夏の朝日が射し、十時を過ぎた頃。
秋葉原駅周辺には観光客やサラリーマン、メイド喫茶の宣伝のためにビラを配るメイドのコスプレをした若者等、多種多様な人間で溢れ帰り賑わっていた。ここ秋葉の街ではごく当たり前の光景だ。
その中に一つ、高くそびえ立つ高級マンションがあった。まだ真新しいその外見は、見上げれば首を痛めてしまいそうな程だ。最上からの眺めはさぞ爽快であろう。
その十五階中央に位置する一室から、一人の女性がコーヒー片手に街を俯瞰していた。
薄く茶色に染まった長い髪の毛。白く透き通った滑らかな肌。美しく整った目鼻口。まるで人形のように優美なその容姿は、そうお目には掛かれないものであろう。
明眸皓歯なこの女性の名は、
そんな彼女が秋葉の街に暮らしてから、本日をもって丁度二年の月日が経っていた。部屋から見下ろす景観も見慣れたもので、どこに何があるのかわかってしまうほどだ。
だというのに、美璃花は飽きもせず、毎日のように街を眺めていた。今日も同じように外を綺麗な瞳で眺めている。
「お嬢様、出発の準備が整いました」
すると、一人の女性が荷物を持ち、部屋に入ってきた。
艶のある黒髪を持ち、美璃花に負けず劣らずの容姿。使用人であり同居人であり、親友でもある不思議な関係にあるこの女性の名を、
「友佐、ありがとう」
「いえ、これが私の仕事ですから」
荷物をソファーの上に置くと、壁に掛けられた時計を確認する。時刻は十時半を回っている。
「お時間はまだよろしいのですか?」
「ええ、どうせ愚痴を聞くだけだもの。それに時間を指定してこなかったし」
美璃花の今日の予定は、数々の相談を持ち掛けてくる、腐れ縁のような人物と銀座で会うことだ。
銀座までは電車を使うつもりでいるため、手間は少しばかり掛かるが、時間はあまり掛からない。
何より相手がいつもの集合場所に何時に現れるのかわからない以上、真夏の日差しの中を動く気にはなれなかった。
そんな心中を察した友佐は、何も聞くことなく部屋の片隅で、外を眺める美璃花を観察するかの如く見つめた。
が、ふと口を開いた。
「お嬢様は何故、毎日外を眺めているのですか?」
友佐の問いに、美璃花は暫し黙した。
彼女は一体何を見据えているのか。ふと気になっていたことを、友佐は問いかけてみる。
「好きだからよ、ここから眺める景色が」
ごくごく平凡な答えだった。
だが長い付き合いの友佐は、その平凡な答えの中に深みがあることを感じ取っていた。故に問う。「何故、好きなのですか」と。
すぐに返答はなかった。
暫し考えるように口元に手を当てると、漸く美璃花は開口した。
「そうね、例えばあなたは何故私に仕えてくれているのかしら?」
「それは勿論、お嬢様と一緒にいる時間が好きだからですが」
「それと一緒よ。私も、この景色を眺めている時間が好きなのよ。それ以外に理由を求められても困るわ」
なるほど。確かに、自分も何故一緒にいる時間が好きなのか問われれば、楽しいからだとか、そういう漠然としたことしか思いつかない。
友佐は少し納得した。
反面、納得のいかない部分もあった。目の前の支配人は、自分とは別の何かを見ている。同じ景色を見ても、それぞれが違う物を視界に入れ、感じるように。
それがなんなのか、友佐は知りたい気持ちに駆られた。
と、その時だった。美璃花の携帯の着信メロディが鳴り響いた。
友佐は慌ててソファーの荷物を漁ると、呼び出しの鳴っている携帯電話を美璃花に渡した。
「はい、もしも――」
通話ボタンを押し、スピーカーに耳を当てた瞬間、奥から怒鳴る声がこれでもかと響いてきた。そのボリュームに思わず耳を離す美璃花。
「ちょっと、怒鳴ることないでしょう?そもそもあなたが時間指定しないのが悪いんじゃない。え? 今から新宿に来い? 別にいいけど、少し時間掛かるわよ?」
そんな内容の通話に聞き耳を立てながら、友佐は先ほど美璃花が眺めていた景色を見る。何の変哲もない、いつもの秋葉の景色。それ以上でもそれ以下でもない。
