「Arcadia SS 」に投稿していたものを、少し改善しつつ投稿していきます。
京都に建設された弐條城、地底──
そこには【地獄】へと続く、淀んだ空間が拡がっていた。
人界より逸した世界──焦熱地獄だ。
【
いや、違う。彼女は決して彷徨っているわけではない。
彼女はただ──
現世から地獄への入口にして、地獄からの出口は、既に閉ざされた。
彼女はもう、何もできない。今の彼女に許されているのは、ただ地獄へ墜ち、消えゆく存在として、
──身体の力が、抜けていく。
意識が遠のく。視界は霞み、四肢は既に動かない。
痛覚は衰え、傷みが和らいで来ている。──身体の機能が、壊れ始めているのか。
痛みを感じなくなるごとに、安らぎを感じた。
しかし同時に、彼女は、どうしようもない虚しさを覚えた。
──こんな
唯──彼女の中で、今なお痛む箇所があるとするのなら、そこは〝心〟だ。
おそらく
しかし、他に表現のしようはない──。
今の彼女の「心」には──ひとりの女として、耐えられぬような深い傷が刻まれていたのだから。
────愛した息子に、殺された。
血肉を分け、産み落とした息子に裏切られた。
その事実が、彼女の心を、ひしひしと壊してゆく。
息子の名は【
母親でありながら、母親になれなかった。
生まれたばかりの清明、いや…………。
〝再誕〟したばかりの清明は、羽衣狐を地獄に堕とし、
『陰なる魔道、背に光あればこそ』
と述べて、母に追悼を送った。
ここまでの思慮を経て、羽衣狐は悟った。
清明は───人と妖の間に生まれた
ひとつの体に〝光〟と〝闇〟の両方を持っており──
そのどちらかを捨てられず、どちらか一方にもなり切れない、哀れな存在。
しかし、だからこそ、半妖として生まれた「清明」にとって、満天の「光」はいらない──?
「あなたは私の太陽だった。希望の光、ぬくもり……」
再誕した時点で「清明」は、人間を絶滅させ、妖怪だけの世界を創設し、世に秩序を齎す決意を抱いていた。
彼はもうその時点で、「安倍晴明」であることを辞めていた。
人を滅ぼす決意の下、人であることを放棄し、みずからが人以上の
鬼──それつまり、あやかし。
そう。彼はもう人ではなく、妖の【
鵺にとって、忌まわしいのは光。
母親の存在もまた光。
鵺が歩む道の先──修羅の道に「闇」が広がるのなら、背には「光」を。
光を捨てきれない、どちらか一方も失えない「鵺」には、背後に輝きを。振り返らねば、見ることのあたわぬ、その方角に、母という「光」を置いた。
清明はきっと、母に、こう言いたかったのだろう。
『背後から差す陽光は、前方の暗闇を照らし、加護として我が道を指し示してくれるでしょう。だから私は、これからいつまでも母の存在を忘れずに、我が道を進んでゆけるのです』
暗闇の中で、後ろから差す
(晴明)
堕ちていく最中で、羽衣狐は息子に思いを馳せた。
(お前はこの母を、光と、呼んでくれたのか……)
このような結末を選んだ清明でも、母には感謝しているのであろう?
「ああ……」
母に背を向けることで、歩いてゆけると思ったのだろう?
ようやく、ひとりで。
「愛しいかな、清明。哀しいかな、清明」
突きつけられたのは、非情なる現実。
それでも、受け入れよう。受け入れてしまおう。
清明に、迷惑はかけたくない。
今や老いぼれた母親が、大望を抱いた息子の足を、引っ張りたくはない。
母が、どんなに彼の役に立ちたいと願っても、
「なんと、憎たらしいかな……」
母は消えることでしか、役には立てないというのか…………。
しばらくして、何かが、羽衣狐の耳元を掠った。
……声だ。
それが声だと理解するまで、しばらくの時間を要した。
その声は、何度も羽衣狐の名を呼んだ。
聞き覚えのある声だ。
いや、聞き覚え、などではない。
それは、かつて羽衣狐自身が「自分の声として出していた声」だったのだから。
「
まどろみから目を覚まし、うっすらと、ゆっくりと、羽衣狐は瞼を開いた。
すると、自分が今までとまったく異なる、別の空間にいることに気が付いた。
そこは先程の、赤々と煮え切るような地獄への空間ではなかった。
代わりに現れたのは一点の穢れもない、真っ白な世界。
右も左も、上も下もない、ふんわりとした虚無な空間。
「……羽衣狐」
其処に現れたのは──【山吹乙女】であった。
「貴様……何を、している……」
いったい、なぜ、この女が、目の前にいるのだろうか。
羽衣狐は、弱々しく訊ねていた。
山吹乙女は、悲壮な表情を浮かべていた。まるで、羽衣狐の身に起きたことを、自分の苦しみのように、背負うように。彼女の苦しみ、痛みを分かってやろうとするように。そんな彼女から、声が放たれた。
「あなたは、本当にこれで──良かったのですか?」
──これ?
