「ここ、は?」
開かれた視界に映し出された空は灰色に染まっていた。例え太陽が隠れて陽が無くても雲に閉ざされた世界を感じることは出来る。
見上げた状態。倒れているのだと分かったのは背中に感じる氷の感覚。
だがそんなことよりも不思議に思った。
ここは何処だ。
そもそも。
「私は、誰?」
己のことすら思い出せない。
誰よりも知っているはずの己すら認識できず、忘我した自信を手繰るように視線を右に、左に。
「あ……」
そこで、自分と同じように呆けたように視線を彷徨わせていた者と視線が交差した。
語らずとも、忘れたとしても分かる。
互いに己を失った者。
認識できない自己という在り方を共有した両者。
そして、手には共に――二振りの刃。
「エヴァンジェリン」
「青山」
己すらも忘れた。
だが、交わした視線の先に居る相手だけは、忘れない。
枯れた記憶が湯水のように溢れ出てくる。互いが互いを認識したと同時に蘇る全て。
斬ったこと。
殺したこと。
溢れ出る記憶に引きつられるように吊り上がる両者の頬。それは、己すらも忘れていても尚残り続けた互いへの愛ゆえか。
だというのに、二人が手にするのは刃。
愛しき者を斬殺するためだけの代物。
それなのに、こんなにも愛おしい。
直後、引かれ合う磁石のように同時に飛び出した両者が、今宵何度目になるか分からない刃をぶつけ合った。
「ハハハッ! 何だ! これは何なんだ!?」
何度となく繰り返した。
激突の瞬間に発声した余波が極まった肉体よりも脆く頼りない魂を蹂躙していく感覚。
何だと叫んだエヴァンジェリンの思いは響も同じ。
何だ、これは。
この様は、何度繰り返したのだと、嗤うのだ。
「剣戟を重ねる度に互いに斬って殺されて! 自我すら失った直後に斬って殺した相手を見て殺すべき貴様を思い出す! 貴様もそうだろ!? 自我すら失って、また私を見て私を斬ろうとする! 何だよこれは! どうしようもないくらいどうしようもないじゃあないか!」
全ての記憶が蘇る。
これで五十に届いた自我の忘却に二人は呆れたように、だが忘れようとも忘れられない愛が根付いている奇跡に喜び滾った。
最早、二人が激突させる極限を超えた刃は、その余波で互いの心を
再度繰り広げられる刃の応酬の間にも、折角蘇った自我が根こそぎ斬られ、あるいは殺されていく。
だが恐怖など何処にもなかった。
あるのは歓喜ばかり。
合わさる刃が合した相手を斬り殺す歓喜は、何度となく繰り返しても飽きることなどありえない。
無限に斬り合える。
無限に殺し合える。
どうして、その修羅場を嘆くことが出来ようか。
「いつまで続ける!? いつまで続けたい!? 私は貴様を永遠に殺せるなら永遠を望もう! だが永遠すら終えたいくらい貴様を殺したいんだ! 殺せるのなら殺したい! 殺し合えるよりも殺している今よりも! 貴様を殺せること以上に勝る歓喜などありようがないからな!」
「口が軽いな、エヴァンジェリン」
だが、気持ちは分かる。
響もまた、叫びだしたい衝動を抑えて今一度と伸ばした剣戟に映る己の笑みを見た。
「幾度と、幾度でも。在り方すら忘我してもお前だけは忘れない。俺自身を忘れても、俺はお前を忘れない」
己すらどうでもよくなるくらいに斬りたいと思える。進めと告げて先に逝った姉に心の中で目の前の汚泥を誇る。
極みを超えたこの場所を共に共有している化け物は、百億の命すら消耗したとて尚も価値あると自分だけは胸を張って言えるから。
「だから頼む、エヴァンジェリン」
願いがある。
切なる願いを、聞き届けてほしい。
