小屋の内部はスプラッター映画も真っ青なあり様となっていた。
一面に赤。
天井は当然として、立てかけられた刀の殆どにも血が飛び散り、囲炉裏より放たれる炎の輝きを照り返していた。
脂ぎった朱色の光景。密閉空間に香る夕餉と血の混ざりあった独特の臭気。喉に詰まりそうな程重苦しくなった空気の中心には、証の刃で貫かれた木乃香が横たわっている。
瞳には生気の光は灯っていない。当然だ。胸から背中を貫いた刃は、傷口を広げるように捻られ、丸く歪に開いた胸の傷口は、それを行った者が確実に殺傷を目的としていることを雄弁に物語っている。
だというのに、木乃香の両手は胸に刺さった証に触れ、あまつさえそのまま自身の肉をすり潰しながら引き抜いて見せたのだ。
物理的にはあり得ぬその行動。死人が動く様はさながらゾンビの如くあるが、しかしその常識外を行うのはやはり常識外。科学を超えた神秘、魔力と呼ばれる超常の力が木乃香の死に体を動かすのだ。
その代償は如何程か。魔力運用はおろか、魔力の存在すらつい先日まで知らなかった少女が魔力を自在と操り、動く。
故にこその狂気。
代償は、これまでの常識に他ならぬ。
「ぎ……ぃぎ……ぎ、ぃ……!」
痛みに苦悶を発しながら、木乃香は胸の証へ両手を添えた。
肉を潰す粘着質と、僅か残った血液が床に跳ね、囲炉裏の火を焦がす音色を混ぜながら、ゆっくりと、しかし止まることなく証を引き抜いた木乃香の意識は果たしてどうなっているのか。
激痛を凌駕する生存本能?
否、それは無垢なままの治癒願望。
癒しを望む、狂気の産物。
「ぁ、ぁぁぁぁぁぁあああ!」
生気と共に正気すらも失ったのか。最後は絶叫しながらも一思いに引き抜いた証を放り投げた木乃香は、失った血液の代わりにその全身に駆け抜ける魔力を本能で操る。
まるで人形を繰るように、魔力で指先を動かした木乃香は、胸に開いた指三つ程の穴へと何の躊躇いもなくその指先を沈み込ませた。
「ぃ、ぐ……ぁ」
精神的に凌駕した痛みも、肉体の純粋な反応を抑えることは難しい。反射的に声を漏らしながらも、指を根本まで傷口に突き入れると、直後、これまでのものですら比較にならない程の魔力が傷口を抉る指先に殺到した。
まるで得物を見つけた獣のように傷を貪る魔の狂乱。だが獣と違い、その魔力は見た目の荒々しさとは裏腹に、時を巻き戻すように傷を癒着させていき、数秒もせずに背中の傷は元の傷一つないきめ細やかな白い肌へと回復を果たした。
その間にも治癒は進む。傷とみなしたあらゆる部分へ襲い掛かる魔力は、食らうように傷を飲み干し、治癒という暴食の結果を食後に晒すのだ。
それは最早、治癒という名の凌辱でしかなく、治癒という形の略奪であった。
傷が、奪われていく。
傷が、悲鳴をあげている。
そういった類の、蹂躙劇である。
結果は回復魔法のそれと同じでありながら、過程という道筋が違うだけでこうも印象が変わるというのか。
癒しという救いを示しているはずなのに、目を背けたくなる狂気すら感じる木乃香の魔力が奏でる狂想の調は、あらゆる物事に善性と悪性が存在するということを如実に物語っていた。
そして、木乃香の行うそれは、まさに善悪を超えた純然たる意の暴威。
治癒を冠した、狂気の結実。
血に宿りし青山が覚醒させた残酷そのものであった。
「これほど、か……」
ならば、その狂気を歓喜で迎え入れられるこの男はなんだというのか。
喜悦に頬染め、愉悦に口歪め、この惨劇を是とする狂気こそ、それらを演出した外道、青山。
彼は今、胸の内より溢れ出る欲望に身を震わしていた。
それはネギとエヴァンジェリン、そして素子と比べれば残滓としか呼べぬ程度のものでしかないだろう。
だが、想うのだ。
この狂気こそ、伽藍の胸を埋めていく在り方が一つ。
「君を、斬りたい……」
無意識に口より溢れ出た言葉は、しかし即座に疑問に変わった。
「俺は……」
――何を、言っている。
斬りたいなどと、何を可笑しなことを。
斬ることが生きることなら、それに欲を見出すとはつまり、自分は生を放棄していたということになってしまう。
斬りたいという願望は幻だ。
彼―フェイト―に授けられた答えを乏しめるものでしかないだろう。
――きっと、気の迷いに違いない。
己が内に浮かんだ思いを唾棄するように青山は首を振る。その直後、己の傷を食らい尽くすことを終えた木乃香の真っ赤に染まった指先が、何かを求めるように天井へと伸びた。
「ほら、もう、痛くない」
そう言って誇らしげに笑う木乃香は、治癒という一つの道を踏み出せた己に酔った。
死を受け入れ、痛みに生を喚起され、そして激痛に狂い果てた先に、治すという道へと立てたのだ。
――ウチは、癒すことが出来る。
あらゆる傷を癒す。
そしてそれこそ、無力に嘆いた己に出来るたった一つにして全てに置き換えられる全能。
今はその道の一歩目を踏み出しただけだが、いずれこの道の果て、末路に待つのは全てを癒すという正邪を超えた解に違いない。
「……どうやら、もう大丈夫みたいだね」
魔力を循環させてはいるものの、それでも足りぬ血のせいで朦朧とした意識の中、木乃香は心の底から良かったという思いを言葉に乗せた青山の声を聴いた。
「青山、さん」
木乃香は自力で上半身を起こしつつ、喜びを湛えながら隣に座った青山の顔を見た。
正確には、その目を見る。
