級友との再会も束の間、刹那はあやかの制止を振り切って飛び出すと、駅構内を走りながら周囲を探っていた。
「青山……! 青山……!」
あやかより知らされた最悪によって焦燥感に苛まれながら、刹那は周りの奇異の視線すら意識することもせず、ひたすら怨敵の名を呼ぶ。
どこに居る。
お嬢様を連れて、お前は一体何処へ向かっている。
焦りは徐々に不安へと、そして不安は汚染されるように怒りへと変わっていく。
「何処に居る……!? 青山……!」
刹那は人混みの中心で激昂した。
今にも竹刀袋から夕凪を抜きはらってもおかしくない殺気を滲ませるその形相は、刹那の周囲だけ人が避けて去ってしまうほどだ。
己への怒り。
そして青山への怒り。
ない交ぜになった感情を咆哮に乗せて吐き出した刹那は、暫く頭上を見上げて茫然とした後、再度人混みへと割り込んでいった。
「……落ち着け。落ち着け。確か墓参りに行くと委員長は言っていた。そうだ、早く、そこだ。あぁ、そこだから、落ち着け」
必死に冷静になろうと心がけるが、そもそも冷静ならばこの時点で刹那は素子に助けを求めるという選択肢が思い浮かんだはずだ。
だが、冷静になれるだろうか。
刹那はもう知ってしまっている。
実際に出会った青山の外道を。
そして素子に見せつけられた青山の修羅を。
例え死線を幾つもくぐってきた者であっても、
誰もかれもが畏怖する。
誰もかれもが憤怒する。
誰もかれもが――羨望する。
青山とはそういった人類の極みだ。至っていけない存在でありながら、誰もが望む極みに至った唯一無二。
それを知れば誰もが狂う。
例外などは何処にも存在しない。桜咲刹那という少女も、青山という修羅に魅せられ、捕らわれてしまった者の一人なのだから。
「何処だ……!?」
いずれにせよ一刻の猶予もないのは分かっている。刹那は最低限の配慮として人目につかない場所から一気に空へと飛び上ると、認識阻害の符を体に張り付けてから、忌み嫌っていた翼を一瞬の躊躇もなく展開して、詠春の墓へ向けて羽ばたきだした。
空を走る一筋の閃光となった刹那は、その体から放出する膨大な力とは裏腹に、あまりにも弱弱しい面持ちをしていた。
体が意図せずに震える。
歯が噛み合わず、目尻には涙すら滲んでいる。
分かっている。
木乃香を救い出すということ。
つまり、あの青山と対峙するということくらい、分かっている。
「お嬢様を助ける……助けねば、青山から……」
己に言い聞かせるようにしながら、だが刹那はその言葉があまりにも空虚に聞こえた。
助けると言って、助けられる?
どうやって?
あの青山から。素子が見せた微かな残滓ですら泣き出しそうになった自分が、あの青山と対峙して、あまつさえその手から木乃香を救い出す?
そもそも、木乃香が既に青山の手によって何かしら『されている』可能性は十分に――。
「……そんなことはない!」
一瞬浮かんだ最悪の可能性を刹那は言葉にして切り捨てた。
だが一度浮かんだ考えは喉に刺さったかのように取り除けない。
詠春の墓。つまり本山跡地が迫っている。対峙することを考えて不安が加速する。弱気が体を支配する。
素子は逃げろと言った。
だが逃げられないなら、どうすればいいのだ?
「……やれる。強くなったんだ。やってみせる。大丈夫。私は大丈夫。だから、お嬢様を助けることが出来る。大丈夫だ……大丈夫、大丈夫」
怖い。
怖いんだ。
怖くて怖くて、今にも逃げたいのに。
刹那は竹刀袋から夕凪を取り出した。
「ッ……」
共に死線を潜り抜けてきた相棒が今は、赤子の手よりも頼りない。
確か手触りで手と繋がったような感触をいつもは与えてくれる木製の柄は、今は泥のように柔らかく頼りない。
気を纏わせれば鉄すらも容易に両断する刀身も、今は豆腐すらも断てる確信すらも持てないほど不甲斐ない。
違う。
全部自分のせいだ。
刀に責任転嫁しようとする己の弱さに刹那は喝を入れて、だが体に込めた気合は羽毛よりも容易く体より剥がれ落ちる。
「う、うぅ……」
これから、青山と対峙する。
刹那は呻き声をあげながら、大きく抉られた本山跡にゆっくりと降り立った。
「……まだ、居ないな」
気配は感じられない。もしかしたら気配を消しているのかもしれないが、あの青山が気を纏って臨戦態勢に入っている自分を察して、わざわざ不意打ちを狙うことはしないはずだ。
だがもし不意打ちされたら?