「俺に斬らせるなよ。俺は斬りたいんだから」
「言われずともなぁぁぁ!」
僅かばかりの語らいは終わり、大地を斬り、あるはいは殺しながら踏み出した両者の耳を波紋が濡らした。
臆することなく刃を走らせる。証とひなの両刀が、鍔迫り合いを押し返してエヴァンジェリンを一歩後退させ、その間を埋めるようにエヴァンジェリンの股の間に証が伸びる。
股から脳天まで斬られるイメージがエヴァンジェリンの脳裏を過った頃には、脳髄を介さずに動いていた氷刃が響の一撃を上から抑え込んだ。
「あ、ん……」
合わさった刃同士が空気を震わせる。その波に燻られた下腹部の熱が扇情的な吐息と共にエヴァンジェリンの小さな唇から漏れ出した。
初めて刻まれた胸の傷口は絶え間なく血を滴らせ、粘着質な赤い血潮は吸血鬼の興奮に合わせるように腹を伝って太腿を濡らしている。僅か、股より幾つも落ちる雫は、激突する刃に混ざり合うように刀身に跳ねた。
その間にも、超至近距離で空を編むひなと氷刃が二人の体に無数の傷を生みだす。
首、胸、腕、足、腹、肩、頬。一秒の後、一際甲高い音を奏でて共に数歩後退した二人の身体には、百を超える裂傷が全身に刻まれていた。
「傷は癒さないのか?」
不意に、響は己が付けた傷を癒さずに放置しているエヴァンジェリンにそんなことを問いかけた。人間とは違って吸血鬼である彼女なら、些細な裂傷程度なら即座に回復しても不思議ではない。
「何、貴様のくれた物を手放したくないという乙女の我儘だよ」
嘘である。
酷薄な笑みの裏側、今も集め続けている命を魔力に変換して練り上げた刃に全てを注いでいるために、吸血鬼の不死性すらエヴァンジェリンは発揮できないでいた。
それを自分が追い詰められているとエヴァンジェリンは思わない。響も自分と同じくらいに消耗している。
微かにだが上下に揺れている肩。吐き出される呼吸の乱れ。周囲の気温からではなく、血を失ったことによって青ざめた顔。
限界は近い。
だがそれも当然なのだ。響はつい先日、素子との恐るべき死闘を終えたばかりである。その後体は回復したようにも見えたが、物理的に失った血潮は殆ど回復せず、何とか体力は取り戻したものの、僅かな傷から滲む血も致命的になる。
だが響は朦朧とする意識も鉛が付いたように重い体も気にした素振りをみせない。
違う。真実、気にしていないのだ。
「……ここからだ」
もっと先がある。
まだまだ迎える場所がある。
響は幸福の中にあった。エヴァンジェリンという共演者を得たことでさらに奥地へ歩めている。
体よりこみ上げる気すらも余分に思えてくる。もっと純粋な先が欲しい。
研ぎ澄ます鋼鉄の残響が奥義を得ることの喜びをもっと。
「まだ足りない」
「なに……?」
「俺達なら、まだ行けるだろ?」
全身が重い。
意識は何度も途切れている。
視界は霞み、数センチ先も曖昧で。
だが進んでいた。
いつの間にか、響は奥へと進めている。
「ぐぅ!?」
エヴァンジェリンは辛うじて捉えた響の斬撃を受け止めて呻き声をあげた。
疲弊する身体とは裏腹に、また一段と重く、鋭くなっている。
歓喜に匹敵する戦慄がエヴァンジェリンを襲った。まるで初めて棒振りを覚えた神童の如き速度で響の技は洗練されている。
気付けば防戦一方に追い込まれる自分にエヴァンジェリンは気付いた。重ねた刃も幾つも切り口が刻まれ、もう何合か受ければ斬り捨てられる予感がある。
いや、もう後、一手で――。
「ッ……舐めるなぁ!」
