~千年狐と江戸の花~   作:樹霜師走

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 原作における羽衣狐の一人称は『妾』……読みは「わらわ」
 山吹乙女の一人称も『妾』……しかし、読みは「わたし」です。

 フリガナを省略するため、ぷらす、同じ漢字で混合してしまうと読みづらくなるため、今後、山吹乙女の一人称は『私』……その通り、読みは「わたし」で書いていきます。

 いささか急な展開ですが、どうぞ。



妖狐と乙女、少女との『出逢い』

 

 

 

 

 第三話。

 狐と乙女、少女との『出逢い』

 

 

 

 

 真白い世界が閉ざされ、景色が次第に映えてゆく。

 羽衣狐が意識を取り戻すと、その視界には、人間の世界の繁華街が広がっていた。

 自分の身体と自由を取り戻したように、五体すべてが自在に動かせる。辺りを見回すと、呟きが自然とこぼれた。

 

「なんじゃ、これは」

 

 問いかけに答える者はいない。

 己の腕に視線を落とすと、きめ細やかな雪膚が映った。美しい、というべき白い肌だ。整えられた爪、白皙の美貌、肩から足先まで黒一色の衣服に身を包んだその容貌──それらすべてに羽衣狐は見覚えがあった。ありすぎた。

 

依代(よりしろ)の肉体……!?」

 

 羽衣狐という妖は、現世へと出る際はひとつの〝制約〟を受けるようになっている。──人間の肉体に憑依しなければ、現世には出ていけない、という内容のものだ。

 彼女は人間の女子の身体を「器」として利用し始め、其の器のことを「依代」と呼び慣わしている。今の羽衣狐は、山吹乙女の身体を借りて、街中に立っていたのだ。

 

「どう、なっておる」

  

 晴明が再誕してからの彼女の記憶は、判然としなかった。

 まるでそれ自体が夢のようなもので、確実に覚えているようで、その記憶は朦朧(もうろう)とした、不明確な記憶。

 判然と覚えているのは、半妖に斬られ、肉体と魂とを分離された時点までだ。

 

 夢であって欲しいと願った、京都で起こった事実。

 夢のようであった、地獄で起きた不可思議な現実。

 ──どうして妾は生きている?

 ──「光を掴め」と云われたあの時、光を、掴んでしまったからか……。

 積極性と消極性の境界線が歪められたように、困惑する。

 そんな時、声が、羽衣狐の中に響いた。

 

(う、う~ん……)

 

 それは、まるで寝起きの欠伸のような、非常に間の抜けた声であった。

 気の抜けた声が、どこからともなく聞こえてきたのだ。

 

(……あ、あれ?)

 

 羽衣狐は、その声をはっきりと知覚することが出来た。しかし、脳内に直接話しかけられているような、あまりに鮮明すぎる(、、、、、)声に、違和感を覚えた。

 此処は繁華街だ。人ごみが喧騒を造る往来の中、個人の「あくび(・・・)」が聞こえるなどあり得ない。言葉では度し難いが、あえて言うなれば「意識の裏」とでも表現すべき空間から、透き通った声が、聞こえた。

 意識の裏側に、誰かが居る。──その事実は、千年を生きた羽衣狐さえ驚かせた。しかし、驚きはそれだけではすまなかった。

 意識の裏側にいたのは──山吹乙女だったのだから。

 

(え、羽衣狐……!?)

(その声、山吹乙女か……!)

 

 今までの羽衣狐が依代とし、自らの手で凄惨な運命を背負わせてしまった女が、そこにいた。

 

(きさま! これはいったい、どういうことじゃ!?)

 

 責め立てるような高圧的な態度で、意識裏に現れた乙女を問いただす羽衣狐。

 きっかけを作ったのは、地獄で出会ったのは乙女だ。

 乙女がなにかしら事態の解説をするだろうと予期するやいなや、乙女から返って来た返答は、羽衣狐の期待とは異なった。

 

(そっそれはむしろ、私の方がお訪ねしたいのですが……?)