あの斬撃で、自分の大切な何かを斬られたら。
己の中の一番を、あの奈落の如き眼で暴かれ、見られたら。
――私は、どうすればいいのだ?
「来い……! 青山、お前は私が……!」
刹那は考えることを止めた。
思考の放棄とは即ち、全てを諦めるということである。だがそこに気付くことも出来ず、刹那は至高の全てを投げ捨てて、青山が来た瞬間に斬りかかることだけを誓った。
それ以外の全ては雑念だ。
そう、全て振り払えば大丈夫。
震える指先も、乾いた舌先も、荒い呼吸も、滲む冷や汗も、瞳に浮かぶ雫も、柔らかくなった足下も。
全部、気のせいだ。
「お嬢様を守るんだ。私が守るんだ」
さぁ来い。
斬ってみせる。
掌の感触が無くなるくらいに夕凪を握り締めているぞ。
荒々しく揺らぐ程、気が充実しているぞ。
一点しか見えないくらいに視野が狭まるくらい集中しているぞ。
だから来い。
必ず斬ってやる。
だから。
早く。
――そして。
「……」
気付けば太陽は完全に地平線の彼方へと消えていた。
「……」
あれからどのくらいの時間が経ったのか。いつの間にか訪れた夜を認識した刹那が呆けたように空を見上げる。
リョウメンスクナの砲撃の影響で破壊しつくされた本山周辺には、その他の被災地域と違って僻地であるためか未だ灯りなどは設置されておらず、月と星明りしか周囲を探る術は無い。
だがいつまでたっても青山が来る気配は無かった。
青山が来ない。
青山と対峙しなくてすむ。
「……よかった」
刹那は無意識に安堵の一言を口ずさんでいた。
「……あ」
瞬間、己が今呟いた言葉の意味を察して、崩れ落ちる。
よかったと言ったのか。
お嬢様を救うのだと意気込んでいながら。
その実、青山と出会わなかったことをよかったと喜んでいるのか。
「あ、あぁ……」
夕凪を落として、刹那は両手で己の顔を覆った。
堪えていた涙は一気にあふれ出していた。
止める術はない。
己の弱さが招き、己の心の浅ましい部分を理解し、そして己の偽善を悟った今、どうして堪えることが出来ようか。
「う、うぅ……すみません……お嬢様……私は……!」
何もかも分かっていただろう。
駅を探るのも、青山が傍に居たなら自分のことにはすぐに気付いただろう。それなのにわざわざ『時間をかけて』駅の中を探した。その後、墓参りという都合のいい言い訳を信じて、『逃げるように』この場所へと訪れた。
そして、『来ないことなんて分かっていたのに』夜になるまでこの場所で息をひそめて縮こまっていた。
「私は卑怯者だ……!」
木乃香を救うという思いよりも、あの男と対峙して己の一番大切な部分を斬り捨てられることを恐れたのだ。
木乃香のためと自分に言い聞かせながら、その実、木乃香を言い訳にして逃走を図り、そして一人で勝手に自分を罰している。
これを卑怯者と言わずになんと言おうか。
刹那は逃げたのだ。青山という恐るべき修羅『共』から、何もかもに目を閉じて耳を塞ぎ、部屋に閉じこもって体を丸め、過ぎ去るのを待ったのだ。
――その証拠に、ほら。
凛と、大気を走る鈴の音色が耳に木霊したのを感じた。
「は、はは……ははっ……」
――この音は、素子様の命だ。
刹那は笑った。
泣きながら乾いた笑みを浮かべた。
大多数の人間は気付かないだろうが、二人の青山を知る刹那はきっと麻帆良からだってこの音色を感じ取れただろう。
一瞬、全てを忘れて聞き入ってしまうほどに美しい旋律。
命が奏でる最後の歌声は同時に、外道が生き残るという最悪の結果を知らせる絶望の狼煙であるのと同義である。
だがどうしろというのだろうか。
刹那は両手を地面について項垂れた。
「無理に決まっている……こんな、人間なんか……」
人の極地。人間のみに許された狂気が産んだ可能性の果て。
今や、その身を流れる血に対する考え方が逆転しているのを刹那は否応なしに認めざるをえなかった。
人間は恐ろしい。
殺し、破壊し、蹂躙するだけの化け物よりも、きっと絶対に恐ろしい。
化け物の持つ恐ろしさは、それが化け物故に絶対に存在する悍ましさだ。
だが人間のそれは、言語では語れぬ狂気。化け物とは違って、善と悪という価値観がある故の恐ろしさ。