天に浮かぶ膨大な命のスープが勢いよくエヴァンジェリンに流れ出した。不老不死の不死性すら超える程の魔力の渦が小さな肉体の内側を圧搾していく。腹の中で無数の剣が突き出されたような激痛に悶える余裕もなく、練り上げた魔力を爆発させたエヴァンジェリンは、加速していく響の成長を再度乗り越えてみせた。
「カァ!」
「ひゃひ!」
己の速度と重さを超えたエヴァンジェリンの底力を受けて響は壊れたように笑った。
ありがとう。
重ねた剣戟よりも多く思った感謝が響の心を埋め尽くす。
まだ斬れない。
斬りたいのに斬れない。矛盾を孕んだ答えを体現してくれるエヴァンジェリンが愛おしくてたまらない。
だから響は極みをまた超える。
体は重い。
意識は遠い。
握った刀すら感触が分からない。
でも早く。
もっと先を。
超えろ。
超えて行け。
俺の体は、俺だけが知っているこの身の真髄はまだ先に――。
「くはははっ!」
「ッ!?」
響の笑い声すらかき消す化け物の吐き気をもよおすような哄笑。
「ならば是非もない! 貴様を殺すために貴様を超え続ける他ないのならぁぁぁぁ!」
曇天の絶望が、丸められる紙のように渦を巻いてエヴァンジェリンの背中に飲み込まれる。
その渦より響く低い風切り音は、理由なく搾取された命の断末魔。己の体が保つぎりぎりでここまで戦ってきたエヴァンジェリンが、ここに来てリミッターを解除することを決めたのだ。
響は咄嗟に二刀で己の体を庇った。数瞬後、エヴァンジェリンを中心にして爆発した魔力の圧が、全身を押し潰す。
「ぉが!?」
地面に踏み止まることが出来ず、凍り付いた大地ごと響の体が木端と舞った。
微弱になった気で守っていた肉体の内側が、衝撃破によって蹂躙された。体の中で鈍い音が一つ。咄嗟に圧力を斬ったが、僅かに出来ていた隙間を縫って無防備な身体にぶつかった魔力の風が、肋骨を一本半ばから折った音だ。
致命的ではないが、塵一つで大きく傾く天秤の拮抗に支障をきたすのは確実だが。
「この程度……!」
まだ斬り合える。
心の芯たる確信を揺るがせるには届かない。響は天高くまで吹き飛ばされた体勢を整えて、虚空瞬動で戦場に舞い戻ろうとして、見た。
「青、山ぁぁぁぁ……!」
空と繋がったエヴァンジェリンの背中より、身の丈を大きく超えた巨大な赤薔薇を象った氷が咲き乱れている。体内だけでは内包出来ない魔力を、外部に新たな器官を急遽作り上げることで代用。
その代償として、エヴァンジェリンの左半身が完全に氷と化していた。白絹のように柔らかな肢体の面影は何処にもない。素人が荒々しく人型に削ったような氷塊がエヴァンジェリンの身体の半分を構成している。
氷の魔神。
そう表現するしかない怪物にエヴァンジェリンは成り果てようとしていた。徐々に残った右半身も浸食している氷による激痛に顔を顰めながら、爛々と輝く眼だけは響を捕えて離さない。
一歩、踏み出した左足が大地に触れると、表面が砕けて外に出た剥き出しの大地が一気に凍り付き、エヴァンジェリンの鋭利な殺気を体現する氷の剣山が幾つも突き出てくる。
世界そのものを己で浸食する。木乃香が一時的にだが手にした極みの完成を超えた物がそこにはあった。
「この……」
今のエヴァンジェリンに、踏み込むだけで全身が凍り付くのが容易に想像出来た。
斬るとか斬らないとかいうレベルではない。
斬る前に殺される。
斬らなくても殺される。
人が抗えないものを災厄と言う。
ならば、今のエヴァンジェリンこそ災厄の名に相応しき――。
「化け物め」
恐れ戦く想いが乗せられた最大級の褒め言葉に――。
「あぁ」
左手ごと氷の刃に変えたエヴァンジェリンが吐息すら感じられる程の距離で答える。
いつの間に?
