オーバーロード~狼、ほのぼのファンタジーライフを目指して~   作:ぶーく・ぶくぶく

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第153話:魔術師は探求者でもある

 

 

/*/ カルネ・ダーシュ村 ニニャの研究室 /*/

 

 

漆黒の剣の魔法使い、ニニャは窓際の机に座り、開きかけた魔法書を前に眉をひそめていた。少女ながら伝説的な第5位階魔法を習得し、〈転移〉を完全に使いこなせるほどの力を持つ。だが、それだけでは満足できなかった。

 

「時間……空間……もっと深く理解できれば、戦闘だけでなく、移動や防御、ひいては情報の収集まで幅が広がるはず……」

 

ニニャは呟き、指先で魔法陣を描く。机の上には〈転移〉に関する研究書が散乱していたが、いずれも基礎的な内容に留まるものばかりだった。時間や空間に干渉する魔法は古代の文献に断片的にしか記されておらず、彼女の手に入る資料はわずか数ページ。

 

「うーん……どうしてこんなに資料が少ないの……」

 

研究は行き詰まっていた。何度も魔法陣を描き、〈転移〉を応用して異なる空間や時刻に短時間干渉しようと試みたが、微細な誤差でも術式は暴走し、魔力の消耗は激しい。それでも諦めず、彼女は夜通し魔法書を読み漁り、過去の戦闘ログや古代遺跡の文献、そして師匠の残した断片的なメモを照らし合わせる。

 

「この理論、どこかにヒントがあるはず……」

 

机の隅に置かれた小さな水晶球が淡く光り、ニニャの魔力と呼応する。空間のひずみを読み取る装置の一部として、彼女は水晶球を通じて微細な〈転移〉の痕跡を観測していた。理論だけではなく、実際に現象を計測することで未知の法則を探る試みである。

 

しかし、何度も挑戦しても現状は限界に近い。魔力が枯渇する前に試験は終了し、得られるデータも断片的だ。それでもニニャは一歩も退かない。彼女の目は決意に満ち、わずかな光さえ見逃さぬ集中力を示していた。

 

「誰も解き明かせなかった……なら、私がやるしかない」

 

〈転移〉の研究は戦闘だけでなく、世界の理解そのものに通じる。ニニャは小さく息をつき、次の実験準備を始める。魔法陣を描き直し、空間干渉の微調整を施す。彼女の指先から放たれる魔力の波動は、夜の研究室に淡く反射し、未来の可能性をほのかに示していた。

 

「……時間と空間の壁、必ず越えてみせる……」

 

それは単なる魔法の追求ではなく、彼女自身の成長と、未知の世界への扉を開く戦いでもあった。夜の静寂の中、ニニャの瞳は希望と決意で光っていた。

 

 

/*/ カルネ・ダーシュ村 魔法研究室 /*/

 

 

ニニャが〈転移〉応用の研究に行き詰まり、机に頬杖をついていると、ジョンの声が外から響いた。

 

「ニニャ、少し話を聞いてくれ。お前に興味を持つ者がいる」

 

扉が開き、フールーダが入ってきた。黒髪を整えた壮年の魔法使いで、威厳に満ちた雰囲気が室内を支配する。年齢を感じさせない鋭い眼光と落ち着いた佇まいが、自然と周囲を圧倒した。

 

「君がニニャか……第5位階魔法を習得したとは、噂以上のようだな」

 

その後ろから、小さな影がひらりと飛び出す。赤茶色の髪を両側で三つ編みに結い、揺れるたびにインクのしずくがこぼれる少女――ネクロシアだ。額の横には小さな黒い角が生え、ゴシック風のドレスには古代文字が浮かんでは消えている。金色と黒の二重螺旋の瞳で、ニニャを覗き込む。

 

「じいじ、転移魔法ってこう……ひゅんって曲がったりしないの?」

 

無邪気な口調で質問するが、その声の奥には異界の知識と狂気が潜んでおり、聞く者の精神を微かに揺らす。

 

フールーダはニニャに向かってゆっくり歩きながら説明する。

「君の〈転移〉の応用は、時間と空間の干渉という点で、私の研究領域と重なる部分がある。資料は少ないが、理論的に検討できることがある」

 

