偽りの世界の景色が硝子が砕けるように消滅する。
闇の書の中に在る冷たい漆黒の世界で全ての記憶を思い出し、周囲に視線を送るとそこには八神はやてと彼女に寄り添うように管制人格の姿を見つけた。
「久しいな。はやて」
「ディル……君? なんやえらい大きくなっとらへん?」
「あぁ。恐らくはこの場所では肉体の枷を失い、魂のみが在る場所だからなのだろう」
ディルムッドの姿は少年のそれではなく、生前の全盛期。すなわち聖杯戦争時に召喚された姿になっている。おそらくは魂の姿が反映されるこの空間ではディルムッドの本質である本来の姿を取ることができているのだとディルムッドは推測した。
「俺の夢を視たようなので既に気が付いているだろうが改めて名乗ろうか。フィオナ騎士団の二つ槍。輝く貌のディルムッド・オディナだ」
「ケルト神話の英雄……本物なん?」
今度は騎士として目の前の少女に名乗る。日本での知名度は低いので普通はわからない筈だが、出会った時に自身の正体に気が付いた事にはそれなりに驚いたものである。
「騙していたつもりはなかったが、語れぬ事情があったからな。不快にしたなら詫びよう」
「いっ……別にそんな事はあらへんけど……」
幸い黙っていた事に怒りはないようだ。頬が赤いのは気のせいだろう。気のせいに決まっている。
「そっ……それよりディル君は大丈夫なん?」
外の光景が見えていたのか、知覚したのかはわからないが、ディルムッドの身に何が起きたかは理解しているようで、心配そうに声を尋ねてくる。
「この中から脱出できてない状態を無事呼ぶかはわからんが、記憶と自我は問題ないな。再会を祝いたい所だが……今はそうも言ってられんか」
「うん。ここから早く出ぇへんとみんなにもっと迷惑かけてまう……」
「そうだな。だがその前に……はやて、俺は君に詫びなければならない」
理由はどうであっても彼女の事を大切に想い、想われていた守護騎士ザフィーラを討った事を謝罪する為に、膝を付いて少女の視線の高さまで頭を下げる。
「俺は君の家族を―――」
謝罪の言葉を伝えるだけでは意味が無い事は分かっている。しかしディルムッドは自身の過ちを隠す事ができるような性格ではなく、少女の幸せを奪った事の恨みは背負おうと思って自身のした事を伝えようとした。
しかしその言葉は最後まで紡がれる事は無かった。はやてが人差し指でディルムッドの口を軽く押さえたのだ。
「大丈夫やよ」
穏やかな口調ではやては微笑む。その姿は罪を告解する者に許しを与える聖職者を思わせた。
「リインフォースに全部教えてもろうたから。ディル君がそんな事したくなかったって」
「リインフォース?」
「この子の名前。祝福の風、リインフォース。うちが付けてあげた名前やねん」
そう言ってはやてが隣に立つ闇の書の管制人格と呼ばれていた少女に視線を向けたのでディルムッドも管制人格……いや、リインフォースに視線を向けた。
「良い名だな……リインフォースよ。貴様にも尋ねるが俺が憎くないのか?」
守護騎士は闇の書……いや、夜天の魔導書の一部である。
夜天の魔導書の中にいるせいかリインフォースの想いが感じられるのだが、そこに恨みや怒りといった負の感情がない。
「貴方は自らの引き起こした結果を悔い、盾の守護獣の行動に敬意を示しました。彼はあなたのような誇り高い騎士に討たれた事は騎士の本懐だと思ってました」
「だが……」
「大丈夫です。守護騎士は皆無事です。全員が消滅前に魔導書に吸収されていますので」
「本当か?」
視線をはやてに向け直し、問いかけると彼女は力強く頷いた。助ける手段があるならば自身が取るべき行動は決まっている。
「リインフォース。彼女達を救う方法と状況を打破する手を教えてくれ」