この結末のことを云っているのか?
羽衣狐は訝しみ、同時に、小さな怒りを覚えた。どこか自分を見下すような、説教くさいその態度が、幾分として不愉快に思えたのだ。
「貴様の知ったことか……失せろ」
本当に、どうでもいい。
もう、何も考えたくなんてない。
残りはただ、自分の魂がこの地獄の中で消滅していくのを待つだけ。
ならばもう、早く消えてしまいたいのだ。
今さら、あの忌々しい記憶を掘り起こすようなことはやめてくれ。
「出過ぎたことと理解しています。ですが、わたしはあなたに、どうしても伝えたいことがあるのです」
「知ったことかと云っている。貴様の事情なぞ知らぬ! 貴様がどうであろうと、妾が貴様から聞き受ける言葉などないのだ」
いいかげん、放っておけ。
しかし、乙女の姿は微動だにせず、そこに在り続け、羽衣狐を見据えたまま。
羽衣狐が、痺れを切らした。
「執拗な女……。消えぬと云うのなら、妾が貴様を葬ってやる……こけ脅しはないぞ」
その言葉を受け、乙女は、小さく苦笑した。
「今の〈あなた〉に──私を倒すだけの〝力〟は、残されていませんよ」
乙女が哀しげにそう云うと、羽衣狐はふと、自身の身体に違和感を憶えた。
羽衣狐の身体から、沸騰するような音を立てて、黒い障気が放出し始めている。同時に、自身の中から力が抜け落ちて行くような感覚を憶える。
身に憶えがある。全身に蓄えた妖気が、忽ち、身体から逃げて行くようだ。これは羽衣狐にとって、初めての感覚ではなかった。
「妾の妖気が抜けてゆく……? なぜじゃ……!?」
驚きに目を見開いた羽衣狐に、乙女は言葉を続けた。
「〈あなた〉は、古来より京に巣食う大妖怪でした。ですが〈あなた〉が振う力──〝畏《おそれ》〟のほとんどは、人間の憎悪や怨念によって形成されておりました」
かつての桃山時代。人を表舞台からも操り、支配した唯一の妖。
羽衣狐は、奈落か黄泉か、この世ではない場所より、この世の乱世に姿を顕現させる。めぼしい女児に取り憑き、成体になってからは時代の闇──怨み、怒り、嫉み、絶望──怨念の類を吸収することで力を増して来た。
「鵺の出産のため、〈あなた〉は多くの人間を手に掛けて来た。──生き胆を奪われ、数多の人間が〈あなた〉を恐れ、怨んだことでしょう。あなたはその〝黒い情念〟すら吸収して、己の力へと変えて来た」
しかし。いえ、だからこそ。
乙女は続けた。
「あなたは既に……〝報い〟を受けた」
「むくい、だと?」
「ええ。あなたはもう、死んでいるのです」
羽衣狐は、乙女が何を言っているのか理解できなかった。
「〈あなた〉の身体から、妖気の大半が消えてしまったでしょう。〈あなた〉に蓄えられた、強大な怨念のほとんどが……ようやく解き放たれたのです」
死霊の怨念は、生物が世の中に強い未練、無念を残して死んだ時に、実体を持たず現世に顕現し、怨みを晴らすべき相手に、固執するように纏わりつく。
その者を、呪い殺さんといわんばかりに、はるかに長い間を。
その者が、死ぬまで。
羽衣狐はこれまで、多くの人間の命を奪って来た。被害者のほとんどは女性であり、被害者遺族の無念も含め、羽衣狐に集った怨念の数は計り知れなかっただろう。彼女は、自分に集まったそういった〝黒い想念〟を取り込んで己の力を増幅させ、最強と呼ばれるにふさわしい力を手にした。
だが、彼女が地獄に落とされた今、その多くの怨念が、ようやく成仏の時を迎えようとしているのだ。
「羽衣狐、思い出してください」
乙女は、鷹揚として言葉を続けた。
「〈あなた〉という妖は、元々、殺生の世界とは縁のない……〈平穏な妖〉であったことを」
「……何を言うかと思えば……血迷うたか。妾は、昔から」
羽衣狐は、反論を続けようとした。