暗黒天体に似た眼。光など望めぬそこに宿るのは絶望などではないということが今の木乃香にはわかる。
そしてそこに希望すらも存在しないことも理解した。
青山という男を、木乃香は死地を超えた今こそようやく理解する。その理解こそ、至ってはならぬ外道に立った事実であると知りながら、木乃香はそれでも理解出来たことを受け入れることにした。
「……青山さんは正直ですわ」
「ん?」
「いえ、気にせんといてください」
木乃香の弁がいまいち理解出来ないと言った青山に語っても無駄だと木乃香は悟り言葉を濁した。
青山は仇である。
京都の災禍の仇であり。
父親の仇である。
だが、その事実を曲解してしまったのは自分であり、青山は正直に全てを語り、その事実を悔やみ、嘆き、そして犯した過ちに真摯に向き合っている。
――その全てが無駄であるということは放っておき、だが。
「……なんや、疲れてしまったわ」
諸々のことに対する負の感情が消えてしまったわけではないが、だが今の木乃香はそれを発露することを自粛することは出来た。
――この感情も『傷』だから。
そう、既に木乃香も常軌を逸した解の道へと、強制的にだが踏み込まされた。その現状は、才覚を強制的に暴かれて、強引に道筋を見せつけられたものという歪なものだが。木乃香は治すという己の根源をおぼろげながら見出し、その解に心を溶かしていくことが正しいと思っている。思ってしまった。
「そうだな、今日はもう休もう。何、今の君には明日があるのだから」
明日への活力が蘇っているということは、生気を取り戻したということである。
「あ……」
木乃香はそんな青山の歪を、今度は冗談と受け止めずにありのまま受け止め、故に指摘をしようとして口を閉ざした。青山も木乃香を言及しようとはせず、放られた証を拾って鞘に納め、所定の位置に戻しに行った。
その後ろ姿に、木乃香は僅かな憐れみを覚えた。
何せ、木乃香には青山が今、何かしらによって歪になっていることが、微かとはいえ己の行き着く果てに触れたからこそ気付いている。だが木乃香は、どちらの青山が本物なのかまで気付ける程、狂気の髄へ浸ったわけではないため、その疑問を口にすることが憚れた。
生きることの奇跡に浸る青山と、斬ることに腐心する青山。
どちらが、本物。
どちらが、偽物。
木乃香は、意味の無い思考を自嘲した。
どちらであろうと外道なことには変わるまい。だからこそ木乃香は、その歪な青山の傷すらもいつか癒せるようにと切に願うのだ。
「でも、酷い人やなぁ」
「そうか?」
「遠慮も無しに乱暴して、痛いのに滅茶苦茶にして……これで酷くないなんて言わせませんえ」
「だが、俺は……いや、すまない」
言い訳を口にしようとして、その時点で言い訳という後ろめたさがあることを悟った青山は口を噤んだ。
確かに、言葉にすればなんと残酷か。
気が急いて、木乃香に何も告げることなく証を突き立てたことは反省するほかないだろう。
「本当に、申し訳ない」
証を多重の封印を施した箱に戻したところで、青山は木乃香と向き合って佇まいを正すと、両膝をついて深々と額を床につけた。
俗に言う、土下座である。
言葉で語るのを苦手とするからこそ、何よりも雄弁な態度をもって青山は己の未熟を詫びるのだ。
だがやっていることは「君を刀で突き刺して滅茶苦茶にしたことを申し訳ないと思っている」というものでしかない。
普通は謝罪して許されるものではないだろう。
だがこれが青山なのだ。
許してもらおうとは思っていない。しかし申し訳ないと心の底から思うからこそ謝罪を言葉と態度にするのだ。
「えぇんですって。ちょっとからかっただけやし」
木乃香も、青山の本質を知る僅かな人間として、文字通り痛い程分かっている。
外道に在りながら、その常識の上で、あらゆる世間一般に蔓延る常識に沿って行動する人間。
表面上を見れば礼儀正しく、己に厳しい青年である。
だがその本質は、何処までも自分本位でそれ以外『どうでもいい』、欲求に忠実な人間なのだ。
それだけ。
たったそれだけの狂気を、自分はこれまで理解出来なかった。
「だから、えぇんです」
故に、木乃香は青山の所業を許した。
その言葉は先の蹂躙だけではなく、京都で起こした惨劇に対するものも含めている。
皮肉なことに、青山という人間を理解したからこそ、木乃香はその全てを許せるのだ。
その本質は未熟な自分ではまだ分からないけれど。
きっと、従ったはずだ。我欲に従い、外道を踏破し、修羅と化したはずだ。
自己中心的で、自覚のない偽善者で、聖人とは真逆を行く人間であるけれど。
そんな在り方が醜くも美しいと、同じく外道へ踏み出したからこそ分かるのだ。
それに――。
「もう、傷は残ってないですから」
『心の傷は癒えている』。
それが意味することを癒した本人すらも分からず、かつてと同じ温かく穏やかな微笑みを木乃香は浮かべるのだ。
傷を癒すという木乃香の才覚。
その才覚を青山によって暴かれた結果、生み出された狂気の一端がそれだ。
真っ当に成長すれば、彼女はきっと東方、いや、世界でも指折りの治癒術師として成長しただろう。だが本質はそのままに、性質を歪められた才覚は、狂気をもって一つの外法に到達する。
才能の名は治癒。
肉体も、精神も、対象の抱える傷を蹂躙しつくして回復させるその技がもたらす惨劇を知る者は、まだ、居ない。
まだ居ない、だけ。
次回、第四章ラスト。京都血風録編、開始。