オーバーロード~狼、ほのぼのファンタジーライフを目指して~ 作:ぶーく・ぶくぶく
/*/ ナザリック地下大墳墓 第9層・モモンガの執務室 朝 /*/
静寂の空気に、香ばしい香りと甘い煙が混ざっていた。
モモンガの机には、三人分の飲み物と書類の山。
ジョンは黒いマグカップを手にし、深煎りの珈琲をひと口。
ぐりもあは紅茶を両手で包み、淡い香りを楽しみながらページをめくっている。
そしてモモンガは、金属と硝子でできた水タバコを傍らに置き、紅い炭をゆらめかせて煙をくゆらせていた。
「さて――」モモンガの低い声が、静かに響く。
「本日の報告書読み合わせを始めましょう」
ジョンが書類の束を開いた。
「魔導国の冒険者測量隊が、都市国家連合沿岸をさらに東へ進んでいる。
報告では……“湿地帯が広がる霧の町”に到達したそうだ。名は――インシマウ」
「インシマウ……」ぐりもあが紅茶のカップを持ったまま、ぴたりと動きを止めた。
「それ、まるっきりインスマスじゃないですか! ダゴン秘密教団が潜んでるに決まってます!」
ジョンは肩を竦め、珈琲をすすりながら苦笑する。
「ああ、それー。ダゴンなんてマリネにするしかないからな。
放っといてもいい。どうせ冒険者が行方不明になるだけだ」
「なんで食べちゃうんですか!?」ぐりもあが目を丸くする。
「ダゴン様は旧支配者ですよ!? そんなもんマリネとか言ってたら、次はクトゥルフをカルパッチョにする気ですか!?」
ジョンは無表情のまま、「レモンとオリーブオイルでいけそうだな」と呟く。
「やめてください!!!」
ぐりもあの悲鳴に、モモンガが静かに笑った。
「ふふ……まぁ、食材として扱うあたりがジョンさんらしいですね。
ですが、冗談としてはさておき――この“インシマウ”という町の報告には気になる点が多い」
モモンガはゆっくりと水タバコを吸い込み、煙を吐いた。
淡い香が天井へと伸びていく。
「報告によれば、町の探索に向かった冒険者は全員行方不明。建物には争った形跡はない。
しかし、湿地の地下からは複数の“洞窟状構造”が発見されたとか」
ぐりもあが目を輝かせた。
「やはり! ダゴン信仰の地下聖堂です! 湿地と霧、そして海への流路――条件が完璧すぎます!」
ジョンは気の抜けた声で言う。
「お前、テンション上がると語尾が上ずるのやめろよ。
現地で調査隊が戻ってこなかったってことは、もう“接触”してる可能性が高い。
下手に触れば、また“棘”の時みたいな厄介な感染が広がる」
「うう……でも、ダゴン教団と聞いたら黙っていられないんですよぉ。
もしかしたら、〈深きものども〉と〈グラ―キ〉が関係しているかもしれません!」
モモンガは軽く顎を撫で、考える素振りを見せた。
「興味深い仮説ですね。……ジョン、君に現地の防疫確認を任せます。
ぐりもあ、君はダゴン信仰の文献を洗い直して、グラ―キとの関連性を整理しておきなさい」
「はいっ!」ぐりもあの声には弾むような熱があった。
ジョンはため息をついて、珈琲を飲み干した。
「俺の仕事はいつも後片付けだな。まぁいい、冒険者どもがまた変なもん持ち帰る前に止めておくさ」
モモンガが煙の向こうで微笑んだ。
「頼みますよ。……我々の手の届く範囲で済むうちは、まだ“神話”で済みますからね」
ぐりもあは紅茶を掲げてうなずく。
「了解です。もし本当にダゴン信仰が残っていたら――きっとそこから、旧支配者たちの“系統図”が描けるはずです!」
ジョンは小さく笑い、机の隅に紙を置いた。
「系統図なんて書く前に、まず焼却処分のリストを作っとけ」
モモンガの水タバコから、再び煙が立ち上る。
紅茶の香りと珈琲の苦みが混じり合い、静かで奇妙に心地よい朝が流れていった。
だが――その報告書の一番下。
「調査隊通信記録・第8号」の最後の一行には、インクの滲んだ文字でこう書かれていた。
『――歌が聞こえる。海の底から。』
/*/ インシマウ――東方湿地帯の果てにある、河口の町 /*/
霧が重たく流れていた。
昼であっても陽の光は濁り、空と地の境が曖昧に溶け合っている。
