~千年狐と江戸の花~   作:樹霜師走

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妖、江戸に咲く『山吹』

 

 

 

 今となっては、はっきりと思い出せる。

 かつての〈(わたし)〉は、人間だったこと──

 

 

 

 

 第二話

 妖、江戸に咲く『山吹』

 

 

 

 

 舞台は、桃山時代末期──

 生前の〈妾〉──名は思い出せない。しかし、有力な武家の娘として生まれた妾は、何不自由のない比較的恵まれた暮らしを送っていた。それを示す具体的な記憶が残っているわけではないが、証拠ならある。

 妾が、読み書きを出来た、ということだ。当時の教育水準を考えれば、大半の人間が読み書きができない時代において、しかし、妾は俳句や古歌等の詩を謳うことができたのだ。

 しかし、それと云っても恵まれた生活は、いつまでも続かなかったらしい。

 

 妾の家は、没落したのだ。

 

 おそらくは、豊臣の世が終わったためでしょう。

 豊臣秀吉が老衰により死去。秀吉の死後、残された豊臣政権をかろうじて繋ぎ止めていた秀吉公の側室、淀の君までもが、突如として謎の急死を遂げられた。巷では「妖怪に殺された」など根も葉もない噂が流れ、時代はどうなってゆくのか──何もかもが不確かな時代になって行った。

 それでも、ひとつだけ確かなことがあった。淀君の変死が確認されてから、豊臣の時代は玉響(たまゆら)の命が如く、瞬く間に衰萎していったということだ。

 

 やがて、時代が変わる。

 

 天下分け目の大戦、関ヶ原の合戦──

 妾の父上は、石田三成率いる西軍に従軍したが、西軍は徳川が率いる東軍に敗れ去った。その中で妾達は、父上が亡くなったとの報せを受けた。討死だったのか、捕えられ、処断されたのかさえ分からない。

 大黒柱を失い、誇りを失い、家を取り壊された母と妾は、野に投げ出されました。

 貧しい生活に急転したが、それでも、見窄らしく生き抜くことは出来たでしょう。しかし、常より家柄を鼻に掛けていた母上は、生活の質を落とす忍耐力がなかった。父を亡くし、家を無くした現実が、母はどうしても受け入れられなかったのだ。

 

 だからある日、心中を提案された。

 

 共に父上(あのひと)の許へ行こう、と。

 何もみずから命を断つことはないじゃないか──喉元まで出かかった言葉を、しかし、妾は呑み込んだ。呑み込むことができてしまった。母上の云いつけを破ったことは一度もなかったし、いつでも母上は正しいと妄信していた。今回も死んでしまえば、そこで楽になれると思ったのだろう。

 母上と一緒に、父上の許へ行けるなら……。

 

 生前の妾は────そのとき、死んだのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 結論から云うと、妾は死んでも、死にきれなかった。

 

 息絶えたと思い、意識が飛んだあと、何故か目覚めた妾は『幽霊』として、この世に生まれ変わっていたのです。しかし、妖の存在など当時は信じていなかったし、今になって云えることだが、死にきれない未練を抱えていたり、あの世に持っていくには大きすぎる問題を抱えた人間は、死んだときに、幽霊になって蘇ることがあるそうです。

 決して生きたいと思ったわけではないにしろ、妾が死ぬことは許されなかったのでしょう。

 母上の提案に、違和感を憶えなかったわけではない。あのとき母上の提案を断るだけの勇気と強さが妾にあったなら、おのずと結果は違っていたのかも知れない。

 

『その魂、朽ちるまで生きろ────』

 

 と、天に言われたような気分でした。

 ただ、幽霊として生まれ変わるに当たって、妾にはとある制約がありました。

 生前の己の名が、どうしても思い出せないのです。母の存在も、父の存在も、確かに生前の記憶は引き継いでいるのに、自分自身の名前だけが、どうしても浮かんで来ない。

 だから妾は、名も無い幽霊として、人に紛れて生きて行くしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 幽霊になった妾は、死ぬ方法を知らないまま、知れないままに、地続きのこの国を彷徨いました。

