ある日の朝、目が覚めました。
いいえ、まだ夢の中にいるような気さえしています。
本当に気持ちの良い朝です。
カーテンの隙間から差す日光。雨上がりだからでしょうか、外に見える木々の新緑は目に眩く、空気には埃さえ混じっていない──。
澄み渡った酸素が──身体の奥底へと、染み込んでゆくようで。
窓を開ければ────それはそれは、きっと心地よく、肌を撫でるようなそよ風が流れ込んで来るでしょう。
──今日はアリサちゃんが、はやてちゃんを御屋敷に招待するそうだ。
以前、はやてちゃんが図書館で知り合いになった、月村すずかという女の子がいました。その月村すずかちゃんは、アリサちゃんの同級生でもありました。
それで、アリサちゃんと、はやてちゃんが繋がったのです。
私は、久しく会わなかったはやてちゃんと今日、再会を果たすつもりです。
緊張は……していません。
いまの私は、世俗から解き放たれたような、とても清らかな気分なのです。
自由────そう、自由。
どこまでも開放されている気がする。
まだ朝の六時。霞がかった淡い景色は、昨日の雷雲をまるでどこかに置いてきたように青く、どこまでも悠然と広がっている。
アリサちゃんは今日も学校ですので、あと、もう少ししたら起きるはず。
……いや、起きてしまうはず。
私は人間なので、日頃から羽衣狐より早い時間に眠りに就きます。逆に云えば、羽衣狐は早起きが苦手で、起床の際は、基本的に私が身体に憑依しています。
どちらかの意識が途絶えると──たとえ「両者の合意」がなくても、交代ができます。
羽衣狐がある日の晩、気絶した私から肉体の憑依権を奪ったように、片方が眠りに就けば、もう一方は自由に肉体に憑依できるようになるのです。
昨夜は羽衣狐が肉体に憑依していましたが、朝、起きる時間が彼女よりも早い私は、大抵の場合、朝起きると、羽衣狐よりも先に肉体の憑依権を得ることができます。
反対に、夜はいつも、羽衣狐に身体を預けて就寝してしまうのですが……それをすると、朝起きた時、びっくりさせられるんです。
だって……!
だって彼女……寝衣を着てくれないんですもん……!!
「ひああああーーっ!?」
山吹乙女が悲鳴を上げて、その場に飛び起きた。
どこまでも自由だと思えたのは──何ひとつとして着衣いないから!?
羽衣狐は、この屋敷に来て、個人の部屋を用意されてからは──いつだって、裸で寝ます! 朝その状態で起きるのは、私なのに!
──朝起きた時、自分が裸だったら、びっくりするでしょう!? 最初は、寝ている間に、誰かに襲われたのかと思ったじゃないですか!
隣で眠る小さな女の子の、大人の世界の汚れを知らない無垢な少女の真隣で、私ともあろうおばさんが、どうして生まれたての姿を晒しているのでしょう!
ああああ羽衣狐……あれだけ寝るときは着衣してと言ったのにぃ!
──こんな痴態を、見せるわけにはいかない!
乙女は毎朝ながら、こうしてパニックに陥るのだった。
「ええと、和服は!? いえ、もう洋服でいいですが、どこに!?」
なんとしても、この子が起き、誤解される前に着衣を済ませなくては……!
咄嗟に私は、目の前に置いてあった、おそらく羽衣狐が昨晩、脱ぎ捨てたであろう……
……なにこれ?