ネクロシアは小さな黒羽のペンを宙に浮かせ、勝手に文字を描き始める。描かれた文字の一部は幻影や低位魔法となり、微細な光の波紋が室内を満たす。ニニャは最初戸惑ったが、フールーダの指示でその魔力波動を観測する。

 

「君の魔力制御は確かだ……応用範囲は広い。だが、いくつか修正すべき点がある」

 

フールーダがそう告げると、ネクロシアは無邪気に笑い、空中に文字を描きながら小さな幻影を飛ばす。

「じいじ、時間の渦にひっかかるのって、あれ……くるくる回るの?」

 

フールーダは微笑みながら、彼女を軽く抱き上げるようにして宙に浮かべ、ニニャに説明する。

「彼女――ネクロシアは、死者の書を精霊化した存在。私の叡智の導き手であり、私が理解可能な知識を媒介してくれる」

 

ニニャは目を見開き、机上の魔法陣と並行して、ネクロシアの魔力波動を観測する。小さな戯れの動きの中に、膨大な情報と理論の断片が潜んでいることを感じ取った。

 

「……なるほど、転移軌道の微妙な誤差も、この波動を観測すれば原因が見えるかもしれません」

 

フールーダは頷き、机に置かれた書物の魔力波動をネクロシア経由で分析させる。ニニャは熱心に書き写し、自らの実験データと照らし合わせる。二人と一人の精霊の共同作業に、知的緊張感と静かな興奮が室内を満たした。

 

「君の研究には、私とネクロシアが必要だろう。共に応用の可能性を探ろうではないか」

 

ニニャは小さく笑みを浮かべる。孤独な研究の日々に、ようやく共鳴する存在――フールーダとネクロシアという導き手を得た瞬間だった。

 

 

/*/ カルネ・ダーシュ村 ニニャの研究室 続き /*/

 

 

ジョンは重厚な装丁の魔導書を、慎重にニニャの前に置いた。表紙は黄土色に染まり、古代文字が細かく刻まれており、その存在感だけで室内の空気を圧迫する。

 

「魔導書・黄衣の王だ。ニニャ、人の精神を蝕む禁書だが……」ジョンの声には警告が滲む。「お前が本当に深淵を覗く気があるなら、こいつを授けても良い」

 

ニニャの目が瞬間的に輝く。第5位階魔法を操る彼女にとって、時間と空間の魔法は未知の領域であり、通常の研究資料では理解が追いつかない。黄衣の王はその深淵への鍵であり、狂気の一片を垣間見せる存在でもあった。

 

「……分かりました、師匠」ニニャは静かに応え、手を伸ばして魔導書に触れる。指先が表紙に触れた瞬間、微かに冷たい感触が伝わり、ページの文字がちらりと揺らいで見える。

 

その隣でフールーダは黒髪を整え、厳かな視線で見守る。ネクロシアは小さな赤茶色の髪を揺らし、興味津々に魔導書を覗き込む。しかし、ニニャの表情がみるみる歪み、唇を噛みしめながら苦悶の声を漏らす。

 

「に、に……苦しい……頭が……!」

 

ネクロシアは慌てて黒羽のペンを動かし、『死者の書』の魔力で微かに補助しようとするが、黄衣の王の狂気は死者の書では無害化できない。小悪魔の少女は無力であり、ニニャの精神は文字通り蝕まれていく。

 

フールーダは眉間に皺を寄せ、落ち着いた声で語りかけた。

「ニニャ、無理に直接読む必要はない。黄衣の王の精霊化を試みよう。霊的に書を精霊化し、精霊に補助させれば、書の知識を安全に読み解けるはずだ」

 

ニニャは必死に頷き、息を整える。「それなら……安全に研究が進められますか?」

 

「安全……とは言えないが、直接精神を蝕まれる危険は大幅に減らせる」フールーダは柔らかく微笑む。「書を精霊化し、君が魔力と理論を扱いやすくする。それで突破口を作れる」

 