 何が未練かも分からない幽霊は、成仏の仕方すらも分からない。

 江戸を襲った天保の大飢饉。民衆の多くが食物にありつけず、空腹と飢餓に悶え、一滴の雫にさえ縋って生きねばならぬ過酷が訪れても、やはり幽霊になった妾は死ねなかった。

 

 死ぬことは、許されることではない。

 

 そのことを知った妾は、それならば──と、当時の飢餓に苦しむ子ども達をあばら屋で養っていました。

 都から大きく離れた、鄙野の小屋を拠点にして、妾は多くの子ども達との生活を始めたのです。子ども達の多くは、身元不明の者達ばかりで、行く宛も、延いては生き抜く宛もないような子供達です。

 かつての妾と同じように、切ない想いをして欲しくないからという後悔の気持ちもあって、妾はその子らの面倒を見ることにしました。しかしそれは、結論から云って、当時において最悪の選択。

 

 ──「華の大江戸」?

 

 そんな言葉とはほど遠い場末(ひな)。街を下れば、何があったでしょう。

 妾と子ども達の暮らす鄙野は、賊が襤褸を纏って暴れ回るような無法地帯でした。やりたい放題、心に鬼の棲み着いた者どもの被剥ぎの手が、何の罪もない子供達にまで及んでいるような──そんな酷い世界の中で、妾達は生きてゆくしかなかった。

 

 妾は、あの時代が大きらいだった。

 

 弱者を容赦なく追い込み、身勝手で傲慢な高位者だけが、肥えたように生きてゆく……いいえ、生きてゆける世の中が。飢餓に苦しむ子供達を見限り、見放し、見捨て、見殺しにするような残酷な現実が。

 華の大江戸なんて言葉は嫌い。本当に、大嫌い。

 裕福な者達だけが、鱈腹食べてのうのうと生きていく。その代わり妾達には、食料も、住居も、衣服さえ、なにひとつ配当されはしないのだ。

 手に負えない凶賊が小屋を訪れれば、息を殺して、みなで隠れた。それまで生活の場にあった大切なものがすべて持ち去られたとしても、何もできず。ただ黙って、小屋の思い出の品が壊されたり、盗まれていくのを見ていることしかできない。

 何者にも、何事にも抗えず、すべてを失っては、また最初からやり直す毎日の中。

 おたがいの笑顔だけが、私たちの生きていく目標。

 悲しくても、辛くても、苦しいだけの毎日でも、懸命に生きていた私たちに、

 

 ある日、変化が訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 それは、激しい雨が降る日のこと。

 当時の江戸は疫病が流行っていて、何処で貰って来たのか、普段はとても腕白な男の子が、その日は高熱を出して寝込んでしまった。

 妾は薬草を摘みに、豪雨の中を駆けました。

 薬草を刈り取り、小屋に戻る。それから半日もの間、男の子に付きっきりで看病をしました。己の濡れた着物など、乾かすこともできないままに。

 

 そのとき、ずぶ濡れのままで看病を続ける妾に、声をかけてくれた男性がいたのです。

 

 どこから? いや、それ以前にいつ──? 小屋の前に現れたのでしょう? 

 それは、長く癖がかった黒髪を浮かばせる、着流しを着た(おとこ)でした。

 

 ──偶然、この小屋を見つけて通りかかった。

 

 と、魁は云った。高熱の子を心配して、泣きわめく大勢の子の声が耳に入ったのでしょう。

 どこか、気風の良さそうな御仁でした。

 魁の身に纏っているものを見れば、どれだけ裕福な所の出身なのか、すぐに判じることができます。おおよそ徳川武家の子息、と云ったところだろう。そのような門出の者が、こうも寂れた場末に──よりによって豪雨の中でひとり出歩くとは、なかなか酔狂な話です。

 きっと通りがけ、妾達の存在を怪訝に思い、近寄って来たのでしょう。

 

 

 しかし妾は、(みやこ)の人間が嫌いでした。

 

 