(何を言うか。光を掴めと言ったのは、お主であろう!)

 

 当然の意見をぶつける羽衣狐。

 まさか、本当に乙女は寝ぼけてでもいるのだろうか、まるで無知な様子が窺えた。

 

(ひかり……? いったい、何の話でしょうか? 私は弐條城で力尽き、目が覚めたら、このような──)

 

 ふたりの認識の差から話が喰い違い、とても会話が成り立つような状況ではなかった。

 だが、羽衣狐に一連の流れの〝きっかけ〟を与えたのは、間違いなく、山吹乙女だったはずだ。

 ──あるいは、「山吹乙女をかたどった何か」だったのか?

 少なくとも、張本人がこうして唖然としているのだから、可能性としては後者が高いのだろう。

 いったい、なぜ、羽衣狐と山吹乙女が意識を共有していられるのか。そもそも、どうして二人とも生きているのか。次々と思い浮かぶ疑問は、どれもが今この瞬間に、晴れそうなものではなかった。

 

(羽衣狐、あなた…………?)

 

 その時、乙女が何かに気づいた。

 羽衣狐が、なんじゃ、と不機嫌そうに尋ね返す。

 

(雰囲気を、変えましたか? 今のあなたからは、おぞましいほどの悪意が、感じられない……)

 

 何をどうすれば雰囲気というものを故意に変えられるものなのか、羽衣狐はむしろ乙女に訊き返したいくらいだったが。

 乙女と羽衣狐は、対立する立場にいた。

 だからこそ、その二者がひとつの場所に共存しているこの状況は明らかに不自然なのだが、乙女はこの時、羽衣狐から敵意は感じられても、悪意が感じられなかったと後になってと述べている。

 

(……なにゆえ、そう思う?)

(今はどうしてか、私の言葉が、あなたに伝わるようですから、正直に話しますね)

 

 乙女は少し微笑んだ。

 それを視覚こそできない羽衣狐であったが、声の調子から、すこしだけ笑みを見ているのが理解できた。

 

(あなたが私の身体を乗っ取ってから、長い時が経つにつれ、私の意識とあなたの記憶が融合することがあったのです。……だからわかるんです、今もあなたと心を分かち合えていますから。私が感じるに、あなたは何か変わりました)

 

 夢の中、真白い世界の中で、羽衣狐はまた違う山吹乙女に出逢い、これ以上苦しみと憎しみを集めるのはやめろと言われた。――だからなのか、この山吹乙女がこう言うのは。

 羽衣狐は指を唇を当て、ふんと鼻を鳴らした。

 

(『もう一度、人間を愛せ』と言われたからな……)

 

 本当は、心の中で思っていたのかもしれないと、羽衣狐はその時すこしだけ自虐的な笑みを見せた。

 すべてを投げ出し、死ぬことは簡単だ。

 だが世の中には、死ぬよりも辛いことだってある。

 

 責任を取るということは、自分を戒め、死を以て己を罰することではない。最後まで現実を直視しつつ、現実にもがくことだ。

 

 その覚悟は少なからずあったから、光を掴んだ。

 いつか見し、人間を愛していた自分を、もう一度見出すためだ。

 ──自分に人間が愛せるのだろうか? 

 根本的な不安に駆られる時は、かつての自分には出来たのだと、昔の自分が勇気をくれる。

 

(山吹乙女や。妾はそなたに、大いなる苦しみを与えてしまった。許せ、とは今更云えなんだが、せめて、何らかの形で、この妾に償わせてはくれぬか)

 

 贖罪と、己の過去の過ちを受け止めて羽衣狐はそう告げた。

 だが、乙女は優しい表情を浮かべ、ゆっくりと首を振った。

 

(いいのです、私は、充分幸せでしたから。幸せにしてもらいました……それに、私は良かったと思っているんです。こうして貴女と、言葉を交せる日が来るなんて)

 

