戦姫絶唱シンフォギア  Ace of Fist   作:HANK1989

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前回のあらすじ!


一也「悪戯って最高に楽しいよね!」

翼「楽しいのは貴様だけだ!」

奏「なんなのコイツ」

一也「どうする? やる? やっちゃう? 10万人以上への悪戯(満面の笑み)」

奏「やめろください」


こんな感じの前回


第7話 『根性』

 

 

「はぁ~、ほんっ、とうに唐突だよなぁ、お前。俺さ、一応受験生なんだけど」

 

「いやぁ、はっはっは。いいじゃない、どうせ推薦先、決まってるんでしょ?」

 

「お前のお陰で推薦も決まってるし、それどころかスカウトの人に名刺渡されたよ。進学するか、そのままプロ入り目指すか、まだ決めてないけど」

 

 

 片や大きな溜め息を吐きながら、片やけらけら笑いながら。

 片や桜ヶ丘高校野球部のユニフォームを着て、片や桜ヶ丘高校の制服を着て二人の学生が街を進む。

 

 片方は一年の但野 一也。

 桜ヶ丘高校の元野球部にして元エース。現在は帰宅部と弱小部のスケットを熟す、スポーツの名門桜ヶ丘高校始まって以来の問題児。

 

 その隣をげんなりとした表情で歩く一也に勝るとも劣らない体格の男は、三年の有武(ありたけ) 鷹虎(たかとら)

 野球部の元主将にして一也とバッテリーを組み、チームを勝利に導いた名捕手でもある。

 相手打者、相手チームの心理を見抜くリード、どんな球種にも合わせる当て勘と名前に因んで“鷹の目”と呼ばれ、チームの二枚看板として恐れられた元4番打者。

 

 鷹虎は既に野球部を引退し、進路を決めかねている最中であるようだか、今日はどういうわけか、着慣れたユニフォームと野球道具一式の詰まったスポーツバッグを肩から下げていた。

 

 

「なら暇なわけだ。ほら、問題ない」

 

「大有りだよ! 何だって突然、中学校の野球部の練習に付き合う話になるか、全然聞いてないんですけど俺ェ!!」

 

 

 だから、鷹虎自身ももう二度と着ることはないと思っていたユニフォームを引っ張り出し、街を歩いているのだった。

 自分が知らないところで自分の了承もないままに話が進んでいたにも拘らず、一也からのもう決まっちゃったから、という一言で、こうまでしているのだから彼も相当人が良い。

 

 

「で、何であの中学なんだ? 野球部も大した成績残してるわけじゃないし――――そもそもお前、野球そんなに好きでもないだろ」

 

「そうだよ。オレが野球始めたのは先輩に頭下げられたからだしな」

 

「…………絶対、他の人間の前で言うなよ、それ。真面目に野球やってる奴が聞いたら殺されても文句言えないぞ」

 

 

 余りにもあっけらけんとした一也のとんでもない発言に、鷹虎は辟易とした様子で無駄だと理解しながらも無駄な忠告をしてしまう。

 

 恐るべきことに、夏の祭典甲子園を制した勝利投手が野球を始めたのは桜ヶ丘高校に入学したのとほぼ同時期なのだ。

 

 中学時代、一也は野球部ではなく陸上部だった。そして、陸上界においても天才扱いであった。

 短距離、中距離、長距離、跳躍、投擲。何をやらせても平均以上――どころか、中学生記録に手を届きかねない成績を残していたのである。

 いずれは陸上十種においてキング・オブ・アスリートと呼ばれる日が来る。関係者の誰もが、そうなると予期し、嘱望されていたほどだ。

 

 一也の入学当初、鷹虎は野球部の主将として苦悩の中にあった。

 スポーツの名門でありながら、野球部は弱小と笑われる屈辱。どれだけ努力しても上がらない成績。次第に諦め、離れていく部員達。

 元より責任感の強く、同時に自罰的だった鷹虎はチームの弱小ぶりは己の責任と取らえ、酷い落ち込みの中に居た。

 それでも野球を続けていたのは、単純に野球が好きだったからだ。野球への愛故に、鼻で笑われようとも、才能がないと罵られようとも、直向きに努力を重ねた。

 

 そんな鷹虎を野球の神は、決して見放さなかった。

 桜が咲き誇る4月中頃、鷹虎は学校のグラウンドで一也(怪物)と出会ったのだ。

 

 桜ヶ丘高校はスポーツに力を入れているだけあり、部活それぞれにグラウンドやコート、専門の設備がある。

 運の良いことに、野球部と陸上部は隣り合ったグラウンドだった。始めはやたら陸上部の連中が騒いでいると思っていたのだが、騒ぎが続けば気にもなる。

 鷹虎が陸上部のグラウンドを覗いた時、一也は砲丸投げの記録をとっていた。一也の投擲は余りにも力強く、余りにも真っ直ぐだった。

 一也の叩き出した記録がどれほどのものであるのか鷹虎は知らなかったが、陸上部員達の“本物の怪物”(絶対に越えられない壁)に出会った絶望的な表情は今でもよく覚えている。

 

 ――その光景を前に、鷹虎は即座に行動に移った。

 

 陸上部の練習が終わると同時に、ジャージ姿で帰ろうとする一也に声をかけたのである。

 始めは一也は何の興味もない無表情で話を聞いているだけだったが、しつこく話かけてくる鷹虎は物珍しくあったのか、最後には笑い、野球部のグラウンドについてきた。

 中学時代からの付き合いになる野球仲間に球速計を持たせ、一也には使い古されたグローブと硬球を渡し、自分はキャッチャーボックスについた。

 

