【完結】しゅらばらばらばら━斬り増し版━   作:トロ

67 / 80
第六話【小さな英雄、小さな抵抗(下)】

 

 遠く、窓から空を見上げている。雨模様、香る湿気、しとしとと奏でられる雨音の旋律。

 だけど私の手は灰色に染まった空の冷たさを感じることすら出来ない。透明な板は外界との接触を完全に遮断していて、白く細いこの指先は、シャボン玉の膜のような窓ガラスすらも超えられないのだ。

 触れられず、触れ得ざる。せめてものと感じるのは、雨粒を弾くガラスに張り付かせた掌より伝わる冷たさだけ。

 毛布のような心地よさをくれる青空よりも、私には己の命を奪うような冷たい雨空が恋しかった。

 だけど私の命はこの冷たさに奪われるだけで呆気なく失われる程に弱いから。青空の下を歩いた記憶はあるけれど、雨空の下を歩いた記憶は一度もない。

 恋しいのに届かない。

 欲しいのは灰色だった。小さな私の命の火を守ってくれる暖かさではなく、情け容赦なく私を奪ってくれる冷たさが身を斬るように注いでくれる姿が、きっと私に相応しい最期なのだと思うから。

 

 

 

 

 ――ふと、太陽に目が眩んだ。

 

「……来たか」

 

 血の色のような夕焼けから背を向けた俺は、消えて行く太陽の輝きに目を焦がすことなく現れた影に小さく微笑んだ。

 影は三つ。

 桜咲刹那、神楽坂明日菜。

 

「会いたかった、ネギ君」

 

 君に。

 

「えぇ、僕もこんな場所でなければ今一度会いたかったですよ」

 

 歓迎する俺とは対照的に、剣呑な雰囲気を纏わせてネギ君は右手の杖の先端を俺に突きつけてくる。既に魔法が装填されていることには気づいている。そして彼もまた俺が気付いていることなどとっくに分かっているだろう。

 その両隣に立った桜咲さんと神楽坂さんもそれぞれの得物を取り出して構える。ふむ、ネギ君もそうだが、桜咲さんと……特に、神楽坂さんは信じられないくらいに腕前を上げたようだ。

 

「良き師と出会えたようだね」

 

「その師を、素子様を斬り伏せた貴様が……!」

 

「少し黙っていてくれ」

 

 何を勘違いしているのか知らないが、俺はいきなり激昂した桜咲さんに全霊の殺気を突きつけた。それだけで彼女は喉を詰まらせて一歩、二歩と後ろに下がってしまう。そしてそんな自分に遅れて気付いて苦渋の表情を浮かべているが、正直いってどうでもよかった。

 そんなことより、同じ殺気を向けられながら僅かに顔を顰めるだけで怯まずに立っているネギ君と神楽坂さんのほうが俺には重要だ。

 

「地下に居た人かな? うん、彼は良い。麻帆良でも学園長を除いたら彼がおそらくトップだったからね」

 

「……マスターのことは既に知っていましたか」

 

「正しくは気配を悟っていただけさ。本名も知らないし、実際に出会ったわけでもない」

 

 だが彼が麻帆良で頭一つ実力が抜けていた存在だということは知っている。

 いや、既にそれも過去の話だろう。

 腰の鞘からひなを抜きはらって、俺は心地よい戦意を叩きつけてくる二人に敬意を示した。

 

「でも、今は君達のほうが強い」

 

 強くなってくれたのだ。

 理由はどうあれ、今のネギ君とその相棒であるとみられる神楽坂さんのコンビは、京都の時とは違って今の俺とすら戦いと呼べるものを繰り広げられる程度の実力を内包していた。

 この短期間で良くぞ。

 本当に、おめでとうと伝えたかった。

 

「変わりましたね、青山さん」

 

「響と、そう呼んでくれ」

 

「何? いや……ならば響さん。僕らは戦いに来たわけではないんです。こうして武器を構えて今更と思うかもしれませんが、せめて話だけでも聞いてはくれないでしょうか?」

 

 戦いに来たわけではない、か。

 彼が語る通り武器を構えながら交渉をしようとしているのは普通に考えれば馬鹿馬鹿しく感じるが、それも仕方ないだろう。

 何せ相手は俺だ。

 俺みたいな人間と相対して、警戒せずにいられる人間は存在しない。

 もしも居るとするならば――。

 

「響さーん」

 

 ふいに、張り詰めるばかりの空気には場違いなほど気楽な声が背後から聞こえてきた。

 その声を聞いてネギ君達の――特に桜咲さんの表情が急変する。まるで幽霊化化け物でも見たかのように恐怖と驚愕に染まった感情を発露させ。

 

「あ、お嬢さ……」

 

「あ、せっちゃんや。久しぶりー」

 

 俺の隣に立った少女を――木乃香ちゃんが向ける奈落の如き暗黒の眼差しを認識した瞬間、桜咲さんの身体から嵐のような気が放出された。

 

「あ、青山ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

「ッ、待ってくださ――」

 

