オーバーロード~狼、ほのぼのファンタジーライフを目指して~ 作:ぶーく・ぶくぶく
/*/ 最古図書館
無音の空間に、羊皮紙の擦れる音だけが響いていた。
無数の蝋燭に照らされた半円形の書庫、その一角。
カジット・デイル・バダンテールは、今日も黙々とペンを走らせていた。
第4位階まで記録可能な羊皮紙の改良はすでに完成している。
次は第5位階――いや、それ以上も夢ではない。
ふと、手を止める。
……母は、今ごろ何をしているだろうか。
カルネ・ダーシュ村の小さな家。
薪を割る音、鶏の声。
あの人は、何も知らず平凡な日々を楽しんでいる。
「死んだはずの我が子」が神に選ばれ、己の蘇りを与えられたなど夢にも思わずに。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
かつて彼を突き動かした焦燥と絶望は、今や穏やかな感謝に溶けていた。
神は不敬を赦し、母を蘇らせ、知を授けてくださった。
己はただ、この図書館で研究を積み重ね、恩寵に応えるのみ。
「……母上。どうかご安心を。私は、ここで幸せに生きております」
独り言のように呟き、再びペンを走らせる。
死者の図書館に、羊皮紙の音が静かにこだました。
/*/最古図書館
半円の天井に描かれたフレスコ画は、天上の神々と大地を覆う死の調和を描いていた。光なき炎に照らされる巨大な丸卓を囲むのは、かつて王国を滅ぼした大魔導師、千の秘術を極めた賢者、禁忌の霊薬を完成させた錬金王……いずれも今は骨の指に魂火を灯すエルダーリッチとなり、不滅の研究者として死の神の庇護の下に集っている。
「……第六位階以上を記録できる媒体は、未だ不可能か」
「いや、素材に〈竜骨の薄膜〉を使えば理論上は可能だ。ただし、供給が限られる」
「竜骨か。ならば、竜種の死骸を供物として得る必要があるな」
交わされる声は低く淡々としているが、その一言一句に、国を滅ぼすに足る知識と破壊力が宿っていた。
カジット・デイル・バダンテールは、その輪に並ぶ自分の姿を、今でも夢のように感じる。
かつては法国の枢機卿に近い立場を持ちながら、神に背を向け、失意と後悔のままに生きてきた男が、いまや死者の大魔法使いたちと机を囲んでいる。
「カジット。お前の羊皮紙術は有用だ。死の神の御業を広める礎となろう」
隣に座る蒼白なローブのリッチが声をかける。
「恐縮です。しかし、私はまだ母の蘇生を果たしたばかり。せめてこの研究で、神の御心に報いたい」
一瞬、卓の上に沈黙が落ちた。
だがやがて別のリッチが、骨の顎をかすかに動かす。
「……母。人の情を持ちながら、なお我らの列に加わったか」
「それでこそ神の慈悲の証左だ」
「生者に未練を残しながらも、知のために己を捧げる。矛盾を抱えた存在ほど、深き探究者にふさわしい」
数体のリッチが静かに頷く。魂火の明滅が賛意を示すように、淡く光を強めた。
カジットは胸の奥に熱いものを感じながら、石板に記録を刻み続ける。
死の神の慈悲によって母はカルネ村で平和に暮らし、自分はここで不滅の研究に没頭する。
互いの存在は交わらない――それでも、その隔たりがあるからこそ安心できるのだ。
「……母上。あなたの安らぎのために、私はここで学び続ける」
ペン先を走らせながら、カジットはそっと心中で呟いた。
死者たちの議論に混じり、永遠に積み上げられる知の塔の一角に己を刻む。
それこそが、死の神より与えられた新しい「生」なのだ。
/*/最古図書館・研究区画
カジット・デイル・バダンテールは、山のように積み上げられた巻物と石板に囲まれ、黙々と羽根ペンを走らせていた。
だが手元の実験台に広げられているのは、羊皮紙でも竜骨の膜でもない。
ふわりとした、灰色のフェルト。
「……これが、至高の御方ジョン・カルバイン様の抜け毛をもとに加工されたという"フェルト繊維"か」
彼は手袋越しにそっと撫でた。柔らかさの奥に、妙な強靭さと、微かな魔力の脈動を感じる。
鍛冶長の報告によれば、この繊維を練り込んだ合金は通常のアダマンタイトすら凌駕し、ウルフ竜騎兵団の装備を一段階上の域へと引き上げたという。
「もしや……巻物の媒体としても応用できるのではないか?」
