──そして、京都の惨劇から一月が経過した後、ネギは詠春の葬儀が行われたその夜、一人、ホテルの外に出て憂鬱な表情で夜空を見上げていた。
「……ッ」
ネギは左目がうずくのを感じて、懐からクウネルより手渡された丸薬を取り出して口に含む。
噛み砕くと、透明な魔力が沁み渡り、ある程度落ち着きを取り戻した。
あの日、左目を酷使したネギは、漠然とだが周囲の気や魔力を探知できる能力を得た代わりに、定期的にクウネル特製の薬を定期的に服用せねばならないほど、言い得ぬ疼きに苛まれることになった。明日菜にも一応説明したが、やはりというかなんというか、ものすごい剣幕で怒られた。それも仕方ないなぁと思うし、だが木乃香を守るためには必要な力であるという説明をすると、明日菜もそれ以上は何も言えずに黙ってしまった。
木乃香に今必要なのは、支えでも助けでもない。己の中で答えを出して立ち上がれるまでの時間だ。
だから今は全力で木乃香のことは守る。ネギ達は信じているのだ。木乃香なら、父親の死も乗り越えることが出来るのだと。
「……」
ネギは夜空に再び視線を漂わせ、詠春のことを思った。会ったことも話したこともないけれど、葬儀に集まった人々の表情を見れば、よほど慕われていたのはすぐにわかる。
京都に行く前、クウネルも「彼はとても素晴らしい方でした」と、友人として詠春のことを語ってくれた。
だが。
そんな人すら、容易く死ぬ。
記憶に新しいのは、麻帆良を襲撃した悪魔の事件だ。そのとき、優秀な魔法先生が一人殉職したこともあり、人は容易く死ぬと、自分の見知らぬところであっという間に死んでいくと悟る。
先程、木乃香を守ることが出来ると思ったが、それは傲慢な考えにすぎないのだろう。ネギは全知全能でもなく、ましてや強さも未熟だ。
「……はぁ」
善悪を考える前に、それを語るための強さがない。
そもそも、何処まで強くなれば強いというのか。
わからないことだらけで、培った全ては道を照らすにはあまりにも小さな明かりでしかない。
守ると誓い。
強くなると誓い。
果てに待つ者にならぬことを選択し。
自分は何を手にするつもりなのか。
空虚な手には掴めるものはない。だが、明日菜が後ろにいる。いや、明日菜だけではない。振り返れば皆がいるからこそ──
「悩んでいるようだネ。ネギ先生」
不意に、いや、来ているのはわかっていたので、ネギは驚くことなく視線を横に向けた。
「超さん……いつここへ?」
「んー。未来人の超技術でつい先程来たネ」
「そうですか」
「……ここ、突っ込むところヨ」
超鈴音は、困ったように頬を掻いた。
いつ着たのかは知らないが、ネギはどうも今は教師として接することが出来なかった。考えることが多すぎて、超のことに構う余裕すらない。
超はそんなネギの心境を察してか、数分ほど、夜空を見上げるネギの隣に無言で寄り添った。
慰めの言葉なんて出ない。ネギは知らないが、超はネギがどれ程頑張ったのか知っているから。それを安直な言葉で慰めることも、話題に出すことも出来なかった。
だから、彼女に出来るのは率直に己の思いを彼に告げることだけだ。
「……もし、誰もが魔法を知っていたら、今回の惨劇は回避されたかもしれないネ」
ネギは無視できぬ言葉に超に視線を移した。だが超はネギを見ることなく、今は己の話を聞けと態度でネギに示す。
「私はそう思うヨ。もしも魔法が世界中に知れ渡っていたなら、京都だけではない。こうしている間も失われていっている希望を、魔法使いの手で拾い上げることが出来るのではないかと」
「……ですが、魔法が知れることで世界は混乱します。だからこそ、魔法は秘匿されるべきなのです」
ネギは魔法使いとして当然の反論を口にしていた。今は超が何故魔法を知っているのかを追求するでもなく、素直にそんなことを言い返すことが出来た。