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 ネギ君の制止も虚しく、怒りに我を忘れた桜咲さんが荒々しい気を野太刀に纏わせながら突撃してくる。

 速度は良し。

 意気込みも良し。

 充実させた気力も良し。

 

「でも、君は弱い」

 

 だから、俺が相手する価値も無いのだ。

 

 虚空で刀と刀が火花を散らした。

 

 だが彼女の刀を受け止めたのは俺の刃ではない。虚空で重なる桜咲さんともう一つの影。

 

「月詠!?」

 

「ふふふ、ウチとは先日振りやなセンパイ」

 

 交差した影はそのままもつれ合うようにして地面に着地。間髪入れずに両者同時に振るった刃が、赤い花を無数と空に描いた。

 

「お前、その手は……」

 

「これですかー? これはー、お姉さまに癒してもらったんですわ。おかげ様でこの通り!」

 

 両手の短刀が桜咲さんの一刀をその体ごと弾き飛ばす。おそらく想定以上の膂力に桜咲さんが困惑する中、恍惚と頬を染めた月詠さんは、軽やかに木乃香ちゃんの隣に立つと、その体をまさぐるように抱き付いた。

 

「今ではお姉さまの虜ですー」

 

「お嬢様を離せ!」

 

「うふふ、嫌ですー」

 

「月詠ぃぃぃぃ!」

 

 猛り狂う桜咲さんが再度月詠さん目掛けて突貫していく。

 

「……手助けしないのかい?」

 

 そんな彼女達を横目に、俺は一定の距離を保ったまま動かないネギ君達にそう問いかけた。返事は無い。

 返答代わりに無言で俺を睨む二人の視線。応じるように隣の雑音は無視して俺もネギ君のみに意識を注いだ。

 臆病。と嘲笑うつもりはない。むしろ冷静に互いの戦力差を見極めて、乾坤一擲を注ぐ隙を探している二人のほうが猪突猛進と迫ってきた桜咲さんよりも好みだ。

 

「やはり、貴方はもう木乃香さんを」

 

「あぁ、彼女か。……見ての通り、切っ掛けと餌を与え、彼女はあそこまで辿り着いた。そして木乃香ちゃんが桜咲さんに向ける眼差しから鑑みるに……」

 

「……そういうことか」

 

「どういうことよネギ」

 

 少々理解力が足りないのか、一人だけ話についていけていない神楽坂さんの問いにネギ君は苦渋の面持ちで重たい口を開いた。

 

「木乃香さんにとっての刹那さんは、僕にとっての明日菜さんだ」

 

「それって……」

 

「木乃香さんが刹那さんを殺せば……木乃香さんはもう二度と僕達の知る木乃香さんに戻れなくなる」

 

「いややわネギ君。殺すだなんてことウチはせんよ。ウチは治すだけや。痛いのも辛いのも怖いのも悲しいのも、嬉しいことも楽しいことも何もかも……ぜぇんぶ、ウチは治したいんや」

 

 ネギ君が告げた結末に反論したのは、神楽坂さんが知るいつもの穏やかな雰囲気を纏ったままの木乃香ちゃんだ。

 

「なんて様よ木乃香。イメチェンにしたってもう少しやり方があったでしょう?」

 

 軽口を言いながらも滲む焦燥感は隠しきれていないのは目に見えている。

 そしてそれほどの気を今や木乃香ちゃんは纏っているのだ。

 外道であったかつての俺が注いだ一閃によって目覚めた彼女の本質。正道から外道へ、強引な歪みは未だ木乃香ちゃんに不安定な部分を残しているが、それもネギ君が言ったように後一手で終わる。

 だがそれでもネギ君と神楽坂さんは諦めていないのだろう。今やかつての修羅外道たる俺へと迫りつつある木乃香ちゃんを前にしても、決して瞳から輝きを失っていない。

 

「やはり、君だったよネギ君」

 

 その光。

 その希望。

 その覚悟。

 

「でも……」

 

 今のネギ君も木乃香ちゃんだって、未だ道半ばの少年少女ではまだ俺には届かない。

 斬ることに腐心し、同じ極みを頂いた姉を斬ることで得た極地の先。

 この身、この斬撃に届きうる存在を願う。

 いつの間にか消え去った太陽の代わりに浮かぶ月の光に濡れるひなを空へ透かして――。

 

「今は、先客が居るんだ」

 

「え?」

 

 

 

 

 りぃん。

 

 

 

 

 君に届け。

 この約束を、今こそ果たそう。

 

 

 

 

 

 闇夜に鈴の音色が響き渡る。その瞬間、響を除いた誰もが――比喩ではない。世界中の誰もが言葉を失った。

 本来ならネギですら感知できなかったであろう、超鈴音が展開した巨大な認識魔法が全世界に広まっていくのを感じ取った響が、その魔法にあろうことか『己の斬撃を乗せて』しまったのだ。

 結果、それは終焉に轟くラッパの音色の如く世界へと歌声を響き渡らせる。認識魔法は斬撃に汚染され、水面を揺らす波紋は、もう一つの波紋が起こした波に飲みこまれ、そしてその勢いをそのまま利用されていく。