羊皮紙や竜骨膜では、どうしても第六位階以上の呪文は定着せず、流れ落ちてしまう。
だが、この"至高の御方由来の繊維"なら、魔力の奔流を捕え、固定することができるのではないか――。
彼は小刀でフェルトを薄く削ぎ、幾重にも圧縮し、試行錯誤を繰り返す。
魔力を通す度に、フェルトは淡く輝き、奇妙な抵抗と共鳴を見せた。
「なるほど……確かに羊皮紙とは異なる。これは"生きている媒体"だ……」
机上の試作巻物に〈ライト〉を刻むと、文字は鮮烈に輝き、通常の羊皮紙よりも数倍長く持続した。
「やはり……! これなら第六位階以上も――」
期待に胸を高鳴らせながらも、カジットはすぐに手を止めた。
軽々しく至高の御方の御遺物を消耗してよいのか、という畏れが頭をもたげる。
「……いや、これは死の神の御心に適う研究だ。至高の御方の恩寵を無駄にすることはない」
魂火を宿す同僚のリッチたちが、少し離れた場所から無言で作業を見守っている。
やがて一体が骨の顎を動かし、低く告げた。
「カジット。その試みは、神秘の新たな門を開くやもしれぬ」
「だが同時に、至高の御方の力を受け止める覚悟を問うだろう」
カジットは深く頷く。
「覚悟なら、既にある。母上の蘇生を許されたこの身、全てを神へ、至高の御方へ捧げよう」
再び彼は手を動かす。
フェルトは、紙に近づくごとに微かな星のきらめきを宿し、まるで天の帳を薄く切り取ったかのような輝きを放ち始めていた――。
/*/最古図書館・研究区画
フェルトを薄く加工し、紙状に圧延した試作品を机に固定する。
カジットは深呼吸を一つ置くと、慎重に〈ディスインテグレイト/分解〉の呪文構文を刻み始めた。
黒い羽根ペンの先から滴るインクは、まるで引き寄せられるかのようにフェルト紙へ吸い込まれ、呪文の文様を形成する。
従来の羊皮紙なら途中で破け、もしくは魔力の過負荷で燃え尽きるはずだった。
しかし、今回は違った。
「……耐えている……!」
フェルトは淡い脈動を放ちながら、あたかも"呼吸するかのように"収縮していた。
描かれた魔術式が光のルーンとなり、まるで生きているように浮遊して紙面に定着していく。
周囲にいたエルダーリッチの一体が、空洞の声で呟いた。
「……媒体そのものが、術式を"食っている"……」
別のリッチも魂火を瞬かせる。
「これは巻物ではなく……むしろ"魔導生物"だ」
カジットは冷や汗をかきながらも、最後の符号を書き終えた。
次の瞬間――試作品は、ふっと震え、宙に浮かび上がる。
巻物は勝手に解かれ、呪文が発動した。
机の端に置かれていた古い鉄片が、灰と化して散る。
カジットはすぐに制御の呪文を唱え、辛うじて暴走を食い止めた。
「……自動発動……? いや、これは……媒体が自ら"術式を吐き出した"のか……」
フェルト紙は完全には消滅せず、灰色の破片となって床に散らばった。
それらの断片は、なおも微かに星光のような輝きを放っている。
リッチの一体が、満足げに頷いた。
「至高の御方の御毛髪……やはり、我らが理解を超える聖遺物。扱いを誤れば研究者すら飲み込もう」
カジットは崩れた残骸を拾い上げ、胸に抱く。
「……それでも……これこそが、新たな可能性。死の神の御心に適うものならば、必ず完成させてみせる」
彼の魂火が熱を帯び、机上の記録は次々と更新されていく。
星の帳のごときフェルト紙――それはやがて、"第六位階以上を封じ得る唯一の巻物"へと昇華するかもしれなかった。
/*/最古図書館・研究工房
カジットは、巨大な紙漉き桶を覗き込んでいた。
中では、漉き溶かした草の繊維が渦を巻き、淡く泡立っている。
そこに――至高の御方ジョン・カルバイン様の聖遺物、フェルトの切片が投げ入れられた。
「これならばコストを抑えられるはずだ。紙の繊維に少量を混ぜ込む……ただそれだけで、魔力耐性を持つ媒体ができるはず」
彼は櫂で慎重にかき混ぜ、薄い網にすくい上げる。
やがて乾燥し、灰色を帯びた紙片が姿を現した。
一見すれば、ただの羊皮紙に過ぎない。
だが、ペンを走らせた瞬間――
「……ごわごわして、ペン先が引っ掛かる……」
硬い。紙というより、革を無理に伸ばしたような書き味だった。
インクは吸い込まれるが、線がかすれ、呪文構文が安定しない。