 初球は酷いものだった。一也の投げた硬球はすっぽ抜け、あらぬ方向へと飛んでいった。

 しかし、2球、3球と投げ続ける内に、ゆっくりではあるが確実にコントロールを増していく。

 それでも50球投げてもキャッチャーミットに硬球が突き刺さることはなかったが、鷹虎と友人は震えていた。

 

 やがて、運命の時は訪れる。

 もう数えるのも馬鹿らしくなるほどの投球の中で、たまたま運よくキャッチャーミットに突き刺さった1球が生み出された。

 鷹虎と友人は同時に腰を抜かした。その馬鹿げた才能と、何よりも普段通りの涼しげな無表情のまま佇む一也の姿に。

 

 この日、鷹虎と友人は一也を野球部に勧誘し、一也はこれを受け入れる。今まで気づいたキャリアや技術をあっさりと捨てて。

 

 そういう経緯もあって、鷹虎は一也に頼まれるとどうにも弱い。

 このハチャメチャでドタバタのムチャクチャな、やりたい放題好き放題の後輩に随分と悩まされたのだが、頼まれると突っぱねることが出来ないのである。

 

 桜ヶ丘高校にて、一也の巻き起こしたヒューマンドラマは、それはもう目を覆いたくなるような展開が目白押しだったが、今は関係のないので割愛する。

 唯一つ言えるのは、鷹虎にとって、高校生活最後の一年は思い出したくもないほどの凄まじい体験だったにも拘わらず、迷わずに楽しかったと胸を張れるものだということだけだ。

 

 

「あー、ここ、ここ」

 

「……着いちゃった」

 

「そうつれない顔しなくてもいいでしょ。人に教えるの、苦手じゃないんだから」

 

「お前のお陰でな! あー、悩むのも馬鹿らしい。さっさと行くぞ。取り敢えず職員室行って、顧問の先生に挨拶だ」

 

「オレ、先輩の覚悟決めると即行動するとこ好きだわー」

 

「覚悟決めたんじゃなくて、お前に覚悟決めさせられたんだよ!」

 

 

 ズキズキと胃袋が痛む懐かしい感覚に辟易としながらも、鷹虎の顔には確かな笑みが刻まれていた。

 

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「えー、今日から暫らくの間、皆さんに指導することになった有武 鷹虎です。短い間ですが、よろしくお願いします」

 

「先輩、固いな。固すぎるだろ。もっとこうフレンドリーに――――うっぐぅ!?」

 

 

 茶化す一也の脇腹に肘打ちを叩き込み、鷹虎は目の前の野球少年たちを見回す。

 

 職員室で野球部顧問との挨拶もそこそこに、案内されたグラウンドにて一也と鷹虎は野球部員達と顔を合わせていた。

 顧問の本当に来たという驚きの表情から、学校への連絡はろくに説明もせず悪戯の類だと思われていたようだった。

 通して貰えたのは有名人の特権である。二人の顔は甲子園中、連日何度となくニュースで流された。野球に興味のない人間でも見たことくらいはある。

 

 職員室にてんやわんやの大騒ぎを巻き起こし、こうしてグラウンドに立っている。

 

 

『おぉ? おおおおおおおおおっっっ!!!』

 

 

 暫らくの間、キョトンとした表情で二人の顔を眺めていた野球少年達であったが、目の前の二人が本物であると認識すると歓喜の声を上げた。

 プロ野球選手ほどでないにせよ、甲子園優勝校の選手は彼らにとって紛れもないヒーローである。興奮するのも無理はない。

 鷹虎はこういった騒ぎは苦手で、一也はヒーローインタビューすら袖にする関心なさっぷり。どうにも相性が悪い。

 

 生来の人の良さから鷹虎は、興奮する少年達を上手く宥め、一人一人の質問に答えていく。

 彼にしてみても、いずれ自分の後を歩むかもしれない同好の士。無下に扱えない。

 質問に答えていく内に、冷静さを取り戻しながらも少年達の目は尊敬と期待で輝やいている。

 才能云々は抜きにして、これから彼らがどういった道を歩んでいくのは別にしても、鷹虎の中でやる気が漲っていく。野球をするのも見るのも教えるのも好きな正真正銘の野球馬鹿である。

 

 

「……あ、あのー」

 

「ん? どうした。そろそろ練習始めるけど」

 

 

 そんな中、オロオロとした様子でそっと手を上げる少年が一人。

 

 

「い、いえ、但野さんが、どっか行っちゃったみたい、なん、です、けど……」

 

「はぁっ!? ホントだ、いねぇっ!!」

 

 

 少年の予想外の言葉に、隣を見るが一也の姿は影も形もない。鷹虎は茫然として立ち尽くし、野球少年たちは困惑して推移を見守る。

 

 お前だよな? 中学生に野球指導するとか言ったのお前だったよな? アレ、俺だっけ? とか。

 そもそも嫌な予感してたんだよ。学生服着てるし、手ぶらだし、とか。

 え? え? マジ? これマジ? 確かにお前に指導なんて期待してなかったけど、置いてく普通? とか。

 つーか、何処行ったんだよ。何? 何のためにこんなことしたの? イジメ? つれー! つれーわ、オレ! とか。

 目的なんだよ、意味分かんねぇよ、何なのだよ、一也お前ホント何なの? とか。

 