 まず、影響が出たのは小さな子ども達だった。

 自我の未熟な彼らは、魂すら蹂躙する斬撃の音色を聞いた直後、先程まで仲睦まじく遊んでいた友人目掛けて、刃を振るう。

 ある子どもは傍にあった枝を友人の眼球に突き立てた。

 ある子どもはカッターナイフで教師の腹を捌いた。

 ある子どもは顎が砕ける勢いで傍に居た家族の喉元を食い破った。

 世界中に存在するほぼ全ての子どもと呼ばれる者達は、例外もなく波及した斬撃によって狂い、惑い、狂気のままに狂気を伝播させていく。

 無論、子どもだけではなかった。自我を完成させた大人と言え、その半数以上が突如響いた音色に感染し、誰もかれもが手頃な刃物を片手に握り、手当り次第にその鋭利を突き立て、あるいは突き立てられていく。

 

 響と素子の戦いの余波で汚染された街の状況は、そうして世界全土に広がった。

 

 誰もかれもが斬っていく。誰もかれもが斬られていく。そして、世界は僅か数分もしない内に新たな常識によって蹂躙されていく。許されざる冒涜は、それを冒涜とすら思っていない修羅の手によって白に落とされる黒のように一方的な凌辱を行い、苦悶する世界ははたして美しい旋律とは真逆に苦悶の絶叫をあげ、さてまずは、手には刃物を持ち、汝、隣人を斬ろう。朝、起きた時に君は刃物を手に取ろう。朝食と共に家族の腕を斬るといい。大切なのは斬ることにある。君達はまず斬るのだ。あぁ、なんてことは無い極々一般的な常識である。人間が持つ根源的な欲求の斬撃欲というだけだ。たったそれだけで他は何も変わらないだろう。むしろ変わるとは何だろうか。何も変わってはいない。地球が斬るように、太陽が斬るように、月が斬るように、当たり前のことを当たり前として斬ることを語るのも野暮というものだろうが、やはりここは一つひとつ斬ることを始めよう。挨拶をして斬る。歩きながら斬る。友と雑談しながら斬る。仕事をしながら斬る。勉強しながら斬る。食事をしながら斬る。帰りながら斬る。風呂に入りながら斬る。眠る前に斬る。眠りながら斬る。愛する者と斬る。愛する者を斬る。何でも斬ろう。誰でも斬ろう。五臓六腑に染みついた、斬撃に染まるこの腸を斬られることで見せつけよう。そして斬撃に染まった誰かの腸を君も斬るといい。何も変わったことはないだろう? ほら、違和感はないはずだ。今、君達は日常を手にした。これ以上斬らずとももう大丈夫。誰もが懐かせた共通の優しさで斬っていく。誰もが平等な新しい朝の始まりだ。斬る。斬ろう。この斬撃に腐心する我らが祈りとはつまり刃に乗せた斬撃という祝福であり不変故の奇跡として斬ることはいつでもそこにあり無心と振り下ろすこの一閃こそが他者と分かつ刃の旋律として斬撃は今こそ世界を走り抜けて凛と冴える月光の下人々は手にした鈍らにて一閃を無限と飽和させその果てすらない無限楽園。

 

 故に、斬る。

 

「何を……何をしたんだ貴方は!」

 

 ネギは吼えた。何が起きたのかは分からない。だが突如として振りぬかれた響の刃と共に鳴り響いた鈴の音色が、決定的な災厄を世界にぶちまけたということだけは本能で理解した。

 だが絶叫を受けた響はむしろそれこそ不思議だと首を傾げるばかりだ。

 何をした、だと?

 何をしたのか、そんな当たり前、聞くまでもないだろう。

 

「斬ったんだ」

 

 それだけの絶望が撒き散らした災厄すらも、この男にとっては当然のことでしかないのだ。

 

「そう、斬れるのさ。分かるだろ?」

 

「分かる、か……! 分かってたまるか!」

 

 耳の奥深くで木霊する鈴の音色に顔を青ざめさせて、それでも未だ硬直から動けない明日菜、刹那、月詠の三人よりも早くネギは動き出す。

 ここまで響を警戒して動けなかったことなど最早頭にはない。ただ、眼前に立つ男が為した狂気に抗う意志を見せつけるべく、ネギは体内に装填した雷の暴風を杖の先に展開した。

 

「五連、雷の暴風!」

 

 拳大に固められた極大の乱気流がネギの一声を受けて解放される。一つだけでも圧倒的な火力を秘めた雷の暴風が五つ、より鋭利に研ぎ澄まされて背中を向ける響に走った。

 だがそれよりも早く響とネギの間に影が幾つも飛び込む。そして、ネギが撃ち放った雷の暴風に匹敵する膨大な気が嵐と真っ向から激突して相打った。

 

「せっかちやなぁネギ君は」

 

「木乃香さん……!」

 

 相殺されたエネルギーの余波で舞い上がる煙幕を薙ぎ払って現れたのは変わらぬ笑顔の木乃香。その傍には刹那が持つのと似た野太刀を握った男女が立っていた。

 ネギは突然の乱入に動揺を露わにするが、即座に木乃香を守るように立つ彼らが既に『まともではない』ことに気付く。

 