俺の認知を超えた?
思考よりも反射的に響は振り下ろされる氷刃に二刀を合わせた。
「ありがとう、青山」
空の上であるが故、呆気なく地表目掛けて響は吹き飛ばされる。軋む両腕、悲鳴をあげるひなと証。
絶望が体を駆け巡る。
フェイトと素子。二人の極みがもたらした刃が、たった一撃で悲鳴をあげている事実に、響の顔から笑みが消えた。
「必要だったのは覚悟だ!」
地表に着地した響は、背後から襲い掛かってきたエヴァンジェリンの大上段を真横に飛ぶことで咄嗟に回避した。そして、その斬撃の射線の大地が地平線まで氷の剣山に覆われる。一撃で世界を両断する魔力と殺意。掠っただけで根こそぎ殺されていく気と肉体を必死に動かすが、自壊すら厭わぬ吸血鬼の猛威は反撃の隙すら与えない。
「貴様を殺す! 愛しいという思いすら殺して貴様を殺す覚悟が必要だった!」
左手ごと刃に変わった一撃は、ひなと証の二本で受け止めなければ防ぎきれない。下段からの掬い上げを交差した刀身で受ける。衝撃が肉を伝播し、全身が殺意に凌辱されるような不快感と痛み。
攻勢に移れない。言葉を返す暇すら惜しい。食いしばった歯と腰を落として踏み止まり、全力で受けねば途端に押し潰される一撃を容易に繰り返す怪物を迎え撃つ。
「認めたくなかったよ! 殺すと決めた貴様を本当は殺したくなかった! だが貴様の言葉が私に気付かせてくれたんだ!」
「ぐぅ……!?」
「斬りたくないくらい斬りたいと! あぁそうさ! 私も認めよう! 貴様を殺したくない自分が居たことを! 際限なく極まっていく貴様と永遠に殺し合えるだけで満足していた自分を! そのうえでぇぇぇぇ!」
エヴァンジェリンの背後で渦巻く命がさらに膨れ上がる。氷像となる自分すら問題としない。むしろ、膨れ上がる赤薔薇に合わせて肥大する殺意をエヴァンジェリンはようやく享受出来たから、己の殺意を表す赤薔薇が誇らしくすら思っていた。
だがあらゆる命を圧縮した一撃に晒される響に眼前で踊る災厄を気にする余裕はない。絶え間なく己を殺そうと降り注ぐ氷刃に、確実に膝は折れ、腕は力を失っていく。
そして、遂に渾身の一撃が響の二刀を大きく弾いた。
「貴様を! 私が!」
「ッ!?」
体勢を崩した響の懐に飛び込んだエヴァンジェリンの左手が走る。かつて、大橋の一戦で響が放った物と同じ斜めに入る袈裟の斬撃。響は辛うじて戻せたひなを軌跡の間に被せて持ちこたえようとするが、エヴァンジェリンの渇望は、ひなの刀身に深々と斬りこんだ。
「殺すんだよ!」
殺意の重量に砕かれるひなの刀身。
続けて、遮る物がなくなった殺意が、響の胸を袈裟になぞった。
胸に咲く真紅の赤薔薇。
傷口ごと凍結した氷を驚愕と共に見て、響は己の死に酔った。
―
何がどうなっているのか分からない。
ちょっとした自慢だった俺の認知能力を容易く突破したエヴァンジェリンが怒涛の連撃で俺を追い詰めていく。
化け物が。畏怖と怒りの混ざった俺の思いにエヴァンジェリンはさらに昂っていく。
ひなを失った俺に残された証から響く冷たい殺意が心も体も溶かす。
斬撃と言う俺が超え続けていく場所の遥か高みに居るエヴァンジェリンに反撃する余裕はない。
どういった理屈かは分からないが、両者の力量はここに来て赤子と大人程の差になった。つまり、どう足掻いても俺の斬撃は彼女の殺意を斬れないし、彼女の殺意は俺の斬撃を一方的に殺し尽くすだけ。
このままいけば俺は殺される。