 凄まじい勢いで高速回転し、混乱へと落ち沈んでいく鷹虎の口から一言が迸った。

 

 

「――――一也絶対に許さねぇっ!!!」

 

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「さ・て・とぉー。どっ、こ、かねぇ、っと」

 

 

 鷹虎を置き去りにしたのを悪びれもせず、悠々と校内を練り歩く一也。

 自分から企画しておいて、無責任にも程があるのだが、元よりそのつもりだったので罪悪感は一切ない。勝手な男である。

 

 廊下ですれ違う生徒達は見知らぬ高校生の姿にぎょっとした表情をするものの、声をかけることはしない。目的も正体も分からない人間に警戒こそすれ、声をかける義務など彼等にはないのだ。

 時折、生徒のみならず教師とも顔を合わせる。無論、教師には生徒を守る義務がある。高校生とは言え不審者同然の一也に声をかけ、静止を促すも、一也はその度に野球部顧問の先生に話は通ってるからと説明して事なきを得ていた。

 

 廊下側の窓から教室を覗き込み、何かを探す素振りを見せる。

 ある教室に差し掛かった時、一也はぼんやりとした様子で歩きながらチラリと中を見渡し、もう一度覗き直す。綺麗な二度見だ。

 教室で発見した対象が目的の人物であると確信すると、後ろ歩きで教室の扉の前に下がった。

 

 そして、スパーンと豪快に教室の扉を開ける。

 教室に残っていた生徒たちは一人を除いて、一斉に日常への闖入者である一也に視線を向けていた。

 困惑の視線を一切意に介さず、ズケズケと関係のない教室を突き進む。進んだ先にいたのは闖入者にも何の反応も示さない暗い顔をした少女だ。

 

 少女は自分の席に腰かけ、机に視線を落としていた。

 一也は少女の前の席が空いているのを見ると椅子を引っ張り出し、少女と向き合う形の前後逆に腰を下ろす。

 

 そこでようやく一也の存在に気付いたのか、少女は顔を上げた。

 顔も暗ければ、その瞳も暗く落ち沈み、濁っている。かつての面影は見る影もない。

 

 

「……………………一也、さん?」

 

「よ、久しぶり。半年ぶりくらいか?」

 

「……え? えぇぇぇぇッッ!?」

 

「その反応は流石にどうかと思うわ」

 

 

 少女の名は立花 響。

 ライブ会場の惨劇において知り合い、偶然にも命を救う手伝いをする羽目になった少女である。

 

 突然現れた命の恩人に、響は椅子から転げ落ちるほど驚いた。

 芸人顔負けのリアクション芸を見せた響に、一也は呆れたように頭を掻いてみせる。

 

 数日前、奏の病室における一件で一也は動いた。

 ただ生き残っただけの生存者へ向けられたバッシング。奏や翼、二課の面々に語った通り、一也は一切気になどしていない。

 気にしていなかったから進んで関わるつもりはなかったが、手の届く範囲――殊更、自分の気に入った人間くらいには手を貸そう。そう考えての行動である。

 

 幸い、友人の一人は噂好き、情報屋染みた広大な交友関係と情報網を持っていた。彼を使い、響の居所を突き止めた。

 

 友人は学生間で囁かれる噂を追った。殊更、部活動の部員同士の噂を。

 通う学校が違っていても、練習試合や合同練習で繋がりが生まれることもある。薄い繋がりであったとしても人と人との繋がりには違いない。そういった細い糸を水滴として伝うのが噂である。

 その中で着目したのは、とある高校のサッカー部員の話であった。話によれば、中学時代の後輩がノイズの被害でなくなったらしく、そこから母校が可笑しくなったというものだ。

 単なる愚痴であったものの、人から人へと話しを聞いていく内に、一也の伝えた響の特徴と一致する点が多い少女が浮かび上がってきた。

 

 尤も友人にも確信があった訳ではなく、憶測と噂の領域を出ないことは理解していた上が、自分に出来るのはそこが限界と一也に伝えたのである。

 一也は一也で数撃ちゃ当たると始めから上手くいくと期待していなかったし、最悪、弦十郎に頭を下げて探して貰えばいいと考えていた。

 その為に先輩まで巻き込んで行動する当たり、行動力こそ褒めてもいいが、相変わらずハチャメチャっぷりである。

 

 

「しっかし、お前、何やってんだ?」

 

「え、え? えっとぉ、こう、考え事と言いますか、ボーっとしていただけと言いますか」

 

「こんな机を眺めてか? お前、頭おかしいんじゃねぇの?」

 

 

 トントンと指で響の机を叩きながら、失礼なことを言うが、今回に限っていえば一也は正しいだろう。

 

 響の机は落書きだらけだった。ただの落書きなら、珍しくもない。中学生の時分だ、落書きで済んでいるだけマシな方。問題なのは、落書きの内容だ。

 

 

『金ドロボウ』

 

『人殺し』

 

『死ね』

 

 

 悪意しか感じられない内容の数々。一也にとっても見慣れた内容だ。家に張られていた張り紙のそれと大差はない。

 