それを拾って、両手で広げてみる。
随分とヒラヒラしています。一応、寝衣なんでしょうけれど。
「う、うぅん……?」
その時、アリサが目を醒ました。
「むにゃむにゃ。……あー、おとめだー? おはよぉーっ」
「お、おはようございます……」
着衣は完了していました。
さいわい、アリサちゃんには、数秒前まで私が「すっぽんぽん」だったことには気付かれてない。我ながら、なんてスピードで着替えたのでしょう……。
「ネグリジェなんて、めずらしぃの着てるのね」
「……ねぐりじぇ?」
どうやら、ネグリジェ、というのが、乙女が着ている寝巻の名称らしい。
ややあって、アリサは眠そうに目を擦りながらゆっくりと起き上がると。
まだ半分しか開いていないその眸で、乙女のことをまじまじと見つめ始めた。
乙女が首を傾げ、どうかしました? と尋ねる。
「薄着だとよくわかるけど、乙女って、ものすごい着痩せするのね。おおきな胸~」
いったい、今まで「それ」をどこに隠して来たのだと云わんばかりの、豊かな膨らみを目の当たりにして、アリサが云った。
──乙女って、性格は慎ましいのに、そっちは
ひどく親父臭いことを考えたアリサではあるが、云われた乙女は、鋭い槍で心を突き刺されたように、ショックを受けていた。
「う。最近、太って来たのでしょうか……」
少女的な憧れを抱いたアリサの手前、乙女は、しょんぼりと肩を落とした。
とってつかないその反応に、既につぶらなその眸を、アリサはさらに丸くした。
「ちょっと乙女、どうしてそこで落ち込むの?」
「え? だって『着やせしている』って──『実際に見ると太っている』って意味でしょう?」
「うわぁ」
アリサが嘆息ついた。
服を着て痩せて見える。しかし、裸を見れば、実際はその見目よりも太っている。──そのような乙女の解釈は「着やせ」の日本語の意味合いとしては、決して間違ってはいなかった。
しかし、アリサに云わせれば、着やせとは、「太っている」というより、程度として「グラマー」な女性に用いることの方が多い表現である。
豊満で魅力的なさまを示唆する用語として、その実、現代では女の子専用の褒め言葉でもあるのだが……
「ぐらまあ?」
英語を理解できない山吹乙女には、それは、いくら説いても無駄なことであった。
ここまで自分の容姿に鈍感だと、ある意味、不憫にすら思えるアリサは、
「乙女って不思議」
と、率直に感想を漏らしていた。
きょとんとする乙女。
「だって、そのルックスでその反応。全然釣り合ってないもの」
「あ、あの、できれば日本語をお願いします」
「ああごめん。見た目にあってない、ってことよ」
名前から自明ではあるが、外国の血の入っているアリサから見て、山吹乙女こそ「大和撫子」と呼ばれた清楚な美しさを代表する日本人女性の鏡ではないか、と考えられていた。
日本人ならば、いや、そればかりか
服を着れば、つましやかなほどスレンダーでありながら。
服を脱げば、女性らしい体躯が描く、豊かな曲線が艶めかしい。
色々と、反則だ。
──こんな女性は、きっと、ふたりといない。
しかし、山吹乙女は、自分がそのような女性であることを微塵にも理解しようとしない。外国の血の流れるアリサだから、乙女の性格──まさに和の美意識である「謙虚」の精神を理解できないのか、あるいは単純に、乙女が「鈍い」なだけなのか──。
なんとなく、後者が有力な気がしてきたアリサである。
「あなたはもっと、自分に自信を持っていいんだよ」
「え……?」
意外な言葉をかけられ、乙女は唖然とした。
「見た目も中身も、みんなが羨むようなものを、沢山持ってるのに、いちばん自覚がないの。こう、抱きしめたくなっちゃう感じ」
小学生に抱きしめられるといわれるのも、妙な話だったが。
「……。なんていうか、私って、そんなに寂しそうに見えますか?」
「いや、だから」
言葉とおりに受け取ってもらって構わない、と言おうとしたアリサだったが、早朝から何を話しているのだと、赤面してアリサはそれ以上言えなかった。
「……やっぱり何でもない」
言い捨て、アリサはいつもの通り、ベットから立ち上がる。
そうして、小学校へ行くための準備を始めた。
羽衣狐は────まだ、眠っている。
乙女はひとり、ベッドの上で座りながら、アリサに云われた言葉の意味を、考えていた。
「自信を持っていい、か……」
──私には誇れるものなど、何ひとつ、ないですよ……。
ふと、アリサに云われた時、そのように返答したかった。しかし、その言葉を彼女に吐かせる「もの」の意味を、アリサに説き明かすことはできない。
──自殺して幽霊になり、互いに好いていた人の許から、勝手にいなくなった……。
それが、乙女の中での真実だ。
いと、身勝手な女。傲慢な者。
羽衣狐が昨夜、罪の意識に悩んでいたように──私にだって、贖えない罪がある。償えない過去がある。
私は決して、強くない。
戦う力もなければ、誰かを守る力もない。
そんな自分に、持てる「自信」なんてあるのかと────乙女はふと、逡巡してしまった。