だがネギのそれは一般論で、今のネギには、己の言葉が何処までも空虚なものだという自覚があった。
超はそんなネギを見透かすような淡い笑みを浮かべる。
「混乱は重々承知ヨ。だが先を見据えればどうかネ? 魔法を知らしめて混乱した一年を乗り切った十年後、二十年後の未来は、今混乱を起こさずに過ごした十年後、二十年後よりも素晴らしいのではないか?」
「……それは」
「魔法をばらすことは許されないというのは、魔法使い側から見ただけの正義ではないと言い切れるか? それが本当に立派な魔法使いの答えになるのか?」
超はそこで一呼吸置くと、初めて見るような苦しげな表情で頭を振った。
「私は、そう思わないネ。魔法という素晴らしい技術がもたらす混乱は、それ以上の幸福を人々に与える切っ掛けになるという確信がある。勿論、魔法を人々に知らせることが出来たといって、すぐに混乱が収まるとは限らない。一年? 十年? それとも一世紀? 魔法使いと、非魔法使いとの格差は目に見えるが、しかし私はもし世界に魔法を知らしめた暁には、そこに生涯を賭ける覚悟があるヨ」
それは超の本心からの言葉だ。真っ直ぐに語る超の言葉は、ネギにはとても眩しいものに感じられた。
比べて、自分はどうであろうか。何処に行くでもなく、ぐずぐずと燻るばかりで、超の目的はどうあれ、彼女と自分ではその覚悟に雲泥の差があった。
「……それでも、魔法をばらすことによって苦しむ人がいます」
ネギの脳裏に浮かんだのは木乃香のことだ。あるいは京都に住む人々のことで、今も魔法があれば助かったかもしれない人々の怨嗟である。
白状すれば、それをなしたとき、その人々に恨まれるのがネギには怖いのだ。
超もネギが言いたいことがわかるのか、寂しそうに口元を緩め目じりを下げた。
「傷つけられた心を、いっそう傷つけることはあるヨ。しかし……改革は血が必要という考えを鵜呑みにすることは出来ないが、だからといってこのまま、今日の百のために明日以降の千を捨てるのが正しい選択かネ?」
「それでも、魔法という影響力が与える波紋によって、もしかしたら今日の百の代償が、明日以降の千の代償を生むことになることもあります。魔法を世に知らしめることによる混乱の向こうには、新たな混乱が起こるかもしれませんよ」
「そうかもしれない。しかしネギ先生も思うところがあるのではないか? もしも京都の一件で魔法が知れ渡っていれば、もっと違う選択肢があったのではないかと。あるいは誰も死なぬ終わりがあったかもしれないと」
そう言われるとネギには返す言葉がなかった。
思わなかったわけではない。もしも魔法が知れ渡っていれば、木乃香はもっと厳重な警護か、あるいは彼女自身も魔法を覚えて自衛を行っていたとか、ネギ達ももっと堂々と親書を渡すことが出来たのではないかとか。
もしも。
もしも。
そんな思いに苛まれない日がなかったといえば、嘘だ。
「学園の中央にある世界樹には、数年に一度願いを叶える能力が発言するという。これはあらゆる願いをかなえるわけではないが……例えば、世界樹の魔力を使って、世界中に『魔法があってもおかしくはない』という認識を与える程度のことならば可能ネ」
超は唐突にそんなことを話した。どういうことなのかわからないといったネギにようやく視線を合わせて、超はその頭を軽く撫でた。
「私は学園祭の最終日に、世界樹を利用して世界中に魔法を認識させるネ」
「……そんなこと、僕に話していいんですか? 超さんがどうやってそうするのかわかりませんが、僕がこのことを学園長に話せば、その時点で超さんのその目的は」
「ご破算だろうネ。だが、ここでネギ先生が私の計画に乗らずに全てを話そうが、ネギ先生が仲間にならなかった時点で私の計画は失敗するヨ」
超は半ば確信をもってそう言った。どういうことだ? とネギが問う前に、超は一言「青山がいるネ」と、その確信の正体を告げた。