 しかし、響には見慣れない、降ってわいたような現実だろう。

 必死になって身体を治し、辛いリハビリを通して戻ってきた日常生活は以前とは一変していた。

 こんな悪意の巣窟に登校し続けられるものだ。並大抵の人間なら、既に自殺していてもおかしくはない。まして、必死の努力の報酬がこれならば無理もない。

 

 

「……いや、これは、」

 

「こんなん眺めてたら、そりゃそんな顔にもなるわ。よし、変えよう」

 

「え? 変える、って……え?」

 

「開いてる教室に予備の机くれーあんだろ。おら、ボーっとしてんじゃねぇよ。机の中身だせ、あと荷物も全部持ってこい」

 

「うぇぇ!? そんなこと勝手に、うわぁ!? 止めてぇ! 机持ち上げてガサガサして中のもの落とさないでぇ! 人の話聞いてぇ!」

 

 

 一度言い出したら聞かない男である。

 響もライブで宣言通り眠ってしまった件で痛いほどよく分かっていたが、自分が巻き込まれるとなると流石に悲鳴も上げたくなろう。

 人の机を持ち上げて、中身をぶちまける男の図。傍から見れば完全にイジメ――いや、頭がおかしい人間に絡まれているようにしか見えない。

 

 床にぶちまけられた教科書を混乱から涙目でワタワタと拾っている響を見ると、はぁと大きく溜め息をついて一也も一緒に拾い出す。

 その後、一也は机を担ぎ、響は椅子と荷物を持って空き教室から新しいものを持ってきた。

 

 持ってきた机は使い古されてこそいたが落書きは一つもない。

 一時しのぎにすらならない、明日になればまた心ない誹謗中傷で溢れているだろうが、一也は満足げに机を眺め、うんうんと頷いている。

 

 

「よーし、一仕事すんだな」

 

「あの、一也さん。これをするために、ここまで来たんですか……?」

 

「んー? まあ、そうだな。あながち間違ってねぇかな……?」

 

「………………」

 

 

 迷いなく断言する一也に、さしもの響も茫然とせざるを得ない。

 何処でどう自分について知ったのか、響には分からない。

 分からないが、高校生が中学生の知り合いの近況を知り、中学校に乗り込んで、全くと言っていいほど無意味な行為のために来たというのだから驚くのも無理はない。

 

 

「こっちはこれでいいや。おい、立花。このあと暇か?」

 

「え? あ、は、はい。部活もやってませんから暇ですけど……」

 

「おーし、遊び行くぞー、遊び」

 

「…………ぇぇぇぇぇ」

 

「なんだよ、嫌か?」

 

「いや、状況が急転直下すぎて、ついていけないというか何というか」

 

「気にするな、人生そんなもんだ」

 

 

 困惑しきりの響をオール無視して、一也は首根っこを引っ掴んでズールズルと引っ張っていく。完全に拉致だ。

 ドナドナがエンドレスリピートされる頭の中で、響はあたしこれ完全に売られてく子牛と同じだ、あははー、と現実逃避していた。

 

 

「……あぁ?」

 

 

 その時、響を引き摺る一也の顔に、何かが飛んできた。

 視界の端で捉えた物体を反射的に左手でキャッチする。大した動体視力であるが、ピッチャー返しですら易々と捉える一也には容易かっただろう。

 

 掌に視線を落とせば、あったのは消しゴムだ。

 勝手に飛んでいくはずもない、当たったところで怪我もしない、悪意だけを伝える投擲物。

 

 

「おい、今投げたの誰だ?」

 

「……一也さん」

 

 

 見れば、教室に残っていたクラスメイトばかりでなく、他のクラスの生徒まで集まってきている。

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うように、響が憎ければ響に手を差し伸べようとする者まで憎いようだ。

 

 響は先程の暗い表情が嘘のように、毅然とした態度で向き合っていた。

 対する一也は、本当に普段通りの無表情で怒りも抱いていなければ、呆れてもいない。

 

 

「なんだ、お前ら。そんなに立花のこと嫌いか?」

 

『………………』

 

「おい、黙ってちゃ分かんねぇよ。何とか言ったらどうだ?」

 

 

 ありとあらゆる負の感情が込められた視線を受けながら、一也は気にした素振りすら見せずに問う。

 

 問いに返ってきたのは変わらぬ視線と沈黙だけ。

 その沈黙に、クラスの委員長を決める時みてぇ、とあながち間違いでもなければ、かといって正解とも言えない感想を一也を抱いた。

 自分一人ではないから好き放題に攻撃できるが、自分一人が切欠(きっかけ)になれば、自ずと責任を取らねばならない。

 実に分かりやすい。一つの意志の元に動きはしても、自ら動けはしないのだ。

 

 その煮え切らなさに一也は眉根を寄せた。

 響を嫌っているのならいい。嫌っているからこそ集団の中から排斥しようとする。その手段の一つとして苛めるのだから、まだ分かる。

 だのに、目の前の連中と来たら、誰かを嫌いだと叫ぶことすら拒絶している。

 

 多くの人間にとって、一也は化け物にしか映らない。

 人並み外れた精神的な強さ。他者を精神的に必要としない自立性。およそ多くの人間とは異なる価値観。

 他者に縋らねば生きていけないその他大勢にとって、群衆という最強にして最悪の武器が通用しない一也は化け物以外の何者でもあるまい。

 

