関東圏の外れにある、ある小さな港。
特徴的な三角屋根の灯台が建つ小さな湾内には、無数の黒煙が立ち上っていた。
漁船、クルーザー、タグボートや艀など海に浮かぶものは勿論、ドックや倉庫など港湾施設は原形を留めぬ程に破壊され、燃え上がっている。
不運にも居合わせてしまった人間達も、人間であったものたちも散乱し、辺りは地獄の様相を呈していた。
湾内の海上には、それを為した異形が浮かぶ船の残骸を掻き分け、ゆっくりと周回していた。
――深海棲艦
二ヶ月前に出現した海の異形達は、瞬く間に人類の水域を脅かし、海上から叩き出した。
人類も反撃はしたが、彼らには通常攻撃は効かず、また最終手段として取られた戦略核による攻撃すら無効化された。
一説には「怨念」「亡霊」であると考えられ、終いには神主や坊主による加持祈祷まで試みられたが、効果のほどは上がっていない。
海運に依存している日本の経済は危機的な状況を迎えていた。
食料、医療品は元より燃料不足によるエネルギー危機、国外への輸出入停止による経済への打撃により、ゆっくりと日本は滅亡へと向かっていた。
基本的に陸上へは進出しない深海棲艦だが、人が造った港湾施設は例外である。
今日も不幸な港が一つ、深海棲艦の手によって終わりを迎えようとしていた。
* * *
彼女――工藤風吹は、不運にも深海棲艦の襲撃の際に居合わせた人間の一人だった。
家族ぐるみで付き合いのあった友達の引っ越しを見送りに、母親と見送りに来ていたところに……深海棲艦に襲われたのだった。
「あ……」
友達の乗り込んだフェリーが大爆発と共に消え、混乱する人々に揉まれて母親と共に逃げ込んだ生垣で、彼女はまだ現実を認識できないでいた。
混乱、悲鳴、狂騒、そういったあれこれがテレビのは中の出来事であるかのように現実感がなかった。
繋いだ母親の手の力だけが、辛うじてこれが現実であると教えてくれているようで、思わず力が入る。
しかし、母親はここに隠れていなさいと言い含め、生垣を飛び出していった。
暫くそこで蹲っていた彼女は、そのままの姿勢で動かずじっとしていた。
散発的に聞こえる爆音やなにかがひしゃげるような金属の悲鳴を聞きながら。
しかし何も握ることのない手はやがて震え始め、身体が震えていることを認識した彼女は、ようやく恐怖や心細さといった感情を実感した。
堪えきれず、生け垣から立ち上がった風吹は、直後に頭上から落ちてきたひゅるひゅると音の鳴る5inchりゅう弾の炸裂により、木の葉のように吹き飛ばされた。
彼女は悲鳴をあげたが、既に両耳の鼓膜は破れ、肋骨が折れて肺に突き刺さったため、血液が肺に侵入しごぼりと口から溢れ出た。
朦朧とする意識の中で、風吹は何か暖かいものが自分を包み込んだ事だけを感じていた。
そして、二回目の衝撃を感じた瞬間、風吹は暖かいものにしがみついて意識を手放した。
数時間後、彼女は緊急搬送された病院でなんとか一命をとりとめていた。
大小含めて30以上の傷を負い、無数の破片が突き刺さり手術は難航したが、それでも彼女は生き残った。
それは一重に、彼女に襲い掛かる致命的な衝撃と破片を、身体を張って受け止めた暖かいもの――母親の尽力に依るものだった。
至近で炸裂した砲弾の破片は、人間の身体など軽く貫通する威力があるが、それでも母親の身体で方向を逸らすことにはできていた。
風吹の心臓付近には無数の破片が埋まっていたが、そのどれもが致命的な血管を傷付けることなく止まっていた。
複雑に食い込んだために摘出はできないが、もし後1mmでも横にずれていたら、搬送中に出血多量で死んでいたであろう箇所だ。
風吹は、母親に助けられた。
死を徒して守った母親は、音なき世界で生きろと言っていたように感じた。
しかし、風吹はただぼんやりとした瞳を天井に向けながら、ただ困惑だけを抱えていた。
――生きろとは、何をすればいいのだろう。
多くの人たちが、生きろという。