だが、その先の言葉を見失った。
「昔、から…………?」
彼女自身、その言葉に疑念を抱いたのだ。
「思い出してください。〈あなた〉は元々、『羽衣狐』という名前ではなかった。〈あなた〉が〝其れ〟になったのは、怨念に取り憑かれてからでしょう?」
平安時代。
かつての〈羽衣狐〉は信田の森に暮らす、平穏な野狐の妖であった。その尾も一本しかなければ、変わって特別なことは、千年を生き長じると噂されていただけの、平穏にして無害な妖でしかなかった。
当時の名を──〈葛之葉〉という。
そう、かつての〈羽衣狐〉は、もともとそう云う名であったわけではなく、本来の持つ名前があったのだ。
「人間に絶望し、人の怨念を集めて来た〈あなた〉はいつしか『羽衣狐』と呼ばれるようになった。──しかし、その怨念から解き放たれた今……〈あなた〉は、かつての姿に戻ることとて可能なはずです」
〝人〟という名の衣を羽織って、いつの世も人界を乱さんとする。
これにより、彼女は『羽衣狐』として畏れられるようになった。
「かつての姿じゃと……? 世迷言を。今の〈妾〉には、関係のない話じゃ……」
主張する羽衣狐は、しかし、どこか頭に苛立ちを憶え始めていた。
拭え切れない不安が、彼女を襲う。もしかしたら……乙女が云っていることも間違いではないのかもしれない、と。
「〈妾〉には、過去の記憶など必要ない。──知ったような口を叩くな!」
転生に転生を繰り返し、人を殺め、鵺を産むために力を蓄えて来た。
八度目の転生の折、奴良組に邪魔をされ──宿願を持ち越すハメになってなお、ついに九度目の転生を果たし、鵺を産んだ。人の世を壊そうとした。
闇が光の上に立つ、純然なる漆黒の楽園を創ろうとした。
羽衣狐は激高し、声を張り上げた。
「貴様に〈妾〉の何が分かる? ──昔の〈妾〉を、何とするか!」
その説明も、間違ってはいない。
人間を怨んでいたからこそ、彼女は、人間を滅ぼそうとした。
乙女は、しかしと、言い続けた。
「ひとりの人間を────愛した妖、と…………」
乙女の言葉が──静寂を齎した。
羽衣狐が、返す言葉を失って、絶句している。眉を顰め、怪訝な貌を浮かべている。
「人間を、愛……した?」
震えた声で反芻する羽衣狐に、乙女は言葉を投げかける。
「千年前。ひとりの半妖が、この世に産み落とされました。名を〝童子丸〟と云い──彼は将来、有望な伝説的天才陰陽師として、こう呼ばれたそうです」
神童・安倍清明、と────。
「そして」
乙女は、羽衣狐を見据え、問いかけた。
「────〈あなた〉が、その母親でしょう?」
羽衣狐が、口を小さく開けたまま、愕然とした。
容赦なく、そこへ乙女の言葉が紡がれる。
「かつての〈あなた〉は人間を怨み、憎んでなどいなかった。……いいえ。そればかりか〈あなた〉はひとりの人間の男と恋に落ち、契りを結び、愛を育んだ」
それはきっと、確実な証拠で。
「〈あなた〉は──人間を愛していたんですよ」
放たれた断言に、返す言葉を失う。
「思い返して下さい。〈あなた〉を地獄に堕とした安倍晴明。──其の者は、なぜ産まれたのか。その理由《わけ》を」
妖気が抜け落ちた羽衣狐の身体を、どうしようもない脱力感が襲う。それと対照的に、精神はとてつもない解放感に晒された。
……わかっていた。事実は事実として、揺らぐことはない。
安倍清明は、半妖だ。
親のうち、一方が人間。もう一方は妖怪だ。羽衣狐が妖怪であるのなら、望まれた婚礼を挙げ、羽衣狐が選んだ、人生の伴侶とは──
間違いなく、人間だ。
羽衣狐が長い間、一概に「愚族」と憎み続けてきた存在だ。途方もないほど長い光陰を、人間への復讐を悲願にして、生きて来た。憎しみに囚われすぎて、真実が見えなかったのだろうか?