 元は都の人間であった妾が、何を云っているのだと思うでしょう。けれど、妾がかつては「そう」であったからこそ、妾は都の人間が嫌いになっていました。

 厭世観と、呼ぶべきものです。

 裕福な者達は、特別、貧しい者達の生活など気に掛けたりはしません。かつて、世間知らずな妾がそうであったように。

 交際する人や、何を着るか、何を食べるか、何を習うか──すべて母の云いつけを守って来た妾は、鄙野の者共がどれだけ貧しい生活をしているかなど、気に病みもしなかった。目の前にある世界がすべてだった。今思えば、自分が贅沢をするくらいなら、それだけの資金を、貧しい人達に分けてやりたいのに。

 

 都の御人を嫌う理由は──単純な自己嫌悪に、他人を宛がっているからでしょう。

 

 どだい、物珍しがってあばら屋を訪ねてくる市井の者は、決して少なくはなかった。しかし、訪ねて来たからと云って、どうというわけでもない。むしろ冷やかしの言葉をかけたり、自分達はこんなにも豊かなのにと得意に驕ったり、蔑むような視線を浴びせるだけだ。

 やはり、連中の興味など、いい方向になど働かないのだ。

 その男性は、ずぶ濡れで看病を続ける私に、大丈夫かい、と声をかけて来くれました。

 でも、差し出された手を、私は振り払った。

 失礼のないように、丁重に、彼には即座にお帰り頂いた。追い払った、というべきだ。 

 

 都の人間に、何がわかる。

 

 同情など必要ない。見下さないで欲しい。

 いつだって妾達は、妾達にできる最大限に幸福な今を生きている。それを「不憫」だ「可哀想」だと……まるで妾達が〝ふこう〟であるみたいに、無責任な言葉で云い測ろうとする。

 ──富を貪るだけの連中に、この気持ちが理解されてたまるものか。

 あの男性も、同じだと思っていた。興味本位で近寄って、軽々しく私たちに手を差し出さないで欲しい。たった一度の優しさなど、何になるのだ。中途半端な優しさで傷つくことだってあるのに……今日はいいことをした、そんな男性の自己満足に付き合わされるのは、御免です。

 

 でも、そこで終わりではありませんでした。

 

 翌日。昨日の雨が嘘のように、快晴の天気が拡がっていました。

 男の子の熱も引き、妾が思い出したように小屋の外で、洗濯物を乾かしていた時、再び、その魁は現れた。

 とんとん、と急に肩を叩かれて「おはようございます」──

 肩を叩かれるまで、男性の気配に気付かなかった妾は、本当にびっくりして、「うひゃあ」と情けない声をあげて驚きました。洗濯物をひっくり返すほどでした。

 だって、身長差を考えれば、子供達では妾の肩には届かないし、肩を叩かれるなんて、最初は賊に声をかけられたのかと思ったんですもの!

 

 たしかに、名のない〈妾〉を振り向かせるためには、肩を叩くしかなかったのでしょうが……。

 

 見れば、男性は昨日の寅縞模様の着流しではありません。灰色の無地に、継ぎ接ぎの見える。少しというか、とてつもなく見すぼらしい半纏を着ていました。

 昨日、現れた時は、子供達はまったく魁に近寄ろうとはしなかったというのに、今日は子供達の方から、近寄って行きましたのです。悲しいことに、きっと子供達は、男性が襤褸を着ている、という事実だけで、親近感を覚えたのでしょう。

 その方は、その次の日も襤褸を纏い、小屋へとやって来ました。

 最初の内は、小屋を訪ねる理由を「散歩こぉすの途中にあるんだよ」などと仰りながら、朝のわずかな時間にフラッと現れ、小屋に顔を出すようになっていたのです。

 子供達は、毎日のように魁が小屋に来て、戯れてくれるのを心待ちにしていました。

 今日も、明日も、明後日も。

 男性と一緒に戯れるのが、とても楽しいようで。

 

「羽子板ってのを持って来た。こいつで羽根ついて遊ぶんだ、知らないだろ」

「かくれんぼがやりたい? 別に構わねえが、おれは強いぜ?」

「この近くに天然の湯が沸いてるところを見つけたんだが、今から行って、おれたちでひとり占めしちまおうぜ」

 

 毎日のように、男性は小屋に現れる。回数を重ねるに連れ、小屋に滞在する時間も長くなっていったような気がします。

 男性は子供達と打ち解け、心を開いてくれた確かな手応えを感じてから、都の玩具を持参して、市井の子らがやるような御遊戯を教えて下さいます。男性自身、子供のような無邪気な一面があるようで、だから子供達と遊ぶのが愉しいのか、子ども達が懐くのが早いのか。

