轟然たる龍の咆哮は、大地を震わすほどに響いた。
木々は葉を幾枚も撒き散らしながら大きく揺れ、烈風は大波のように吹き荒れ、雲でさえも龍を中心に渦巻くように動いた。
染まりつつある夕暮れの下、溢れる奔流の中で身体を上げている龍は荒々しく、美しさを感じさせた今までとはまるで違う姿であった。
ティオは思わず耳を両手で塞ぎ、恐る恐るといった様子で龍を見る。ずっと閉じていた龍の口から覗く歯は全てが鋭く、眉間には力強い皺が寄っていた。
龍は怒っているのだ。
それは誰の目からみても明らかで、その怒りの矛先が自分に向いていないと分かっていても、身体に走る震えは止まらなかった。
怒りという感情は、恐ろしい。本能のまま何の手加減もなく人に向けられた攻撃的な感情はとんでもない凶器と成り得ることをティオは分かっていたのだ。
「ふ、ふふふ。この圧力。流石、前戦いの王候補と呼ばれただけありますね」
ゾフィスは龍の膨大な圧力を受けながらも、それでも強がってそう言った。
いくらこの龍が強かろうと、呪文は使えないのだ。
そう知っているからこそゾフィスには余裕があった。呪文も使えない魔物に負けることはないという自信があったのだ。
この時はまだ、この龍を飼い慣らしたら自分の王への道が一気に開けるという期待の方が上回っていた。
「ふむ。躾のなっていない獣には、とりあえず痛みで分からせるしかないみたいだね。ココ、さっきより大きくだ」
「ギガノラドム」
淡々と掌から飛び出した呪文は、更に大きく禍々しい。
ギガノ級の呪文が、生身で簡単に受け止めれれる筈がない。さっき龍がギガノラドムを防げたのは、技に心の力が籠っていなかったからだろう。
そう信じたゾフィスは、再び同じ呪文を唱えるようにココに指示をする。
しかも、もし龍が避ければ葵に当たるという位置にゾフィスは術を打ち込んでいた。龍は術を受けざるを得ない状況だった。
だがゾフィスはまだ知らなかった。
龍族と呼ばれるものたちの鱗が。彼等を覆う銀色の鱗が、どれほどの硬さを持っているのかを。
術が龍に近付くのを見て、ティオは思わず眼を逸らす。
その瞬間に、ひゅん、と風が切り裂かれたような音が鳴った。同時に、ギガノラドムは龍に当たる直前で大きな爆音を起こして消えていった。
「なに……?」
爆音と共に煙が漂う中で、龍は自らの尾を立ててゆらゆらと揺らしていた。尾の先からも黒煙が上がっているがそこには傷の一つもない。
「……い、いま何したの? ゾフィスの術が急に爆発してなくなっちゃった……」
「……多分、龍太郎が尻尾ではじいたのだ」
「ああ……。まったく目では見えなかったが……」
ティオ達がそう話す中で、ゾフィスは唖然とした後、
馬鹿な、と力強く自分の歯を食い縛らせた。
ギガノ級の呪文は決して弱いレベルの呪文ではない。それを無傷で防ぐということは……。
その思考の先にある答えを出す前に、龍の瞳が自分に向いていることにゾフィスは気付く。
「……っ!! 」
思わず、ゾフィスは大きく後退りをした。
それは威嚇というレベルの睨みではない。
龍の胸に宿っている膨大な量の怒り全てがその瞳に内包されているようであった。澄みきった宝石の如く輝いていた瞳は、今や燃え盛る火炎のような凶暴さを持っていた。
反抗的な眼を向けられるのは、ゾフィスにとって屈辱的だった。
全てを支配し操ろうとしていた彼にとって、自分が従える筈のものに逆らわれるのは胸糞悪くて仕方がなかった。
何より、そんな相手に身を引いてしまった自分にも苛つきが溜まる。
ゾフィスは一先ず距離をとろうとした。冷静になって対処すれば勝てない相手ではない。此方の攻撃のダメージが薄かろうと、龍には攻撃手段がないのだ。
ココを更に後ろに下げ、自分は宙に浮いた。
相手の間合いから離れた所からダメージを蓄積させる戦法は、呪文を使わずとも宙を自由に動けるゾフィスの得意とする戦法であった。じわじわといたぶるように遠距離から攻撃するのも、自分の性にあっていた。
「ココ!」
「ロンドラドム!」
鱗が硬いのは分かった。
なら、鱗のない所に呪文をぶつければいいだけだ。
ロンドラドムは自分の意思で動かすことのできる爆発の鞭である。鞭に触れればたちまちその部位は爆発を起こす。操作性と速度に優れるこの呪文は利便性が高い。
ゾフィスは器用に鞭を動かし、龍目掛けて振るった。
狙いは龍の眼だ。
あの憎らしい瞳を潰してやろうと、ゾフィスは思い切り鞭を振るった。
だが、鞭が当たる直前に龍の姿は消える。