腐りかけた桟橋と、海鳥の鳴き声のような呻き。
湿った潮の匂いが、肺の奥にまで染み込んでくる。
ジョンとぐりもあは、膝まで泥に沈むような感覚で、その町に足を踏み入れた。
「……誰もいないように見えて、気配はありますね」
ぐりもあの声は、霧の向こうに溶けていく。
建物はどれも傾き、鎧戸が閉ざされ、塩風に焼けて灰色にくすんでいた。
しかし、どの家の窓にも、覗き見するような黒い影がある。
見られている――そう感じる。
路地を抜けると、まばらに通りを歩く人影が見えた。
だが彼らの顔を見た瞬間、ぐりもあは息を呑んだ。
皮膚は水気を帯び、頬には鱗のような質感。
眼窩は深く沈み、瞳はまるで魚のように光を弾いていた。
ジョンは眉ひとつ動かさず、淡々と歩き続ける。
「……変化の途中か」
「ま、まさか……!」
ぐりもあの声が震える。
「この特徴……インスマウスの血筋。まさか本当に、この世界でも――」
彼らが宿を探そうとしたとき、路地の奥から低い笑い声が響いた。
振り向くと、酒瓶を抱えた老人が、片目を細めてこちらを見ていた。
衣はぼろぼろで、肌は湿気でぬめり、しかしその瞳だけが異様に冴えている。
「……旅の人か。珍しいな、こんな時期に来るとは」
ジョンは軽く会釈した。「この町のことを聞きたい」
老人は瓶を傾け、地面に座り込んだ。
霧の中でその声は、どこか泡の中から漏れるように掠れていた。
「昔はな……漁で栄えてたんだ。インシマウは。
だが、あのカールベト・シーマって船長が……南の海で“何か”を連れ帰ってきた。
金と魚と……奇妙な信仰を、だ」
老人は笑いながらも、震えていた。
「海の底に棲む者どもと混じれば、人は老いずに済む。
代わりに、少しずつ変わるんだ。
肌が鱗になり、指の間に膜ができ、目が光を失い、声が潮に溶けていく……
だがな、それが完成すれば、海の底の都で“永遠に生きられる”んだと」
ぐりもあは小声でつぶやいた。
「……深きものども。やっぱり……。ダゴンの加護を、現実に……」
ジョンは黙って老人を見つめる。
「反対した連中はどうなった?」
老人の口元が痙攣した。
「……連れていかれた。夜の海にな。
“選ばれなかった者”は、誰も戻らなかった。
今じゃ、この町はほとんど……彼らの血でできてる」
そのとき、風が吹いた。
軒の鎧戸が一斉にカタカタと鳴る。
町全体が、何かを聞き耳を立てているようだった。
老人はふと顔を上げ、目を見開いた。
「あ……しまった」
彼は周囲を見回し、声を震わせる。
「……見られた。あいつらが、見てる」
ジョンとぐりもあが振り向いたときには、霧の向こうにいくつかの影が浮かんでいた。
通りの角、建物の隙間、閉ざされた窓の奥。
魚のような眼が幾つも、こちらを凝視している。
「言っちゃいけなかった……!」
老人は悲鳴を上げると、瓶を投げ捨て、霧の中へと駆け出した。
その姿はあっという間に飲み込まれ、足音さえ消える。
沈黙。
湿った空気に、かすかな潮騒だけが残った。
ぐりもあは紅茶色の瞳を見開き、低く囁く。
「……ジョンさん、あの人、もう……」
ジョンは空を見上げた。
灰色の雲の隙間から、わずかに光る海面が見える。
波の上に、なにか巨大なものの影が、ゆっくりと蠢いた。
「もう“帰った”んだろうさ。
――海の底の、家に。」
そしてそのとき、霧の奥から低い合唱が聞こえてきた。
それは人の声ではなく、潮が岩を叩く音でもない。
祈りにも似て、泡にも似た――
“深きものへの讃歌” だった。
ぐりもあの指が震える。
「……聞こえますか、ジョンさん……“歌ってる”」
ジョンはわずかに笑みを浮かべ、鞘に手を置いた。
「聞こえる。だが――歌声は、海の上じゃなくて、下からだ」
霧が濃くなり、潮の香が強まる。
二人の姿が消える直前、波の音が一層近くなった。
それはまるで、町全体が呼吸をしているように――
海へと、誰かを呼び戻そうとしているかのようだった。
/*/ インシマウ・夜霧の宿 /*/
その夜、霧は町を丸ごと飲み込んでいた。
宿の窓は湿気で曇り、波の音が壁の中から響くように聞こえる。