ネギもその名前を聞いた瞬間に全てに納得する。青山。あの男の力ならば、問答無用で超の計画を斬ることが思い浮かんだから。
「……それで、何で僕を? 僕なんかの力ではものの足しにもならないですよ?」
「ネギ先生に期待しているのは、土壇場での爆発力ネ。そして、麻帆良で先日起きた事件……そのときの戦いぶりも見せてもらったヨ。あの実力なら学園の魔法先生にも遅れはとらないどころか、圧倒すら可能ネ」
超の見立てにネギは苦笑しながら「ありがとうございます」と返した。
思った以上に落ち込んだ様子がないことに、超は僅かな戸惑いを覚えたが、構わずに続けることにする。
「いずれにせよ。私はネギ先生の協力が欲しい。もしもこの計画に乗ってくれるのならば、少なくとも木乃香のことだけは何とかすることだけは保証するヨ。協力してくれる以上、全てとは言わないが、ネギ先生の周りだけは保護するのは当然の義務ネ」
超は言いたいだけいうと、「では、また学園で」と告げて、歩き去っていった。
その背を見送ったネギは、唐突に目の前に現れた選択肢に戸惑いを覚えつつも、やはり表情は憂いを帯びたままだった。
どうすればいいのか。何が正しいのか。超の発言が真実ならば、それは魔法使いにとって許せぬ悪である。
しかしどうだろう。まるで夢物語であったような先の会話が、ネギの心をじっとりと熱くさせていた。
答えは今すぐ出せるものではない。ただでさえ色々と混乱しているせいで限界なのに、魔法を世に知らしめることに協力するかどうかについて考えられる余裕もなかった。
僕は、何処までも中途半端だ。
もしかしたらこのまま、『永遠に中途半端』なのではないか。
半ば無意識に自虐したネギ。直後、その左目が痛みに襲われた。
「ぃ……!?」
これまでの疼きとは違い、眼球を襲う明確な痛みにネギはその場で膝をつく。まるで左目が脳髄をかき乱しているかのようだった。
熱に浮かされ、痛みに悶えながら、だがネギの思考は冷たくなっていく。その矛盾に疑問を持つことも許されず、ネギは左目の痛みが赴くままに、視線を上げた。
「……」
「……」
そこに、それは立っていた。
うっすらと、むしろ冷たさすら感じるか細い街灯の下、夜からくり抜かれたような暗黒の瞳でネギを見つめる一人の男。喪服の黒すら色あせて見える漆黒は、まさに痛む左目と同色で。
ネギは歯噛みした。激痛の中、そこにいる男に対する様々な感情が混沌と混ざり合い、怒りとなって噴出した。
理由はなかった。
だが原因は男にあった。
「……あなたは」
ネギはふらつきながらも立ち上がる。目を押さえながら、しかし決して先に待つ男から視線を離さない。
そこには二人を隔てる物理的な距離以上の差があった。
男は暗黒の冷たさの上に立っている。そこが己の定位置で、ここから一歩だって動くつもりはないと無言で訴えている。だがしかし、変化はあった。これまでなら平然とネギを見るだけだったはずが、今はネギと同じく、痛みに頭を片手で抑えながら、信じられないといった様子で見つめてきている。
ネギは男を見据えながら、それでもそこに行くことはなかった。背後には町明かりがあった。人々の営み、当たり前の暖かさ、災害を経てなお力強く生きようとする人々のたくましい命の灯。
その輝きを背に、ネギは男と対峙する。
予感が、否。
確信があった。
「……青山さん」
「ネギ・スプリングフィールド」
二人は互いの名前を呼び合った。
おそらく、接点など殆どない二人だ。青山は一方的にネギを知っているが、ネギは青山のことを殆ど知らない。
だがしかし、互いのことを知らぬはずの二人は、磁石のように引かれあう。ゆらりと動いた青山は、灯りに誘われる蛾のように、ふらふらとネギの元まで歩み寄り、その隣に立った。
「お久しぶり、でよろしいでしょうか?」