第十五話。
黄昏空、憤慨する『烈火の将』前編
「お早うございます。乙女お嬢様」
「あ、はい。おはようございます」
──いつの間に私は、このお屋敷のお嬢様になったのでしょう。
乙女はそんなことを考えながら、屋敷の階段を下りる。
時刻は、九時を指している。
既にアリサは小学校へと出発している。
階段を下りた後、乙女は、そこで佇んでいたひとりのメイドに、質問を投げかけた。
「あの、何か私に、お手伝いできることはないでしょうか? 何かしていないと、落ち着かなくって」
「はあ……。そうですねえ、午後からはアリサお嬢様の御学友がお見えになるとのことですから、午前のうちに、終えられる仕事のほうがよろしいでしょうか」
アリサお嬢様は、乙女様のことを紹介したがっておりますゆえ、と付け足す。
「そうですね。それなら、そうしてもらえると助かります」
乙女も、はやてとは再会し、しっかりと話すべきだと考えた。
「でしたら、その御学友方を迎えるために、御食事が必要となりますので、その材料の、買い出しなどはいかがでしょう?」
「あ、はい。やらせて頂きます。ありがとうございます」
何かしていないと落ち着かない、それが山吹乙女の本分だ。
だだっ広い廊下を歩きながら、山吹乙女は、羽衣狐に朝の挨拶を交わした。
(羽衣狐、起きて下さい)
乙女はいっそのこと、清々しいまでの声色で呼びかけたが──しかし、羽衣狐の返事は重たかった。
(…………なん、じゃ)
(……? どうしました?)
羽衣狐の様子がおかしい。
乙女は彼女の声を聞いただけで、苦しそうな様子がわかった。
(頭が、痛んでのう……。誰かが呼んでいるような……なんとも不快な痛みじゃ)
いったい、何の話だろうかと乙女は思った。
ややあって、羽衣狐が言葉を放つ。
(……収まってきおったわ。すまぬ、平気ぞ)
(だいじょうぶですか? やはり今日は、病院に行くことにしましょうか?)
(診察されるのは、そなたの身体だ)
あっ、と言葉を漏らし、山吹乙女はそれ以上を噤んだ。
羽衣狐の頭痛の原因が何だったのかと心配になったが、しかし、憎まれ口を叩くほどの余裕を、彼女はどうやら取り戻したようであった。
私立、聖祥大学付属小学校。
三年一組の教室で、月村すずかのの座席を囲みながら、なのは、フェイト、アリサの四人が、授業の合間の休み時間に話し合っていた。
「──入院? はやてちゃんが?」
その言葉は、なのはから放たれた。
すずかから──今日の予定ことで、なのは達三人に、話があったのである。
今日、この四人は、八神はやてという女の子と遊ぶ予定になっていたのだが、突然それが、中止になった旨を伝えられたのだ。
「ついさっき、はやてちゃんの親戚の人から、わたしの携帯に連絡があったの。今朝、急に体調を崩したそうで。……それで検査とか色々あって、しばらくかかるから、遊ぶのは当分、出来ないそうなんだって……」
残念そうに肩を落とす、すずか。
しかし、アリサが提案した。
「そっかぁ……じゃあさ、放課後、みんなでお見舞いに行こうよ。もともと、今日は紹介してくれるって話だったしさ。お見舞いも、どうせなら賑やかな方が良いんじゃない?」
「う~ん。体調崩したのが今朝ってこともあるし、それはちょっとどうかと思うけどなぁ‥‥」
「でも、私はいいと思うよ。ね?」
フェイトが笑顔で答えた。
「ありがとう!」
さっそくすずかは、シャマルへとこの用件の連絡を入れた。
なぜ、シャマルなのかというと、すずかが初めてはやてに出会ったとき、図書館にて彼女の車椅子を押していたのが、彼女だったのだ。
すずかはてっきり、シャマルのことを、はやての保護者として認知しているのだから──。
ピピピッ
同時刻、海鳴市の繁華街を出歩いていた、シャマルの携帯電話が鳴り響いた。
ポケットから取り出したディスプレイに、メールの送り主の名前が記載されている。
「すずかちゃん? なんだろう」
疑問に思い、メールボックスを開いているシャマルの隣には、シグナム、ヴィータの姿があった。
彼女達は今──海鳴の繁華街の畔にいる。
訳あったようで、守護騎士の三人で出かけている様子である。
「お見舞い?」
シャマルが視認したメールの内容は、はやてが入院した事を気遣って「お友達を連れて、お見舞いに行きたい」というものだった。
それについて、こちら側の都合や差し支えがないかどうか、前もって確認を摂っておきたかったのだろうと、シャマルはすぐに理解した。
「すずかちゃん、なんて優しい子……」
礼儀の方も、しっかりとしている。
思わず、ほろりと涙がにじみ出て来そうになる。
だが、その文章に添付された画像ファイルを見て、絶句した。
「……ええっ!?」
「どーした、シャマル?」
画像ファイルには「早く元気になってね」と書かれた大きめのメッセージカードを持って映る、四人の女の子の姿がある。そして、その内のふたりは、今や完全な敵対関係に当たる時空管理局直属の少女魔導師、ふたりであった。
──彼女達が、すずかの学友……?