外では潮風が鳴り、遠くで何かが這うような音が混じっていた。
ジョンはベッドに腰掛け、壁に背を預けながら黙って珈琲を啜っていた。
ぐりもあは小さな灯を机に置き、手帳に何かを書き込んでいる。
――不気味な沈黙だけが、宿の空間を覆っていた。
「……妙ですね」ぐりもあが筆を止めた。
「外、波の音のリズムが変わりました。足音が混じってる」
ジョンは目を閉じ、呼吸を整える。
そして静かに呟いた。
「〈生命感知〉」
一瞬、空気が張り詰める。
感知の波が霧の中を滑り、町の通りや建物をなぞって戻ってくる。
ジョンの眉がわずかに動いた。
「……来たな。人間じゃない。だが昼間、建物の中で見た連中だ」
その直後、
ギィ……ギィ……ギィ……ッ
という音が宿の廊下の奥から聞こえた。
鈍く湿った音が徐々に近づいてくる。
次いで、扉の金具がカタカタと揺れた。
誰か――いや、何かが外から扉をこじ開けようとしている。
「ふふ、気が早いお客ですね」ぐりもあが笑う。
彼女が指を軽く弾くと、扉の縁に青い魔法陣が浮かび上がった。
その光が壁に溶けるように広がり――やがて、扉と壁が一体化した。
まるで建物自体が“閉じた箱”になったようだった。
外では、まだ扉を叩く音が続いている。
ドン……ドン……ドンッ……!
それは怒りでも焦りでもない。
“根気強く叩き続ける”音だった。
ジョンはゆっくりと立ち上がり、腰の剣に手を置いた。
「どうする? 逃げるか?」
ぐりもあは楽しげに首を振った。
「せっかくですし、見てみたいです。
――〈魔術師の眼〉、開放」
彼女の左目が淡く青白く光り、瞳の奥に霧の外の像が映し出される。
ジョンはその顔を覗き込み、ぐりもあの口元がわずかに綻んだのを見た。
「……見えました?」
「ええ……見えましたとも」
ぐりもあの声が微かに震える――恐怖ではなく、純粋な興奮で。
「皮膚はすでに灰緑色。
鱗が顔の半分を覆い、目は夜目の魚のように銀色に光っています。
指の間には膜が……ええ、もうほとんど“完成”してますね。
あと一歩で、完全に深きものどもになれるでしょう」
ジョンは眉をひそめた。
「人間だった時の形を、まだ保ってるのか」
「ええ。だからこそ美しいんです」ぐりもあがうっとりとした声で言った。
「変化の途中ほど、研究の価値があるものはありません。
完全な異形よりも、“境界”にこそ意味があるんです」
扉の外では、低い声が重なって囁いていた。
それは言葉のようでいて、意味を成さない。
潮の満ち引きのように、律動を持ち、聞く者の鼓膜を濡らす不気味な“祈り”だった。
「……フタグン……ナフ……イア……イア……ダゴン……」
ぐりもあの目が光を増す。
「わくわくしてきました。ジョンさん、もう少し滞在しましょう。
――ここには、まだ“進化の途中”が息づいています」
ジョンはため息をつき、机の上のカップを取り上げた。
「お前の好奇心ってやつは、ほんとに神話級だな……。
まぁ、もう少しだけ付き合ってやるよ。ただし、次に扉を破られたら焼く」
その言葉に、ぐりもあは無邪気に笑った。
「了解です。焼け残りはサンプルにしますね」
外の叩く音が、いつの間にか止んでいた。
その代わりに、壁の向こうで――
ずるり、ずるり
と、何かが這うような音が響く。
海の匂いが強くなり、窓の隙間から、わずかに水が滴った。
ぐりもあは微笑んだまま、
「ねえ、ジョンさん……この町、ほんとに“呼吸”してますよ」
と囁いた。
そして霧の奥で、潮騒に混じって微かに――
笑い声のようなものが聞こえた。
/*/
ジョンは肘をつき、ランプの炎に映る自分の影を見据えたまま低い声で言った。
「なんだって宿があるのに襲ってきたんだ? 一応、宿があるなら差別なく襲うんじゃなくて、素通りさせる奴もいるってことだろ。どういう基準で襲うか、わからねぇと厄介だぜ」
ぐりもあは紅茶の蒸気をふわりと吹き流し、瞳を細めて楽しげに首をかしげた。
「それはですね――面白い区別があるんですよ、ジョンさん。ここらの“者たち”は、一様ではない。種類があって、目的も違うんです」
ジョンが眉を寄せる。
