オーバーロード~狼、ほのぼのファンタジーライフを目指して~ 作:ぶーく・ぶくぶく
/*/ バハルス帝国・辺境の夜野外 /*/
月は薄く欠け、雲がゆっくり流れている。草むらの葉先に夜露が光り、遠くで犬が一度だけ吠えた。
ジョンは生身で、湿った土と枯れ草の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと匍匐を続ける。薄手のケープを下ろし、顔の半分を影で隠したまま。帝国の軍服ではなく、ただの巡察者を装った布切れと革靴。鉄の騎士に戻るための装備は、彼の相棒・アダマントの腹部に潜ませてある――村の外、少し離れた窪地に静かに潜伏させた。
視界の先、焚き火のぼんやりした灯りと、人影。オーガの群れだ。巨大な背中が揺れ、粗末な槍や棍棒を振るう者たちの間を、ひときわ威厳のある一体が歩いている。長いローブ、それに絡む符箋と奇妙な光。背に負った杖が月光を受けて冷たく光る――オーガメイジだ。
息が止まりそうになる。ジョンは息を整え、地面に顔を近づけた。草と泥の匂い。オーガどもは大雑把に視界を取るため音を立てているが、夜の音の濁りに紛れている。もし気付かれれば??群れがこちらに向く。村はまだ眠っている。村の防衛配置は限られている。前回の衝突で兵力を分散させたままでは、正面で受け止めるのは危険すぎる。
立ち上がらずに、ジョンは確信する。オーガメイジさえ排除できれば群れは分裂する。前線で撃つだけの銃士と、猛者帰りの歩兵、残存の鉄の騎士たちに村の正面守備を任せる。自分は一人、後方へ回り込み、オーガメイジの背後を取る。そうすれば一網打尽にできる――しかし条件は厳しい。オーガメイジの護衛は厚い。魔法の反応、堅牢な防護。迂闊に突入すれば即座に囲まれる。
ジョンは地面に小さく印をつける。黒い石をひとつ手に取り、枯れ草の中に隠す。その位置を頭の中の地図に焼き付ける。自分が這ってきたルート、戻るための目印、鉄の騎士の潜伏地点までの最短ルート。彼は低い声で呟いた――自分自身に、冷静で居ろと。
準備は最小限だ。装具は軽く、火器は小型の単銃に短い弾薬。魔導具は一つだけ??静音用の小型封鎖符。接触した瞬間だけ周囲の音を吸い取り、短時間だけ自分の存在を薄くする代物だ。だが、効果は短い。まさに“奇襲”のための猶予に過ぎない。彼はその符を胸ポケットに滑り込ませ、指先で確かめた。
群れの列がゆっくりと動く。焚き火の周りで笑う唾液の音、骨と革のこすれる音。オーガメイジは時折、焚き火の光に手をかざし、なにかを唱えている。呪具の光が瞬き、周囲にほのかな意識の波紋が広がるのが見える??あれが魔法の準備だ。直接討ち取るには時間が足りない。接近戦で魔導を封じるには、まず背後に回り込んでその杖を折るか、魔力源を破壊するしかない。
ジョンはゆっくりと這い、木々の切れ目へと抜けた。彼の動きは無駄がなく、草の擦れる音も息の出し入れも、すべてを計算に入れている。時折、虫が触れるように肌をくすぐる。冷えた風が首筋を這い、彼はそれを力に変える。地味で単調な動作が続く??匍匐、目標確認、地形利用、数歩ずつ位置替え。夜は長い。しかし焦りは禁物だ。焦りは音となり、音は命取りになる。
潜伏の野営は想像よりも厳しい。食料は干し肉一切れと少量のクランベリー、口に含む水も少し。寒さをしのぐためのマントは薄く、背中の筋肉がこわばる。彼は小さな火を絶対に起こさない。月光と草陰だけが友だ。眠りは浅く、瞼の端で群れの影を追い続ける。背後の鉄の騎士は、風下の窪地に隠れている。機体の金属外装は草で覆い隠され、小さな風穴だけが外気とつながる。万が一の際には、彼は機体に飛び乗り、背後を切り裂く――それが彼の最後の切り札だ。