 羽衣狐から、おぞましい妖気、闇が消えている。

 伝わる気持ちが筒抜けな今、羽衣狐の感情は改心された善意と謝意に満ちているかのようだ。

 羽衣狐は少しだけ苦い笑みを浮かべ、乙女は微笑み返した。

 

(まずは状況を確認しましょう、こうなってしまった経緯を把握しなければ。──ここはいったいどこで、私たちが、なぜこんな所にいるのか)

(判っている。……だが、すまぬ。少しばかり時間をくれぬか……少しで構わんのだ)

 

 京都での出来事から色々な事が続けざまに起こりすぎて、察し者の羽衣狐とて困惑しているのではないだろうか。

 それでも彼女はきっと「疲れたから」とは言わないだろう。山吹乙女とは本音で語り合える仲でもない。ただ、少しではなく充分に休息の時間を与えるくらい、山吹乙女は構わないと思っていた。

 肉体的は話は愚か、精神的にもかなりの疲労が溜まっているはずだから。

 

(構いません──)

 

 乙女が言葉を続けようとし、羽衣狐が一息ついた、その瞬間。

 ふたりは、何かに“吸い込まれるような感覚”に襲われた。

 乙女は落とし穴に引っ掛けられたような、羽衣狐は縄で引っ張り上げられたような、突拍子もない未体験の感覚は、二人を「交代」させていたのだった。

「表」と「裏」が入れ替わる。

 身体を動かしていたはずの羽衣狐はその瞬間、脳裏に移転した。その代わり、裏側にいたはずの乙女の意識が、身体を動かせる行動権を得た。

 あまりに突然の現象に対応し切れず、乙女の身体はその場に転げ落ちる。

 ここは街中だ。通り行く人々が、その場に崩れた彼女のことを、ある人は心配するように、ある人は怪訝するように、またある人は好奇の目で見つめては歩き去っていく。

 

「これは、私の身体!?」

 

 掌を見つめ、それを閉じたり開いたりして確認してみる。

 乙女にとって、肉体を動かすのは久しぶりだ。いや、その時間を考えれば、懐かしいといった方が正確だろうか。

 

(どうやら……入れ替わる(、、、、、)ことが可能になったようじゃ……そなたが表に降りた分、妾が、裏側に回っている)

(ええ!? でも、いったいどうして)

(分からぬ。だが、妾が気を緩めた瞬間……交代(、、)は起こった)

(私も、お疲れさまと、声をかけようとした時でした……)

 

 どうやらその「入れ替わり」とは、両者が合意した際に可能となるようだ。

 二者が分かり会えた今、初めて可能になる不可思議な現象。

 現象の有り様に理由を求めるのは不毛なことで、なぜ入れ替わりができるようになったのかと問いても、答えられるものはいないだろうし、それはどうして人は呼吸しているのかと、いまさら考える必要もない問いをしているのと同じようなものだった。

 好奇の視線に晒され、赤面しつつ乙女は身体を立ち上がらせた。

 黒セーラー服の美少女が路の中央に座り込んでいたためか、周囲を歩く男性は多く何かを刺激されたようだが、自分がそんな目で見られるだけの整った容姿をしていると、本来の身体の主である乙女は微塵も自覚がないわけで。

 

「……都合が良いでしょう。私がしばらく辺りを見回ってみますから、あなたは、ゆっくり休んで下さい」

 

 言われ、羽衣狐はその通りに休息を取り始めた。

 

 

 

 

 

 本当に、驚いた。

 ──私こと、山吹乙女は……弐条城での戦にて身体を斬られ、今際を彷徨していたのです。

 臨死の世界で、私は私が憧れていた、とある男の姿を見た。その姿が見えなくなった時、気が付けば、私は羽衣狐とこの世界で「共存」していたのです。

 驚かない、恐れないはずがなかった。言わずとも、相手はあの羽衣狐。古来から恐れられる大妖怪なのです。

 ──しかし、目覚めの後の彼女は、取り違えるほどの〝変化〟を遂げていたのでした。

 時代の〝闇〟が強ければ強くなる妖怪「羽衣狐」──そんな彼女を取り巻いていた圧倒的な力、妖気、闇が、既に祓われていたのです。いったい、彼女が何に吹っ切れたのかわからなかったけれど、和解が出来るなんて、それだけですごい事実だと思った。