幼き天才魔法少女──高町なのはと、フェイト・テスタロッサ。
──今日、はやてに会いに来るというのか?
あの、ふたりが──!?
「……どうした、シャマル?」
わなわなと震え出す彼女の傍らで、シグナムとヴィータが懐疑した。
シャマルが、送られてきた携帯の画像ファイルと文面を見せ、事情を明かす。
話を受けたシグナムは、しかし、狼狽する様子は見せず、泰然として構え、
「大丈夫だ、落ち着け」
冷静にシャマルを鎮めた。
「はやての魔法資質は、ほとんどが闇の書の中にあるんだ。だったら、詳しく検査でもされない限り、バレたりはしない」
「さいわいにな。私達がすべきことは、我々の存在を、あのふたりに気づかせないこと──石田先生や、主の口から、私達の話を封じておく必要がある。無用の場面で鉢合わせすることは、得策ではないからな」
鉢合わせすることだけは、防がねばならない事項だろう。
「御見舞いとやらの名目で、ヤツらが主と接触するのは結構だ。問題はない。……だが、シャマル。その子たちが見舞いに訪れる際は、あらかじめ、こちらに連絡を通すよう徹底させてくれ」
「そうだな。そうでもしねーと、病院でばったり、あたしらと鉢合わせしちまうからな」
「そ、そうね……」
話は──そこで終わった。
交差点の信号が赤に変わり、彼女たちは立ち止まる。
そして、目の前……。
彼女たちの探している人物を、発見した。
長い黒髪をたなびかせ、ウェーブがかった少女とふたりで歩いている、着流しを着こなした魁だ──。
「さて──心を入れ替えるよう。我々が排除すべき目標は──〝アレ〟だ」
「乙女の情報はたしかだったわけだな。──やってやるよ」
親子のような人物ふたりが、街中を歩いていた。
見方にもよるが、一見すると、まず最初に浮かび上がる続柄として「親子」という表現が妥当だ。共に歩いているふたりは、まさにそういった雰囲気を纏っていた。
──同じ黒髪でありながら、共に癖の強い長髪をしている二人だから。
街中でも独特の雰囲気を放ち続ける二人は、その奇抜さで目立っていた。
服装も現代ではどちらかというと異装であり、古風な和服を、何の恥じらいもなく着こなしていた。
半妖の奴良鯉伴と、妖怪の狂骨である。
奴良組の筆頭と、京妖怪の幹部──
本来は敵対関係にあるこの二人が、並んで歩く、というのは俄かに信じられない光景で、そう思っているのは誰よりも当人達で。
そして狂骨は、このとき不機嫌な面持ちを浮かべていた。少なくとも、彼女のことを見遣りながらすれ違った通行人が、「可愛い顔が台無しだ……」と落胆するほどには。
このとき狂骨は、鯉伴の後方について回っていた。
……いや違う。正確には、
(まるで無防備な背中、いったい何を考えて……)
──この男は本当に、どういう神経をしているんだろう?
仮にも敵対関係にある者に
なのに鯉伴は、こうして狂骨に背後を歩かせている。それは、狂骨のことを安直に「信頼」しているからだろうか? それとも、狂骨のことを返り討ちにする「自信」があるからか?
後者は完全に侮辱になるが、前者を彼女が認められるはずもなく。
──馬鹿にして……!