 逆説的に、一也にとっても彼等は肯定こそしているものの、理解できない存在でしかない。

 肥え太るほど余裕があるのに、他人を嫉む精神性。自分以外の誰かに縋らなければ動きもしない行動力。絶無といって差し支えない己の無さ。

 お前らは一体今までどうやって生きてきて、これからどうやって生きていく気だ、という感想しか抱けない。

 

 

「ダメだこりゃ。……立花、お前も人が良いな。こんな連中に付き合ってやるなんざ。そんな顔になってまですることかぁ?」

 

「………………」

 

「……いいか。さっさと行くぞ、楽しくもねぇ時間の無駄なんぞ真っ平だ。立花、大体オメーもなぁ――――」

 

 

 呆れたままの表情で教室を去ろうとした一也に、響は黙ってついていく。

 一也は毅然としていながらも意固地になったかのような響に何事かを伝えようとしたのだが、またしても飛んできた投擲物に中断を余儀なくされた。

 今度はチョークだ。本当に可愛らしい。この男を怯ませたいにせよ、怒らせたいにせよ、もっと強力で凶悪なものでなければ全くもって意味がない。そこが卑劣と言えば卑劣であるが。

 

 けれど、何よりも慌てたのは響である。

 

 

「や、止めてよ。一也さんは、……この人は関係でしょ! やるなら――――」

 

 

 本当に、優しい少女だ。

 自分が傷つけられるのなら、まだ耐えられる。これだけの悪意に曝されなお、この巣窟に登校していることから明らかだ。

 自分が理由で、自分以外の誰かが傷つけられるのは、耐えられない。理由こそ定かではないが、間違いなく自分の為に来てくれた一也が傷つくなど以ての外。

 人によっては偽善と笑う行為かもしれないが、根底にあるモノがなんであれ、人のために行動できるのなら、紛れもない優しさだろう。

 

 そんな優しさを見せた響を片手で制し、一也が口を開く。

 

 

「――――次にやったら、この場にいる全員ぶちのめす」

 

 

 一也の口から出た言葉、響の優しさすら切り捨てる無慈悲な宣言だった。

 

 

「誰かに何かをやったら、やり返されても文句は言えねぇぞ。オレは弱いものイジメすんのは嫌いだがな、売られた喧嘩は必ず買うぜ。女だろうが年下だろうが関係ねぇ」

 

『………………』

 

「やりたいってんならいい、オレは止めねぇし文句もねぇ。けど、覚悟して投げろよ――――オレは、立花みてぇに優しかねぇぞ」

 

 

 怒りもなければ憎悪もない。気負いもなければ睨みつけてもいない。そして、慈悲もなければ容赦もない。

 ただひたすらに、一也にとっての事実だけを告げていた。

 不良やヤクザのように怒鳴り声を上げて、自分を自分以上に見せようとすらしていない。淡々とした口調で、淡々と事を済ませようとしている。

 

 そこが逆に有象無象(生徒達)には恐怖を煽る。誰一人として、出来るわけがないと高を括れないほどに。

 

 

「つまんね。そこは投げて来いよ。オレに喧嘩売る不良(アホ)共は迷わず投げるぞ。アホより根性がねぇとは、情けないにも程があらぁ」

 

 

 そこまで言うと、一也はひゅんと腕を振ってチョーク入れの中に手にしていたチョークを投げる。

 見事、チョークが箱の中に納まると、ぐっと片手で小さくガッツポーズを作った。そのまま、またしても響の首根っこを掴み、ずるずると引き摺っていく。

 集まった生徒にも、引き摺っている響の様子にすら気にも留めず、やりたい放題好き放題の男は、こうして教室を去るのだった。

 

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

「……ふぁぁぁ、まさか『逆光のフリューゲル』の初回限定版が今になってから買えるとは」

 

「あそこ洋楽中心のショップだからさ、日本の歌手のCD、誰も買いにこねーのよ。よかったな」

 

 

 一也は邦楽よりも洋楽の方が好みなようで、当然、行きつけの店の品揃えは洋楽が中心となる。

 洋楽は実に雑多な有名どころからマイナーまで取り揃えているが、逆に邦楽は店主の趣味で取り揃えられており、買いに来る客は稀だ。

 

 逆光のフリューゲルはツヴァイウィングのベストヒット一つ。現状、初回特典付きを手に入れたければ、数万円の金を払ってネットオークションで落札するしかない。

 何にせよ、買い逃した響には喉から手が出るほど欲しい一品でありながら、資金的にも年齢的にも手が出せない一品に違いない。

 

 

「……あの、一也さん」

 

「あ? 何だ、どうした?」

 

「今日は、ありがとうございました。でも、どうしてあたしなんかのために……」

 

 

 鞄の中にCDを大切そうにしまい、最大の疑問を口にする。学校でも、遊んでいる最中も、常にその疑問が胸を占有していた。

 一也の強引さと勢いに押されっぱなしで為す術もなかったが、冷静さと余裕を取り戻した今、疑問を解消せずに家に帰ることも出来ないだろう。

 

 

「どうしてって言われてもなぁ。…………ちょうどいい、座って話すか」

 

 

 道の途中にあった公園へと入る。

 僅かな遊具とベンチが数台あるだけの小さな公園だ。普段は子供たちが遊んでいるだろうが、夕暮れ時に遊ぶものは一人としていない。皆、帰るべき場所に帰っている。

 誰もいない場所は、どれほど文明を感じ取れても、どれほどの豊かさを思い起こせても、寒々しく侘しい。

 

 

「ほらよ」

 