「……あぁ」
「ここには……やはり僕の護衛ですか?」
「それはついでだよ。詠春兄さん……木乃香さんの父上は、俺の兄さんだったんだ」
「そういうことですか」
「そうだ」
視線を合わせることなく、遠くの光を眺めながら言葉を交わした二人は、いつの間にか会話することなく、ただ静かに遠くを見つめるだけになった。
気付けば痛みが失われた左目。ネギはもしかしたら、青山と対峙したこの瞬間が『後戻り不能地点─ポイント・オブ・ノー・リターン─』だったのではないかと思った。
楓の言葉で例えるなら、超えてはならない壁が今ではないのかと。
「君は……」
青山は、そんなネギの横顔を盗み見して、何故か言葉に出来ない寂しさを感じて目を細めた。
「君は……違う道を行くんだね」
「え?」
「上手く言えないが……俺と君は、最初からこうなるべきだったのかもしれないな」
「その……何を言ってるのか、わからないのですが……」
当惑気味のネギに、青山は口元を僅かに緩めて首を振る。それは自然と漏れ出た、偽りのない笑顔だった。幼少期から無表情だった男が見せるその笑みが、どれほどの奇跡なのかわからぬネギは、ただ首を傾げるだけだが、それでよかった。
「青山さんは……怖い人だと思っていました」
ネギは恥ずかしそうにそう言うと、青山は「じゃあ今はどうなんだい?」と聞き返す。
だからネギはやはり恥ずかしそうに、だが躊躇なく、自然体のまま。
「あなたはただの修羅だ」
そう言って、誰よりもネギ本人が己の言葉に驚いた。
「え、いや……ち、違う……えっと、そうじゃなくて……」
「いや、いいんだ。いいんだよ、それで……」
「青山さん?」
「いいんだ」
青山はネギの率直な言葉に、嬉しそうに喉を鳴らした。
残念ながら、ネギは未だこの冷たい場所には来ていないけれど、それでも、当たり前に己のことを修羅と言えるくらいには近づいてきているのがわかった。
充分だった。
それだけでも、嬉しかったから。
「いつか……」
──再び、この修羅場で。
青山はそう言うと、光の届かぬ暗闇の方へと踵を返して歩き去って行った。
「……何だか、申しわけないことしちゃったな」
「ネギー!」
ネギが歩き去る青山の後ろ姿を眼で追っていると、背後から快活な声が届いた。
振り返れば、明日菜が駆け足でネギのほうへと来ていた。
「もう、勝手に何処か行かないでよね。木乃香が不安がっちゃうでしょ」
眉をひそめて溜息をつく明日菜に、ネギは軽く頭を下げる。
「あはは、何だか色々と考えたくなっちゃって……」
「ふぅん……また何か変なことに巻き込まれてるんじゃないでしょうね?」
ジト目で睨んでくる明日菜に、内心で勘がいいのやらと冷や汗を浮かべる。
「……考えの整理が出来たら、お話しますよ」
「あ、そう。ならいいわ」
「絡まないんですね」
「そりゃあね」
ふと表情を柔らかくした明日菜は、ネギの額を優しく小突いた。
「信じてるから。だから、いいの」
信頼がある。
なら、いいのだろう。
「ありがとうございます」
ネギは小突かれた額を撫でながら応じるように微笑んだ。
振り返れば、もう青山の姿はそこにはない。一人、たった一人で孤独にあるその男の背中は、冷たいくらいに寂しくて、だがそれ以上に孤高の強さが確かに存在する。羨ましいと思ったのか、あるいは悲しいと思ったのか。
なんて。
答えは既に決まっている。
「……僕は、これでいい」
「ネギ?」
「ここでいいんですよね、明日菜さん」
終わる必要なんて何処にもない。
だからこそ、あの背中に感じ入ることなど、今のネギには何処にもないのであった。
─
だから、ここからは敗北の物語だ。
語るべき理由もなく。
惨めな敗北を淡々と語ることにしよう。
次回から最終章。理想郷のほうが込み入っているので、先にこちらで理想郷版の最終話まで先に上げてしまいます。