ネクロシアは小さく「じいじ!」と声を上げ、喜び勇んでフールーダに飛びつく。金色と黒の二重螺旋の瞳が、魔導書の文字を触れさせると淡い光とともに情報を吐き出す。

 

ジョンは一歩下がり、黙って二人の作業を見守る。禁書の力を制御できるのは、フールーダとネクロシア、そしてそれに従うニニャだけ――それが最良の選択であると、彼の眼差しは確信に満ちていた。

 

こうして、黄衣の王の精霊化を経て、ニニャは時間と空間の研究を安全に進められる環境を手に入れるのだった。

 

 

/*/

 

 

フールーダは机の前に立ち、深く息を吸い込む。背後でネクロシアが、小さな姿で揺れる。

 

「ニニャ、目を閉じ、精神を一点に集中するのじゃ」フールーダの声は落ち着いているが、内に秘めた威厳がある。「黄衣の王の知識を、ハスターリリィの精霊として呼び出す。我々が制御する媒体として――君が安全に深淵に触れるための存在じゃ」

 

ニニャは息を整え、手を机に置く。禁書そのものを直接読むと精神を蝕む危険があるため、精霊化による媒介なしでは到底扱えない。

 

フールーダが両手をかざすと、空間に微かな歪みが生じ、部屋の空気が揺れ始める。ハスターリリィは小さな舞台衣装風のドレスを揺らしながら、ふわりと空中に浮かぶ。杖を軽く振ると文字や符号が光を帯び、瞬間的に床や壁に浮かび上がる。銀灰色に黄土色の長髪は星屑のように光る。

 

「ふふふ、ニニャ、早く読ませて!」ハスターリリィの声は無邪気だが、その中には狂気と恐怖の香りが混ざる。小さな杖が空中に符号を描くと、場面が変わるように部屋の空間に微細な歪みが生まれ、過去の魔法実験や異空間の幻視が瞬間的に映し出される。

 

ニニャは息を呑み、精霊を凝視する。直接書物を読むよりも精神への負荷は少なく、だが情報の量と深淵の感覚は圧倒的だ。ハスターリリィが小さく指を振るたび、文字や符号が空中に流れ、禁断の魔法理論や時空操作の断片が頭に流れ込む。

 

フールーダは微笑みながら頷く。「見よ、ニニャ。これで禁書の知識を蝕まれることなく扱える。我々の媒介で安全に、そして効果的に時間と空間の研究に集中できるのじゃ」

 

ハスターリリィはにっこり笑い、銀灰と黄土色の髪を揺らしながら、部屋の空気に淡い星屑の光を散らす。「ニニャ、面白いことができそう!でも深淵は甘くないからね、覚悟して!」

 

部屋の中央で、微かに揺れるハスターリリィの光と文字の帯が、ニニャの視界と精神を安全に導く。禁書の知識が精霊を通して解読され、時間・空間魔法の研究に新たな道が開かれた瞬間であった。

 

 

/*/

 

 

ハスターリリィが微かに揺れる光の中で空中に浮かぶ。杖を軽く振ると符号が空間に描かれ、過去の魔法実験の残像や異空間の断片が映し出される。

 

ニニャは机に手を置き、精霊を凝視しながら魔力を集中する。目の前には転移の符号が浮かび、空間の流れが微細に歪む。

 

「まずは単純な転移……指定地点までの短距離から」

ニニャが呟くと、ハスターリリィが杖をくるくると回す。床に描かれた符号が光を帯び、瞬間的に机の上の小瓶がわずかに揺れた。

 

「うん……微妙なズレだけど、感覚は掴める」ニニャは呟き、再度魔力を集中。今度は机上の小瓶を安全な範囲で空中に転移させ、数秒間宙に浮かせることに成功した。

 

続いて千里眼の応用だ。ニニャはハスターリリィの杖を指先で軽く撫でると、遠く離れたバレアレ工房エ・ランテル支店やエ・ランテルの風景が、淡く光の帯として視界に映る。

「……なるほど、魔力の媒介で映像を取り込むんだ」

千里眼は直接視界を通さずとも、ハスターリリィが空間の符号を媒介して映像情報をもたらす。ニニャは目の前の光景に目を細め、微細な魔力の変化を確認する。

 