 

「これから歌留多ってをやるんだが、大人数でやった方が面白いんだ。あんたもどうだい?」

 

 ある日の突然の、男性からのお誘い。

 

「…………お断りしますね」

 

 ──男性は、悪い人ではない……。

 頭ではすこしずつ理解して来ているのに、妾はどうしても、素直に接することが出来ない。どこかで、予防線を引いてしまう。男性は残念そうに表情に蔭りを落とすと、妾の胸もちくりと痛みました。でも、すぐに男性は笑顔になって、子供達の所へ戻り、騒ぎ始めるのです。

 

 妾が家事をする傍らで、男性が子供達と戯れる。そんな日が────数え切れないほど、長い間、続きました。

 だから「その日」もまた──彼が来たのだろう。

 子供達は、そう信じ込んでいたのです。

 

 ある日の朝。小屋の戸が鳴りました。コンコン、と、拳を付ける音が数回、小屋の中に響き、女の子のひとりが「アイツが来たあ!」と、嬉々として、すぐに戸に駆け出しました。

 妾が違和感を覚えたのは、その瞬間だった。

 

(あの人は…………戸を叩いたりしない)

 

 あの人は、気が付けば、小屋の中に現れている。

 そんな風に意地も悪ければ、心臓にも悪い人なのだから──!

 でも、もう遅かった。戸は開かれ、戸の先に立っていたのは、下卑た表情の……〝鬼〟

 ──しまった!

 近場に洗濯物を干していた、人気を察知されたのでしょう。男性が毎日訪れていたことで、〈妾〉も、子供達も、完全に警戒心が薄れていた。

 戸を開けた女の子が蹴飛ばされ、小屋の中は、他の子どもらの悲鳴で溢れ返る。〈妾〉達の小屋を襲ったのは、数人で徒党を組んだ、不成者達の集団でした。

 

「うはぁ! 狆気なあばら家だと思いきや、色々と都のもん置いてあるじゃねーか!」

 

 下卑。

 

「こんだけ大人数のガキを養ってんだ! 家主にそれなりの稼ぎがなきゃ、とっくに数人、間引いてんだろ!」

 

 下卑。

 

「それか、よっぽどのお人好しか! 莫迦かな!」

 

 下卑……。

 

「見ろよ! その家主、スゲェいい女!」

 

 恥知らず……! 

 妾は、ひとりだけ取り押さえられました。この後、慰み者にでもされるのでしょう。対する子ども達は、混乱と絶望の中に、逃げ惑っていました。

 

 そのとき────どこまでも純粋な、金属のような音が響きました。

 

 甲高い音と共に、閃光が場を駆け抜けた。次々と不成者たちが蹴散らされていく。

 信じられない光景でした。あの男性が、長いヒ首を片手に現れ、ならず者達を成敗してくれたのです。

 

 ──なぜ……どうして?

 

 解せませんでした。彼が何を考えているのか。

 妾達を助けたところで……彼の、何の得になるというのでしょう。富を持つ者が、どうして妾達なぞのために……?

 感謝を口にするだけで、高価な御礼の品など用意できるはずもない。見返りが、なにひとつないというのに。

 

「見返りなんていらねぇさ。おれはただ、あんたの傍にいたい。あんたに少しでも気にかけてもらえりゃ、それでいい」

「へ?」

 

 男性は苦笑した。

 

「や、だからそれが……この小屋を、おれが気に留める理由」

「…………はあ」

「ああもう、全然伝わってねぇなっ」

 

 普段は飄々としている男性が、こんなにもぎこちない様をみるのは、初めてのことだった。

 

「おれ、あんたに気にして欲しいんだ。あんたのこと、好きなんだよ」

「あら……」

「いや、あら、ってなあ……」

 

 男性の言葉を鵜呑みにしていたのは、妾で。

 

「え、えええええっ!?」

 

 驚嘆の叫び──

 けれど、その言葉が──妾にとっての契機になった。

 そのあと妾は、返すべき適切な言葉が見つけれず、答えは曖昧なまま、男性に帰って頂きました。

 

 ──好き?

