである。それを見てタカミチは、青山が護衛用の武器を製作するために、一週間の休みを貰ったのだと理解した。
「凄いな。随分と仕事熱心なんだね」
タカミチの惜しみない賞賛に、青山は首を横に振って、モップを横に置いた。
「仕事は、好きです。誇らしく、あります……ですが、俺は、俺なのです」
仕事はこなす。可能な限り最大限、自分に出来ることはする。まぁ、こうして準備はしているが、俗世に疎い分、護衛では色々とミスをしてしまうだろう。
だが、そういう部分を除いても、青年は青山だ。
「仕事より、優先すべきことが、あります」
──斬るのです。
そう一言、タカミチを真っ直ぐに見つめて呟いた。抜き身の刀のように鋭利な視線だった。冷たく、迷いのない直刃のように一直線で、そんな自分を誇るでもなく、淡々と事実のみを語るように告げていた。
タカミチはそんな視線を受けながら、怯むでもなく優しく微笑んだ。そういうあり方を受け入れることから始めるという、彼なりの歩み寄りだった。
「……それでも、君が仕事に対して真摯なことには変わりないよ。それに、優先することがあるのは、仕方ないことじゃないかな? 例えば、家族や友人と仕事のどちらをとると言われたら、家族や友人を優先する。それが君の場合、たまたま斬ることだった。それだけなのさ」
本当は、人を守るためにその刃を振るって欲しいのが、タカミチや近右衛門、そして肉親である鶴子の願いだ。
だが急にやれと言っても、出来るはずがない。それが生涯を賭けて行ってきたことならば尚更だ。
青山は、青山だ。生涯を賭けて積み上げたその業は深く。一朝一夕で変化するおど、簡単なものではない。だから、少しだけでいい。まずは、この仕事に誇りを持ってくれたことに、感謝して。
君は、そこから青山を離れていこう。
「少しずつ、少しずつでいい。そしていつか、君が人を守ることを優先できるようになったのなら……僕は嬉しいかな」
「……善処は、します」
「その言葉だけで、今は充分以上に嬉しいよ」
タカミチは深々と頭を下げた青山を見つめて、優しく微笑んだ。
そう、少しずつでいい。劇的な変化など望めないけれど、ここの穏やかな陽気の中であれば、人はいつか優しくなっていくのだから。
太陽の下、まどろまない人間なんて、居たりしない。そうして緩やかに、眠るように暖かさを覚えてくれたら。
それが、人を思いやれる、最初の一歩になってくれる。
タカミチはそんな願いを胸に秘めて、青山を歓迎するささやかな飲み会を楽しんだ。
─
翌日、昼頃に麻帆良に帰っていった高畑さんを見送った俺は、僅かに残った酒精の心地よさに満足しながら、早速二本目の製作作業に取り掛かることにした。
しかし、高畑さんはいい人だ。こんな俺のために、わざわざここまで訪れてくれた上に、食事までご馳走してくれて、寡黙な俺に優しく接してくれた。
世界は広い。日本という狭い場所で戦いを繰り広げていた俺が出会ったことのない素晴らしい人々が沢山いる。
とはいえ、日本にいながらつい最近まで麻帆良という場所を知らなかった時点で、世界が広いなど言うのも言いすぎではあるが。
にしても、俺は世間を知らな過ぎたかも。もっと外の世界に眼を向けていれば、このような有り様にならずにすんだのかもしれない。
──そういう未来も、悪くなかったのかなぁ。
「……うん」
俺は天井裏の板を外して、そこに隠していた札を何重にも貼り付けた木箱を取り出して、中を開く。
現れたのは、鞘を覆い隠すほどに幾つもの札を貼り付けた野太刀が一本。
躊躇うことなく鞘から太刀を引き抜けば、鈴の音のように美しい音色が響き渡った。
天井高々に伸びた刃の曲線。俺が丹精込めて作り上げている十一代目。無銘で、銘をつけるほどではないけれど、いずれは俺の刀として振るわれる愛すべき消耗品。その鋼の輝きに感嘆のため息を漏らした。
うん。
やっぱし訂正。
「俺は、これでいい」
余計な雑念も、未来への展望も、暖かな陽だまりも。
具体的に言うなら、夜を通して酒を飲み明かした、尊敬して敬愛して、こんな人になりたいと思えた、新しい友人の優しさも。
奏でる鈴の音。
ほら、斬れた。
そんなもん。