さらに魔術師の眼を応用し、遠隔地の魔力の流れを可視化する実験に移る。ハスターリリィが描く符号が光の帯となり、周囲の魔力の流れが網目のように立体化される。ニニャは手を伸ばし、符号に触れるように指を動かす。触れた部分から微かに魔力が跳ね返り、空間の流れの変化を直接感じ取れる。

 

次に加速と減速の研究だ。机上の小瓶や紙片を対象に、符号の光を通じて時間の進行速度を局所的に変化させる。小瓶が宙でゆっくりと動いたり、逆に加速して机に戻ったりする。

「加速は理解できた……減速も成功」ニニャは目を輝かせ、魔力の流れを体感する。これにより、移動や戦闘補助への応用も可能だと感覚で掴むことができた。

 

ハスターリリィは嬉しげに笑う。銀灰と黄土色の髪を揺らしながら、杖で符号を描き、微細な空間の歪みを再現する。「ふふ、ニニャ、じいじに教えてもらったことが活きるね!でも深淵はまだまだ遠いよ!」

 

ニニャは杖と符号の光を通して、時間操作はまだ遠いことを実感しつつも、転移・遠隔・加速・減速といった応用魔法の感覚を掴みつつあった。ハスターリリィを媒介にした魔法実験は、これまで単独では不可能だった視覚化と安全な実験環境を可能にしている。

 

部屋の中で符号と光の帯が揺れる中、ニニャの表情は集中と興奮で輝き、遠隔移動系魔法の理解が確実に積み重なっていく。時間操作はまだ遠くとも、研究の道筋は確実に開かれた瞬間だった。

 

 

/*/

 

 

ジョンの「じゃあ、試しにナザリックの中を覗いてみろ」との言葉に、ニニャは机上に魔法陣を展開し、ハスターリリィに小さく頷いた。

「ナザリックの内部構造……通常の千里眼では捉えられぬ領域を、君の“舞台”で観てみたい」

 

「うん、ニニャ! じゃあ幕を上げるね!」

ハスターリリィは杖を振るい、空中に金色と蒼の符号を描き始める。光は織りなすカーテンのように揺れ、舞台の幕が開くかのごとく、視界の奥に別の空間が広がり始めた。

 

最初に映ったのは、長大な廊下。天井に吊られた燭台が淡い光を放ち、静寂が支配する――だが、その瞬間。

 

「……っ!?」

視界全体に黒い網のような魔力が走った。次いで、耳を突き破るような金切り声が響く。

《侵入者、識別――遮断》

 

次の瞬間、映像は音を立てて弾け飛んだ。

 

ハスターリリィの小さな身体が符号ごと爆ぜ、銀灰と黄土の光の粒子が部屋中に散乱する。

「――ッ!? リリィ!」

ニニャは慌てて両手を伸ばす。散乱した光の粒子が燃え残る紙片のように宙を漂い、焦げた劇台の断片の幻影を残して消えていく。

 

床に落ちた杖がひとりでに転がり、ひときわ鋭い音を立てて止まった。

 

直後、研究室全体に冷たい声が木霊する。

《ナザリックは覗き見を許さぬ。次は――処分する》

 

氷の刃で切りつけるような声に、研究室の温度が一瞬で下がった。

ニニャの額に冷や汗が流れる。声の主は――氷結牢獄を管理する番人、ニグレド。

彼女が設置した膨大な対抗魔法の一部が、自分の実験に触れたのだと直感する。

 

「……ごめんなさい、リリィ」

振り返れば、爆ぜた光が舞台の残骸のように再構築され、小さな少女が煤にまみれて戻ってきていた。

「いたた……でも大丈夫! 幕が落ちただけ。次はもっと派手にいけるから!」

無邪気に笑う姿に、ニニャの胸は安堵と恐怖で締めつけられる。

 

「……無謀だった。これ以上の干渉は……命取り」

震える呟きとは裏腹に、彼の眼差しには諦めぬ炎が宿り続けていた。

 