「種類、だと?」
ぐりもあはテーブルに肘をつき、話し始める。声は好奇に満ちていて、夜の空気に甘く溶けていった。
「例えば“収穫者”。彼らは“成熟”した者、ほとんど海生へと変わりかけた者だけを連れて行く。理由は簡単――完成した“子”の世話をするため。生かす価値があると見なした個体だけを取るんです。そういう連中は、宿のような“保護される場所”を避けるか、そこにいる者が既に“所有”されているとわかれば素通りします」
ジョンは一口、珈琲を啜る。苦みが舌に残る。その表情は変わらないが、声の先には戦う者の勘が滲む。
「じゃあ、今日は“収穫者”じゃなかったのか」
ぐりもあは笑みを深め、さらに語を続けた。
「違う。ここに来たのは“呼び手”か“囲い手”の類でしょう。呼び手は外部から“歌”や“リズム”で対象を誘い、まだ境界にある者を引き込もうとします。囲い手は共同体の秩序を守る役割で、変化に抵抗する者や外部の好奇から秘密を隠すために、時に外部の侵入者を排除する。今回の襲撃はどちらか――あるいは両方の混交だった可能性が高い」
部屋の壁外で、まだ霧の匂いが窓の隙間から流れ込んでいる。ジョンはその匂いを嗅ぎ取り、目を細めた。
「つまり宿を持つ者がいる町でも、内部事情で襲うか素通りするかが変わる、と」
「ええ」ぐりもあは頷き、「それに付け加えるなら、“標的性”という要因もあります」と言った。
「誰を連れて行くかは血筋や接触歴、そして“歌”への感受性で決まる。先ほどの酔いどれの老人が口を滑らせたのは致命的だった。情報を吐くことは“露見”を意味する。彼が語った内容――カールベト・シーマのこと、混血の習俗、選別の儀式――それだけで十分に“札”になり得る。呼び手たちはそういう暴露を放置しません」
ジョンの手がわずかに硬くなる。机の上の地図に置かれたランタンの光が、彼の血管を淡く照らした。
「……あの老人、見られたって言って走ったろ。見られた、ってことは“標”をつけられたってことか」
「そうです」ぐりもあは少し背を乗り出して囁いた。
「そしてもう一つ。彼らの判断はしばしば“嗅覚”に似た魔感覚で行われます。〈生命感知〉で人間と判ったからって安心は禁物です。変化の兆し、潜在的な共鳴、棘と関わった痕跡――そういった“匂い”を彼らは嗅ぎ分ける。宿があっても、そこに狙われる理由があれば容赦はしないのです」
ジョンはゆっくりと息を吐いた。窓の外、霧の向こうで波がかすかに打ち寄せる音がする。
「じゃあ、俺たちを襲おうとしたのは――たまたま“興味深い匂い”がしたから、ってわけか。偶然の暴発とも言えるが、狙いが確定してるなら始末が楽だな。先に標をつけられたものを助けられれば、その場で喧嘩する必要もない」
ぐりもあは紅茶のカップを唇に近づけ、ふっと息を吐いて窓の暗がりを見つめた。瞳が銀のように光る。
「それに、ここでは“見た”と“見られた”の差が命取りです。言葉を漏らす者、好奇心の強い者、外来者を歓迎してしまう者――そういう人間の性質そのものが、彼らには“取り上げる価値”に見えるのです。ですから、宿があるかどうかより“誰がそこにいるか”が重要。今回、襲ってきたのは――多分、変化の中間にある者を“収める”ための訪問だった。だが計画が狂い、外部からの侵入者(我々)を感知して焦った。だから扉を叩いた。だが扉が開かないと知れば、粘り強く待つタイプの者たちも少なくない。彼らは夜通し“呼び”続ける」
ジョンは短く笑って、しかしその笑顔には冷たさが含まれていた。
「要するに、この町は“見えない秩序”に守られてるわけだ。正体は知らんが、こっちがうかつに手を出すと面倒ってことだな」
ぐりもあは満足げにうなずき、「わくわくしますね。まだ“変化の途中”の者がいる場所は、学問的な価値が高い」と言った。声には研究者の熱と、どこか背徳めいた陶酔が混じっていた。
ジョンは椅子の背にもたれ、重たい珈琲の香りを吸い込んだ。外では、未だに誰かが扉を叩くかのような遠い律動が聞こえる。二人の間にしばし沈黙が落ち、それからジョンが口を開いた。