「ならば、もっと繊維を細かく……毛を潰して混ぜれば……」
カジットは次の工程に移った。
聖遺物フェルトを石臼に置き、杵で叩き潰そうとする。
――びくともしない。
次に、刃を入れる。
アダマンタイトのナイフすら刃毀れを起こし、毛は一本も切れなかった。
「……馬鹿な……アダマンタイトすら通じぬ……?」
試しに実験炉へ放り込む。
竜炎の熱に晒されても、焦げ跡すら残らない。
むしろ逆に、淡い星光を帯びて輝きを増した。
「……これが……至高の御方の御毛……」
カジットは愕然としたまま、しばし立ち尽くす。
リッチ仲間の一体が、魂火を揺らしてつぶやいた。
「凡俗の道具では、至高の御方の一部を加工するなど不可能だ」
「むしろ、そのままの形で祀るべきものかもしれぬ」
別のリッチも静かに言葉を重ねる。
「神の御毛を"潰して混ぜる"などという発想そのものが、信仰と背中合わせの狂気よ……」
だが、カジットは眼を爛々と光らせ、杵を握り直す。
「……ならば……ならば、神に届く加工法を見つけ出すまでだ!」
彼の声は、狂気か祈りか分からない熱に満ちていた。
紙漉き桶の中の灰色の繊維は、淡く星のように瞬き、まるで研究者の執念に応えるかのように蠢いていた――。
/*/最古図書館・実験工房
「潰せぬなら、合わせればよい」
カジットは深夜の工房で、灰色の巻物用紙を見つめながらつぶやいた。
ペン先が引っ掛かる。インクが走らぬ。
ならば紙を変えるのではない――書く側を変えるのだ。
彼は幾本もの羽根を並べた。
コカトリス、ワイバーン、グリフォン。
どれも魔力伝導率の高い羽根だが、いずれも御毛の紙には弾かれた。
「やはり、凡百の羽では駄目か……」
思案の末、彼は一計を案じた。
フェルト繊維を一本――巻物から慎重に引き抜く。
その断片は、なおも星明りのような輝きを宿している。
「……ならば、ペンそのものに御毛を組み込めば……」
カジットは羽根の軸を裂き、そこに繊維を埋め込み、魔術で融合させた。
やがて完成したのは――異様な羽ペン。
羽根の先端に、灰色の繊維が淡く光を放ちながら突き出している。
試しにインクをつけ、御毛紙に走らせる。
――するり。
まるで氷の上を滑るように、引っ掛かりは消えた。
むしろ通常の羊皮紙よりも、格段に滑らかだ。
「……か、書ける! 構文も滲まぬ! これなら第七位階以上も……!」
喜びに打ち震えるカジット。
彼は立ち上がり、ペンを掲げた。
「至高の御方の御毛に、御毛で作られた筆――これこそ完全調和! 神の御業を記すに相応しい聖筆なり!」
リッチ仲間のひとりが呟く。
「……正気か狂気か、もはや我らにも判別がつかぬ」
別のリッチも頷く。
「だが……成果は本物だ」
カジットは振り返り、淡い魂火を燃やす死の研究者たちを前に宣言する。
「私は必ず、この筆で――神の御言葉を記し、至高の御方に捧げる書を完成させてみせる!」
その声は、最古図書館の天井に反響し、フレスコ画の神々の影を揺らした。
/*/最古図書館・実験工房
黒曜石の台座に載せられた巻物が、まるで心臓の鼓動のように脈打っていた。
カジット・デイル・バダンテールの骸骨の手が握る御毛羽ペンは、いまだ淡い輝きを宿している。
「……書けた。第七位階《蘇生》が、巻物に……!」
骸骨の顔には表情はない。だが、胸郭の奥の魂火は激しく揺れていた。
羽ペンで刻んだ構文は完全に記録されている――だが同時に、制御を越えて発動が始まっていた。
「……発動……!?」
巻物が勝手に広がり、工房の床に置かれていた死骸へ光が降り注ぐ。
次の瞬間、干からびた体が息を吹き返し、目に生気を宿した。
「……なんという……巻物そのものが神の奇跡を解き放つとは……」
周囲のエルダーリッチたちが魂火を揺らし、ざわめく。
「制御の限界を超えている……だが成功だ」
「これを御心に適う形で運用できれば、第七位階の常用化が現実となろう」
カジットは骸骨の手を胸に当て、静かに祈る姿勢をとった。
「――慈悲深き死の神、アインズ・ウール・ゴウン様。
既に母を蘇らせ、村で安寧の日々を与えてくださった御恩、
この成功をもって、再び御前に捧げます」
魂火は深く、熱を帯びた。
母はもう生きている。自分が追い求めるべきは、己の情のためではなく――