背後で腕を組んでいたジョンが低く呟く。

「ふむ。精霊が“身代わり護符”になるのか。面白い現象だな」

そして、薄く笑いながら続ける。

「だが対抗策を考えねば……帰ったらモモンガさんとぐりもあさんに相談するか」

 

「ふむ、精霊が身代わり護符になるのか。これは対抗措置を何か考えないといけないな」

 

 

/*/ ナザリック地下大墳墓 モモンガの執務室 /*/

 

 

重厚な扉が閉じられると、部屋の空気は自然と緊張に包まれた。

長卓の中央には、ジョンが持ち込んだ杖――爆発の際に落ちたハスターリリィの小道具が置かれている。

 

モモンガが骨の指先で軽く杖を叩いた。

「……これは、あの精霊の残滓か」

 

ジョンは頷く。

「うん。ニニャが〈千里眼〉を応用してナザリック内部を覗こうとした結果、ニグレドの防衛術式に引っかかり……精霊が吹き飛んだ。幸い、精霊は再構築されたけど、危うく本人まで巻き込まれるところだったよ」

 

モモンガの眼窩の赤い光が強まる。

「……ナザリックの秘匿性を破られるわけにはいかん。味方であろうと、それは禁忌だ」

 

ジョンは両手を広げ、諭すように言葉を続ける。

「それは理解してるよ。ただ、あの現象――精霊が“盾”のように負荷を肩代わりしたのは興味深い。危険を伴う研究を安全に試す手段になる」

 

卓の端で眠そうに横たわっていた魔導書、ぐりもあがぱらりとページを開いた。

「……ふぁ。まあ、事実として“精神汚染”や“術式の反撃”を精霊が吸収してくれるなら、研究の安全度は上がるね。ただし、ナザリックに干渉するのは絶対やめといた方がいいよ。次は再構築できず、ただ消えるだけになるかも」

 

モモンガはしばし沈黙し、やがて深い溜め息をついた。

「ニニャの研究心は評価する。しかし、ナザリックに触れることは認められない。……ジョンさん、君が監督し、必要な範囲でのみ知識を追求させて下さい」

 

「了解。あとニグレドに相手が身代わり札を使っていた時の対策を研究させておいて」

ジョンは軽く頭を下げる。

 

その視線の裏で、彼は考えていた。

――ナザリックの守護と、外界に芽吹く新しい才能。両立させる道を探らねばならない。

 

重苦しい空気の中、ぐりもあがぽつりと眠たげに呟いた。

「……次は“外”を覗いてみればいいじゃない。ナザリックじゃなく、世界の裏側とか。あっちならリリィの舞台もきっと派手にできるよ」

 

その言葉に、ジョンは小さく口角を上げた。

 

 

/*/カルネ=ダーシュ村外れ・臨時研究小屋/*/

 

 

夜。森の静寂を破るように、研究小屋の中には淡い金色と蒼の光が満ちていた。

机上に広げられた魔法陣が鼓動のように脈打ち、ニニャは深呼吸して呟く。

 

「……ナザリックは禁じられた。ならば――外に広がる、異界の断片を覗いてみよう」

 

小柄な精霊がぱっと顔を上げる。

「幕間の舞台だね! うん、やってみるよ!」

ハスターリリィは杖を振り、空中に複雑な符号を描いていく。

 

それはまるで星座が組み上がるように繋がり、やがて一枚の揺れる幕布となった。

金と蒼の布がふわりと翻り――その向こうに、異様な景色が浮かび上がる。

 

「……あれは……」

ニニャの喉がひとりでに震えた。

 

映ったのは、裂け目の走る虚空。

ひび割れた大地の断片が宙に浮かび、逆さの塔や沈んだ都市が音もなく漂っている。

天と地の境界は存在せず、ただ歪んだ重力の中で物質が渦を巻いていた。

 

リリィが無邪気に解説する。

「えへへ、ここは“つぎはぎの舞台”。時間が壊れて、空間がほころんだ場所なんだって!」

 

「……つぎはぎ……」

ニニャの瞳が細められる。

確かに、建築物の破片は見覚えのない文明のものばかり。しかもそれらが異なる年代、異なる様式で無理やり縫い合わされている。

 