「堕としたのですか……」

 

「癒しただけや」

 

 意識をはく奪された無表情。

 光を灯さぬ眼。

 物言わず、木乃香の操り人形となったかつての剣客達を見て、どうして癒されたのだと思えるだろうか。

 

「木乃香ぁぁぁぁ!」

 

 冷や汗を隠し切れないネギの横を抜けて飛び出したのはようやく残響より正気に戻った明日菜だった。既に咸卦法で身体能力を上げた明日菜の踏み込みは、ただそれだけで瞬動にすら肉薄する。

 激昂の意味を知る必要はない。他者を犯しつくし、己の傀儡としたかつての親友の所業を見て、怒り燃やさぬ者がいるだろうか。

 大剣状態ではなくハリセン状態なのは辛うじて残った良心の現れか。しかし手心はその程度、明日菜は木乃香の骨の一、二本は砕く勢いで握った得物を振り下ろす。

 しかしそれを許す傀儡達ではない。ネギの時と同じく直前で割り込んだ無数の野太刀が明日菜の一撃を受け止めた。

 

「木乃香! アンタ! アンタ自分が――」

 

「明日菜ぁ。明日菜も癒してあげるからな」

 

「ッ……! このバカチン!」

 

 数秒程度の短い会話。だが彼岸よりも遠い互いの認識の差を明日菜は感じ取った。

 目の前に居るのは彼女が知る優しい少女ではないのだ。青山という狂気によって、その身の青山を覚醒させた外道。

 お前もまた、恐るべき青山なのか。

 躊躇は一瞬だった。直後、手元で巨大な鋼鉄へと変質したハマノツルギが、明日菜の内心を何よりも物語っていた。

 

「退けぇ!」

 

 両手で握り締めたハマノツルギごと、傀儡共を纏めて薙ぎ払う。その余波で吹き飛ぶ木乃香を追おうとして、かつての剣客――木乃香の意志に従うだけの人形共の群れが夜すら飲み込まんと明日菜へと殺到した。

 

「雷の斧!」

 

 しかし見上げた空すら埋め尽くす傀儡は、横合いより鳴り響いた轟雷に飲み込まれる。振り返るまでもない。背後で左手を振り下ろしたネギが「突っ込め!」と叫ぶのに呼応して、明日菜は虚空で傀儡に受け止められて着地しようとしている木乃香の元へと飛び込んだ。

 

「目ぇ覚まさせてあげるわ!」

 

「何言うとるんや明日菜。ウチはとっくに目覚めとるえ?」

 

「それが寝ぼけてるって言ってるのよ!」

 

 着地の瞬間を狙ったハマノツルギが唸る。だが沸くようにあふれ出す傀儡の刃が木乃香への行く手を遮った。

 届かない。当然だ。この言葉すら届いていないのに、より遠いこの刃が届きうるだろうか。

 それでも明日菜は傀儡を薙ぎ払いながら前進する。その頭からは響のことは抜け落ちていた。何よりも大事な親友を取り戻すべく、愚直と進む意志に余計な雑音は不要だから。

 

「ふふっ、素敵やなぁ明日菜は」

 

 四方八方から襲い掛かる傀儡を振り払う明日菜の進撃を木乃香は笑顔で俯瞰した。例え己が傷つくとしても歩き続ける迷いなき姿。正当なる怒りで燃える心を原動力に前へ、前へと行ける在り方は、誰もが素晴らしいと褒め称えるだろう。

 

「すぐに癒してあげるからなぁ。大丈夫、傷ついても傷ついても、もう二度と傷つかないようにウチが治してあげる。痛いから治して、辛くても治して、なんでも治してあげられるから治して治すんや」

 

 だが木乃香の思考は正しく燃え上がる明日菜の在り方を理解していない。

 傷ついても進もうとするなら癒してあげよう。

 怒りに燃えて抗う心を癒してあげよう。

 曇りなく前を見据える眼を癒してあげよう。

 癒すことを癒すまで癒しつくして癒し殺し癒し生かす。

 そして自分と同じ、何にも染まらぬ漆黒の眼にしてあげるのだ。

 その狂気に晒されながら、明日菜は声を張り上げた。

 

「木乃香……! 木乃香ぁ!」

 

 決して届かない親友の名を呼ぶが、もしかしたら二度とこの声は届かないのかもしれないと薄々気づいている。

 だが呼ぶのだ。諦めたらそこで今度こそ木乃香は二度と戻ってこない。手放さないために、分かっていてもこの声を絞り出すしかないと明日菜は知っている。

 そして、そんな彼女の弱気を傍で支えてくれる小さいけれど大きな背中の温度を、肩越しに感じられるから明日菜は叫べるのだ。

 

「術式兵装・風精影装」

 