──わたしだって、京妖怪の幹部なのに!
侮られ、まるで「おまえなんぞ眼中にない」と宣告された気分になって、それは狂骨にとっても、面白いことではない。
ひと間おいて、鯉伴が懐から煙管を取り出した。それを認めた狂骨は、不満を爆発させるような形で、鯉伴の踵を思い切り蹴飛ばした。
──ゴスッ
キックは踵に直撃し、魁がイテッ、と声を上げた。
心外な様子で、彼は狂骨の方を振り向いた。
「いってーな、なにすんだよ」
「喫煙はやめて、煙臭い男とは一緒に歩きたくない。ついでに肺がんになって死ね」
「おめえ……」
恨めしそうに少女を睨んだ鯉伴であったが、周囲を見回し、まあ、たしかに人ごみで煙管はよくねーな、と声を漏らすと、反省したようにそれを懐にしまい込んだ。
そうして鯉伴は、何事もなかったように歩き始めたので、狂骨は痺れを切らし、尋ねていた。
「どうして?」
「んん?」
「どうして──〈鏡花水月〉を使っていなかったの」
狂骨の中で、それは当然の疑念であった。
キックが踵に直撃した、ということは、鯉伴は狂骨に対し、幻影ではなく、実体を見せていたことになる。それはぬらりひょんらしからぬ動向で、鯉伴は背後を、ひいては狂骨の存在を、まるで警戒していなかった、ということになる。
──京妖怪として、元いた世界に還れば敵対するであろう存在に、背中を見せる?
実際に「喫煙はやめて」と指摘したのは彼女の本心だが、それは大した問題ではない。あろうことか彼女のキックは直撃し、鯉伴は「痛い」とさえ漏らしたのだ。
「あんた、わたしが京妖怪の一員だってこと本当に理解してる? 自分が襲われない自信でもあるわけ? それともわたしのことなんて、眼中にないってこと!?」
今のがもし、キックでなかったら?
狂骨が指摘したいのは、その点だ。
「
「警戒心ねぇ……?」
当の鯉伴は、まるで思い当たりがないように、けろりとして答えた。
「あいにくだが、そんなもん持つ必要もねえだろ……」
「どうして!」
「そうやって心配してくれる女の子が、おれの後ろにいるからだ」
言下、鯉伴はにこり、と微だけ笑んだ。
狂骨は、鯉伴が何を言っているのか理解できなかった。
──女の子?
誰のことだろうと誰何して、意味を理解すると、彼女はボッと火が出たように赤面した。
「なッ、ちょっとそれ何、どういう意味!? わたしは別に、あんたの心配なんてッ──」
幼さを残した可憐な貌を紅潮させながら、少女は弁明を求めた。
が、皮肉なことに、今度の魁は、ぬらりくらりと遠方まで遠ざかっていた。
いつの間に! 気配を消したように、先行するな!
「あっ、まって! 聞きなさいよーっ!」
けらけらと剽軽な呵いを浮かべつつ、離れた場所に去っていた鯉伴に、狂骨が駆けて追い付いた。
走らされ、息を切らした狂骨が口火を切ろうとしたその時、鯉伴が遮るように口を開いた。
「ときに、管理局の探している〝もうひとりの次元漂流者〟ってのは……どんなヤツなんだろうな」
え? と、両膝に手を当てて整息する狂骨が、貌を上げた。
「……いや、オレが雇われたのは、そもそもソイツを逮捕するためだろ? なのに、そんなオレが、ソイツと一度も出逢ったこともねえ、っていうのは……また数奇な話だと思ってさ」
狂骨はその言葉を受け、それまで言おうとしていた喧嘩腰の台詞を忘れてしまった。
そして、わずかな沈黙の後、言った。
「わたしは、お姉さまだと思ってる」
「羽衣狐、か? おめえまだ云ってんのか」
「殺されたはずのあんたが『ここ』にいる経緯を考えたら、可能性は充分に有り得るはずよ……。それに、そいつが並大抵の強さだったなら、とっくに〝まどーし〟の連中で逮捕できる。……ほら、だったらあんたが雇われる理由なんて、どこにも見当たらないのよ」
「……まあ、たしかにな。オレたちの世界からの漂流が頻発してる時点で……それも怪しいってことか」
しかし、だとすれば。
(冗談きついな……。仮に羽衣狐がこの世界に落っこちて来たとすりゃ、どんな依代を失敬してるってんだ……)
地獄に堕とされたとされる大妖怪、羽衣狐──
そいつが、鯉伴の闘うべき「最後の次元漂流者」なんて話が、本当にあり得るのだろうか?