「千里眼でも見えない……異界の断層……!」

胸が高鳴る。

 

だが次の瞬間――

幕の奥から、何かがこちらを覗き返している気配が走った。

 

リリィの瞳が淡く青金に輝き、笑みを浮かべる。

「ねえニニャ、あっちの“観客”が、私たちを見てるよ」

 

「っ……!?」

背筋を冷たいものが走る。

 

揺れる幕布の向こうで、無数の眼球めいた光が一斉に瞬いた。

耳の奥で、意味を成さない囁きが渦を巻き、心を掻き乱す。

 

「――リリィ、幕を閉じて!」

ニニャが叫ぶと同時に、精霊はぱんっと手を叩いた。

舞台幕は音を立てて閉ざされ、光は弾け飛ぶように消滅する。

 

残ったのは、震える空気と、床に倒れ込んだニニャの姿。

胸を押さえ、必死に呼吸を整えながら呟いた。

 

「……これは……本当に、危うい研究だ……」

 

それでも、その瞳には、確かに強い輝きが宿っていた。

“外の禁域”に触れた興奮を、彼女は抑えることができなかった。

 

リリィが煤けた袖を振りながら、へらりと笑う。

「ねえニニャ、また幕を上げようね!」

 

 

/*/カルネ=ダーシュ村外れ・研究小屋跡地/*/

 

 

それは唐突に起こった。

 

夜更け、ニニャが“外の禁域”を観察した翌日。

研究小屋の隅、家具と壁の作る直角から――煙が、じわりと滲み出した。

 

「……っ!? 幕を上げた覚えは――ない!」

ニニャは杖を構えた。

 

煙は黒と灰の混じる濃霧となり、やがてぬめりを伴った悪臭が空間を満たす。

それは糞尿と血と腐敗を凝縮したような、ただ存在するだけで脳を焼く不浄の匂いだった。

吐き気を堪え、ニニャは鼻を布で覆う。だが視界の端に、それは現れた。

 

――ティンダロスの猟犬。

 

鋭角から這い出すように、頭部から徐々に実体化していく。

犬めいた輪郭にねじれた顎、眼孔は黒い虚ろ、牙は粘液を滴らせていた。

煙の中から現れるたび、空間が悲鳴をあげるかのように歪む。

 

「私を……追ってきた!」

理解した瞬間、背筋を凍らせる恐怖が走った。

猟犬の標的は、“禁域”を覗いた者。すなわち自分だ。

 

「――〈龍雷(ドラゴン・ライトニング)〉ッ!」

杖の先から蒼白の雷竜が咆哮とともに解き放たれる。

雷撃は猟犬の身体を貫き、肉を裂き、煙を散らした。

 

だが――崩れた肉塊は、直角の影に吸い込まれ、次の瞬間には再び頭部から再生を始める。

 

「駄目……倒しきれない!」

悪臭が強まり、視界が霞む。鼻を塞いでも肺に染み込み、思考が鈍る。

その間にも猟犬は角という角から這い出し、複数体となって研究小屋を包囲した。

 

「……リリィ、下がって!」

精霊を庇い、後退するニニャの背が壁にぶつかる。

鋭角――そこからもまた煙が吹き出し、顎が迫った。

 

「――っ!!」

 

次の瞬間。

轟音と共に猟犬の頭が粉砕された。

 

煙の中から現れたのはジョンだった。

彼は拳を振り抜いた体勢のまま、鼻をしかめる。

「くっせぇなぁ……これが“禁域の番犬”ってやつか」

 

猟犬が再生しようとした瞬間、ジョンはためらわず踏み込み、頭を掴んで地面に叩きつける。

「黙っとけ」

ただの一撃で、異界の怪異が肉と煙の塊に砕け散った。

 

二体、三体――猟犬が角から姿を現すたび、ジョンは殴り、蹴り、引き裂き、叩き潰す。

常識を超えた怪異すら、彼の前ではただの肉袋に過ぎなかった。

 

やがて残骸は直角に吸い込まれるように消え去り、悪臭も薄れていく。

 