斬ることも出来ずに殺されるなんて、そんな馬鹿げた冗談みたいな結末しか残されていない。だが冗談みたいな結末こそ俺に残された現実。
斬れずに殺される。
殺されて、斬らずに死ねる。
不思議なことに、俺は理解も納得も出来ない現実を何故か受け入れることが出来ていた。
もう、いいのかもしれない。
ひかげの破壊を斬り。
フェイトの命を斬り。
素子姉さんの正道を斬り。
そして己の外道も斬った。
心残りと言えば、英雄として完成したネギ君を斬れなかったことだけど。
でも、いいのかもしれない。
素子姉さんを斬り、己の外道すらも斬ってしまった時、俺は思ったのだ。
斬りたくないくらい斬れない者を斬りたいと。
それはつまり、俺の斬撃が全く届かない何かに斬られることを、あるいは斬るという祈りとは違う何かで俺を終わらせてもらえることを望んだということ。
ならばこれは満足のいく終わりなのかもしれない。
俺の人生で初めて愛し、そして愛された少女。
エヴァンジェリン、君になら――。
さらに鋭く重くなった一撃が、刀身に幾つもの亀裂が走った証とぶつかる。
そしてついに、証すらも半ばから砕け散ってしまった。
刀を殺される。
つまり斬撃を殺された俺にはもう何も残されていない。
「……終わりだ。青山」
下半身は完全に氷像となったエヴァンジェリンに残された生身の右手が俺の首を掴んで持ち上げた。
全身の傷口から流れた血が凍って、俺の体に無数の赤薔薇が咲いている。エヴァンジェリンと同じ赤薔薇。まるでそれが、彼女が俺に付けたキスマークのようだなぁと、どうでもいいことを思う。
「あぁ、終わった」
認めるしかない。
愛しい愛しい吸血鬼。
完膚なきまでに俺の斬撃を殺し尽くした愛しい君よ。
「エヴァ、君が殺した」
もう何も無いから、手放しに賞賛し、そして、どうでもいいことを考えよう。
殺意。
斬撃。
でも、根源に根差す思いはきっと……。
「……そうか」
霞む眼に映るエヴァの右目より一筋の雫が流れたので、俺は力なく垂れ下がった左手を持ち上げて、その雫を一つ掬った。
「化け物なのに、泣くんだな」
「化け物だから、泣くんだよ。独りぼっちだから、泣いちゃうんだ」
自惚れではなく、俺を失った君はもう生涯、人間を愛することも、化け物すら愛することも出来ないだろう。
だって、俺は君を愛している。
殺されたのに、まだ斬りたいくらいに、愛している。
だから。
「俺を殺せよ、エヴァンジェリン」
斬撃を失って、何もかも失った俺でも、君を愛している気持ちだけは残っている。
それと同じくらい、斬撃を失った俺を、君もまた愛してくれていると知っている。
「青山……」
「何度も繰り返しただろ、エヴァンジェリン。お前が俺を殺すか、俺がお前を斬るか。シンプルな話だよ」
共に懐かせた思いをぶつけた。
その結果、なりふり構わず全てをぶつけてきた彼女が、俺の斬撃を殺したというだけの話。
覚悟を決めたのだろう?
なら、君はその覚悟のままに俺を殺せばいいんだ。
涙の跡を残したまま、エヴァは頭を一つ振ると精一杯の笑顔を浮かべてくれた。
「うん。貴様を殺す」
「そうか」
いつものように汚い笑顔で。糞尿で描かれた絵画のように醜い君が、宝石よりも美しい華を背中に咲かせて笑ってくれているから。
こんなにも嬉しいから、俺は君になら殺されてもいいと思えたのに――。
「貴様を殺して、私も死ぬ」
ぼそりと呟かれたその言葉は、殺された心すら震わす呪いだった。
「エ、ヴァ……?」
何、で?