「……わっ、たた、っとぉ」

 

 

 自販機から買ってきたオレンジジュースをベンチに座って待っていた響に投げて渡す。

 響は慌てながらも何とか受け取りながら、ありがとうございますと礼を返した。

 

 

「どうして、どうしてなぁ。……うん、特に理由はねぇな」

 

「……ないって、そんな」

 

 

 響にはとても納得のできない答えだ。

 彼女には理解できない。たまたまライブ会場で会話をして、たまたま地獄からの脱出路を一時的に共にし、たまたま互いに生き残っただけの生存者同士。

 まして、自分がこのあり様だ。一也とて同じような、あるいはそれ以上の扱いを受けているかもしれないにも拘わらず。

 

 

「お前が助かるのに手ェ貸しちまったからなぁ」

 

「………………」

 

 

 一也に響を助けたという認識はない。

 助けたのは奏。迫るノイズの群体から響の命を守り、力及ばずに傷つけたが、その命の灯を紡いでみせた。

 助かったのは響自身の力と運のお陰。なけなしの勇気を振り絞り、助かろうと足掻いてみせた。

 自分がやったのは、精々が手を引きて歩き出させ、傷ついた彼女を死ぬよりも早く救急救命士に引き渡しただけ。礼を言われるようなことでもなく、余裕があったからやっただけ。

 己が助けたのではなく、響が勝手に助かったと認識している。

 

 

「オレも聞きたいんだがよ。お前さぁ、なんで言い返さないんだ? オレみたいに殴れとは言わねぇが、言い返すくらいしろよ」

 

「…………だって、ああいうのは、何もしない方が、逆に早く飽きるかなって」

 

「嘘だな。それは本心じゃねぇ」

 

 

 もっともらしい響の科白を、一也は真っ向から叩き切った。

 一刀の下に断ち切る鋭い言葉に、響はぎょっとした顔で一也を見た。

 彼の三白眼は鋭さはそのままであったが、どこまでも静謐だ。黒い瞳はどこまでも深く、どこまでも正しく見定めようとしている。

 

 響は言葉に詰まる。

 彼女自身、本心を隠す為に取り繕っただけの言葉という自覚はあった。

 それを一目で看破され、あらゆる嘘が通用しないと悟ったものの、響は次の言葉を紡げない。

 何を言っていいのか分からないのではない。態度を取り繕わなければならない理由は言葉で説明出来るが、決して言葉にしてはならない、誰にも明かしてはならない、墓の下まで抱えていかなければならない理由(ひみつ)なのだ。

 

 

「何だ、そんなに喋りたくねぇか。気にするなよ、オレは単なる顔見知りだ。家族でもねぇ、ダチでもねぇからこそ話せることもあるだろ。お前が黙ってろって言うならオレは誰にも言わねぇよ」

 

 

 一也は根気強かった。普段の態度からは想像できないほどに。思い悩む響を前にして、それ以上は何も言わず、ただ静かに隣で待ち続ける。

 

 奏が認めるように、一也は人をよく見ている。

 響の心境もおよそ正しく把握していたが、把握していようが相手の口から聞かなければ単なる憶測に過ぎず、真実とは言い難い。だからこそ、ただ静かに待った。

 そして、恐らく響は胸中を明かせる相手がいない。家族にも友人にも明かせない。愛しているからこそ、親しいからこそ明かせぬ闇もあるだろう。

 

 

「……本当に、誰にも言わないでくれるんですね」

 

「当たり前だ。嘘なんぞついてどうすんだ」

 

「…………分かり、ました」

 

 

 話し始めたのは、恩人に対する信頼もあったが、それ以上に彼女自身が背負った重荷に潰されかけていたからだろう。

 

 響が話し始めたのは苦しいリハビリが終わり、ようやく元の日常に帰ってきた時のこと。

 帰ってくるまでは皆が自分の帰りを喜んでくれると思っていた。しかし、それが余りにも都合のいい幻想だと思い知った。

 

 帰ってみれば、優しく誇りだったはずの父は酒浸りになり、何もしていない母に暴力を振るい、罵声を浴びせていた。

 響に手を上げこそしなかったが、何故、どうしてと疑問を投げかける度、卑屈に目を逸らし、問いに答えもせずに実の娘から逃げ続けた。

 

 ある日、父は仕事に出たきり、家に帰ってこなかった。

 

 無理もない、と彼女は思った。当然だ、何故、ただ娘が助かったというだけで心ない誹謗中傷に曝されなければならないのか。

 同時に怒りも芽生えた。どうしてお父さんは一番辛い時に、一番傍にいて欲しい時に居てくれないの、と。

 

 悲劇はそれだけで終わらない。帰るべき家が、そのあり様だ。通うべき学び舎も、響を苛む監獄に過ぎなかった。

 友人だと思っていた者達は、皆一様に響から離れ、ただ生き残ったという理由だけで侮蔑と憎悪の視線を向ける。残ったのは、たった一人の友人だけ。

 

 そこでようやく、望んでいた日常は二度と返ってこないと思い知った。かつての日常(幸せ)は、見る影もなく破壊されたのだ。

 

 かつての日常の残骸を見る度に響は思った。あの時、あの場所で、死んでいればよかったんじゃないか、と。

 どれだけ家族が、親友が泣きながら喜んでくれても、その考えが頭にこびりついて離れない。生き残った自分自身に、価値を見出せないでいた。

 