生き残った人間はどうすればいい。
贖罪か復讐か感謝か、はたまた子を生んで育てることか。
風吹はぼんやりと手を伸ばしながら、まだなにも決められないでいた。
涙は、一度も流れなかった。
* * *
「ほら風吹起きて、早く着替えないと遅刻しちゃうよ?」
「あと1万5000年だけ寝かせて……」
「化石になって発掘されちゃうよ。『寝坊した人』なんて題名で飾られる前に起きて」
親友のどこか惚けた返答を聞きながら、風吹はベッドからずるずると這い出した。
肩頃まで届く髪は寝相の影響か縦横無尽に跳ね回り、生来の癖っ毛かくるりと内側にカーブしていた。
「もー、はい万歳して。……はいこれ着て。手通して」
「ふぁーい……」
寝惚け眼のまま動こうとしない風吹を、親友はてきぱきと着替えさせ、歯磨きをさせた。
鞄を持たせ、口に買い置きの菓子パンを突っ込むと、どんどんと背中を押して玄関を出た。
「あー……空はあんなに黒いのに」
「私たちが遅刻したときみたいなすごい曇りようだね。だから急ごうよ」
「私なんかに構わないで先に行ってよ」
「私は好きでついてるから、気にしないで?」
「……」
風吹は親友――静森舞を常となったぼんやりとした目で見やった。
舞は、風吹が物心つく前から家族ぐるみでの友人だ。
一緒の小学校に通い、一緒の中学校に通い、そして一緒の高校の、一緒のクラスにいる。
そして一緒の部屋で寝起きする仲でもある。
朝から晩まで1日中彼女と一緒にいて、そして風吹の世話を焼いてくれる。
それはとても嬉しいし、感謝もしている。
でも、彼女は昔はここまでべったり張り付く事はなかった。
舞がこうなったのは三年前――あの、港の襲撃事件があってからだった。
「舞も物好きだよね」
「物をくれる風吹は大好きだよ?」
「はい物」
「物~♪」
風吹が適当にポケットの中に突っ込んであった物を舞に渡すと、舞は過剰に喜んでジャンプした。
* * *
ガラリと開けた引き戸の先に、風吹の教室があった。
1クラス30人。青春を謳歌すべしと騒がしいクラスの中で、風吹は脇目も振らずにつかつかと自分の席へ向かうと、どかりと腰を下ろして周囲を見渡した。
「……」
思うところは、特にない。
教室に入ってから席につくまで、誰も話しかけず、誰も視線すら向けなかった。
誤って目をあわせた女子生徒は、慌ててそっぽを向く始末。
「……」
風吹は、別に虐められているわけではない。
ただ、恐れられていることは確かだった。
三年前の事件で、数少ない生存者である風吹は、疫病神のような扱いであった。
「ねぇ、風吹。今日、海いこっか」
雰囲気を察したのか、殊更大きな声で隣に座る舞が言った。
「海なんてつまんないよ?」
「それでも、ね?」
以外に頑固なところがある舞は、なかなか言い出した事を曲げない。
風吹は「だるい」「面白くない」と渋ったが、最終的に晩御飯のリクエストを聞いてもらうことで承諾した。
ちなみに、風吹の食事はすべて舞が用意している。
彼女に臍を曲げられると食事にありつけない風吹に、始めから断るという選択肢は無かったのだ。
いつしかクラスの喧騒も居心地の悪さも気にならなくなった風吹は、足りない睡眠時間を補うべく机に突っ伏したのだった。
* * *
「ここも……変わったよね」
「変わらないものなんてないよ」
再建された港、その中で、唯一三年前と同じ三角屋根の灯台へ来ていた風吹は、そう言った。
実際、再建された港はかつて観光目的に訪れる者も多かったとは全く及びもつかない無骨な作りになっていた。
かつて市場があった場所は乾ドックになり、湾の外側には防潜網がぎっしり。
振り向けば丘の上には対空レーダー施設、飛行場も建設予定地の立ち退きが為され、昔ながらの町並みは赤茶けた大地に代わっていた。
「こんなのが役に立つのかな?」
「早く見つければ、少なくとも、逃げる時間ぐらいは稼げるんじゃない?」
「でも、軍人さんだって一杯死んじゃうよ……」