「神の御業を拡張すること」こそ、今の使命だ。
巻物は淡く光り続け、制御の甘さを訴えるかのように紙片を震わせていた。
カジットはそれを見据え、次なる課題を冷静に言葉にする。
「……二重封印式の導入。魔力の逆流防止。
この奇跡を、確実に人の手で扱える形に――必ず仕上げてみせる」
骸骨の眼窩に宿る魂火は、研究の炎として強く燃えていた。
/*/最古図書館・実験工房
半ば焼け焦げた巻物を前に、骸骨の学者カジットは長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……いや、違うな。問題は"完成してしまっている"からだ」
淡い魂火が眼窩の奥で揺らめく。
すでに書き終えられた魔術構文は、巻物そのものが術式の核として振る舞う。
ならば――完成を遅らせればいい。
「構文の要、定型化されている詠唱の一部を……あえて欠けさせておく。
使用者が指で押さえ、魔力を流し込んだ時――初めて式は完成し、発動する……」
周囲のエルダーリッチたちがざわめく。
「なるほど、使用者を回路の一部とするのか」
「巻物自体を器にせず、人を"鍵"にする……斬新だ」
カジットは試作巻物を机に広げると、御毛羽ペンで走り書きをした。
構文の終端を空欄にし、そこに〈接続符〉を記す。
「……これで、勝手に発動することはないはず」
巻物に指を当て、魔力を通す。
次の瞬間――欠けていた構文が一瞬にして完成し、強烈な魔力の奔流が走った。
だが、今度は暴発せず、完全に制御された形で発動する。
「……成功だ。第七位階どころか、理論上は第十位階魔法までも納められる……!」
魂火が燃え盛り、骸骨の胸郭が熱を帯びる。
「慈悲深き死の神よ……この知識を、より高き御業へと捧げます」
エルダーリッチたちは互いに頷き合う。
「人を回路に組み込む。これぞ人間的な執念の応用だな」
「神の図書館に、新たな知の扉が開かれた」
カジットは静かに巻物を巻き直し、次の研究課題を記録する。
「――これで、いずれは"死者蘇生"すら日常の技術となる。
神の慈悲を広める礎……必ず成し遂げよう」
/*/モモンガの執務室
机の上に置かれた分厚い報告書を、モモンガとジョンが並んで読み進めていた。
ページをめくるたびに、時折「ぱさっ」と羊皮紙が鳴る。
モモンガの眼窩の光が揺れた。
「……え? ジョンさんの毛を混ぜ込んで作った巻物が、勝手に魔法を発動する? 一種の魔法生物のように振る舞っている、と……」
ジョンは苦笑して頭を掻く。
「いやいや……俺の毛から作ったフェルト繊維が原因? そんなバカな……」
モモンガは書類を読み直し、淡々と呟いた。
「本体に似て、一番面白い場面で暴発させそうですね」
「おい、なんだよその妙に的確な言い方は!」
ジョンは思わず吹き出し、二人の間に笑いが広がる。
だがすぐに真顔に戻り、報告書の後半へ目を走らせた。
「……ただ、確かにカジットの工夫は理に適ってる。構文を"欠けた状態"で記し、使用者が触れることで完成させる……これなら暴発は抑えられる」
モモンガも頷いた。
「第七位階まで成功している……彼の理論では、第十位階魔法すら記録可能か。
我々のギルドですら、スクロールに第十位階を封じるのは不可能だったというのに……」
ジョンは報告書の末尾を指で叩く。
「……そしてここだ。"第十位階魔法を実際に記録する実験を行いたい。至高の御方の協力を賜りたい"……」
しばし沈黙。
モモンガは腕を組み、思案げに呟く。
「……第十位階魔法の巻物か。もし成功すれば、ナザリックの戦略資源としても計り知れない価値がある」
ジョンは小さく笑った。
「カジットめ……母親を蘇生してもらった感謝を、成果で返そうってわけか。いい心がけだな」
モモンガは小さく頷いた。
「彼が望むなら……我らが力を貸してやるのも悪くはない。
もっとも――第十位階を試すなら、場所と準備は慎重に選ばねばならんが」
/*/ナザリック大闘技場
黒曜石の観覧席に、エルダーリッチや研究者たちが並び、静まり返った空気が支配していた。
中央の円形闘技場には、巨大な防御結界が張られ、その中にカジット・デイル・バダンテールが立っている。