 

 男性が、私を?

 気にして欲しかった? だとしたら、これまで毎日、小屋を訪れたのは、すべて、私のため……? そう考えると、これまでの彼の行動を、そういう風に捉えると、恥ずかしくて顔から火が噴きそうでした。

 でも、それからの妾は偏見を捨て、その男性を「都の人」としてではなく、ひとりの人として見れるようになったのです。

 数日後、いつものようにぬらりくらりと男性は現れ、

 

「あのー、そろそろお返事の方、聞かせてもらってもいいんじゃないですかい?」

 

 妾が桃山時代の生まれであることを話すと、彼は江戸時代に生まれたと打ち明け、じゃあ妾の方が年上ですね、と云うと、魁は嘆息して肩を竦めた。それ以降、何かと敬語を混ぜて使って下さるようになって、可愛い御方だなあ、なんて思って微笑ましくもなりました。

 

「都の御人は信用できませんもの。いつでもふらふら、常套句のように言いふらしているかもしれませんし」

「してねえよ。あんたにだけだ、ほんとに」

「どうでしょうか」

 

 それから安寧の日々は続き、気が付けば妾は、彼に、惹かれていました。

 なんて、単純な女なのでしょうか。妾の中に、やがて生まれた「好き」という感情。

 ──ああ妾、この人のこと、心から好いているんだ……。

 強くて、優しい背中に憧れてしまった。いつかの憧れが、恋慕に変わった。

 貧者である私が、裕福なその方に? いと畏れ多いことです。妾風情が手を伸ばしてはいけない人。分かっているのに、妾はその人に魅せられ、恋をした。こんな素敵な方に、この世で出逢えたこと自体が奇跡だというのに。

 

 ……ある日の朝。彼は突拍子もなく──妾に言いました。

 

「あんたに似合うと思って。これ、摘んできたんだ」

 

 彼の手に摘まれていたのは、一輪の花だった。

 凛として咲く、「山吹」の濃黄色の花。

 そしてそれは、妾にとって、初めての他人からの「贈り物」でもあった。

 

 妾には「名」がなかった。

 生前の記憶はあっても、名前だけは思い出せなかった。それが、私の背負うべき宿命なのだと考えていた。

 当時、民の多くは名前を持たず、そのほとんどが文字が読めず、書けません。

 妾の世話する子供達は、「そら」「だいち」「はるか」など、妾が名づけた名で呼んでいました。けれど反対に、子ども達には妾のことを「先生」と呼ばせていたのです。

 ですから彼は、その一輪の山吹を見ながら、妾に名前をつけて下さりました。

 

 

 ──山吹乙女、と。

 

 

 それが、あの人から私への、第二の贈り物。

 妾の「名前」──

 嬉しかった。

 感動を言葉にできず、ならず、年甲斐もなく、飛び跳ねたいほどに嬉しかった。

 妾に、「名前」ができた。

 妾が名を持って、ひとつの存在になった。

 その日の宵はあまりの嬉しさに寝付けず、ずっとずっと、何度も何度も自分の名前を繰り返し、呟いては微笑んだものです。

 

 山吹乙女…… 山吹乙女……

   山吹乙女…… 山吹乙女……

 

 今日から、これが妾の「名前」なのだ。

 

 これでやっと……やっと、明日から、あの方に「呼ばれる」ことができる。

 

 いつかのように、肩を叩かれるのではなく、名前を呼んで呼び止めていただける。

 いつもと変わらない、意地悪で、剽軽で、でもどこか憎めないあの笑顔で、妾を呼んで欲しい。名前を持った妾の存在を、あの人に、受け止めて欲しい。

 明日というものが、こんなにも、待ち遠しいものだなんて、知らなかった。

 しかし……

 

 

 

 翌朝、彼は、現れなかった。

 

 

 

 いつもなら、彼は、妾が洗濯物を干している朝に、小屋を訪れていました。

 なのにその日は、彼が来ないまま太陽が高く昇り、もうすぐ傾いてしまいそう。

 怖かった。

 彼がもう、二度と来ないような気がして。

 考えもしなかった。 

 あの人に会えないだけで、一日が、こんなにも胸苦しくなるなんて。

 