荒い呼吸のニニャを抱き起こし、ジョンは低く言った。

「……好奇心は結構だが、命を投げ出すなよ。相手を選べ」

 

ニニャは悔しさと恐怖の入り混じった顔で頷いた。

 

 

/*/禁域の余燼/*/

 

 

猟犬の残骸が完全に消え去り、直角から立ち上る煙も途絶えた。

重く淀んだ空気の中で、ニニャは膝を抱えて肩を震わせていた。

 

額には冷や汗、喉には悪臭の名残りが焼き付き、呼吸するたび吐き気が込み上げる。

目に焼き付いたのは、角から滲み出す黒い影、鼻腔にこびり付く不浄の臭気、そしてあの異形の頭部が徐々に現れる光景だった。

 

「……リリィ、大丈夫?」

震える声で問いかける。

 

隣の精霊――ハスターリリィが袖を握りしめ、こくりと頷いた。

「うん……でも怖かった。あれ、幕の向こうから覗いてきた……」

 

小さな声は震えていたが、その奥には子供らしい無邪気さでは覆いきれない恐怖が潜んでいた。

 

ニニャは唇を噛む。

自分の好奇心が精霊を危険に晒したのだ。

だが同時に――あの瞬間、確かに禁域の奥に何かが“在る”と確信してしまった。

 

その葛藤を見透かすように、ジョンが静かに口を開いた。

「……ニニャ。禁域に触れるなら、俺が立ち会う」

 

低く、重みのある声だった。

 

「お前の力量は認める。だが、今みたいに“狩人”が現れる。次は俺が間に合わないかもしれん」

 

ニニャは顔を上げ、必死に言い返そうとする。

「でも……! 知りたいんです、私は……時間と空間の深淵を――」

 

ジョンはその言葉を遮らなかった。ただ黙って見つめ、拳を握り直す。

やがて口を開く。

 

「いいか。猟犬の体全体を覆っていた、あの青黒い膿のような粘液……ただの体液じゃない。あれは生きている。皮膚に付着すれば肉を蝕み、骨を侵す」

 

ニニャとリリィが息を呑む。

 

ジョンは淡々と続けた。

「もし人間がその粘液に汚染されて生き延びたら――“ティンダロスの混血種”になる。そうなれば自我は消え失せ、人を嬉々として食い殺す悪鬼だ。獲物をいたぶり、苦痛を楽しむ。完全な外道さ」

 

声には感情がなかった。経験から絞り出す冷徹な事実だけがあった。

 

「混血種の姿は、人間でありながら人間でない。全身が角張り、曲線を持たない“角度の集合体”に見える。だがな、あれは実際に形が変わっているわけじゃない。三次元と超次元にまたがって存在しているから、俺たちの目には“見え方が常に変化している”んだ」

 

言葉に、ニニャはぞくりと背筋を冷たくした。

想像しただけで理性を蝕むような存在。

 

ジョンはさらに言い切った。

「水で洗い流せば粘液は消せる。だが体内に入り込めば戻れない。混血種が人の外見を保つことは、まず不可能だ。だから……絶対に、触れるな」

 

重苦しい沈黙が落ちる。

 

ニニャは喉の奥で言葉を詰まらせた。

禁域の知識がどれほど危険でも、自分の命を顧みずに追うほどの覚悟は――まだ持っていない。

彼女は拳をぎゅっと握りしめ、視線を落とした。

 

そんな彼女の肩を、小さな声が救った。

「……じょん、こわいけど、でも安心する」

ハスターリリィが胸の前で手を組み、そう呟いた。

 

ニニャは震えながらも小さく笑みを浮かべ、頷いた。

「……わかりました。禁域に挑むときは、必ずあなたに立ち会ってもらいます」

 

ジョンはようやく表情を緩め、口角をわずかに上げた。

「それでいい。お前の好奇心に、俺の拳を貸してやる」

 

そう言い残して背を向ける。

闇が静けさを取り戻し、三人の間に重くも奇妙な信頼が芽生えた。

 

禁域への扉は閉ざされていない。

だが――次にその幕を上げるとき、舞台には必ず彼が立ち会うのだ

 

 

 

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