 山吹乙女は現状を確認すべく、着慣れない現代のセーラー服で、この街の探索を始めた。

 太陽が傾き始め、温かい夕日が町並みをオレンジ色に染めている。

 

「いらっしゃい! おおっ、随分な別嬪さんが来たもんだ、何にしますかい?」

 

 乙女は、商店街に並ぶ果物屋に顔を出した。

 この店では、製果を販売している。熟した林檎や蜜柑が、艶やかに乙女の前に並んでる。──とても新鮮であろうことが、乙女にはひと目で分かった。

 

「あの、すいません。新聞がありましたら、貸して頂けないでしょうか」

「へ……? あー、いいよ? ほら、貸してあげるよ」

 

 乙女は言われ、それを受け取った。

 新聞は、少なからず明治時代にも普及していた生活の必需品。乙女は奇妙な懐かしさを憶えながら、すぐに日付の欄を探し当てた。

 見つけた箇所には「五月十五日」と記されていた。

 

「皐月……」

 

 こんなとき、字が読めるだけ学を身に付けられた裕福な家庭に産まれたことを、改めて幸福に思う乙女である。

 新聞に目を通す乙女の立ち姿に──製果屋の店主は息を飲み、突如として、目の前に顕れた「国民的美少女」に見惚れてしまった。新聞を見据え、屹然とした光を宿したその双眸は容姿以上に落ち着いた輝きを放っている。知的や博識とはまた別の、隠された何かが感じられた。思わず釘付けになっていた店主が、言葉をもらす。

 

「キミ、変わった子だね。この辺りじゃあ見かけないけど、引っ越して来たのかな?」

「え? ええ、まあ……」

 

 声を掛けられ、乙女は現実に引き戻されるかのように新聞から視線を上げた。その拍子に、自分の周囲を横行している人の波のうち、多くの人間が、自分に対して〝怪訝〟な顔を浮かべていることに気付いた。多くの者達の眼は見開かれ、乙女という、その人を一点を眇めている。

 目立っている。

 どうしてだろう。製果屋の店主とその奥さんを筆頭に、あたりを恐々と見回せば、アーケードを往来する通行人の多くと、明らかに目が合った。

 ──ど、どうして目立っているの……?

 乙女はおどおどと、店主にありがとうございました、と述べると、視線を避けるようにそそくさとその場所を立ち退いた。間違っても、自分の容姿が、周囲の関心を引くタイプだとは思わなかった、山吹乙女である。

 

 

 

 黒のセーラー服に身を包み、すくなくとも、和服を着ているよりは現代社会の景観に溶け込めているはずであった山吹乙女は、しかし、良い意味で非常に目立っていた。

 ただ立っているだけなのに、その存在感は大きかった。道行く人の視線を集め、これらを一度立ち止まらせ、または、二度見させていく。

 どこの制服かを疑う目もあるだろうが、高貴なる名門校の出身であろうことを推測させるだけ、乙女は落ち着き払った知的な風情を醸していた。雪のように白く美しい肌に、麗しい日本人受けの良い黒色の長髪、その前髪が少し顔にかかっている。短めの黒スカートから見える白い脚は、道行く男性を振り返らせるほどに眩しかった。

 

 

 

 山吹乙女はその後も街を散策し、今現在、彼女達のいる場所が「海鳴市」と呼ばれている土地だという情報を手に入れた。どうやら、此処は日本ではあるようだし、特別焦る必要もなかった。羽衣狐の拠点である京都へ帰るための相談は、今は眠っている羽衣狐が起きてからで構わない。