 夕刻になり、悄然としていた妾は、背後に何らかの〝気配〟を感じました。

 

 子供達か。あるいは、また別の咎人か。

 妾は咄嗟に振り向けど、そこには誰ひとりとして居ません。

 ──少なくとも、妾には〝見えません〟 

 言い知れぬ〝気配〟は絶ち止まず、妾を慄然とさせるように、掴み処がない。でも、これは、子供達と一緒にやった「かくれんぼ」で……彼を探す時にも感じたような気がする。

 

「妾をからかっているのですか? はやく……はやく出て来てくださいっ」

 

 意地悪な気配。

 妾がどんな思いで、あなたを待っていたのか。あなたは知るはずもないのでしょう、それでも妾は会いたい。すぐにでも、あなたに会いたいのに。

 「いないけど、そこにいる」――気配が移動を開始した。

 衝動と表現すると大袈裟ですが、とかく妾は、その気配を追う。

 無我夢中で走っていました。

 

 そして、辿り着いた場所は……。

 

 感動の声をあげた私は、山吹の花が、一面に広がる小高い丘の上に来ていました。

 金色に輝くその景色は、まるで、宝石の海と比喩するに値するでしょう。

 

「────綺麗だろ? おれぁ、こんなにも綺麗なものを見たのは初めてでね」

 

 背後から、あの人の声が聞こえた。

 ──ああ、やはり、あなただったのですね……。

 わかっていても、振り向くことは、しばらく出来なかった。美しい輝きを放ちながら咲く金色の野に、妾はしばらく目を奪われていたのです。

 

「妾も、こんなにも綺麗な景色は初めてです」

 

 太陽が昇り、野の山吹の花びら達は、その光の恩恵を強欲にも受けようと、生き生きと伸び、強く光り輝いている。

 生きることへの勇気を教えてくれる、気品に溢れた崇高な花々たち。

 実をなすことは出来ない花のようだったが、それでも、変わらぬ美しさを振る舞っている。

 

「〝おれを見つけてくれる人〟────やっぱり、あんただったみてぇだ」

 

 気配に従いこの丘まで来たのが、その証拠だったのかもしれません。

 

「あんたはおれを見ていてくれた。だけど……おれもずっと、あんたのこと、見てたんだよ」

 

 一目惚れだったんだ────。

 妾はすぐに、告白を受けた。

 毎日毎日、妾達の所へ通い続けたのも、本当に単純な理由だった。

 

「山吹乙女、これから先もおれを見ていてくれないか? この先の人生、一生だ。あんたが傍にいてくれるだけで、おれは強くなれる気がする」

 

 その言葉は、すごく強引だった。

 だけど私は、動揺はしない。

 あの人の妾を見つめる瞳が、それを許してくれないようで、惹かれるがままに、私はあの人に魅入ってしまっていた。

 

「結婚しよう、山吹乙女。おれはあんたが好きだ」

 

 ずっとずっと、想っていた恋が、実った瞬間。

 そうして妾は、妾達は、結ばれた。

 それは喩え、子が産めなくても、本当に幸せな時間。

 

 ──妾は、幸せだったんだ。

 

 雨のあの日、ばったりとあなたと出会い、立場が違うはずのあなたが、妾に恋をして下さったこと。

 やがて妾も、あなたに惹かれていったこと。

 夢物語のような出逢い。

 長い愛を育み、妾達を守り、人並みの幸せを与えてくださった。

 

 ──ありがとう。

 

 伝えたい言葉は、幾千とある。

 でも、それでもよかった。

 

 男の名は、奴良鯉伴。

 

 妾の名は、山吹乙女。

 

 

 

「鯉伴……もう二度と会えずとも、妾の心はいつも、あなたと共に…………」

 

 

 

 




 最初に人間だった頃の山吹乙女は、自殺によって命を落としたそうです。
 「武家屋敷の娘として生まれた」という設定は、完全に捏造になってしまいましたが、鯉伴に遺した古歌を書けるだけの教養と、寺子屋の先生を務めていた事実から、生前はおそらく、裕福な家庭で育てられていたのだろうと解釈しました。
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