「はいはい、わかったわよ。聞いてあげるし奢ってもあげるから、店の前で待ってなさい」
そう言って電話を切ると、美璃花は深いため息を吐いた。
「全く、いつもと違う場所を指定するは怒鳴りつけるは、ホントやりたい放題ねあいつ」
「それだけストレスが溜まっているのですよ。以前お会いした時、お嬢様には頭が上がらないと仰ってました」
「……一体どの口が言うのだか」
コーヒーを飲み干すと、呆れた表情で美璃花はソファーの荷物を手に持った。
「あ、駅までお持ちします」
「そう?ありがとう」
「……いえ」
美璃花は洗面所の鏡に向かうと、素早く歯が綺麗かを確認。次に髪の毛を整える。
その間、友佐は美璃花の荷物を手に玄関で靴を履く。そして美璃花の靴だけが入った棚の戸を開いた。
「さ、行きましょうか」
「今日はどの靴に致しますか?」
「そうね……友佐が決めて頂戴」
そう言われ、友佐は美璃花の服装をまじまじと見た。
胸の辺りに薄い黒字で大きく「enjoy」と書かれた薄手の白いTシャツ。その上に白のパーカーを羽織り、下にはまだら模様灰色のミニスカート。靴下は履かず、素足のままだ。
「……そうですね」
友佐は考える。今彼女が着ている服にぴったりな物はなんであろうかと。
「これなんてどうでしょう?」
そう言って取り出したのは、黒の厚底サンダルであった。
「どうしてそれなの?」
「今の服装に丁度よいかと」
「ふーん……ちなみに私は青のスニーカーがいいかなと思っていたわ」
笑って言うと、美璃花は友佐が出した黒いサンダルを履いた。
マンションを出た美璃花と友佐の二人は、秋葉の街を歩き駅に向かっていた。美璃花が前を歩き、友佐はその数歩後ろを歩く。
時刻は十一時を過ぎていた。もうすぐお昼時というのもあってか、周囲は町を眺めていた時よりも人混みで一杯だ。
「……友佐、暑いのだけど」
「夏ですからね」
「……なんであなた、そんな涼しそうな顔しているのかしら?」
「私ですからね」
外に出るとすぐ感じたのは、茹だるような暑さであった。
天気予報によると、今日の最高気温は30度くらいになるらしい。のだが、人混みのせいで、それ以上の熱気を肌が感じている。
まだ外に出て間もないというのに、美璃花の額にはすでに、薄らと汗が付着していた。
「まったく、何でこんな暑い日に行かなきゃいけないのかしらね」
「別に断ることも出来たでしょうに」
「まあ、そうなのだけど」
呟き、ふと美璃花は立ち止まった。
それを不思議に、首を傾げる友佐。
「どうかしましたか?」
答えはすぐには返って来なかった。
立ち止まり、周囲をゆっくりと見渡す。その双眸は、どこか懐かしさを感じているようにも見える。
「お嬢様?」
二度目の問いかけで、美璃花は反応した。
「ごめんなさい。ちょっと昔のこと思い出したの」
「昔のことですか?」
「ええ、とっても昔のこと」
そう言って微笑を溢すと、美璃花は再び歩きだした。
呆気に取られていた友佐は慌てて追いかけると、隣を歩き始める。
「気になるのかしら?」
美璃花の問いに、友佐は無言で頷いた。
「……わかったわ。そうね、今私たちが歩いているここが、昔は電気街だったことは知っているでしょ?」
「はい、当時の風景を直接目にしたことはありませんが」
「私も直接見たことはないわ。でも、写真を見たことはあるの。父が撮ってきた写真を」
そこで友佐は理解した。先ほど立ち止まったのはきっと、その写真の風景を思い出したのだろうと。
「全然違った風景をしていたわ。ビラを配るメイド服の姿も、同人関連のお店も、ビルの窓に大きく貼られたアニメの広告も、今の風景にある当たり前の物が何一つなかったわ。代わりにあったのは、コンピュータの基盤とか、今の時代の人があまり手にしないような物ばかり」
美璃花の話を横で聞きながら、友佐は当時の風景を思い浮かべてみた。
そこに広がったのは全く別の風景だった。これまでに見たことのない景色が、想像の中に転写された。