 風の精霊の分身体を展開したネギが、傀儡と剣戟を合わせる明日菜の死角を補って縦横無尽と魔法を連射する。

 そこには一切の躊躇もない。ただ薙ぎ払うだけの明日菜とは違って、殺し尽くすつもりでネギは怒涛と魔法の雨を迫る傀儡へ叩き込んだ。

 当然のように、一撃で腕が焼き切れ、足が千切れ飛び、眼球が沸騰し、胴体が分断されていく。いつの間にか明日菜の背後に回ったネギは、何か言うでもなく明日菜が動きやすいように己の技を存分に振るった。

 

「明日菜さん! 躊躇は不味い!」

 

「……わかったわよ!」

 

 ネギの声に、明日菜は僅かな躊躇の後、鍔迫り合いより強引に相手を弾き飛ばし、返す刀でその腕を斬り捨てた。

 大剣より伝わる肉と骨を分かつ不快感。包丁で豚や牛の肉を切るのとは違う。意識が無いとはいえ、人間を斬るというストレスに顔を顰めた。

 だがネギの言葉をそれ以上に信じている。躊躇が己の死へ、そして己の死がネギと刹那の死を招き、木乃香が外道としての戦禍を広げるならば――。

 

「迷って、られるか!」

 

 轟と唸る大剣が両腕を切断された傀儡の脳天から股までを一直線に斬る。豆腐でも切断するように分かたれた肉塊は、瞬きの後左右に分かれて大地に屈する。

 しかしその様を見届ける余裕は無かった。仲間が死したことなど気にも留めない傀儡の特攻を受けて、人を殺したというストレスで怯む余裕すらないのだ。

 

「次ぃ!」

 

 今、必要なのは己を鼓舞する怒りのみ。滾る炎で迷いを焼き尽くし、背中の暖かさで己を律しながら明日菜は視界を埋め尽くす鋼鉄に刃を打ち合わせた。

 

 

 

 

 

「あははっ! あはははっ!」

 

 木乃香が操る傀儡の群れとネギと明日菜のコンビが激突するその横で、哄笑する月詠と無言で憤る刹那が刃を打ち鳴らしていた。

 純白の羽を広げ、己の中の化け物すらも解き放ち全力を賭す刹那と、修羅外道に染められて真の外道に堕ちた恐るべき人間と成り果てた月詠。先日は一方的に刹那が月詠を圧倒する結果に終わったが、現在は月詠が終始刹那を防戦一方に追い込む形となっていた。

 

「センパァァァイ! どうしましたー! とってもとっても弱いですえぇぇぇぇ!」

 

「黙れぇ!」

 

 状況を打開するべく奥義を放とうとするが、既に『青山寄りとなっている』月詠の牙はその隙を一切与えない。小太刀と野太刀のリーチ差を生かして、顔を突き合わせる程の超近距離で月詠は刹那の急所へ二刀を走らせる。

 神速と伸びる刃を防ぎきれているのは、素子との修行の成果と幾ばくかの幸運によるものだ。半ば無意識にかざした野太刀の刀身が奇跡的に月詠の必殺を受け止めたのはこれで何度目か。

 あるいは修練によって培われた本能による現在ならば全ては実力で刹那は生き抜いているとみるべきだろう。その幸運を感謝すべきか、あるいは長引く絶望を不運とみるべきか。

 余計な思考だ。

 迷うな、お嬢様を救うと決めた。

 それだけだろう。

 ――見出す隙。

 

「つぁ!」

 

 防戦の最中見出した攻撃の間隙。迷う余裕すらない刹那は反射的にその隙へ切っ先をねじ込み、絶句する。

 

「痛くないですー。痛くなーい。痛くーなーいー」

 

 月詠の額へ深々と突き刺さった刃。だが脳髄を抉り後頭部より刃が突き出たにも関わらず月詠は笑っていた。

 額より流れる真紅で顔中を真っ赤に染め上げながら、けらけらと子どもが無邪気に笑うように笑っているのだ。

 そして、激痛。

 

「ぐぁぁぁぁぁ!?」

 

「痛いですかー? 痛いですよねー? だから早くお姉さまに癒されてー! 癒されてー!」

 

 額に刺さった切っ先をそのままに前進した月詠の小太刀が刹那の右肩に突き立つ。堪えられぬ激痛に刹那が苦悶の声をあげ、そして月詠は尚も笑い続けて木立をぐりぐりと左右に捩じった。

 

「ぎ、ぃ……! ぎぁぁぁぁぁ! ぁあ! がぁぁぁ!?」

 

「大丈夫ですー。センパイもすぐにお姉さまになれますー。ウチもお姉さまでー。お姉さまはウチでー。ウチはウチでお姉さまでお姉さまのお姉さまはウチのお姉さまが、うひっ、うひゃ、あはははははははっ!」

 

「は、な、せぇぇぇ!」

 

 夕凪を引き抜くと同時に月詠の胸部を全力で蹴り飛ばす。無防備なところに叩き込まれた爪先が胸骨を破砕し肺腑を破裂させた感覚を覚えるが、月詠は虚空で優雅に宙返りを一つすると緩やかに大地に降り立った。

