オーバーロード~狼、ほのぼのファンタジーライフを目指して~ 作:ぶーく・ぶくぶく
/*/ バハルス帝国アーウィンタール 皇帝ジルクニフ執務室 朝 /*/
朝の光が金の装飾を鈍く照らし、重厚なカーテンの隙間から差し込む。
香炉の煙がゆるやかに立ち昇る中、皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは、執務机に腰を下ろしていた。
机上には、幾重にも重ねられた軍報告書。
今朝届けられたばかりの封筒には――「第三軍第5121小隊・戦闘報告兼試験運用結果」と記されている。
「陛下、朝議に先立ちまして――第三軍より、戦闘糧食の改良と鉄の騎士運用に関する詳細なレポートが上がってきております」
報告するのはロウネ・ヴァミリオネン。皇帝補佐官にして、冷静沈着で知られる文官だ。
「ふむ、見せてみろ」
ジルクニフは手を伸ばし、封を切る。
紙をめくる音だけが静寂に響く。
最初の数枚――視線は淡々としていた。
だが、次第に眉間の皺が深く刻まれていく。
「……“帝国式戦闘糧食・試作2号”……“熱量効率・魔力変換適性良好”……“摂取後の精神活性効果を確認”? なんだこれは」
ページを繰るたびに、筆記の筆跡が妙に丁寧だ。
どこか軍人らしくない。
理路整然とした文章、そして「食味評価・良好」などという、戦闘報告書にはまず出てこない語句が並んでいる。
「……“新型モカカプチーノ、士気向上に顕著な効果あり。今後は戦闘糧食として標準採用を推奨”」
「陛下、それ……戦闘報告ですよね?」
「“鉄の騎士整備班より:本機搭載の小型魔導炉、従来比で二割の燃費改善”――ふむ……ふむ?」
ページを閉じた。
顔には困惑と苛立ち、そして微妙な恐れが混じっている。
「……ロウネ」
「は、はい陛下」
「この報告書を書いたのは誰だ」
「え、ええと……署名によりますと、“第三軍第五一二一小隊 少尉ジョン・ドゥ”とのことです」
「……ジョン・ドゥ?」
ジルクニフは、視線を報告書に落とす。
その署名の下には、まるで悪戯のように小さく、“補記:現場検証のため自腹で試食済”と書かれていた。
沈黙。
執務室の空気がひやりと冷たくなった。
「――魔導国大使を呼べ」
「へ、陛下!?」
「今すぐだ。できる限り早く」
ロウネは一瞬、書類を抱えたまま固まったが、すぐに慌てて部屋を飛び出した。
扉が閉まる音が響く。
ジルクニフは深く息を吐き、こめかみを押さえた。
「……また、あの男か……カルバイン。お前、今度は帝国軍に潜り込んでまで遊んでいるのか……?」
彼は机の上に報告書を叩きつけるように置く。
紙の束がばさりと跳ね、間に挟まれた一枚の付箋がひらりと舞い落ちた。
“追記:帝国軍の食文化は大きな可能性を秘めています。
改良の余地は多々ありますが、現場の反応は極めて良好。
――ジョン・ドゥ”
ジルクニフは天を仰いだ。
「……ぐ、魔導国は……なぜうちの軍で『食堂改革』を始めるんだ……!」
頭を抱える皇帝の耳に、遠くから廊下を駆ける靴音が近づいてくる。
魔導国大使が呼ばれたのだ。
新たな“食と鉄の外交問題”が、静かに幕を開けようとしていた。
/*/ バハルス帝国アーウィンタール 皇帝執務室 /*/
厚い扉が開き、衛兵の報告が響いた。
「陛下、魔導国大使閣下が参っております!」
ジルクニフが顔を上げた瞬間、入ってきたのは見慣れた青白い狼毛の男。
軍服を少し乱し、どこか気の抜けた笑みを浮かべている。
「よぉ、陛下。朝っぱらから呼び出しとは、珍しいじゃないか」
「……ジョン・カルバイン」
ジルクニフの声が低く響いた。
「いや、“ジョン・ドゥ少尉”と呼んだほうがいいのか?」
ジョンは肩をすくめ、気まずそうに笑った。
「あ、バレた」
「バレた、ではない!」
ジルクニフが机を叩く。重厚な音が部屋を震わせた。
「自国でやれ! なぜわざわざ帝国軍に潜入するのだ!」
ジョンはまるで悪びれもせず、軽く手を広げた。
「いや、ほら――魔導国は周囲を人間国家に囲まれてるだろ?