ディルムッドは立ち上がり、自身の為すべきことを尋ねた。
―――――過去は変えられない
時の流れは不可逆で不変の物であり、どれ程悔いても……どれ程願ってもその行動を覆す事はできない。
それは奇跡と共に民を導いた英雄でも神代の魔術師であっても変わらないだろう。万能の奇跡を起こす願望機なら可能かもしれないが、少なくとも今のディルムッドにその術はない。
過去は覆せなくとも悲劇を回避する手があるならば最善を尽くして成し遂げる。それが今を生きるディルムッド・オディナが見つけた生き方である。
「貴方も迷いを断ち切りましたか」
「貴殿も無事であったか」
声に反応して振り返ると、以前と変わらない全身を覆う漆黒の鎧を纏ったランスロットがこちらに歩を進めてくるところだった。以前と違うのはその手の剣が騎士王の聖剣にも劣らない神々しさを放っている所だろう。
「あまりの心地よさに浸かりそうでしたがね。おかげで久方振りに心が安らぎました」
「俺も永きに渡る苦悩が晴れた……感謝するぞ。リインフォースよ」
ランスロットが見た夢はわからないが、纏う気配が穏やかな物になっているので、少なくとも良い夢だったのは見て取れた。
「……どうしたはやて? 何を驚いている?」
「あぁ。マスターはやて。こうしてゆっくり語らうのは初めてでしたね」
固まっているはやてに気が付いたランスロットが先程のディルムッドのように膝を付き、彼女に視線を合わせる。
「円卓の騎士が一人、ランスロットと申します。以後お見知りおきを」
「こ……これはご丁寧にどうも……」
「そう硬くならないでください。以前のようにクロでも構いませんよ?」
ランスロットが距離感が掴めなくなって困惑するはやてに、親しみやすい声をかける。
取り込まれる前はどこか死に場所を探しているような雰囲気があったが、今はそういった様子は感じられなかった。
「さて、積もる話は後程。一先ずはここからの脱出が優先です」
「そうだな。はやて、リインフォース。シグナム達を救うにはどうすればいい?」
「主はやてが夜天の主として命ずれば…ですがその前に……」
「ここから脱出せなあかんねんけど……」
ディルムッドの問いに二人が答えるが歯切れが悪い。
「何か問題があるのですか?」
「それは――」
疑問に思ったランスロットが尋ね、リインフォースが答えようとした時、≪ソレ≫は唐突に現れた。
――――夢ヲ……
ズルリと、光の無いこの漆黒の世界よりもさらに深い闇が這いずり出てきた。
「こいつは?!」
力は大きく失われ存在感も希薄となっていたが、その姿は紛れも無く先程戦い、死力を尽くして撃破したビーストそのものであった。
「この空間では力を発揮できない私達ではあの闇の存在を倒せません」
「せやからリインフォースの奥深くに隠れておってんけど……」
「二人が夢を破ってここにきた事でこの場所が露見してしまったようです」
「……俺達のせいか?」
「そうとも言えるかもしれません」
無表情のままばっさりと言葉で斬られた。案外毒舌なのかもしれない。
「ならば俺の為すべき事は一つだろう」
そう言って破魔の紅薔薇と大いなる激情をその手に出現させる。両手に現れた切り札である宝具の様相は大きく変化していた。
破魔の紅薔薇は以前よりも深く鮮やかに見る者の心を奪う程の美しき輝きを称え、大いなる激情は刀身と柄に優美な意匠が施されている。
聖杯の力では英霊の能力を側面を限定しなければこの世に現界させる事ができなかった。しかし、英霊の座と繋がった事で封じられていた能力を取り戻したのだ。
これこそがディルムッドが有する宝具の真の姿、
その手に表していない必滅の黄薔薇と小なる激情も、それぞれ
まさに輝く貌の二つ名を持つディルムッドが有するに相応しい宝具と言って良いだろう。