確かに鯉伴は、あちらの世界で命を落とした結果、こちらの世界に迷い込むことになった。無論それは、命を落とさなければ、こちらの世界を知ることも、何百年の人生の中でもなかっただろう、ということだ。
あるいは、地獄に落とされた羽衣狐が、この地球に漂流して来ている可能性も、否定できるわけではない。
しかし、ならば鯉伴にとって、それ以上の悪夢はないだろう。
羽衣狐は、人間の依代が必要な妖である。
元いた世界では、山吹乙女の身体を利用していたようだが、それはあくまで以前の話であって、この地球の住人で、鯉伴と面識の無い娘子に憑依している可能性とて、充分に考えられる。
そんな状況で鉢合わせになれば、羽衣狐が殺意を剥き出しにするまで、鯉伴は羽衣狐の存在に気付けない。それに対して羽衣狐は、彼女にとって因縁深い鯉伴の風采を見落とすはずもない。
(──それって割と、ヤバい話ではあるな……)
事実、鯉伴は一度、羽衣狐に殺されている。
いや……正確には、記憶を操られた、羽衣狐になる前の少女に殺されている。
あの時のように、疑えぬような娘子に化けて迫れた時、鯉伴には、それに対応する方法がないのだ。見知らぬ少女に襲われた後、振り向けばそれは羽衣狐だった……そのような経験は、できれば二度としたくないと思う鯉伴であった。
「背後から不意を衝いて襲うなんて、わたしも趣味じゃないけどね……」
「さっき背後からキックして来たのは誰だっけ」
「それは! まあ……さっきは手前あんなこと言ったけど、正直、アンタを殺そうなんて最初から思ってなかったわよ」
あるいは鯉伴には、狂骨のその考えが見抜かれていたのかもしれないが。
「あんたが死ねば、元いた世界では嬉しいことかも知れないけど、いま死なれたら、元いた世界に帰れなくなる」
「…………」
「つ、つまり──わたしが困るのよっ! あんたのためじゃないわ!」
「まっ、そういう関係も悪くはねえな」
鯉伴がそれを認める。
もともと、狂骨とは敵なのだ。
目的が同じだから、という理由だけで集っている以上、仲良くする必要はないし、仲良しごっこをする必要もない。
今でこそ同じ方向を向き、会話が成り立つような曖昧な関係だが、それもまあ、悪くはないのではないだろうか。
そこで狂骨が、噺の腰を折られ、忘れていた言葉を思い出す。
「だから、もう一度云っておくけどね! 勘違いしないでよ! わたしはアンタの心配をしてるんじゃなくて、あくまで、自分のためにッ──」
動いているだけだから──。
その言葉を言い切る前に、
その言葉の矛先の────鯉伴の身体は、はるか遠くまで吹き飛ばされていた。
その直後、狂骨の小さな身体を、烈風が襲う。
周囲一帯を吹き飛ばすような強烈な風圧。圧倒的な衝撃。
狂骨は反射的に両腕を組み、吹き荒ぶ暴風から、己の顔面を護った。
「ッ…………!?」
──熱い。
風が、熱い。
暴風? いや違う、それは熱風だ。
すさまじい風圧に押し出され、狂骨は立ったまま後方へ引きずられた。
鯉伴の立っていたはずの場所に、狂骨は燦々と輝く業炎を見た。
「──〈飛竜一閃〉」
猛き火炎の斬撃が、鯉伴がいた場所の空中に、炎の弧を描いた。
紅紫色に煌く刃が、奴良鯉伴の身体を突き飛ばしたのだ──猛禽……いや文字通りの〝飛竜〟が、湖畔の〝鯉〟を狩るかの如く。
おおよそ鯉は、天敵の接近に己の危機に、気づくこともできなかっただろう。それほどまでに、刹那にして凄絶な一撃。
飛竜の鋭牙が、鯉の坊を討ち取ったのである。
鯉伴の身体が、遠方まで吹き飛んで行く。商店街の一角、商業店の中に突っ込み、激しい煙と音を立て、店の中に消えて行った。
熱い風の正体は、火炎が煽った熱風。
暴風とも比喩すべき凄絶な威力を宿した剣戟。──これを仕掛けたのは、烈火の将、シグナムであった。
「やったか」
シグナムが満足げに唸る。
剣戟を振り降ろした場所、コンクリートは大きく抉られ、衝撃の余波が、前方のビルディングを焦がし、穿ち、黒い風穴を開けていた。
──これが、人間にできる攻撃だろうか?