時間は過ぎる。オーガの夜営が終わり、列がやがて動き出す気配が増してきた。ジョンは牙を噛みしめて、冷たい土を握る。全身に疲労が滲むが、顔は平静を装う。地味でキツイこの任務は、勝敗を左右する。正面の銃士たちが怒涛のように押し戻される前に、背後の火種を断てれば、村は救える。
彼は心の中で簡潔に命令を繰り返した――
「銃士と猛者歩兵は村を固めろ。残存の鉄の騎士は前面で抑え。俺は裏取りしてメイジを潰す。接触は最小、撤退ルート確保、符は一点で使う。奇襲一発で終わらせる。」
月は更に薄く、雲が流れる。ジョンは口元で小さく笑った。苦しい夜を越えれば、また飯が食える。だが今は笑っている余裕はない。全ては、何時間も続く地味な耐久のうえに成り立っているのだ――彼は這いつくばり続ける。息を殺し、目を凝らし、夜を待つ。
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オーガの列が囁くように動き出した。焚き火の残り火が小刻みに揺れ、皮の衣擦れる音が夜に溶ける。ジョンは影のまま呼吸を整え、牙のように冷えた指で胸ポケットの封鎖符を確かめる。孤立する瞬間を待つ――辛抱強く、ひたすらに待つ。
やがて列の後方で護衛が数歩、前方へ移る。オーガメイジの周囲を固めていた最後の護衛が、焚き火のそばへ戻るために離れた。魔杖を弄るメイジの視線は正面に向き、詠唱のリズムが一定に保たれている――いまだ。
ジョンは静かに体を丸め、這いずるように前進する。月影に溶けるその動きは鳥の羽音よりも軽く、草のざわめきに紛れて消える。数歩、そして数歩。窪地の縁まで這い寄り、潜んでいる鉄の騎士《アダマント035号》の腹部カバーへと駆け込む。機体は草で覆い、散見される金属光はわずかだ。ジョンは息を止め、機体のハッチを一気に開ける。
飛び乗る。冷たい金属が掌に吸い付くように伝わり、座席に体を沈めると同時に安全ベルトを引き、始動手順を軽く叩き込む。反応は鮮やかだ――外套の中で温めておいた小型触媒を投入し、リアクターの低出力起動が伝わる。脚部の油圧が唸り、外装の隠蔽布がばさりと払い落とされる。
「発進!」――声は出さない。だが舵は指先にある。脚部が一気に伸び、草原を蹴る。機体の躍動が地面を震わせ、オーガの列が慌てて振り返る。銃声、怒号、鉄と皮の響き――だがジョンは一直線に後方へ回り込み、群れの側面をえぐるように進む。
オーガメイジは驚愕の表情で振り向き、杖を構えて呪文を解き放とうとする。だがその時には既に遅い。ジョンは機体の腕を一閃させ、小型衝撃弾を杖の柄へ撃ち込む。衝撃が走り、杖の結晶部がひび割れる。詠唱は途切れ、空中に浮かんでいた青白い紋章が瞬時に弾けた。
護衛が戻ってきて斧を振り上げるが、鉄の騎士が素早く間合いを詰め、重圧で一撃で押し潰す。機体の腕先がメイジの袂を掴み上げ、ジョンは胸元の小型魔導刃を引き抜いて至近から斬り込む。刃は符の結界を断ち、残る魔力の核を抉り取るように貫いた。
オーガメイジが床に崩れ落ちる。最後に僅かに呻き声を漏らし、火花のような光が消える。周囲の群れは動揺して散開し、指揮系統を失って一斉に後退を始めた。銃士たちが前線で詰め寄り、猛者帰りの歩兵が斬り込みで追撃をかける。村の防衛線は破綻せず、形勢は瞬く間に逆転した。
機体のコックピット内で、ジョンは深く息を吐いた。胸の鼓動が落ち着くと同時に、無線で低く報告を流す――「オーガメイジ討伐、護衛殲滅。敵残党散開。村安全確保」。整備班の返答が即座に返り、隣接の鉄の騎士が制圧隊を展開する段取りが始まる。