 その身体にダメージは無い。

 額の傷も完治しており、唯一真っ赤な顔だけが脳天を貫いた証拠だった。

 当然、胸部の怪我など当たり前のように治っているのだろう。

 対して刹那は右肩に突き立った小太刀の傷より流れる血が止まらず、疲労も色濃い。

 

「傷、痛いですかー?」

 

「ぐっ……」

 

「痛いやろなー。痛くて泣いちゃいますー?」

 

 ――痛みなど理解出来ない身で何を聞く。

 そう言いかえす体力すらも今は惜しい。刹那と月詠、互いの技量の変化も戦況が一方的な理由だったが、何よりも二人の間にある差は、月詠はどんなに戦おうと一切疲弊しないところにあった。

 どんなに隙を見出して、腕を斬り、腹を裂き、足を穿とうと、月詠は全てを意に介さず返しの刃を放ってくる。そして先程脳天を貫いたというのに怯む様子すら月詠には無かった。

 首か、心臓か、あるいは斬り続ければいずれ底につくか。

 それとも月詠の肉体を全て消滅させるしかないのか。

 試していない方法は幾つかある。だがそれら全てを試し終えるまで、刹那は月詠を殺し尽くすことが出来るか分からなかった。

 ――否、迷うな。お嬢様を救いだすためならこの命すら惜しくない!

 痛みの中、決意新たに夕凪を構え直す。そんな刹那に月詠へ誰もが不愉快になるだろう笑みのまま、隙だらけのまま刹那へと歩み寄っていく。

 

「センパーイ。辛そうですねー」

 

 さながら地獄の悪鬼とでも言うべきか。致命傷すらものともしない月詠を前に、言葉で自分を誤魔化そうとも刹那は月詠の一歩に合わせて無意識に後退する。

 そんな刹那の苦悶を月詠は失墜した両目で射抜く。葛藤と焦燥、自問と自虐、覚悟と後悔。混ざり合う感情は刹那の心をそれだけで傷つけ、追い詰めていく。その様を見る。

 だから笑った。

 見出しているから、笑えるのだ。

 

「でもー、ウチが治してあげる」

 

「え?」

 

 一瞬、月詠の姿に敬愛する木乃香の姿が重なったことに刹那は目を剥く。だがしかし、それが見間違いではないことに、刹那は気付いた。

 笑っているのだ。月詠の顔だというのに、まるで木乃香のように月詠は真っ赤な顔で笑っている。

 

「センパイは斬ってウチがせっちゃんを治すからなぁ。ウチは斬り殺してもウチがその傷も全部癒すんや。センパイがもう傷つかないようにウチがせっちゃんの心まで癒してあげる」

 

「お、お嬢様……」

 

 馬鹿な。

 あり得ない。

 だが、あの笑顔と自分を『せっちゃん』と呼ぶ穏やかな声色は。

 重なっていく。傷ついた体を癒すごとに、月詠と木乃香の姿が重なっていく。

 それはつまり、癒すということによる侵略行為。月詠という体を癒す木乃香の力が、月詠を月詠として構成する全てもろとも木乃香という存在に癒し犯しているということ。

 

「これは……そんな……」

 

 刹那は気付いてしまった。木乃香が至った境地、木乃香が手にしようとしている極み。

 治癒という慈愛を、治癒という自愛に捻じ曲げられた結果の産物。癒すという外道の集大成。

 己と同じ形に改造(治癒)する。それは傷を負えば負うほど深度が深くなり、いずれはその姿かたちまでもが――。

 

「行きますえ、センパイ」

 

 月詠が夜に溶け込むように刹那目掛けて疾駆する。その存在が徐々に癒しという名の消滅を迎えようとしていることにも気づかずに舞う悪鬼の煌めきを、刹那は隠し切れぬ畏怖を滲ませながら必死に受け止めた。

 

 

 

 

 

 迸る鮮血と臓腑を見ながら、ネギは平然と立ち上がる傀儡を見て舌打ちした。

 

「ッ……明日菜さん! こいつら頭を吹き飛ばしても死なないです!」

 

 それはどういった魔法を行使しているのか。ネギの魔法で致命傷を受けた傀儡が、傷口より肉はおろか砕けた野太刀も燃えた衣服すらも粘着質な魔力によって再構成され、数秒もせずに再度突撃を再開している。

 永遠に動き続ける殺戮人形とでも言うべきか。一体一体はネギと明日菜と比べて格下だが、神鳴流の奥義を尽くした火力と、致命傷すらものともしない脅威の再生力によって徐々に二人を追い詰め始める。

 明日菜もネギに言われるまでもなく、胴や首を切断してもお構いなしに刃を振るう傀儡の異常さを理解して、今は木乃香への道を切り開くべく、最初と同じく傀儡を吹き飛ばす方向に切り替えた。

 だがそれでは木乃香への道を切り開くことが出来ない。数と言うのはそれだけで驚異的だ。一体一体が二人に及ばずとも、肉の壁となり立ち塞がる傀儡は、ネギ達をその場から動けなくさせるには充分だった。

 

「くっ、これじゃジリ貧じゃない!」

 