狂骨は呆気に取られ、言葉も出ないが、その大きな眸はさらに大きく見開かれている。
──こんな斬撃の直撃を受ければ、普通の人間は……。
業火はすべてを燃やし尽くし、灰燼へと消し去る悪魔の御業か。
地表に描かれた刃の傷跡。火焔が描く弧は、いまだその勢い衰えることを知らず、地上を穿つ傷の上に激しく燃え盛っている。
「…………っ」
数十尺、暴風によって後方へと引きずられた狂骨は、その場にて唖然としていた。
まず最初に浮かべたのは、だから云ったのにと、そう云わんばかりの、魁への高慢心。
だがその直後に、後悔のような想いが、頭を支配した。
──しかし、まさか、いったい、なぜ……?
蒐集が目的のはずの守護騎士の方から、あの魁に、先んじて攻撃を仕掛けて来るなんて……!?
(なに……?)
狂骨はその時、ふと、違和感を覚えた。
鯉伴は、烈火の剣戟に吹き飛ばされ、商業店の中に突っ込んで行った──
──ように、見えた。
仮に鯉伴が、今の一撃で死んだなら、妖気のひとつも感じ取れやしないだろう。
そして確かに、狂骨が向いた方角からは、何の妖気も感じ取れなかった。しかし、それは……。
「──案外、早く終わったな」
「そうね。残酷なようだけど、あの魁には、これが相応しい報いです」
カチリ、と音を立てて剣を鞘へと仕舞いこんだシグナムの下へ、赤髪のヴィータと、金髪のシャマルが歩み寄って来る。
狂骨が、守護騎士と呼ばれる鯉伴の敵と遭遇するのは、これが初めてだった。
気が付けば、周囲にいた人間達の往来が消え、人っ子ひとり姿が見受けられない。
結界のようなものの中に狂骨は閉じ込められ、この空間にいたのは、狂骨と、守護騎士のその三名だけだった。
その三名が揃って、次に狂骨の方を向く。
「……守護騎士っていうのは、アンタ達のことね……?」
狂骨が言い、シグナムが返した。
「骸を抱えた少女。おまえと戦場で出会うのは初めてだが……今の魁の仲間と見受けた。悪いが、ここで見たことを管理局に話されては困る」
「……
「ああ。あの魁があたしらによって殺されたって事実──その瞬間のことをだ」
ヴィータが云い張ったのを、狂骨はにこりと笑み、その時、確信と共に言い放った。
絶対的な、反論を──。
「あんた達、鈍いのね。まさか、本気でアイツを殺せたと思ってるの?」
「…………なに?」
騎士達の顔が顰められる。
鼻白んだ表情で、狂骨が云う。
「あんた達が
狂骨は、鼻を鳴らして忠告した。
「でもね。それはただ、
守護騎士の三人が、その言葉に虚を衝かれる──次の瞬間だった。
「──刀を仕舞った、そいつは油断だな」
無傷の〝魁〟が────三人の背後に顕現した。
どろりと、闇が解けたような音を立て、魁は、白銀の刃を翻している。
「!?」
──〝
魁による神出鬼没の奇襲に、守護騎士が見せた反応は早かった。
たしかに早かったが──それでも、魁にとっては、遅すぎた。
第一にシャマル。彼女は即座に、仲間を庇うための巨大な魔法障壁を展開した。しかし、間断なく繰り出されたハクトウラによる鋭い斬撃が、障壁をバラバラに斬り裂き、衝撃の余波を受け、吹き飛ばされた。
第二にヴィータ。シャマルの開いた防御が破かれ、慌てて鎚を出現させたが、武器に過信するあまり、瞬時に脚元を蹴り払われ、次に、踊るように繰り出された蹴撃の直撃を受けた。
第三にシグナム。ヴィータが吹き飛ぶと、同時のこと。彼女はただひとり──順番にして、三人の内、最後に狙われたこともあって──魁の攻撃を、唯一、受け止めるだけの反応を見せた。しかし、咄嗟のそれは、完全に魁に力負けし、構えた剣ごと、その剣圧に吹き飛ばされた。
「なッ」
蹴散らす、というのは、このような状況のための言葉であろう。
浅慮な確信で、目的を達成したと信じていた守護騎士の三人は、この瞬間、一目散に吹き飛ばされたのだ。
だが、ただ蹴散らされることは、騎士として許されず。──空中に飛ばされたシグナムは、魁に向けて、レヴァンティンのシュランゲフォルムによる、鎖鎌を飛ばした。
「まだだ! シュラルゲバイゼン──ッ!!」
操られた鎖型のレヴァンティンが、鯉伴へと迫る。
その動きはまるで、宙を舞う〝蛇〟のように、空中での蛇行を繰り返す。
軌道を読ませない鋭い攻撃が、鯉伴に襲い掛かる!