 

 羽衣狐の起床を待つように、彼女は海鳴市……そして〝現代〟の探検をしていた。

 

 眠っていた好奇心が、久しく湧き上がって来る。

 乙女は、自分の足で、平成の世に降り立つことが、初めての経験だ。彼女の意識は明治時代で途絶え、平成の世に反魂したのも、記憶を改竄され、操られていた時に過ぎない。まるで、平成にかけてタイムスリップしたような気分だ。

 

「すごいなあ……」

 

 立ち並ぶ高層ビルディング。

 道路は丁寧にコンクリートで舗装され、その上を、人の乗った魔法の乗物──「車」が走っている。薄型の長方形「てれび」の中に人が閉じ込めれ、狭い空間であろうに、歌えや踊れや騒ぎ回っている。

 江戸時代のように、裸で歩く者などいやしない。働き盛りの若者でさえ、それぞれが奇抜な服を身に纏い、石版のような「けーたい」を操作しながら歩いている。

 もっとも驚いたのは食料品の値段だが、たとえば林檎ひとつ100円。昔は1円に現代の3800倍の価値があったので、乙女はそれを、3千8百万円と認識してしまったことだった。

 

 そうしているうちに時間は刻々と過ぎ、日が暮れ始めた。

 

 乙女は、人ごみにまぎれて街を散策していた。

 その人ごみが、急に静止した。何事かと前方に視線を戻せば、緑色の光が点滅していた。

 ──「信号」だ。

 やがて赤く点灯し始めた光。そして、横断歩道の上にはまだ、車椅子に乗った女の子の姿があった。

 

 その小さな身体には不相応な買い物袋を抱えたまま、タイヤを回し、前進することに難儀している。ハンディを理解した信号待ちのドライバー達は、車の信号が青に変わっても、アクセルを踏み込まなかった。車椅子の少女が横断歩道を渡り終えるまで、それを待つ車はどれひとつとして進まない。心暖かな光景だ。

 だが、その後方から、右折路を走って来る大型車トラックが、道路上の女の子を無視し、突っ込んで来た。運転手は携帯を操作している。きっと、信号しか見ていないのだ。

 愕然とする周囲の者達。だが、乙女の脚は、自然と少女の元へ駆けていた。

 ──間に合って!

 大型車の運転座席をちらりと見れば、今更になり、少女の存在に気付いた運転手が青ざめながら、ブレーキを踏み込んでいた。

 

 キキィーーッ

 

 道路と車輪の摩擦が、耳障りな高音を響かせた。

 飛び込んだ乙女の両掌が──少女の乗る、その車椅子を押し飛ばした。急迫する大型車は急制動により大きく進路を反れ、反対車線まで突っ込んでゆく。乙女も少女も、それに巻き込まれることはなかった上、反対車線の車もまた、車椅子の少女を待ちかねて発進していなかったため、トラックに轢かれることはなかった。

 大きく押し出された車椅子が、大きな音をたてて崩れ落ちた。車道と歩道の間にある段差に躓いたのだ。少女の身体は道路に投げ出され、乙女もまた、勢い余った身体を立て直せず、膝から大きく転がった。

 周囲の人間達が集まって来る。騒々と叫びながら、乙女たちへと血相を変えてにじり寄る。ひとりの男性が、大丈夫かと叫び、それに続くように商店街の方面からも、多くの人々が集まってき始めた。

 

「高校生だ! 高校生がはやてちゃんを助けてくれたぞ!」

 

 車椅子から投げ出された少女は、ことの弾みで、両肘を擦りむいていた。それを見、胸を痛めた乙女であったが、命に別状はない様子を見届けると、長い溜息を吐き、ほっと安堵の貌を浮かべた。

 ──怖かったろうに。声を掛けてあげなくては……。

 野次の間を縫って、乙女は少女に声をかけようと立ち上がろうとした。しかし、自分の身体を立ち上がらせるだけの力が、脚に入らなかった。腰が砕けたように、動かない。

 