「妾はかつて、確かに、人間を……愛していた……」
「羽衣狐、あなたは『ひと』を知っている。妖でありながら、ひとを愛する術を知っている。──それはとても稀有であり、幸福なことなのです」
羽衣狐は、今まで思い返すことの出来なかった……喪失していた己の記憶を、己の手でたぐり寄せた。
清明の父。羽衣狐の夫と過ごした時間。
人と妖。──種族など大した問題ではなく、ふたりには関係なかったこと。たがいに想い合い、その腕に抱かれた中、この時が永遠に続けばいいと思っていた、甘く、儚い時間。
千年を生きる彼女にとって、人間と過ごせた其れは、あまりに短すぎる時間だったであろう。
しかし、だから何だというのだ。
本当に大切なものは、時間の長さではない。どれだけ、大切な思い出が残せたかということ。ふたりの愛が、子という実を成した瞬間。
その実が花を咲かせ、立派になった瞬間が、どれだけ嬉しかったかを。──羽衣狐は、今になって思い出す。
「わ、妾は……」
自分は、人間を愛していた。
遥か昔の話だが、その事実が羽衣狐を茫然とさせ、衝撃を与えた。時候の移ろいの中で、痛み、苦しみ、怒り、悲しみ、妬みを集めていく内に、黒い感情に囚われすぎて、大切なものが見えなくなっていた。
「なにゆえ、気づかなかったのか…………!」
羽衣狐は他人の赤子を鎖に縛り付け、その者の運命と自由を奪い、封印を施した。
彼女は乙女に対して、ひとつの呪いをかけてしまっていた。
「妾は……きさまの喜びを……母親としての、無上の喜びを」
乙女の人生から、羽衣狐は「子」を永遠に奪い取った。
大昔、乙女の身体に孕まれるべきであった生命の種を、羽衣狐は根こそぎ摘み取ったことがあった。
同じ「女」
同じ「母親」
そうなれるはずだったのに。
何の罪も咎めもない、羽衣狐とも何の関わりもない、そんな乙女から、彼女は、自分が最も喜んだ時間を奪い取った。
乙女は崩れ落ちた羽衣狐に対して、優しく微笑んだ。
「過ぎてしまったことは、もう、取り返しがつきません。それでも私は、幸せでした。鯉伴と共にいた時間は、本物でしたから…」
「すまぬ……妾は……! そなたに、耐えられぬ苦しみを……!」
唇を噛み締めて、容赦を乞う羽衣狐。
「羽衣狐……あなたは、ただ、取り憑かれてしまった〝だけ〟なんですよね。幾万もの、負の感情に」
「山、吹…………!?」
「断言します、羽衣狐。あなたは……『再び生まれ変われる』――それは転生という意味ではなく……あなたの〝心〟が」
言っている言葉の意味はわからなくても、羽衣狐は聞き入っていた。
「これまで自分を認め、かつての自分を見つめ直せと云うのなら、私は、あなたに命じます」
強い瞳を宿して、山吹乙女は訴えた。
「──ひとを、もう一度愛しなさい」
その瞬間、羽衣狐の前に、ひとつの光が舞い降りた。
「なん、じゃ……?」
手は触れず、羽衣狐はその光を見据える。
やがて彼女は、山吹乙女を怪訝そうな表情で見上げた。
「羽衣狐、みずからが咎(とが)を見つめ直す勇気があるのなら。……『人間を愛す』という覚悟があるというのなら、その光を掴みなさい……!」
「人間を、愛す……?」
「あなたに〝機会〟を与えます。もう一度、自分自身を信じたいのなら、光を」
羽衣狐の腕は、不思議と自然に、その光に手を差し伸べていた。
この光を掴んだ先に、何があるかはわからない。
しかしこの時羽衣狐には無意識に山吹乙女が言っていた〝新たな始まりを生きる覚悟〟が出来ていたのは、何よりも確かだった。
羽衣狐は目を開き、そして、
光を掴んだ────