「まあ、観察するにしても――ぐりもあ、お前の“わくわく”が町を滅ぼすなよ。必要ならここで引き取る。外へ出て人を煽る真似はするな」
ぐりもあはカップを掲げ、無邪気に笑った。
「約束します。でも、ほんの少しだけでいいんです。ほんの少しだけ観察して、記録を取らせてくださいね?」
/*/ インシマウ・夜明けの宿 /*/
夜が明けると、霧はまだ町の上に薄く漂っていた。
光と呼ぶにはあまりに冷たい曙の色が、宿の食堂を灰色に染めている。
ジョンとぐりもあは、長い夜の監視を終え、重い足取りで朝食の席についた。
宿の女将が持ってきた皿は、どれも奇妙に湿っていた。
蒸気はなく、代わりに生臭い潮の香りが漂う。皿の上には、焼けも煮えもせず、ただ冷えた魚の切り身が並べられていた。
表面にはうっすらと青黒い斑が浮かび、目を背けたくなるほどの生々しさがあった。
ジョンは眉をしかめ、フォークを止める。
「……痛んでるな。これじゃ食えたもんじゃねぇ。新鮮なものに交換してくれ」
女将は何も言わず、一礼だけして奥へ引っ込んだ。
すぐに別の皿が運ばれてくる――が、そこに載っていたのは、まだ生きて動いている魚だった。
テーブルの上で跳ね、口をぱくぱくと動かしている。
ぐりもあが目を瞬かせた。
「……あ、これは確かに“新鮮”ですね」
ジョンはしばらく無言で魚を見つめ、ため息をついた。
「料理できないのか?」
ナイフを抜き、魚を手早く押さえて一息に裂く。
血の匂いが立ち上がり、空気に鉄錆の味が混ざった。
彼は慣れた手つきで三枚におろし、皮を引いて刺身に仕立てる。
ぐりもあがどこからか取り出した塩と酢を差し出すと、ジョンはそれを器用に混ぜ合わせ、即席の調味料をつくった。
静かに箸を取り、刺身を口に運ぶ。
冷たい食感。ねっとりとした脂の後に、潮の甘味が広がる。
「……鮮度は十分だ。美味いな」
ぐりもあが紅茶を啜りながら微笑む。
「さすがですね。どんな異郷の食でも順応が早い」
ジョンは軽く頷くと、魚の残りを見つめた。
「だが、嫌がらせではないな。明らかに“意図”がある。
なにを思ってこんな食事を出してるんだ?……選別かなにかか?」
ぐりもあは紅茶のカップを机に置き、唇に指を当てる。
「ふむ……“拒否反応”を観察しているのかもしれませんね。
この町では、海のものを受け入れられるかどうかが一種の“通過儀礼”になっているのかもしれません。
彼らの中では“海の血”を受け入れるほどに信頼が高まる、つまり――
魚を食べられない者は、“こちら側”に属する資格がない」
ジョンは低く笑った。
「魚を食うかどうかで、異端審問ってわけか」
「そうとも言えます」ぐりもあが目を細める。
「もしあなたが『食べられない』と返していたら、
たぶん今ごろ厨房の裏で、別の皿――“人に近いもの”を出していたでしょうね」
ジョンの手が止まり、箸が皿に軽く触れる。
「……そういう冗談は、食事中にやめろ」
「冗談ではありません」ぐりもあの声は穏やかだが、その奥に冷たい真実の響きがあった。
「ここでは“変化を拒む者”は、客でも人でもなくなる。
だから宿が存在しても、旅人が長居しないんです。
泊まれるのは、観察の対象か、次に“混じる”候補だけ」
ジョンは黙って残りの刺身を食べ終えた。
その瞳は静かで、どこか鋭い。
「――なるほどな。
じゃあこの宿は、“食堂”じゃなくて、“選別所”ってわけだ」
ぐりもあは満足げに頷き、紅茶の香りを楽しんだ。
「ええ。しかも自分たちでは料理できない。
なぜなら、“火”を使うと、海の加護が剥がれるからです。
だから、彼らは生のまま差し出す。
火を扱うかどうか――それすらも、選別の一環かもしれませんね」
ジョンは窓の外を見た。
夜明けの光に濡れた霧の向こうで、潮の匂いが濃くなる。
どこか遠くで、波の下から微かな声が響いた気がした。
「――フタグン……イア……イア……」
ジョンはカップを置き、短く呟く。
「……どうやら、“次の段階”に進んだらしいな」
ぐりもあは微笑みながら、紅茶の最後の一滴を飲み干した。
「ええ。観察の価値が、ますます上がりましたね」