「あ、あれ?」

 

 自分でも驚くほど思い切った行動。そして、万が一の恐怖に、腰を抜かしてしまったらしい。乙女が困惑としていると、大人達に起き上げてもらった少女の方から、乙女に声を掛けて来た。

 

「あ、あの、ご無事ですか?」

 

 夕日を後光に、乙女は、声を放った少女の貌を見上げた。

 翠色の髪に、可愛らしい金色の髪飾りをしている。言葉からは、少しだけ京の〝なまり〟が聞き取れた。

 身体はいまだ震えたままであるが、無事であることは確かだ。乙女は弱々しい笑顔を浮かべ、震えた声で返した。

 

「え……ええ、息災です。ちょっと腰が抜けてしまったけど、あなたこそ、無事で良かった」

 

 謙虚な笑みが、女の子の方から返ってきた。

 視線を逸らすと、奥の方で大型車の運転手の男が、近隣のおばさま方に激しい叱咤を受け、しょんぼり肩を竦めている。

 

「君たち、本当に大丈夫かい!?」

 

 はやてと呼ばれた少女は肘を、乙女は膝をそれぞれコンクリートで擦りむいてる。

 その怪我を発見され、救急キットをもった一人が、駆けて戻ってきた。

 

 

 

 

 

 はやて、と呼ばれた少女は、横断歩道を渡っている時、車椅子に座る、その身の丈に合わぬほど大きな買い物袋を抱えていた。

 それが、例の弾みで弾き飛ばされ、中身が散乱してしまった。あちこちに飛散した購入商品によって、ひとたびその路地は、善意による通行止めが行われた。

 派手に飛散し、床に落ちた、ひとつの〝りんご〟──それを拾い上げた恰幅の良い男性が、声を漏らした。

 

「ああ~。これ、やっぱり痛んでるねえ」

「本当だ。これはもう、食べられたもんじゃないなァ」

 

 その隣の男性が同調する。

 やがて彼らは立ち上がり、はやて、という名の少女へとゆっくり歩み寄って行く。

 

「はやてちゃん。おじさんたち、今からこれと同じものを買ってくるから、ちょっと待っててくれるかなあ」

「こんな目にあったんだ、お金は、おじさん達が出してあげるからさ」

「散らかった分は、あとで処分しておくよ」

 

 傍らで、そんな会話が耳にした乙女が大きな反応を示したのは、その時だった。

 無意識に、発された「単語」に疑問を覚えた。乙女はすぐに男性に近寄る。

 

「処分? 処分って、捨ててしまうのですか?」

 

 ぎょっ、と男性は目をむいた。

 突如、彼らの脇から現れた黒髪の国民的美少女。大和撫子と呼ぶに相応しい。さることながら、その透き通った声に、あとで女房に会わせる顔がないと反省するほど、ときめいた。すぐに自分を戒めて、男性は平装を保った。

 

「あ、ああ、そうだよ? だってほら、果物とかは裂けちまってるのもあるみたいだし、不衛生だろ? こんなものをこのまま持ち帰れとは、商店街の一員として、お客様にゃあ言えないよ」

 

 はやてが損失した分の商品の金額は、トラックの運転手から慰謝料とプラスして、いくぶん過剰に受け取っている。

 たしかに、一連の事故の被害者であるこの少女に、そんなものを食べろとは言えるはずがないだろう。

 

「まして、はやてちゃんにはね」

 

 男性が、はやてに向けてウインクを交わす。

 その「はやて」と言われた少女は、それを受けてにこっと微笑んだ。

 純粋に可愛いらしいと思える笑顔を見れたことに、自分が何かをしたわけでもないのに嬉しくなった乙女であったが、しかし……「処分」というのは、あまりにも。

 

「でも、勿体ないですよ」

 

 言いながら、乙女は膝を折り、道端から回収した「これから処分されるもの」の入った袋の中を覗き込んだ。

 