「部屋の中で聞いたわよね?どうして街を眺めているのかって。あそこから見ているとき、つい考えてしまうのよ、いつも。今私が見ている風景を他人が見たら、一体どう感じるんだろうって。そして今も考えている。昔の風景を知る人が、今の街を見たらどう思うのだろうって」
美璃花は再び立ち止まると、手をかざして空を見上げた。雲一つない、快晴の空模様。しかし、この空も自分以外の人間が見たら、きっと違う風に写るのだろうと、そう彼女は感じている。
「同じ人間でも、人が違えば見方も違うわ。例え同じ見方をしているように思えても、どこかに必ず違いがある。全く同じ見方をしている人なんて、全人類を探しても見つかることなんてない」
「……そうですね」
友佐はふと、美璃花が見ていた景色を眺めた時を思い出した。特に何かを感じることがなかった一方で、美璃花は何かを感じていた。
それがわからない自分は、まだ彼女との距離を縮めることが出来ていないのだと、友佐は思っていた。
「それが当たり前なのよ。人が違えば見方も違うのだから、完全に相手のことを理解することなんて不可能だわ。その結果、人と人との間に見えない壁が生まれるの。どう足掻いても消すことの出来ない壁が」
「……壁、ですか」
そう、不可能なのだ。小鳥遊 美璃花のことを真に理解することなど。
友佐は悔しい気持ちになった。と同時に、もっと知りたいという欲求が現れた。
「では、お嬢様はどうしているのですか? 普段お嬢様は、人と接する時どのようなことを考えているのですか?」
「私はそうね。出来るだけ相手に近づけようとしているわ」
「近づける……ですか?」
ええ、と言うと、美璃花は語り始めた。
「最初は勿論、自分の思ったことを口に出したりしている。でもその後の相手の意見で、相手がどう思ったのかを考えているわ。そうやって出来るだけ相手に近づくの」
でも、
「近づくだけじゃ駄目よ。時には相手と距離を置くこともする。そうやって一定の距離を保つの。例えばそうね」
そう言うと、美璃花は道行く車を指さした。
「ほら、あの車を見てみなさい?前の車が遅いからといって、車間距離を縮めているわ。あれじゃ、前がもし急ブレーキを掛けたときには事故になるかもしれない。時には相手に合わせることも重要なのよ」
確かに、美璃花の言うとおりだ。
自分の行動や思想だけを押しつければ、人と人はぶつかり合ってしまう。中にはそうならない者もいるが、その場合はどちらか一方にストレスが溜まる。
その結果溜まったストレスを発散すべくあらぬ事をする輩も現れるという、負の連鎖が起こってしまうのだ。
友佐はそう思うと、悲しくなった。
「人の心って、車に似ていると思わない?車という〝物〟を知っていても、それを操っている〝者〟のことは知らない。人の心も、表面を知ることが出来ても、その奥底は知ることは出来ないもの」
「そうですね。そう言われると似ているかもしれません。ですが、人は車と違って近づかないといけない時があるのでは? 相手と一定の距離を保つだけでは、何も変わらないと思うのですが」
友佐の発言に、美璃花は微笑んだ。
「そう、その通りよ。それでは何も変わらないわ。その人との関係も何も。だからこそ考えるのよ。如何にして、相手との見えない壁を壊そうとするのか、その方法を」
そこまで言うと、美璃花は友佐に笑い掛けた。何かを期待するかのような眼差しで。
「あなたなりの方法を探しなさい。私のやり方はただ怯えて諦めているだけの方法。だけど、あなたならきっと誰かの心の壁を壊すことが出来る、その方法を見つけられる」
「……お嬢様、ですが私は」
何かを言おうとして、友佐は止まった。「自分はあなたのことを理解できていない」などと、口が裂けても言えなかったからだ。
と、その時、美璃花の携帯が鳴った。鞄から取り出すと、着信相手は先刻電話を掛けてきた彼女の友人だ。
美璃花は「やば」と思わず声を漏らした。
鳴り止まない着信音。恐る恐る通話のボタンを押し耳に当てた。