 奥義ごと数人をハマノツルギで薙ぎ払いながら明日菜が悪態をつく。返答はせずとも内心はネギも同じだ。術者の魔力で損傷を補填、魔法を放つことも出来るネギの風声影装も原理はこの傀儡と似たようなものだが、このままでは遠くない未来に天秤があちらに傾くだろうとネギは推測した。

 数の暴力、それなりの攻撃力、再生力。挙げられる要素は幾つかあるが、何よりも危険なのは優雅に空からこちらを見下ろす木乃香の存在だろう。

 はっきり言って、魔力の底が分からない。百を超える傀儡を容易に操り、それぞれの怪我を瞬時に把握して治癒する技量も恐ろしいが、それを支える地の魔力がネギには恐ろしかった。

 普通なら重傷を負った人間を一人治癒するだけでもかなりの魔力を消耗する。ネギが分身を魔力で補填しているのとは訳が違うのだ。肉体も、武器も、服さえも治癒はさながら再現だ。だがそんな究極の治癒の副作用として己の自我を奪われるのならネギも明日菜もお断りである。嫌悪をそのまま叩き込むように魔法と鋼鉄が傀儡の群れを押し返していく。

 

「どうすんのよ!?」

 

「ともかく何としても木乃香さんの元へ! 周囲が駄目なら元を直接叩きましょう!」

 

「そこまで行けないから困ってんでしょ!?」

 

「情けないこと言わないでください! 女の子でしょう!?」

 

「女の子だから情けなくなりたいのよぉ!」

 

 言葉とは裏腹に豪快な一振りが周囲の傀儡を根こそぎ薙ぎ払う。周囲は撒き散らされた臓腑と血潮で彩られているが、鼻が馬鹿になったおかげで不快感は消し飛んだ。

 

「次ぃ! こうなりゃとことんやってやるわ!」

 

 小難しいことを考えるのは自分の性に合わないのだ。余計なことは傀儡もろとも吹き飛ばして、ネギの言う通り真っ直ぐに木乃香の元へ走るのが自分に出来る最善。

 その力強い覚悟と鼓舞を聞いてネギも切迫した状況ながら小さな笑みを浮かべてみせた。余裕ではないし、楽しいわけでもない。だが頼もしいから笑える。肉の壁の向こうで怪しく笑う木乃香とは違うその笑みは、ネギと明日菜だから手にした強さの証明だ。

 だがその一方でネギはこの混沌とした戦場で一人、木乃香よりもさらに外に立つ響の気配を感じていた。

 

「……手を出さない?」

 

 あの男が戦場を目の前にして刃を振るうこともなく沈黙を保っている。抜き身の妖刀の如き存在が、血沸き肉躍る狂気の場を見て何も感じないというのはネギには疑問だった。

 興味が無いのだろうか。それとも機を伺っているのか。

 違う。彼はそういった機微を察するような人間ではないはずだ。手に刀があり、目の前に斬るべき相手が居る。

 ならば斬るのだ。そう在るべき無垢のはずだ。

 だが実際は一切動くことなく、まるで何かを待つかのように――。

 

 その時、全身が氷漬けになったような悪寒がその場に居た全ての人間を襲った。

 

「素敵な。とても素敵な歓迎の調だったよ」

 

 あらゆる熱を根こそぎ奪うような冷気を纏ってそれは月から舞い降りる。

 見上げた先、降り注ぐ流星群の如く空を走る無限の赤茨と、永遠に溶けない氷に閉じ込められた無数の人形。

 それらを操る指揮者は、同量の黄金ですら届かない美しい黄金の髪を月光に濡らして、この場に居る誰よりも愉悦を全身から垂れ流して眼下の戦場を見渡した。

 

「そして、この場に香る血流と荒れ狂う力の余韻。とても懐かしい、随分と昔にモノクロと薄れた日々の残影が蘇るようだ」

 

 誰もかれもが譲れぬ思いを貫くためにその牙を相手の肉へと突き立てる。人間が人間として持ちうる無限の色が、善と悪も関係なく彩られた儚き閃光。

 命と命。

 短きその運命を賭してまで燃え、あるいは凍てつく美しくもか弱き者達よ。

 

「絶望ですら生温い。地獄ですら程遠いこの想い」

 

 深き想い。信念という名の別名。

 

「この場に満ちる愛」

 

 闇の福音。

 真祖の吸血鬼。

 

「そして貴様は、私の愛に溶かしてあげよう」

 

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが闇を率いて現れる。人形使いの名に相応しく、木乃香の傀儡の数を容易く超える人形を指先で操って、白くたおやかな指先はその総軍の全ては、奈落と蒼の二つを秘めた男の眼を惹き寄せるためだけに。

 そう、愛だ。

 善悪を超え、希望も絶望も届きえない深く重く色濃い願い。

 応えたのは、鞘を走る刃が奏でる波紋の音色。

 両手に携えた二刀を強く握りしめ、青山響は歌声に導かれた獣を迎え入れた。

 

「エヴァンジェリン」

 

「何だ?」

 

「お前を、待っていた」

 