彼の骸骨の指には、あの「至高の御方フェルト繊維強化型巻物」が握られていた。
羊皮紙に刻まれた文様が、まるで脈動するかのように淡く輝いている。
観覧席でモモンガが声をかける。
「カジット。実験対象は《第十位階怪物召喚/サモン・モンスター・10th》だな?」
「はい、慈悲深き死の神よ。攻撃系魔法では暴発時に危険が大きいと判断しました。召喚ならば被害は限定的。ここは闘技場ですので、召喚されたものが暴れても被害は最小限で済みましょう」
ジョンが腕を組み、にやりと笑う。
「……暴発して、いきなり古竜でも出てきたら笑えねぇけどな」
カジットは頭を垂れた。
「その時は、私の命をもって責を果たします」
モモンガは穏やかに首を振る。
「そのようなことはさせん。実験は慎重に、だ」
合図と共に、カジットは巻物を広げた。
――記された構文の一部が、わざと欠けている。
骸骨の指がそこを押さえた瞬間、巻物全体が震え、黄金のルーンが奔流のように走り出す。
「発動します――《第十位階怪物召喚》!」
眩い光と共に、闘技場の中央に巨大な魔法陣が浮かび上がる。
空気が歪み、耳をつんざく咆哮が響き渡った。
結界の中に、六本腕を持つ巨獣が姿を現す。
蒼白の炎に包まれ、闘技場を揺るがすその巨体は、確かに第十位階の存在だった。
観覧席にざわめきが走る。
「……成功、か」
モモンガの眼窩の光が揺れた。
ジョンは低く口笛を吹く。
「やるじゃねぇか、カジット。第十位階をスクロールに封じるなんてな」
カジットは巻物の灰を手に収め、深く跪いた。
「これも全て、至高の御方の御加護あってこそ。死の神と偉大なるジョン・カルバイン様に、この命尽きるまで尽くすことを誓います」
/*/ナザリック大闘技場
六腕の巨獣は、召喚者の意志に従って静かに膝を折った。暴走の気配は一切ない。
カジットは胸の奥――もはや鼓動はない骸骨の胸郭に、確かな昂揚を覚える。
「……制御は完全。帰還命令を」
指を払うと、巨獣は淡い光に包まれて霧散した。
闘技場の床には、ただ魔法陣の残滓だけが瞬いている。
モモンガが小さく頷いた。
「問題なく消滅……召喚魔法としては正常に働いているな」
ジョンが顎を撫でながら巻物を見やる。
「だが、お前の巻物、まだ光ってやがるぞ」
カジットは慌てて広げ直した。
確かに、インクはわずかに色褪せているが、構文は崩れていない。
むしろ、紙面そのものが淡い脈動を刻み、再び発動を促すように見える。
「……残り、二度。試させていただいても?」
モモンガの眼窩の光が細くなった。
「ふむ……暴発の危険は残るが、ここは闘技場だ。良かろう」
再びカジットは指で欠けた構文を押さえた。
「――《第十位階怪物召喚》!」
二度目の光輪が走り、別の怪物が出現する。今度は全身を甲殻で覆った異形の獣。
観覧席からどよめきが上がる。
再び従順に膝を折る怪物を見届け、消去命令。
そして三度目。
「――《第十位階怪物召喚》!」
轟音と共に現れたのは、黒翼を広げた魔禽の王。
巨大な影が闘技場を覆うが、その瞳はカジットを主と認め、静かに翼を畳んだ。
三度の召喚を経て、巻物の表面はほとんど色を失い、灰色に近づいていた。
だが、インクの残滓は「なお改良すれば再利用可能」と訴えかけるようでもある。
カジットは骸骨の指で紙面を撫で、感極まったように跪いた。
「……三度も。至高の御方の毛髪を織り込んだ奇跡の紙は、なお息づいております。インクの精製を改良すれば、この巻物は単なる消耗品ではなく――繰り返し使える"至高の御方の魔導器"と成り得るでしょう!」
モモンガが軽く頷き、眼窩の光を細める。
「面白い……スクロールが"魔法生物"から、"半ば神器"に近づいているな」
ジョンは笑みを浮かべて、肩をすくめる。
「こいつぁやべぇ。俺の毛が元で、またとんでもねぇモノが出来ちまうのかよ」
観覧席のエルダーリッチたちがざわめき、研究の新たな可能性に目を輝かせる。
その中心で、カジットは心の底からの確信を得ていた。
――これは、自らの研究の到達点ではない。
むしろ、死の神と至高の御方の御心を広める、新たな始まりなのだ、と。
生きてるから新陳代謝するもんね
次回!
第126話:死者の書
ナコト写本とかネクロノミコンとか好きですよ