「えっ」

 

 短めのスカートの裾が、乙女の腿の上の方まで捲り上がる。男性達が、目を泳がせる。しかし、乙女の言葉にはしっかりと耳を立てていた。

 ガサガサと音を立て、乙女が、その袋の中を漁り始めた。

 美少女が、今となっては「ゴミ溜め」となったビニール袋を漁っている。良心的にも、絵的にも「これはよくない」と逡巡した男性であったが、静止の声を掛ける余裕もないほど、乙女は真剣な光を瞳に宿している。その姿はどこか浮世離れしていて、余人には、年齢以上に大人びた雰囲気を放っているように見て取れた。

 その姿は、とても畏れ多い。

 年齢で云えば、確実に男性達の方が威厳があるはずなのに、それでも「やめなよ」なんて浅慮な声は、その少女には掛けられない。言の葉を発すること自体が、失礼に当たるような気がした。それくらい畏まっていたのは、むしろ大人達の方であった。 

 乙女はビニール袋に手を伸ばしながら、真剣な眼差しを浮かべている。

 

「たしかに駄目になってしまったモノもありますが……」

「あ、ほら。この美柑などは大した外傷もないですし、お水で洗えば、まだ大丈夫だと思います」

「まあ、大根に葱まで。この様子では、美味しく食べられる部分の方が多いのに……」

「食べ物を、こんなにも簡単に粗末にしてしまうなんて……」

 

 ひとり呟きながら、廃棄物となるはずだった「もの」を判別しつつ、部類分けをしていく。片方はまだ食せるものと、片方は、廃棄もやむを得ぬものだ。

 乙女は、食材の佳し悪しの判別を、自然とやりのけていた。凄惨な飢饉を何度も経験し、今日食べる食材にさえ困っていた──そんな彼女にしか出来ない、悲しくも素晴らしい芸当であった。

 

「……ごちそうさまでした」

 

 廃棄しなくてはならぬモノをためたビニールに、乙女が一言、供えるように言葉を発する。一連の様子をポカンと口を開けたまま見ていた男性たちは、その少女が急に畏れ多く見えるようになった。その年齢以上に落ち着いた色を含んだ瞳を見ていると、ひょっとすると、自分が思っている以上に畏まる必要があるのではないかと思ったほどに。

 乙女は立ち上がり、視線を男性達に向けた。

 

「あの、これ……捨ててしまうくらいなら、私に頂けませんか? 私も、一度落ちてしまったものを、この子に持ち帰れとまでは言いません。でも、処分されてしまうくらいなら、私が頂きたいんです」

 

 言われ、男性は目を丸くした。

 今の乙女が一文無しである以上、繋ぎにも、食料は必要だった。目の前にあるそれらは、まだ食べられるのに捨てられてしまうくらいなら、一度地に落ちた、なんていうのは些事ではないか。

 云うと、男性は苦い表情を浮かべながら、乙女に抗議しようとしていたが、有無を言わせず、彼女は強引に先を続けた。

 

「お願いします。大丈夫ですから」

 

 念を押す。貫き通す。

 いくら気風の良さそうな男性とは言え、流石に動揺していた。

 乙女の顔色を伺いながら、ようやく折れて、しぶしぶと散乱物をまとめた袋を手渡してくれた。

 

「……あの、お姉さん?」

 

 袋を受け取ったそこへ、車椅子に乗った女の子が話しかけてきた。

 

「もう夕方やけど、この後、何か御用事あります? 良かったら、なにか御礼をさせてくれませんか?」

「えっ?」

 

 このように小さい娘に、そのようなことを言われるとは想像していなかった。

 随分、律儀な様子だ。小学生にしては、しっかりとしている。

 

「うちの家に来て頂ければ、何か、美味しいものを作りますよ」

 

 それはきっと、この少女の母君が作る手料理だろうと、乙女は考えた。

 ──御礼、だなんて。

 乙女にはとりわけ、恩に着せて謝礼を受けるつもりは毛頭ない。そもそも、謝礼を狙って少女を助けたわけでもないのだから、家に上がるなど、厚かましくはないだろうか?