善きことを知りながら、悪をなせる狂気の異常。
恐ろしい。
この体に、
「……疲れた」
もう、考えることすら疲れた。
刹那は傍に転がっている夕凪を胸に抱きしめると、胎児のように体を丸めて目を閉じた。
―
目が覚めた時、刹那は辛うじて心に残っていた思いを燃やして、ふらつきながらもなんとか立ち上がることが出来た。だが自分でもどうして立ち上がれたのか分からない。恐怖は纏わりつき、自覚した己の弱さは、さっさと逃げ出せと耳元でささやき続けている。
だが立ち上がれた。
理由は分からないが、立ち向かえと体は動きだしている。
「……覚悟を決めろ、桜咲刹那」
随分と眠っていたせいか、既に傾き始めている空を見上げて、刹那は再度、逃げ出したくなる体を強引に突き動かして、素子と青山が激闘を繰り広げた修行の地へと飛び立っていった。
不思議と昨日よりも軽やかな羽を羽ばたかせて向かう先、既に日は再び落ちて夜の帳が周囲を満たした。刹那は暗がりに居ることと認識阻害の符が機能しているのが分かっているものの、慎重に慎重を重ねて、修行場の付近にある住宅街の手前に降り立った。
気配を消しながら物陰を進んで目的地へと急いだ。
「警察?」
それから数分程歩いた先、物陰から道路を伺った刹那は、厳重に封鎖された道路に並ぶパトカーと警察官達の姿を確認した。慌ただしく動く警察官の表情はいずれも暗い。いや、恐怖なのだろうか。蒼褪めている表情から察した刹那は、それよりも何故警察がここに居るのか考える。
何か大きな事故でもあったのかと思案して、刹那は即座に素子と青山が争った影響なのではないかと思った。まさか修行場だけでは戦いが収まらず、その周囲にまで戦いが波及したのだろうか。
――充分にあり得る。
額に滲む冷や汗を拭いながら、裏の事情を隠ぺいすることなど考えることもしていないだろう二人の青山がどのような災禍を撒き散らしたのか戦慄する。
だがここより先に行かなければ木乃香の消息を掴めないのだ。
――前にしか道は無い。
虎穴に入る覚悟を決める。そして警察の警戒を縫って住宅街に侵入しようと立ち上がると、静かに住宅街へと入っていった。
「……気の反応は無いか」
規制されて人が居ないせいなのだろうか。静寂に包まれた街は何処か不気味で、青山の気配はおろか人の気配は一切感じられない。
なのに、体に絡みつくこの不快感は何なのだろうか。空気が粘性をもったような不快感。そして鼻をくすぐるこの臭いは――。
「おかーさーん。おかーさーん」
思案を巡らせる直前、暗がりより聞こえてきた子どもの声に刹那は気付く。
こんな時間に子ども? 不思議に思いながら声の方向に視線を向けて、鼻に絡む臭いがいっそう濃くなるのを感じた。
「う……っ」
そして街灯に照らされたその姿を見た刹那は、反射的に呻き声をあげて一歩引いてしまった。
「おかーさーん」
刹那よりもさらに一回りは年下の少年が、血塗れになった姿で、両手に刃の欠けた包丁を構えて歩いている。
相手は少年だ。包丁を持っているとはいえ、刹那でなくても警察官なら危なげなくあしらえるはずのか弱き一般市民でしかないはずだ。
「おかーさーん」
だが刹那は、ゆっくりと歩いてくる少年が、只の少年だとは思えなかった。
母親を求めて彷徨っている。だがどうしてだろうか。壊れた機械のように母親を呼ぶその声は、感情の一切が排除された無機質なものだ。いや、今どきの機械ならもっと感情が込められた声を出力することが出来るだろう。
まるで魂が根こそぎ奪われたような――否。
「き、斬られたのか……」
刹那は悟った。
あの少年は斬られてしまったのだ。か弱い故に無抵抗なまま、一方的にその魂を蹂躙されて、今そこに居るのは残骸よりも悲惨な抜け殻。
少年の形をした『何か』。
「おかーさーん」
呼びながら、何かを斬ったことで欠けた――おそらく、あぁおそらく、呼び続けている母親の血肉だ――包丁を街灯で照らして、少年は生理的な嫌悪感に震える刹那をその眼で捉える。
魂を斬り捨てられて、肉のみと化した悍ましき傀儡。