 だから、あれだけの目に合わされても、言い返しもせずにその場に蹲り、耐え忍ぶ。

 

 

「……まあ、そういうこともあるか」

 

「…………」

 

 

 大抵の人間であれば響に励ましの言葉か、怒りの言葉を送っただろう。

 励ましならば、君は何も悪くない。生き残ったことが罪であるはずがない、と。

 怒りならば、命を軽く扱うな。君の命は君だけのものじゃない、と。 

 一也にはどちらの言葉もなく、ただ一人得心したような呟きを漏らすだけ。

 

 それは響の言葉が嘘偽りのない本心だったからだ。

 “生き残った故の罪悪感(サバイバーズ・ギルド)”。甚大な被害をもたらした災害、凄惨な戦争によって周囲の人間を失ったにも拘わらず、生き残った者は生き残ったこと自体に罪悪感を抱く場合がある。

 きっかけが“自分だけが生き残った”ではなく、“自分が生き残ったことで更なる不幸を生んでしまった”であるものの、響も十二分に該当するだろう。

 抱える必要のない罪悪感を抱えた彼女を支えているのは残った家族と友人、何よりも瀕死の中で確かに聞いた『生きるのを諦めるな』と言う言葉。

 

 ならば、その点に関して、口を出す必要はないと一也は考える。無意識であれ意識的であれ、間違いなく響の選択だからだ。

 もし、口を出すとするならば嘘をついた時。もし、手を出すとするならば気にいらない時だけだ。

 

 

「だけどなぁ、最低限、嫌なことは嫌だと言え。言わないで気付いてくれるほど人間は賢くねぇぞ。そいつ等に輪をかけて馬鹿なオレが言うことでもねぇがな」

 

「…………」

 

「嫌だと言わねぇと、行きつくとこまで行きついちまう。そうなったら末路は悲惨でしかねーだろ」

 

 

 嫌だと言わなければ、迫害にブレーキがなくなる。

 いや、そもそも正義という言葉がついて回れば、人間は何処までも残酷になれる。ブレーキなど初めから存在しない。

 どんな形でも構わない。嫌なことは嫌だと伝えることも、もう耐えられないと泣き出すことも、誰かに縋り助けを求めることも、ある種のブレーキとなる。 

 行動こそが現状に変化を生む。良し悪しは結果を見なければ分からないが、ただ耐えているだけでは待っているのと同じこと。現状に変化は現れず、ブレーキがない以上、迫害は加速する。

 

 ――ならば、後に待つのは悲惨な最期だ。

 

 加害者達の頭は茹だっている。正常な判断など始めから期待できない。

 期待できないのなら、被害者は自らの身を護るために行動するしかない。例え、被害者に何の過失もないとしても。

 余りにも理不尽で、余りにも不条理だが、人の歴史の中で何万回と繰り返されてきた出来事だ。そも、悲劇など降って沸いたように襲ってくる。理不尽で不条理など当たり前だ。

 

 

「別にこのままでもいいとは思うけどな。お前なら耐えられる」

 

「なんで、そんなことが分かるんです……?」

 

 

 響は追い詰められている。今にも倒れそうな身体を、他人に支えて貰っている状態だ。にも拘らず、一也は確信めいた口調で語る。

 

 さしもの響も、疑問を口にせざるを得ない。

 こんなにも苦しいのに、こんなにも辛いのに、こんなにも泣き出したいのに、もう一秒だって耐えられそうにもない。

 

 

「いや、だってお前なぁ――――人類の99パーセント以上はお前と同じ境遇になったら、とっくの昔に逃げ出してるぞ」

 

「………………」

 

「人間ってお前が考えてるほど強くもねーし、賢くもねーし、上等でもねーぞ。かと言って、弱くもねーし、馬鹿でもねーし、下等でもねーけど。まあ、たまにオレみたいな振り切った馬鹿も生まれてくるがな、かはははっ」

 

 

 正に呵々大笑であった。

 

 この男は自分自身を疑っていない。行動や在り方の良し悪し、正否についてではない。

 正しかろうが間違っていようが、オレはオレで、これがオレだと胸を張っている。他人が何を言おうが、自分が生き方を曲げる理由にはならないと言わんばかりに。

 

 

「しかし、アレだな。こう思うと特に理由はねぇと言ったが、ありゃ間違いだ」

 

「じゃあ、どんな理由が……」

 

「いや、お前のこと気に入ってるから。言ったろ、根性がある奴は大好きだって。理由なんてそれだけだ。それで十分だろ」

 

 

 気に入っているから気になって見に来た。そしたら何だか困っているようなので手を貸した。ついでに気晴らしに遊びに誘った。

 気に入った相手だから助け、気に入った相手だから一緒に遊んだ。一也にとって、これはそれだけの話。

 深い理由などない。特に期待もしていない。ただ感情に基づいて、生まれ持った優しさに沿って行動しただけ。

 

 実に単純な、分かりやすい理屈だ。

 響を苛む者のように生き残ったからどうだとか、響自身のように生き残ったこと自体に疑問すら抱かない。

 

 

「……ふ、ふふ、何ですか、ソレ」

 

「そりゃ気に入った奴くらいは言われんでも助けるだろ。それ以外は最低限、助けを求めろって話だ。2秒だけ考えてやる」

 

「考えるだけで助けるって言ってないのが酷い……!」

 