戦闘そのものが滅多に起きないんだよ。実戦データを取るにも、魔物の襲撃くらいしかない。
でも帝国は違う。辺境ではちょくちょく小競り合いが起きる。だからちょっと、“現場の空気”を見てみたくてさ」
「だからと言ってやりようがあるだろう!」
「うん、でもさ……俺が前線の雰囲気を味わいたかったんだよ」
ジルクニフが絶句する。
ジョンはまるで散歩の理由を説明するような口調で続けた。
「魔導国だと、何をするにも護衛がわらわらついてきてさ。
お茶を飲みに行くだけでもアルベドが“危険です”って言うし、
野営訓練やろうとしたらデミウルゴスが“指一本触れさせません”とか言うんだよ。
息が詰まるんだ、ほんと。わかるだろ?」
そう言って、ジョンは軽くウィンクした。
ジルクニフはこめかみを押さえた。
「……ああ、わかるよ。私も官僚に囲まれてるからな……」
「だろ?」とジョンが笑う。
「だから、ちょっと現場の風に当たってた。結果的に、帝国の兵も助けられたし、戦闘糧食も改善されたし、一石三鳥だ」
「貴様にとっては“遊び”でも、こっちは国家機密案件なんだ!」
ジルクニフの声が再び響く。
だがジョンは気にも留めず、椅子を引いて座り込んだ。
「まぁまぁ、そんなに怒るなよ。ちゃんと全員無事に帰ったし、鉄の騎士も損耗ゼロだぞ?」
「それは……それは事実だが……!」
「だったらいいじゃないか」
ジョンはにやりと笑い、懐から小さなパックを取り出す。
「ほら、ついでにおみやげ。“戦闘糧食プロトタイプ2号”。テリヤキチキン味だ」
「……まさか試食を強要するつもりか?」
「強要なんてとんでもない。ただ、“味見”だよ」
ジルクニフはしばらく睨みつけていたが、最後には深い溜息を吐いた。
「……貴様、本当に自由人だな。
普通、他国の大使が“潜入”したと知れたら、外交問題どころじゃ済まんぞ」
「だからバレる前に、自分で出てきたんだよ。誠意ってやつさ」
ジョンは軽く肩をすくめ、悪戯っぽく笑った。
「誠意ね……」
ジルクニフは苦笑しながらも、どこか諦めたように書類を閉じる。
「……で、魔導国の反応は?」
「モモンガさんは“楽しそうで何より”って言ってた」
「……あの骸骨も人が悪い」
執務室に、わずかな沈黙が落ちる。
ジルクニフは最終的に椅子にもたれ、肩を落とした。
「……もういい。だが次は正式な訓練協定の形でやってくれ。潜入はやめろ」
「了解、了解」
ジョンは立ち上がり、敬礼――かと思いきや、軽く手をひらひらと振っただけだった。
「じゃ、また現場の空気が恋しくなったら報告しておくよ、陛下」
「報告“してから”行け!」
「はははっ!」
笑いながら退出していくジョンの背を見送りながら、ジルクニフは机に突っ伏した。
「……まったく、魔導国の“青狼”は災害よりタチが悪い……」
執務室の外では、ジョンが鼻歌まじりに「テリヤキチキンは平和の味~♪」と歌いながら廊下を歩いていた。
その音が遠ざかると、皇帝の長いため息が静かに響いた。
――バハルス帝国の朝は、いつもより疲れる一日の始まりだった。
/*/ バハルス帝国アーウィンタール 皇帝執務室 同朝 /*/
扉が静かに閉まり、ジョンの軽薄な鼻歌――「テリヤキチキンは平和の味~♪」――が遠ざかる。
残された皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは、書類の山を前に深く頭を抱えた。
「……ふざけた狼だ……自国でやれと言っただろうが……」
机の上には、第三軍から上がってきた“戦闘糧食改良報告”。
そこには戦闘データと並んで、兵士たちの感想が丁寧に書き込まれていた。
《温かいモカカプチーノのおかげで徹夜も苦になりません》《テリヤキチキン味最高でした》。
もはや軍報告ではなく、食堂のアンケートである。
ジルクニフは顔を押さえた。
「……帝国軍を味覚革命の実験場にするとは……どこまで本気で遊んでいるんだ、あの男は……」
ふと、机の端で小さな音がした。
「トン……」
金のインク壺が揺れ、そのそばに、一匹の猫が座っていた。
紫がかかった黒毛が、朝の光を受けて鈍く艶めく。
瞳は琥珀色、静かで、どこか人の心を映すような光を宿している。
ミリヤ――帝都にいつの間にか住み着いた黒猫。
誰もがただの気まぐれな宮廷猫と思っているが、皇帝だけは、彼女の瞳の奥に何かを感じ取っていた。
「……お前も笑いに来たのか?」
ジルクニフがそう言うと、ミリヤは小さく尻尾を動かした。
やがて机の上を軽やかに歩き、書類の上に座り込む。
報告書の「ジョン・ドゥ少尉」の署名の上で丸くなり、目を閉じた。
「……皮肉なもんだ。帝国最強の兵より先に、お前に慰められるとは」
ミリヤは何も言わない。
ただ静かに喉を鳴らし、小さく「ふる……」と尻尾を揺らした。
その音が妙に心に沁みる。
ジルクニフは眉間を揉みながら、ぼそりと呟く。
「……お前はいいな。何も言わずに済む。
私も、あの狼のように自由に動けたら、どれほど楽だろう」
猫の耳が、ぴくりと動いた。
琥珀の瞳が細く開き、皇帝をまっすぐに見つめる。
その視線はまるで――“あなたはあなたでいい”――そう言っているようだった。
ジルクニフは苦笑した。
「……慰めまで心得ているのか。まったく、猫にまで諭されるとはな」
彼は書類を束ね、机の端に寄せる。
ミリヤは静かに立ち上がり、机から飛び降りて皇帝の足元を一周すると、そのまま窓辺のクッションへ戻っていった。
朝の光を受けたその黒毛は、どこか紫がかった薄明を纏って見えた。
ジルクニフは、軽く目を細めた。
「……ありがとうよ、ミリヤ」
彼女は振り返らず、ただゆっくりと尻尾を揺らした。
まるで、“気にするな”とでも言うように。
窓の外では、帝都の尖塔に朝陽が昇る。
ジルクニフは深く息を吸い込み、椅子にもたれた。
「……帝国には静かな猫がいて、魔導国には騒がしい狼がいる……世の中、うまくできている」
その言葉に答えるように、窓辺の猫が一度だけ小さく鳴いた。
柔らかく、短い音。
静寂が戻る。
皇帝は新しい紅茶を注ぎながら、少しだけ穏やかな顔で、仕事を再開した。