しかし、その時。
「──!?」
蛇を飼い、これを操る妖怪──狂骨。
妖女が魁の前に立ち、シグナムの「蛇」を、正確に撃ち落としたのだ。
魁によって吹き飛ばされた騎士達を、頑として睨みつける。そして背後の魁へ、弁明のように口を開く。
「……云ったでしょ。義理はなくても、アンタに死なれたら、あたしが困るのよ」
「フハッ、可愛い気のねえ娘」
まるで狂骨が、鯉伴を庇ったかのようだった。
しかし、鯉伴はそれに驚くような素振りも見せず、それをむしろ、当然のことかと思うように、口元に不敵な笑みを浮かべている。
少数精鋭、小さな百鬼夜行が、今ここに成り立った。
「──相手は三人。数ではオレ達の劣勢だぜ、やれるかい」
「何を訊いてるの? ……アンタがイチバン、負ける気がないんでしょ」
「
「それに、眠っているがしゃどくろを叩き起こせば、数は互角よ」
言いながら、狂骨は己の抱える頭蓋骨を、コツコツと叩いた。
「がしゃどくろ。出てきて、応戦するわよ」
ドクロの中に在住する、今は小さな、ガシャどくろを呼ぶ。
がしゃどくろにかけられた、
「なんなんだ、こいつら──!?」
ヴィータが、その目を驚きに見開いた。
──こんな連中、見たことがない……!
ひとりの魁を庇うように──そして、従うように──蛇を従えた妖女と、巨大な骸が立ちはだかる。
まるで──旧日本の、妖怪絵図だ!
時を超えた、御伽話の中の伝説。
守護騎士達はまるで、絵画や伝承の中の畏怖なる光景を、実際に目の当たりにさせられているかのような錯覚に陥った。
「やっぱり、一筋縄ではいかなさそうね……! 私の妨害電波があれば、しばらく結界の様子は外には漏れないけど、時間通りに行くかしら……!?」
シグナムは今回、前線での戦闘には、不向きとされたシャマルも同行させていた。
その理由は──八神家にて、今朝〈とある事件〉が発覚したことに始まる。
それに心を痛めたシャマルが「同行したい」とシグナム達に頼み込み、そして、「ただの結界」を張るだけでは、魔力を感じ、少女魔導師と言った加勢が駆けつけてしまうかも知れない。そこで、バックアップ担当のシャマルならば、その結界に妨害電波を累加させ、外部からの干渉と、内部からの魔力漏洩を防ぐ事が出来る。つまり、鯉伴達を完全に孤立させられるのだ。
但し、シャマルの妨害結界の維持にも限界がある。
シグナム達には今、「そこに立っている魁を殺す必然」がある。
出来るだけ手短に済ませなくてはならないのだが、魁には、予期せぬ「護衛」がいたようだ。
「札付きの連中が、オレのところにみずから御足労とはねえ……だがまあ、三対三とは、丁度いい」
鞘を抜き、ハクトウラを構える。
その表情は、ここ一番で愉快そうだ。
「畏と魔法──どっちが勝るか、決めてみようぜ」
それぞれに武器を構え、必然なき、妖と魔導騎士の合戦が始まった。