「風吹が考えることじゃないよ、それ」
呆れたように頭を振る舞に構わず、風吹は「そこ」にたどり着いた。
特に何も特別な事はない、小さな生け垣。
随分手入れしていないのか、そこは雑草と見分けが付かない程に伸び放題の林となっていた。
「お母さん、ただいま」
風吹そう言って持ってきたカーネーションを生け垣の中に隠れるように置いた。
今日は母の日である。
手を合わせようとして、ふと空しくなって止めた。
ここには遺骨も無ければ墓標もない。
ただ重苦しい思い出しかない場所だった。
「ここに来るのは嫌?」
「いや」
「だよね。私も嫌だ」
舞は持っていたカーネーションを海へ投げると、風吹に背を向けて言った。
「風吹、あのとき、もし私が見送りに来てなんて――」
「まだ言うの?舞」
「……」
怒ったように遮る風吹に、舞は二の句を継げられなかった。
舞のこれは、既に三年前から耳にタコができるほど聞いてきた問答だった。
一見明るく気丈な舞だが、ことある毎に『もし』の話を持ち出す。
彼女の根底には、『風吹のお母さんを殺してしまった』という罪悪感が消えずに残っている。
何度、風吹が『許す』といったところで、それは消えることはなかった。
「舞はさ、強いよね」
風吹はぼそりと呟くように言った。
「私一人だったら、ここに来ようとは絶対思わない。むしろ、早く忘れたいって思うもん」
「風吹、私は――」
「私は冷たい人間なんだよ。親友も、その家族も、お母さんでさえも。楽しい思い出もみんなみーんな無かったことにして、忘れたいって思ってるんだよ?」
「……」
突き放すような風吹の言い方に、舞は押し黙るしかなかった。
『――では、なくせばいい』
俯く風吹の心に、何処からか声が聞こえた。
それは近くからとも遠くからとも分からず、しかしどこか優しげな声音だった。
『なくしてしまえばいい。つらいもの、すべて』
暖かい気持ちが溢れて来るようで、風吹は胸を押さえた。
「……風吹、どうしたの?」
風吹の様子がおかしいことに気付いた舞は、風吹に振り返り瞠目した。
風吹の胸元から白い光が立ち上っており、徐々に光量を増しているようだった。
「す、風吹、どうしたのっ、それ」
「まいぃ――」
多幸感に包まれたような蕩けた顔の風吹は、焦点の合わない瞳で譫言のように言った。
「なくしちぁえばいいんだよ……辛いこと……ぜんぶ……」
「風吹、これ……手が」
舞と繋いだ手から温度が逃げて行くように、白く変わってゆく。
舞は驚きながらも、しっかりと風吹を抱きしめた。
「だめ……だめだよ風吹。そっちに行っちゃだめ」
「でも辛いこともぅ嫌だよ……忘れたいよ…忘れたいよ……」
光が溢れる風吹の胸元から、徐々に身体が作り替えられていくように白く変わってゆく。
舞と繋いだ手の甲は黒く硬い角質に変化し、鱗のように腕を覆ってゆく。
その異形の姿は、かつてここで相対した深海棲艦と似ていた。
直感的に風吹が居なくなってしまうと気付いた舞は、その異質に触れる嫌悪感を押し殺して力強く抱きしめ続けた。
ひゅるひゅると、忘れもしない忌まわしき音が聞こえたのはその時だった。
瞬間、衝撃が二人を包み込み、舞は呆気なく意識を失った。
――異音、爆音、爆発音。
立て続けに起きた衝撃は、まるで3年前の焼き直しのようだった。
乾ドック、倉庫、レーダー施設、無数の砲弾が目につくもの手当たり次第といった具合に炸裂し、炎上させた。
ざばりざばり、と。沖から起き上がる影があった。
黒き怨念のような異形、深海棲艦である。
殆どが駆逐級――口内に砲を内蔵した巨大な魚類を模した姿をしているが、最後に現れたのは人型の深海棲艦だった。
手には巨大な砲、黒いコートを着て燃える瞳をした深海棲艦――重巡洋艦リ級と呼ばれる異形がそこにいた。
「燃えル……辛イコと……ゼんぶ」
身体のほとんどが白く、また黒い鱗状の装甲に覆われた風吹は、『消し去りたい』と言う心からの声に従い、ふらふらと海へ向けて歩き始めようとして、右腕にしがみつく人間に気が付いた。