伽藍となったその体に注がれたのはきっと、斬撃と言う名の――。
「おかぁぁぁぁさぁぁぁぁぁん」
「う、うぁぁぁぁ!?」
新たな標的を見つけた少年が、その見た目とは裏腹に常軌を逸した速度で駆ける。肉体のリミッターを外して動いているせいか、まるで蜘蛛の如く四肢を振りながら走る様は、刹那の疲弊した精神を揺らすには充分だった。
だが悲鳴をあげながらも、刹那の体は反射的に動く。既に竹刀袋から取り出していた夕凪を抜きはらうと、懐まで入ってきた少年の放つ包丁の刃を受け止めていた。
「おかーさん? おかーさん?」
「ひっ……」
子どもとは思えない膂力と、無表情ながら口許だけ笑みを象っている少年の異形に引きつった声が漏れる。最早、それは人間ではない。皮だけ真似た獣。命を斬ることだけしか考えられないガラクタ。
それでも、相手がただの子どもであるという事実が、刹那に反撃という選択肢を選ばせられずにいた。
「来るなぁ!」
刀越しでも伝わる不気味さを払うように、気で体を強化した刹那は少年の体ごと包丁を薙ぎ払う。体重差と相まって、少年は容易く地面すれすれを滑空した。
「あ……!」
思わず加減抜きで刃を振るったことに気付くがもう遅い。咄嗟に刹那が手を伸ばした時には、砲弾のように飛んだ少年の体は、反対側の塀に直撃し、そのまま崩落させてしまった。
巻き起こる粉塵と破砕音。幾ら人間離れしているとはいえ、所詮は子どもでしかない少年の肉体は、瓦礫の内側より流れ出す鮮血がその惨状を物語っていた。
「あ、あぁ……」
殺した、のか。
刹那は反射的にとはいえ、己が為したことを考えて体を震わせた。
自分はこの手で、妖魔ではなく人を殺したのか。
違うと否定しようにも、道路に広がる赤色は現実だ。
「そんな……わ、私、は……」
違う。違うんだ。
本当はただ素子様の最期がどうだったのか見届けて、お嬢様の行方を捜すつもりだった。
それだけなんだ。
殺すつもりは――殺す?
「殺したんだ……私」
人間を。
しかも、無力な子どもを。
状況がどうあれ、事実は事実だ。桜咲刹那は自分よりも幼い子どもをこの手で殺めた。誰が言おうとも、刹那自身がそう認めてしまったのだ。ならば、真実は一つだけ。
お前が殺した。
――人間が気持ち悪いから殺した。
この、化け物が。
「う、ぅぅぅぅ……」
刹那は溢れそうな声を、右手を噛んで抑えた。皮が裂けて血が口の中に滲むが、それでも堪えようとして、だがやはり涙だけは堪えることは出来ない。
「う、うぅ……ぅぁぁぁ……」
ぼろぼろと零れる涙と共に、辛うじて残っていたなけなしの覚悟すらも消えていく。
動けるのか?
動けないのだろうか?
どっちだろうか。
どっちであろうとも――。
「こっち? こ、こここっこっち?」
「痛いよー。痛い痛いー」
「あがぁ、腕斬ってー、腕―」
「これね、包丁ね。斬るからね。そう、斬れるよー。斬れるんだー」
いつの間にか、刹那を取り囲むようにガラクタの群れが現れた。
それは己という在り方を斬られた者達が、未だ己を保っている刹那という誘蛾灯に群がるかのように。たった数分もせずに現れた人々は、誰もかれもが手に何かしらの刃物を持ち、全身真っ赤に濡れていた。
むせ返るような血潮の香り。
体に纏わりつく感情なきガラクタの視線の冷たさ。
「う、うぅ……」
何の覚悟もなく、胸に辛うじて引っかかっていた木乃香を守りたいという残滓に突き動かされた結果。
それがこれか。
唯一懐かせた正義すらも、
ならば自分は何のためにここに居る。
何のために木乃香を置いて修行に出たのだ。
「くそ……くそぅ……!」
いっそこのまま凶刃に貫かれたほうが楽なのかもしれない。
しかし刹那は怖いのだ。
こんなガラクタに突き刺され、無価値と断じられるような末路を迎えるのが怖いから。
「うぁ……うぁぁぁぁぁ!」
夜に吼える。
闇に悶える。
月下に翻る夕凪の刃は、斬るべき邪悪ではなく、ただ奪われただけの弱者の赤を吸うためだけに、今宵夜の闇を駆け抜けた。
次回もせっちゃんハードモード。
実はAルートのアフターもせっちゃんはこんな感じでした。青山からは逃げられない!