エヴァンジェリンは、困ったように目尻を細める。まるで、己の失態を呪うように刃を噛みしめ、そして観念したように小さくはにかんだ。
「それだけしか、私には残っていないんだ」
空虚な響きに込められている真実が、俺の殺された心を痛ませる。
だけど分からない。
俺には何のことか、分からない。
「エヴァ、お前……」
「……すまない青山。今から逝く貴様には関係の無いことだったな」
己の失態を悟ったエヴァは、誤魔化すように出来そこないの人形のような左手で俺の頬を、子どもをあやすように撫でて誤魔化そうとする。
でも、そんな彼女の優しさすらどうでもよくなる程に俺の殺された心はざわついていた。
殺された心が再燃するような気がした。
何故、死のうとする。
何故、俺を殺した後も、殺そうとしない!?
「なぁ、愛しい人」
「……止めろ、頼む」
「無理だよ。貴様の居ない悠久なんて、地獄すら生温い」
「頼む、エヴァ、俺を殺しても、お前はずっと殺して――」
「青山」
優しくも、力強い一言が全てだった。
俺の懇願は届かない。
殺し続ける君を望む俺を君は認めない。
なぁ。
何でだよ、エヴァ。
何で、俺を殺して、お前が死なないといけないんだよ。
俺の願いを知って尚、お前は死ぬというのか?
「絶望させて殺そうと思っていた。でもな、この絶望だけは駄目だ。他には絶望してもいい。斬撃が殺されたことに絶望して虚無に落ちた貴様は、殺したくないくらい愛おしかったけど、でも、この絶望は駄目なんだ」
何を言っている。
お前は何を。
何を悟ったんだよ、エヴァ。
「……止めよう。これ以上は止そう」
俺の頬を撫でていた左手が再び刃に変わる。そしてエヴァンジェリンは僅かに悲しそうに笑いながら、俺の胸に切っ先を触れさせた。
「俺、は……」
ここで、殺されるのか?
彼女が俺を殺して死ぬことを待つしかないというのか?
「俺、は……!」
いつの間にか、感覚の無かった掌は拳を象っていた。力の抜けた足に力が戻り、残滓の如き気の全てを使い切り、殺された体が再び活性化していく。
「……さよなら、青山」
だが全て遅い。
辛うじて力が戻っても、魔神と化したエヴァの力に気を失った俺では届くはずがない。
切っ先が胸を割っていくのが分かる。
俺は殺されるしかない。
彼女が死ぬのを知りながら殺される。
どう足掻いても結末は変えられない。一度殺された俺には手にした極みももう残っていない。在るのは勝者たる彼女に献上するだけの証としての肉体だけ。
どうしようもないくらい無力な俺。
まるでかつての何も出来なかった私のよう。
だから殺されるしかない。
殺されて、そして愛した少女が世界を殺すことなく死ぬのを見守るしかない。
そんなの、嫌だ。
絶対に、そんなことは嫌だ。
死ぬなよエヴァ。
俺を殺して、殺し続けろよ。
嫌だ……。
嫌だ……!
嫌だ!
死ぬな! 死ぬなんて許さない! 互いに愛した修羅場を終えた後も、お前がいつまでも殺し続けてくれると信じているから俺は殺されるんだ! なのに俺を殺したお前がお前自身を殺すなんて嘘じゃないか! 止めてくれ! 俺はどうなってもいい! 斬撃を殺された俺がどうなろうと構わない!
だから頼む!
死ぬな!
死ぬなよ!
死なないでくれよ!
それでも……!
それでもお前が……!
俺を殺して死ぬのなら……!
「俺がお前を……」
斬る。