ゆらり、と。緩慢ながらどこか恐ろしげな眼が繋いだ手の先にいる舞を見る。舞は既に意識を持ち直していた。
一瞬怯んだ舞は、気を失いながらも放さなかった手を強く握り、風吹に言った。
「風吹、聞いてっ!私が風吹と一緒に居るのは」
続けようとして、風吹――だった深海棲艦は大きく右腕を降った。
人を遥かに超える腕力で振り払われそうになったは、慌てて身体ごと抱き付くようにしがみつくが、その遠心力でぐきりと肩を脱臼した。
「痛いっ!でもいたくないっ!」
目尻に涙を溜め、舞は叫ぶように言った。
「ごめん、ごめんなさい風吹。どんなに許して貰っても、やっぱり私が許せない!あんなに暖かかった家族を……あんなに明るかった風吹を……ぜんぶ、ぜんぶ壊した私が許せないっ!」
脱臼した肩が痛んでも、掴んだ掌が硬い角質で傷付いて血が滲んでも。
舞は決して掴んだ手を放さなかった。
「だから風吹は私が守るっ!風吹が風吹じゃなくても構わない!覚悟してよ、私は絶対、絶対に風吹を放さないから――っ!」
「……」
深海棲艦――風吹はゆっくりと動きを止め、いまだにしがみつく舞を振り払おうとした。
しかし、その手を離すことが出来なかった。
手を離してしまえば、死んでしまう。失ってしまう。母親のように。
――ふと、風吹は思い出した。いや、やっと気付いた。
何のために生きるのか。何のために生き残ったのかと言う疑問――その答えを。
「その手を」
難しいことじゃなかった。ただ、震えるその手を――
「握っていたいんだ――!」
瞬間、風吹を包んでいた装甲は吹き飛んだ。
胸奥から飛び出したもの――『艦のカケラ』が形を変え、吹き荒れる。
風吹は我知らず、流れ込んでくるその記憶を呼んだ。
「フ…ブ…キ」
カケラは大きく引き伸ばされ、形を変ると風吹の制服の上に『艤装』を展開した。
背には煙突を模した排煙装置、そしてタービン機関。
両足には可動式の魚雷発射菅が取り付き、両手には砲身のない小型の砲塔が籠手のように装着された。
手は誰かと『握る』ことが出来るように、空いている。
『艦娘』、"吹雪"の誕生だった。
『ドウシタ……ナゼ我ラノ下ニ来ナイ』
異変を察知した深海棲艦達は、己と似ているが違うものとなった『吹雪』を取り囲むように展開した。
しかし、吹雪となった今は恐れる事はない。
背負った機関から流れ出る力は全身を駆け巡り、舞と繋いだ手は暖かさは勇気を与えてくれていた。
「私は大日本帝国海軍、第一一駆逐隊所属。特型駆逐艦一番艦、吹雪!」
記憶の赴くまま、吹雪は深海棲艦の誰何に名乗りをあげた。
「この港を――友達を、この手で握る誰かを!あなたたちの手にかけさせはしないっ!」
『……撃テ』
リ級の号令一斉、取り囲む艦隊から集中砲火が吹雪を襲う。
「武器は……魚雷、発射っ!」
しかし吹雪は直前、舞を抱えて飛び上がると両足に装着された魚雷発射菅を上方に向けたまま、魚雷を点火した。
「ロックしたままだったっーーっっ!」
発射菅にロックされたままの魚雷――最新の液体燃料噴射推進式短魚雷、終末速度200kt以上を叩き出す水中ミサイルの推進力により、恐るべきジャンプ力で集中砲火を回避に成功した。怪我の功名である。
「し、しょうがない、舞ごめんっ!」
吹雪は抱えている舞をぐわっと投げ上げた。
そして発射菅を180度逆転させ、右足を突き出し、点火中の魚雷推力をもって急降下。
その運動エネルギーと位置エネルギーを加えたキックを駆逐イ級が集中する場所へ放った。
単縦陣で航行していたイ級の3番艦に直撃したキックは一撃でキールをへし折り、真っ二つに引き裂いて轟沈させた。
また、巨大なエネルギーが海面を叩いた余波で、2番艦と4番艦が波に煽られて転覆した。
直後に機関に浸水したのか、水蒸気爆発を起こし盛大な水柱を上げ、船尾から沈んでいった。
「ぷはっ!ゴホ、ゴホ」