「しょうがないね。オレは人間だからね。依怙贔屓くらいするからね。助けたい奴から助けるからね」

 

「もう本当、色々と酷いなぁ。あはははっ」

 

「…………ようやく笑ったな」

 

 

 屈託のない笑みを浮かべた響に、一也は満足したように表情筋を緩めた。

 そこでようやく彼女も自分が笑みを浮かべているのに気が付いたのか、驚いたように目を見開く。自身を責め苛む社会の檻、助けなど期待できない地獄のような環境下にあってすら、自分は笑うことが出来るのか、と。

 

 彼女が笑ったのは本当に久し振りだった。

 本心を隠すため取り繕った笑みでもなく、誰かの心配を掻き消すための笑みでもなく。

 目の前の男がムチャクチャすぎて、何だか一週周って面白くなってしまっただけだが、何の気負いもない自然な笑み。

 

 

「ああ、あたし、こんな風に笑えたんだ」

 

「そりゃそうだ。人間はな、地獄に落ちても笑えるぞ」

 

「まるで、地獄を見てきたみたいに言うんですね」

 

「まさか。だったらオレはここにいねぇさ。ただ、どんなに落ち込んでても自然に笑やぁ、すっと気分が良くなるだろ? なぁに、殆どの人間が能天気なもんさ、大丈夫大丈夫。実際、お前の環境だって何かが変わったわけじゃないだぜ?」

 

「そう、ですね……でも、気分は楽になった、かな?」

 

「生きていくには、そいつで充分だ。背負った重荷も嫌なもんも何もかんもブン投げて遊びに行くのも、たまには悪くねぇぞ」

 

「……何だか、逃げてるみたいで嫌だなぁ」

 

「だったらブン投げたもんを拾って帰りゃいいのさ。どうにもできねーもんをどうにかできねーかって何時までも悩んでたって、頭が可笑しくなるだけだ。気持ちだけでも入れ替えりゃ、違ったもんが見えてきたり、やる気も出るだろ」

 

 

 響の現実は何も変わっていない。

 明日また学校に行けば、冷たい視線と無言の拒絶、悪意ある陰口と正義の名の下に行われる迫害が待っている。

 いや、明日にならずとも、家に帰れば今日にでも置かれた現実に打ちのめされるだろう。

 

 奏の時もそうだったが、一也は根本的に何かを解決した訳ではない。

 ただ思ったことを口にし、それでもいいんだと肯定し、ほんの少しだけ当人の気を軽くしているだけ。

 それでもなお奏や響に変化が見られるのは、他ならぬ一也本人の言葉だからに他ならない。

 何の同情もなく、何の憐憫もなく、ただ投げかける者のことだけを想った言葉が、孤独と懊悩に苦しむ者にはどれほど救いとなるのか、考えるまでもないだろう。

 

 

「そうだ。言い忘れてたことがあったわ」

 

「……? なんですか?」

 

「いや、お前が深刻そうな面ばっかしてっから。一番大事なことを言いそびれてた――――――お前が、生きててよかった」

 

「…………ッ」

 

「リハビリとか相当頑張ったんだろ? 流石だな、そこら辺の根性なしとは訳が違う。安心したともさ」

 

 

 ベンチから立ち上がり、ポンと響の頭に手を置いて、笑いながらそう言った。

 

 

「……ず、ずるいなぁ。何も、考えてないんですよね?」

 

「なんでぇ? よかったことはよかったでいいじゃねぇか。余計なこと考える必要なんてあるかぁ?」

 

 

 あっけらかんとした態度が、彼の言葉が偽りのない本心であると物語っている。

 自分の言葉が他者に対して、どんな影響を与えるのか、全く考えていない。ただ、思ったままを、感じたままを口にしただけ。

 

 家族の言葉ですら、大きな喜びの中に責任感と憐憫があった。

 親友の言葉ですら、大きな喜びの中に罪悪感と悲哀があった。

 近しい者だからこそ響に向けられる感情は複雑化し、純度は低くなっていく。

 けれど一也の言葉には、ただ響が生き残った喜びしかない。深い付き合いのない、たまたま地獄の道行きを共にしただけの間柄だからこその、何の不純物もない生のままの感情。

 

 それは響が父親から貰いたかった言葉であり、級友(クラスメイト)から貰いたかった言葉であり、顔もない名前もない人々から貰いたかった言葉だった。

 

 ――堪えていた響の感情が、大波と化して溢れ出る。

 

 誰にも――家族にも、親友にも、決して見せなかった響の“弱さ(かなしみ)”と“強さ(よろこび)”。気丈な仮面の裏に隠れた、当然でありながら余りにも大きい感情は大粒の涙となって零れ落ちた。

 誰に憚ることもなく、誰に向けられたものでなく、ありとあらゆる感情が交錯し、混沌と化した心情で張り裂けんばかりの泣き声を上げる。

 

 一也は、そんな響を困ったように笑い、見定めている。

 恥じることはない。溜め込む必要もない。泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑い、怒りたい時に怒る事こそ、実に人間らしい、健全な在り方だと信じるように。

 





というわけで、ビッキー回でした。
言わば主人公は人の気を楽にさせる達人、普段が普段なのに友人が多いのはこの為。

自分は自分、他人は他人と考えている癖に、悩みや願いは同列のものと考えているので相手を批判はするけど否定しません。
辛い時、苦しい時に、そっと背中を押すタイプです。但し、現実が何も変わった訳ではない。
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