全盛期の姿と本来の宝具。その二つを得たディルムッドであれば先程互角であったビーストに遅れを取る事はない。ましてや眼の前の大幅に力を失って形骸化した相手など脅威となり得るはずは無かった。
――――絶望ヲ……
「何っ?!」
そう。一体だけであれば脅威でも警戒する必要も無かったであろう。
――――慟哭ヲ……
――――苦痛ヲ……
――――嫉妬ヲ……
――――憎悪ヲ……
ありとあらゆる負の感情を書き出しながら無数の獣が闇より這い出し、漆黒の空間をさらに闇色に染め上げる。その勢いは凄まじく、先程まで虚無であったこの場所を埋め尽くそうとしていた。
「なんだ? こいつら……先程の者とは違う……?」
「えぇ……微かにですが、魂の気配を感じます」
行く手を阻まんとする無数のビースト。だが英霊二騎は一つ一つの存在から強弱はあれど、魂の気配を鋭敏に感知していた。
「……かつて私の起こした悲劇によって死した者達の魂です」
「この者達が……かつて人であったというのですか?」
「はい。闇の書と化した夜天の魔導書に取り込まれ、死した魂はずっとここに囚われ漂っていました。ですが……」
「奴らという器を得た事で再び現界しようとしているのか……」
かつて闇の書事件によって管制人格や守護騎士に蒐集、もしくは殺害された者達は肉体と引き離されて闇の書に囚われた。彼らはここから抜け出す事が叶わず、輪廻の輪にも戻れなった彼らはこの暗闇の中を彷徨っていたのだ。
この孤独の闇は肉体という器を失い剥き出しとなった魂には到底耐えうる事が不可能な空間である。
はやては夜天の魔導書の主であり管制人格であるリインフォースがその魂を守っているのでこの場の影響を受けていない。
ディルムッドとランスロットは剥き出しの魂の状態であるが、英霊である彼らの魂は純度、密度、強度、硬度は常人どころか高等な使い魔とすら比べ物にならない強さを持つ。
二人はその記憶を喪失しているが、彼らは悪意に塗れた大聖杯の汚泥の中で侵食されながらも泥と化さなかった。そんな高位の魂からすれば、この闇の中で自我を保つどころかその保有する力を十全に発揮する事など造作はない。
だがこの場にいる彼ら四人以外は皆、特別な力を持たない魂である。中には少しは耐えて自我を保った者もいたかも知れないが、永い時間はそんな抵抗を嘲笑うように心を奪い去っていた。
そんな多くの魂が無数に生まれ落ちるビーストという器と融合して再び世界へ這い出る力を得た。だがビーストはこの世全ての悪より分かれた存在。
闇に染まった魂が悪意と融合した事で彼らの魂は悪に染まっている。
――――孤独の闇の中にある絶望
――――地獄に堕ちた事への慟哭
――――彼らを蝕むのは永遠の苦痛
――――自我を持つ者に対する嫉妬
――――尽きる事の無い生者への憎悪
そんな負の感情が収束し、ビースト……いや悪意の獣と呼ぶべき者達は彼らを抹殺するという意思となってディルムッド達に牙を剥いた。
「くっ!」
前振りなく突如襲い掛かってきた悪意の獣を原典・破魔の紅薔薇が容易く穿ち、苛烈なる日輪の憤怒が鮮やかな陽光のような残映を残しながら敵を裂く。
「させません!」
後ろからはやてを狙って迫ってきた悪意の獣を光輝を取り戻した聖剣が切り裂く。聖剣の属性に戻ったランスロットの剣は邪の属性を持つ悪意の獣には絶大な威力を発揮した。
「はやてはこの絶望を払う希望だ!」
「指一本触れさせません!」
迫る闇をなぎ払い、囚われの王を守りながら両雄は前に進む。
――――――この地獄の回廊を抜けて光の世界に戻る為に
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