巻き上げられた水飛沫を引き裂いて、吹雪がまろび出る。
至近距離での爆発だったが、一時的に水に潜る事で危うく回避していた。
残る深海棲艦は重巡洋艦リ級と駆逐イ級2隻。
非常識な機動を見せた吹雪を警戒するように煙幕を展開し、沖へと後退していく。
「待てこの……って!舞っ!」
思わず追撃しようとした吹雪は放り投げた親友を思い出し、慌てて落下地点へと向かう。
艦娘としてのパワー、身体に巡る50,000馬力の力で急行し、優しく受け止め――ようとして足を滑らせた。
「うわわっ!?」
慣れない海上につるりと足を取られた吹雪は、仰向けに倒れ込むと、上空から落ちてきた舞をお腹で受け止めた。
カエルの潰されるような悲鳴を上げ、衝撃で艤装も解けた吹雪は、気を失った舞と共に引き揚げられるまで、湾内をぷかぷかと浮かび続けるのであった。
* * *
「聞いたか?昨日、深海棲艦の攻撃があったんだってよ」
「聞いた聞いた。……しかも、居たんでしょ?あの娘」
「やっぱ、あの娘ヤバいよ……」
「だよなぁ……」
翌日、深海棲艦の襲撃など無かったかのような快晴の下、風吹と舞は一緒に登校していた。
ひそひそと、あることないことを噂するクラスメート達に気を揉む舞は、朝から困惑顔だった。
最も戸惑っていたのは親友――風吹が力強く舞の手を引き、微笑すら浮かべながら気にした素振りもない事だった。
風吹の親友を自覚する舞は、風吹が非常に繊細な心を持つ女の子であることを知っている。
毎日遠ざけられる視線に、恐れられる態度に心で泣いていた――昨日までは。
「ねぇ、風吹。やっぱり昨日何かあったんでしょ?」
「んー?何でもないよ?」
「だって風吹が、あの、あれ、に――」
そこから言葉を続ける前に、風吹は舞と繋いだ手を自分の胸元に当てた。
「だーいじょうぶ。わたしはもう放さないから」
「……風吹」
舞の記憶は、おぞましく変化した風吹の手を必死で掴んでいた所までしかない。
彼女が「掴んだ」ものが何かを知らない舞は、拭えない不安感に眉を寄せる。
しかし、異常なまでに自然な笑顔を浮かべる風吹に、何も言えなくなった。
それは、三年前に無くしてしまった明るい風吹の顔に、非常に近かったからだ。
だから風吹と繋いだ手をぎゅっと握って、沸き上がる不安を押し潰す。
「風吹、今日、海いこうか?」
そして、舞は風吹に何でもないように問いかけた。
「うん。行こうか」
何の気負いも無く、風吹は答えた。
昨日の今日では、港はまだ厳戒体制が敷かれ、一介の学生では近づくことすら難しいだろう。
しかし、風吹はもう決めていた。
「舞、私さ。やっぱり恐くてたまらない。
でも舞が手を握ってくれたから、私はわたしでいられたんだと思う」
舞はじっと風吹の瞳を見詰めた。
風吹は、その視線に真っ直ぐに応えて言った。
「だから今度は、わたしの番かなって。
お母さんも、舞も、わたしを救ってくれた人たちも。これから手を握る誰かを助けたいって、思うんだ」
風吹の顔は、笑顔では無かった。
しかし、決意と自信がその瞳に浮かんでいた。
「……そっか」
それで、舞には分かった。分かってしまった。
風吹はようやく乗り越えつつあるのだ。
三年越しの悲しみを。自分とは違って。
「やっと、昔の風吹が戻ってきたんだね」
「そうそう。"吹雪"は帰って来ましたよっと」
鞄を後ろ手に回し、風吹が空を見上げると、大きな入道雲が立ち上ぼっていた。
僅かに汗ばむ陽気が、初夏の訪れを告げるように揺らめいていた。
* * *
がらり、と。
瓦礫の山から飛び出す小さな影があった。
ひとつ、ふたつ、みっつと方々から現れる影は皆一様に一人の人間を追っていた。
人通りの多い通学路を通る影達は、しかし誰にも見咎められることもない。
まるでそこにはなにも存在しないかのように、影達はいた。
影達の視線は、手を繋いで歩く少女達に。
心配そうに相手の横顔を見やる、少女へじっと、ずっと向かっているのだった。