 その言葉にエヴァンジェリンの背筋をこれまで感じたことのない恍惚が流れた。たちまち胸の傷より濡れ滴る鮮血がその証拠。焦がれた相手もまた自分に焦がれている奇跡は、化け物にのみ許された愛おしさ。

 

「ふはっ、ははははっ! 嬉しいぞ! とっても嬉しいぞ青山! ようやく私は貴様の目に届いたのだ! 情けなくも無様を晒したあの夜より幾星霜、貴様だけを求め、貴様だけを欲し、貴様だけに注いだ日々が! 受け止めてくれよ! 受け止めてくれるんだな!?」

 

 答えは無い。だが代わりに突如として発生した膨大な気が、何よりも雄弁に響の心を語っていた。

 斬ってやる。

 お前だけを斬ってみせる。

 斬ることすら惜しいと思える今のお前だから。

 

 俺はお前を斬りたいんだ。エヴァンジェリン。

 

「青山ぁぁぁ!」

 

 既に我慢の限界など超えていたエヴァンジェリンの理性が欠片も残らず崩壊する。獣が求愛するような咆哮と同時、その指先に操られた氷像と茨の群れが響へと殺到し始めた。

 

「ッ!?」

 

 その余波で襲い掛かる氷結の総軍が、突然の状況に動けなかったネギ達の思考と肉体を突き動かした。最早、余波と侮ることは出来ない。濁流となって響を飲み干した氷はその周囲に居たネギと明日菜はおろか、木乃香とその傀儡、そして刹那と月詠へも襲い掛かった。

 

「解放! 術式兵装・雷轟無人!」

 

 視界を全て埋め尽くす真紅の茨を認知した瞬間、ネギは事前に装填させていた切り札を解放し、躊躇いなくその全力を迫る茨へ叩き込んだ。

 千の雷を収束させた雷の鉄槌が茨の群れを押し返す。だがそれも数秒、徐々に勢いを無くした雷轟無人の一撃を貪って、茨は無限と増殖しながら傀儡もろとも二人を飲み込まんとする。

 

「ネギぃ!」

 

 だがネギが稼いだ数秒の間に、その体を胸に抱えた明日菜が虚空瞬動で空へと飛び出した。

 遅れて先程までネギ達が居た場所を茨が飲み込む。少し離れた場所で刹那も茨から逃れているのを確認した二人が安堵するのも束の間、眼下の光景に言葉を失った。

 

「何、これ」

 

 先程まで戦場だった場の全てが真紅の氷に飲まれていた。一種の異界と化した氷獄で聞こえるのは鈴の音色と轟く茨と咆哮する機械人形、そして哄笑する吸血鬼の不快な声。

 これはもう個人が操れる力の総量を遥かに超えている。数秒ごとに数百メートル規模で広がる氷の世界に絶句するのも束の間、「お嬢様!」という刹那の声で二人は木乃香が冷気から脱していないことに気付いた。

 だがそんな彼らの不安を打ち払う。あるいは絶望を色濃くさせるかのように氷に包まれた一角が溶け――癒され始める。

 

「そ、んな……」

 

「……冗談でしょ。木乃香」

 

 一度捕らわれたら永遠に閉じ込められると思わせる氷すら『癒されている』。そしてその氷の内側から、墓の下より蘇るゾンビのように起き上がる傀儡の群れ。

 その中心に立つのは、傷一つない無垢なる外道。

 

「……これは、もう――」

 

 もう、駄目なのではないか。

 吐露されかけた弱気をネギは咄嗟に飲み込むが、しかしそう思ってしまうのも無理ないだろう。

 こうしている間にもその余波だけで自分達を追い詰める響とエヴァンジェリンも常軌を逸しているが、それらをものともせずに動じた様子も無い彼女もまた、ネギ達からすれば理解を超えた恐るべき何か。

 

「大丈夫、怖くない、怖くない」

 

 そんなことを言ってのけながら、近衛木乃香は笑う。

 いつまでも無邪気に。

 永遠に傷つかないからこそ。

 お前は笑うと、笑えるのだと物語るその狂気を前に、抗う術はあるというのか。

 もう、手段は無い。

 自分だけでは、抗えない。

 

 だけど、もう逃げない。

 

「……ネギ」

 

「……はい」

 

 ネギと明日菜はおもむろに掲げた拳を軽く突き合わせた。

 一人では抗えない、一人では届かない。

 それでも二人なら、二人で支えれば、極みを迎えた修羅外道すら――。

 呼気を整え、目を逸らさずに、握った拳に力を注げ。

 

「行きます!」

 

 抵抗を諦めない。

 その命が潰える瞬間まで、ネギと明日菜は混沌と化す戦場に立ち向かうと覚悟したのだ。

 

 

 

 

 




生きている実感を得ていた日々。
私に生を注いでくれた暖かな日々。
毎日が夢みたいに煌びやかで、きっと私はその眩しさに目が眩んでしまっただけ。
でもその暖かさがあったから、貴女がくれた優しさが残っているから。
私は――。

次回【半身、半生、半分こ】

返すだけだ。
それだけで、こんなにも満たされる。






  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。