 気が、進まない。

 しかし、ふと思い返せば、右も左も判らない今、彼女には、羽衣狐が起きるまで身を置ける場所が必要だった。

 

 

 

 

 

 

 乙女は少女の提案に乗っかり、ふたりで住宅街を抜けていた。

 

「うち、八神はやてって言います。さっきは、本当にありがとうございました」

「いえ、こちらこそお世話になります。私は、山吹乙女です」

 

 少女の言葉は、京都訛りの強い関西弁であった。

 だが、商店街の人たちは標準語をしゃべっていたので、特別この海鳴市が京都にあるわけではないだろう。

 

「〝やまぶきおとめ〟? ほぇ~、可愛らしい、素敵な名前やあ。山吹さんは、高校生なんですか?」

 

 セーラー服を着ているのだから、そう思われても仕方がないだろう。

 乙女はわずかに怯み、引き攣った口元を必死で隠した。

 

「え、ええ、まあ」

 

 きっと、私について詳しく聞かれるのは好ましくない。

 一度でも嘘を吐くと、その嘘を守るため、新たな嘘を吐かなくてはならなくなる。そうして積み重なった虚構には矛盾が生まれ、いつの日にか必ず崩壊してしまうもの。嘘だけは吐きたくない乙女であった。

 乙女は形勢を変え、はやてについて、質問をすることにした。

 

「本当にお邪魔しても宜しいのですか? あなたの御両親にも、ご迷惑をおかけしないでしょうか」

 

 その時、はやての表情に暗い影が落ちた。

 

「うち、親は居ませんよ。ずっと前に逝去したんです。だからご飯を作るのは、うちなので」

 

 明るい声調で言われ、乙女は絶句し、返す言葉を失った。

 つまり、この子には「身依り」がない、と云う。

 乙女の生きた江戸時代では、悲しくもそう珍しい事象ではないのだが、それが平成の時代に在るとなると、驚きだ。

 ことに、足に負傷があるわけでもないということは、この少女は、足に病気を抱えているということになる。

 その上、身依りはなく、一人暮らしだとすると、病だけでなく心に〈闇〉を抱えていてもおかしくはない。乙女はこの少女、八神はやてという女の子について、他人事でないような感覚を覚え始めていた。

 

「……ごめんなさい。悪いことを聞いてしまいましたね」

 

 おかしい……こんなにも健気に生きている女の子を、天は見限るように追放したと言うのか?

 両親を失わせ、親戚はなく、後はこの子に「死ね」と言っているのだろうか…?

 

「いいんです。……でも、こんなこと言うと嫌われちゃうかもしれへんけど、本当は寂しかったんです。確かにお礼っていうのもしたかってんけど……うち、誰かと喋りたくって……」

 

 はやての声は、だんだん小さく、語尾にかけて途切れがちになっていく。

 

「本当に御迷惑な話だと思います。ですから、お気を悪くされたなら、どうぞ、お帰り下さっても」

 

 悲しいかな。こんなにも小さな女の子なのに、気を許せる人が、守ってくれる人がいないなんて。

 私はこの子を放ってなどおけない、助けたい、いつかのように――。

 

「……いいえ。結構です」

 

 八神さんは俯いていた顔をあげた。私は屈み、目の高さを揃え、話しかけた。

 

「私で良ければ、どんなお話相手になりますよ」

「やまぶき、さん……」

 

 その時、八神さんが目尻に涙を浮かべているのがわかったので、私は笑顔を作った。

 

「さあ、行きましょう? 私も食べてみたいです、はやてちゃんの手料理」

 

 遠慮はいらない。

 きっと、それはこの子を傷つけてしまうから。

 はやてちゃんは手で泪を拭うと、笑顔を見せ、私を自宅まで案内してくれました。

 

 

 

 

 

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