「やれやれ」――ジョンは小さく笑って、膝を一つついた機体の胸部に掌を当てる。冷たい鉄の感触がじんわりと温もるのを感じながら、彼は次の整備と村への報告を思い描く。地味でキツい潜伏の末に掴んだ勝利は、小さくとも確かな価値を持っていた。
夜風が吹き、遠くで村の犬が吠えた。鉄の騎士のエンジン音が遠ざかり、月光の下、静かな戦果の余韻だけが辺境に残った。
/*/ バハルス帝国・辺境戦域 夜明け前 /*/
夜の闇がわずかに薄まり、東の空が灰色に染まり始めていた。
ジョンは鉄の騎士の胸部装甲を開き、蒸気が立ちのぼる中で静かに息を整える。
戦闘直後の熱気が残るコックピットからは、金属の焼けた匂いと油の甘い香りが漂っていた。
外では、帝国兵たちが慎重に死体を確認している。
「オーガメイジ討伐完了、被害軽微!」
「弾薬回収班、前へ!」
「負傷者運搬、急げ!」
無線が忙しなく飛び交い、夜通しの戦いの終わりを告げていた。
ジョンは操縦席から降り、地面に足をつける。
金属の冷たさがブーツ越しに伝わり、ようやく戦場の実感が戻ってくる。
空気は冷えきっているが、胸の奥は熱かった。
「……やっと終わったか」
鉄の騎士の脚部には、オーガの血がまだ乾ききらずに黒くこびりついている。
彼は軽く溜息をつき、手袋を外して装甲を撫でた。
「よくやったな。お前がいなきゃ、この村はもう無かった」
そこへ、整備班のドワーフ・ハルドが駆け寄ってくる。
「少尉! よく生きて戻ってきたな。こっちは損傷確認を始めたところだ!」
ジョンは小さく頷いた。
「冷却系と脚部油圧を重点的に見てくれ。右腕の関節も一度、焼き直しかな」
「了解。にしても……あんた、また単騎で行ったんだろ。あのオーガメイジ、一人で落としたって聞いたぞ?」
「まあ、タイミングが良かっただけさ。護衛が離れた一瞬を突けただけだ」
ハルドは苦笑した。
「一瞬を突ける奴が、どれだけいると思ってるんだ。まったく、冗談じゃねぇ」
「冗談ならもっと楽な仕事選んでるよ」
ジョンは軽く笑い、肩の力を抜いた。
「今夜は村の防衛線を補強して、あとは警戒だけ。俺は一晩、整備に付き合う」
「了解。……あんた、寝てねぇだろ?」
「寝たら負ける気がするんだよ」
ハルドが呆れたように笑い、工具袋を肩に担ぎ直す。
「まったく、どこの隊でも一人はいるな。戦闘より整備が趣味のやつ」
ジョンは黙って笑い、空を見上げた。
雲の切れ間から、朝の一番星がかすかに光る。
彼の耳には、遠くの村から鳴る鶏の声が聞こえた。
夜が明ける。
戦闘は終わり、また新しい一日が始まる。
「――報告書は後でまとめる。今は、あの連中の朝飯の方が先だ」
「戦闘糧食ですか?」
「そう。新型を出してやる。たぶん、兵の胃袋が驚く」
ハルドは目を丸くした。
「どこから持ってくるのやら」
ジョンはにやりと笑い、ポーチから銀色のパックを取り出した。
「“テリヤキチキン・プロトタイプ2”。甘いソースにカフェイン添加。食べたら眠気も吹っ飛ぶぞ」
ハルドは苦笑しながらも、どこか楽しげに言った。
「おいおい……帝国軍の食文化がまた変わるな」
ジョンは空を見上げたまま、口元で小さく呟く。
「変わっていくさ。食い物も、戦い方も。全部、少しずつな」
朝焼けが地平線を照らし始める。
鉄の騎士たちが立ち上がり、冷たい風の中で蒸気を上げながら並ぶ。
その光景はまるで、夜を越えた鉄の巨神たちの祈りのようだった。
――ジョン・ドゥ少尉(カルバイン)は、再びヘルメットをかぶり直す。
次の戦いに備えて、無言のまま鉄の相棒へと歩いていった。