私が幻想郷に紛れ込んで、今日で十三日目。
梅雨時にしては珍しく快晴の朝を迎えている。
早朝、朝ごはんを食べているときに、ハクレイの神事が終わったことを告げられた。
予想外の言葉にトーストが喉に詰まり、慌ててコーヒーで飲み込もうとして思い切りむせる。
淹れたてなので更に口の中がひりひりしてきて、もう完全に涙目だ。
けほけほと喉を鳴らしていると、先生が背中をさすってくれた。
半月と聞いたから明日か明後日までかかるとばかり思っていた。不意討ちもいいところである。
ハクレイの巫女にもう話は通っているらしいものの、あちらにも準備があるというので帰れるのは今日の夕刻になるのだという。
それまでにお世話になった人たちへの挨拶も済ませておきなさいということだ。
先生は先生で用事があるようなので、ご飯を終えたら私一人で人里の中を歩いてゆく。
お世話になった人、と言うとそれほど多くはないように思えるけれど、単純に挨拶を交わしたことのある人と考えると先生の家から寺子屋までの通りに居るほぼ全ての人が該当する。
最初の数人に捕まって外界に帰るという話をしていると、あれよあれよとみんなが集まってきてお土産まで頂いてしまった。
私のように半端に滞在する人は珍しいようだけれど、すぐに外界に戻っていく外来人というのは年に数人程度は居るのだそうだ。
それ以外の外来人は、安全地帯である人里に辿り着く前に妖怪に襲われて力尽きるのだと、今更ながらに知る事になった。
神隠しにあった不運を嘆くべきか、その数人に入ることができた幸運を喜ぶべきか。
総じて悪運が強かったと思っておくのが精神安定上よろしいのかもしれない。
元々私が持っていたものといえば服と財布くらいなものだ。
カバンもないので野菜やお惣菜なんて持って帰れるわけもなく、お世話になったお礼ということで先生におすそ分けすることに。
ひとしきり回ってもお昼に届かないくらいだったので、折角だからお昼ご飯を作って待っていようと思い立つ。
そして竈の火加減なんて分からず右往左往している間に先生が帰宅、苦笑を頂くことになる。
何から何までダメダメである。ちょっとくらいは恩返しできると思ったのにあえなく轟沈だ。
若干しょんぼりしながら先生の作ってくれたお昼ご飯を頂いて、寺子屋で最後の授業を受けることになる。
もはやお手伝いという名目もどこへやらだ。
子供達に混じっていろは唄やソロバンを憶え、生徒達とのお別れの挨拶も終わらせる。
今日で最後になる日誌への記載も、締めの一言まで書き連ねた。
そして先生に連れられて、ハクレイの待つ神社へと向かう。
抱えられてとはいえ、空を飛ぶなんて初めての経験だ。
参道とも呼ぶべき長い階段を登りきり、朱色に染まった鳥居をくぐると、そこには閑散とした神の社が待っていた。
境内は広く見えるけれど、お社以外は何もない。本当に広いだけの物寂しい場所に見えてしまう。
そしてそんな場所で身の丈を越える箒にしがみつくようにして掃除をしている女の子が一人。
真新しい巫女服を着ているせいで、どこか仮装のような雰囲気が見え隠れしている。
私の知る限り、腋を出すように袖が途中で切れている巫女服というのは普通ではないと思う。
先生が声をかけると、女の子はこちらに気だるげな視線を向けてきた。
どうにもこの子がハクレイの巫女らしいのだけど、こんなやる気がなさそうな子で大丈夫なのだろうか。不安でたまらない。
少女は箒を片付け、お社の中から大麻を持ってくる。
そして、しゃらんとひとつ音を鳴らし、祝詞を上げ始めた。
さっきまでのだらけたような空気はもう、一片たりとも残ってはいない。
素人の私が見ても特別なことをしていると分かるほどに、女の子の雰囲気は変化していた。
しゃらんしゃらんと大麻を振るい、それは最後にぽこんと私の頭にぶつかった。
終わりよ。鳥居をくぐって外界に降りなさい。
それだけ言うと、さっきまでの厳かな空気は嘘だったかのように霧散して、彼女は気力のかけらも見られない状態に戻ってしまった。
これって、もう帰れるということで間違いないのだろうか。
先生に確認を取ってみると、大丈夫らしい。拍子抜けといえばそうなのだろう。
もっとこう、目をつぶってる間に景色が変わってしまうだとか、そういうのを想像していた。
改めて先生と、縁側でお茶を飲み始めていたハクレイの巫女にお礼を言って歩き始める。
夕暮れに染まり始めた境内を通って、朱色を増した鳥居を通り抜け、ぼろぼろになった石積みの階段を降りて行く。
階段の終わりに、今にも崩れ落ちそうな石造りの鳥居をおそるおそるくぐると、どことも知れないアスファルトの道路に到着した。
えっ? と思って振り返っても、通ってきたはずの参道はどこにもなく、そこには薄暗い路地が続いているのが見えるだけ。
ああ、戻ってきたのかと、漠然とした確信というなんともいえない感覚に包まれる。
既に太陽は姿を隠していて、視線を正面に戻せば片側一車線の道路が街灯に照らされている。
家に帰ろう。
そう思って歩き出し、最初の一歩で足が止まる。
素朴な疑問が頭に浮かび、そのせいで嫌な汗が額を流れる。
ここ、どこだろう。
幻想とは遠く離れた、ひどく現実的な問題が浮上した。
私、無事に家まで帰れるんだろうか。