オーバーロード~狼、ほのぼのファンタジーライフを目指して~ 作:ぶーく・ぶくぶく
/*/ ナザリック・第九階層 ぐりもあ解析室/実験盤「白の鍵」前 /*/
灯りは少なかった。だが部屋の中心――机上に開かれた一節だけが、夜のように黒く、凍るように光っていた。
それは隔離された「感染ページ」。頁の文字列は波打ち、読み取るたびに意味が滑り落ちるように変化していた。低く囁く声が、文字列の隙間から漏れている。
ぐりもあは深く息を吸うと、普段のふわりとした声を消した。
「じゃ、逆ハック開始ですよー」
彼女の手が、机の上の札と虹色のインク瓶へと伸びる。符札を抜くと、そこに描かれた図形が微かに震え、空間の表面に薄い網目(グリッド)が浮かび上がった。
彼女の目の前に現れたのは、「情報の海」としての魔導書の内部世界だ。
だが今回の標的は外なる神が宿した“星の智慧”の寄生体。
通常の解釈術では焼き切れない、自己再生する概念ウイルスである。
普通なら封印するか破棄するところだが、ぐりもあは違った――奪うつもりだった。
彼女は左手に魔導筆(ワイヤ)を握り、右手で構築した概念ターミナルにコマンドを打ち込む。
呪文はロジックの形をとり、ルビの代わりにビット列のような符号が走る。
「open_protocol: LUMENA_REVERSE; integrity:self; sandbox:isolated-pocket;」
呟く言葉は、古代語と現代符号が混じった奇妙な言語。だが魔力と論理が噛み合うと、それは確かに動く。
ページの内部、黒い文字群が触手のように伸びてぐりもあへと襲いかかる。情報の渦が彼女の視界を満たし、声が千倍に屈折して襲ってきた。
「見ろ、我が智慧を。受け入れよ。名を与えよ、形を与えよ――」
声は媚び、囁き、嘲り、あらゆる言葉の誘惑を放つ。だがぐりもあは笑う。これは誘惑ではない。これはプロトコルだ。
まず彼女は「概念ファイアウォール」を展開する。
符札群が光り、ページの語彙を一文字ずつパース(解析)する小さなカッター(ルーチン)を放つ。
ルーチンは真理の分解器だ。神話的なイメージを、論理的な節点に切り分ける。
「星=観測=媒介、智慧=情報構造、降下=伝播プロトコル」――それぞれがノードとなり、ぐりもあの頭の中に光る。
だが寄生体は粘る。分解したノードから反撥が起き、逆に語形成を再編纂してきた。
黒い文字が網目に絡みつき、ノードの配列を乱す。ノイズ(幻視)によって彼女の感情層へ侵入を図るのだ。
画面のように見える彼女の視界に、無数の眼が開き、笑う。ナイ神父、にゃるら、と名を変えながら、形を変えながら。
そこでぐりもあは――自分の魔導書でしかできない芸当を見せる。
彼女は「自己参照パラドックス」を差し向けたのだ。
ページに向けて呪文を紡ぎ、同時にその呪文を解析ルーチンに食わせる。呪文が自らを説明し、説明が呪文を否定する。
概念ウイルスは自己同型性を持つために再帰的処理を利用して増殖する。そこへ逆再帰をぶつけ、ループの位相を反転させる。
一瞬、部屋が引き裂かれた。情報が逆流し、黒い文字群が一斉に縮こまる。
「ぬがっ――!」
ナイの囁きが割れ、鋭い断片が飛び散る。だがそれは逃げ場を失った獣のようでもあった。
ぐりもあは笑いながら、両手で次々とノードを撫で、吸い取っていく。
「論理分解、完了。構造化メモリーペイロード、転送開始!」
彼女の内側から、風景が変わる。情報が肉になる瞬間だ─符は符、文字は脈、認識は血肉となる。
小さな光のコード片が、彼女の眉間を通り抜け、胸の奥の書庫に流れ込む。そこにぐりもあの「本体の索引」が待ち構えていた。
吸収は快感に似ている。
一つ一つの真理片が入ってくるたび、視界の背景が鮮やかに書き換わる。星の運行、語りの構造、外なる神の微細な意図──それらが冷たく、機械的に整列していく。ぐりもあはそれを咀嚼する。噛み砕き、再構築する。
しかし代償もある。
取り込んだ知識の中には「無名の微笑」が潜んでいた。これは純粋な知識ではなく、関数化できない情動の残滓だ。ぐりもあはそれをフィルタリングしようとするが、いくつかは彼女の記憶層に残る。夢の断片、夜の囁き、星の影の感触。
最後の抵抗は、声となって集中して襲ってきた。
「我を与えよ、形を帰せ。お前の名を貸せ、そして私は戻る――」
ぐりもあは目を閉じ、全ての符を集中させる。彼女の指先が震え、最後の一撃をページへと刺した。
――その瞬間、黒い文字は白い粉となって空気に溶け、残り火のように消えた。
逆ハックは勝利を確定した。感染の核は分解され、知識はぐりもあの内側に安全に収納された。
彼女はゆっくりと目を開ける。瞳には新たな輝きが宿っている。冷たく、計算された光だ。
「ふぅ、吸収完了ですー。これで私のものになった♪」
ぐりもあは満足げに笑い、ページを閉じようとする。だがその手が、一瞬止まる。
ページの端に、かすかな痕が残っていた。黒い粒子が、一つぶ、彼女の指先に引っ付いている。
それは微小な“残響”。完全に消えたわけではない。だがぐりもあはそれを払って、首をかしげた。
「まあ、細かい残党は掃除しておきますよー」
誰も、その言葉の後ろに潜む不協和音の正体には気づかなかった――
ぐりもあの笑い声が、どこか遠くで同調して多重に響いたことに。
部屋の空気は静かに戻り、机上の隔離札は緩やかに暖かみを帯びる。
モモンガが扉の影から一歩出て、冷ややかに問う。
「…何を取り込んだ?」
ぐりもあは肩をすくめ、満面の笑みで答えた。
「外なる神の辞書の引き出し、ちょっと拝借しました。解析済み、害なし。まあ、少しだけ、星の言葉が分かるようになっちゃいましたねー♪」
ジョンはそれを聞いて硬い声で言う。
「お前、本当に無茶するなよ」
ぐりもあは楽しげにウインクした。だが、その瞳の奥では、夜空の一角で新たに瞬く星の位置を、そっと追っているものがいた。