「もしも――」
言い切るよりも早く、先ほどよりも強い怒鳴り声が、美璃花の耳に飛んできた。
「ごめん。地下鉄が意外と混んでるのよ」
勿論嘘である。
「ええ、そう、うん」
「あの、お嬢様。お時間がないのでしたら車でお送り致しましょうか?」
「それには及ばないわ。あ、こっちの話よ。わかったから、ちゃんと奢ってあげるから適当に頼んで食べてなさい。もうすぐ電車に乗るから。ええ、それじゃあ」
電話を切ると、美璃花は大きなため息を吐いた。どうやらなんとか相手を宥めることが出来たらしい。
「いい? 距離を間違えるとこうなるから」
「すみません、私のせいで」
「別にあなたのせいじゃないわ。ほら、急ぎましょう。これじゃ、夜になるまで愚痴を聞くことになりそうだから」
「……そうですね。あの方ならやりかねません」
このとき友佐は、「ちなみにあなたには心を開いているのよ」と美璃花が言っていたことには気がついていなかった。
駅には走れば五分もせずに辿りついた。
急ぎ足で切符を借り、山手線のホームに下りる。これに乗れば、銀座までとは違い乗り換えをせずに済む。それだけは救いのような気がする。この時、美璃花の体は、走ったせいで汗だくになっていた。
「……着替えたい」
汗のせいで少し透けて見える服。如何にもな状態に、美璃花は決まりの悪い表情をした。
「大丈夫です。そのお姿なら男どもも悩殺ですわお嬢様」
「どこが大丈夫なのよ。あとなんであなたはそんなに涼しそうな顔しているのよ。汗も掻いてないし」
「私はお嬢様と違って体力がありますから」
悪びれもなく、さも当たり前のように言った。それを聞いた美璃花は、余計に居心地の悪い気分になった。
「どこかジムにでも通おうかしら」
「あ、電車が来ましたよ」
友佐の言う通り、電車が左の方からやってきた。待っている人の目の前に扉が来るよう停車し、メロディとともにドアが開いた。
「こちら、荷物です。お気をつけて」
「ありがとう。留守はお願いね?」
「はい。是非楽しんできて下さい」
「あんまり楽しめそうではないけどね」
そう苦笑すると、美璃花は電車に乗った。席に座ったのと同時に、扉が閉まる。
「あ、そうだ」
ふと思い出したように携帯を取り出すと、SNSサービス「LINE」を開き、なにやら書き込みを始めた。「よし」と彼女が呟いた時、電車はすでに発車し、友佐の姿が見えなくなっていた。
一方で、美璃花の乗る電車を見送った友佐は、帰路に着いていた。
丁度駅の出口に差し掛かった時、ふと彼女のスマートフォンの着信通知が鳴る。
なんだろうと首を傾げながら画面を点けると、美璃花からのショートメールの通知があった。
開いて見ると、内容は「今日はあなたと暮らすことになって丁度二年目だから、二人でお祝いでもしましょう」というもの。その後ろには、彼女があまり付けることのないハートマークがある。
「これは、腕を振るわないといけませんね」
笑うと、友佐は駅から出た。
外に出た友佐は、なんとなく手をかざして空を見上げる。
雲一つない快晴の空。何の変哲もない、ただの青空だ。
だがこの時友佐は、美璃花が見ていたものと全く同じ空を見ていた。
どうも、お前は何をやっているんだと自分に言いたい、不屈の心です。
今回、本当になんとなく、大学の方に提出したものを投稿しました。完全に気まぐれの投稿ですが、大学の先生に笑われないよう書いたつもり(あくまでつもり)の作品です。そのため、私が投稿している「蒼穹の戦姫」とはまた違った印象の物なんじゃないかなと思っていたり、いなかったり。
ともあれ、この作品を読んで頂きありがとうございます。
ちなみに主人公は両方で、この二人の話を書いている最中ですが、どうしてこうなった状態の設定な上に、一話で十万文字超えている謎状態(しかもまだ書いている途中)なのでこちらに上げることはないかなぁと思っております。わかりませんが。
では最後に一言。メイドって最高だよね。