そして瞬く間に身体に激しい衝撃が走った。
「ぐああっ!」
そして気付けば、凄まじい勢いで宙を舞っていた。
腹部に強烈な痛みを感じる。息遣いは信じられないほど荒くなっていて、口の中からは血の味がする。
空高くまで吹き飛ばされるのを、なんとかブレーキをかけて止まった。
「い、いまのは術? 」
「……いや、多分衝撃波だ。尻尾で風と衝撃を作り出して、ぶつけたんだ」
龍がしたことは単純であった。
ただ、尾を思い切りゾフィスに向けて振り抜いただけ。
だが、眼に見えぬほどの速さでそれを行えば、圧倒的な破壊力を誇る攻撃となる。
冷静に解説したように見えた清麿だが、実際は額に汗が滲んでいた。簡単に言ったが、衝撃波を発生させるほどの動きなど通常はあり得ない。ソニックブームを出すためにはマッハを越える速度が必要であり、それに耐えうる身体も必要となる。そんな芸当を術すら使わず行使するこの龍は、いったいどれ程の実力者だったのだろうか。
千年前の闘いの王候補者。
そのなかでも、この龍は段違いの強さを誇っていただろう。トップレベルの闘いが目の前で見れるのは、貴重であり、恐ろしくあった。
いつか王になるために自分達はここまでの域に達する必要があると思うと、 その闘いから目が離せなかった。
ガッシュも清麿と同じように思ったのか、食い入るように龍のことを見つめている。
龍は再びゾフィスと対面し、強い睨みを利かせる。龍の瞳に込められた火炎は、未だ勢い衰えることなく燃え盛っている。落ちかけた夕陽と龍の瞳は同じ色をしていた。
「っ糞がぁ! たかだか爬虫類の分際で! 私を嘗めるなよ!」
「ラドム! 」
この距離では、まだ駄目だ。
そう感じたゾフィスは更に高く浮き上がり、呪文を龍に打ち付けるように放つ。
「ラドム! ギガノラドム! テオラドム! オルドラドム!!」
爆音が何重にも響き渡る。溢れたマグマは空気を加熱し、辺りの温度はどんどんと上昇していった。
ココの口からは止まることなく次々と呪文が唱えられていった。ゾフィスも忙しそうに両手を動かしつつも、一つ一つを丁寧に龍へと向けた。
まるで紛争地帯のように轟音が延々鳴り響く。屋敷も爆発に合わせて細かく揺れて、何枚かの窓ガラスが割れた。
全ての術は確かに龍に直撃している。
しかし、それでも。
「……ば、ばかな……全く効いてない……」
爆音から舞い上がる煙の間から見える龍の瞳は光り続けていた。その鱗にはやはり傷の一つもなく、相変わらず白銀の美しさを晒すばかりであった。
吉川は、二匹の闘いを茫然と見ていた。
どれだけ攻撃を受けても、龍はずっとその場から離れない。後ろに葵を置いたまま、龍はゾフィスを睨み続ける。
それは、どう見ても葵を守るためにしている行動であった。
葵に傷一つ付けまいと、龍は怒りに身を任せることなくその場に立ち尽くしている。
吉川は、自分が龍の魔本を捨てろと声を荒げたことを後悔はしていない。きっと何度あの場面をやり直すことになろうと、自分は葵のために本を捨てろと大声を上げただろう。それが葵にとって一番安全であると信じているからだ。
だが、龍の紳士的なその行動を見て心が動かされない訳もなかった。
魔物とパートナーという繋がりがどういうものかなんて、吉川にはまだ分からない。
しかし葵と龍は、少なくともゾフィスとココよりはずっと強い絆で結ばれているだろうと確信出来た。
葵も龍のことを信頼仕切っているのか、龍の背中から動こうとはしない。龍を心配そうに見つめながらも、信じているのだ。龍が自分を守ってくれると。
あの二人を見れば、魔物とパートナーというものが、どんな関係で結ばれればいいのかが分かるような気がした。
「ちくしょうがあ! ならばもう貴様なぞどうでもいい! 私の言うことを聞けないならここで消えろ!! 」
一分のダメージも通らないことに痺れを切らしたゾフィスが、右手を大きく振り上げる。同時に、ココの持つ魔本が放つ光もよりいっそう強くなった。
「っ! あれはやばい! 」
「清麿! 私達もバオウを! 」
多くの魔物との戦闘経験がある清麿とガッシュには、ゾフィスが今から何をしようとしているかが分かってしまった。
あの光の強さは今までの中で最も凄まじい。大気から伝わるヒリヒリとした緊張感は、ゾフィスが最大呪文を放とうとしていることを示していた。
いくら龍が硬いと言っても、ゾフィスほどの魔物の最大呪文を生身で受けれる筈がない。ならば、ここで応戦出来るのは自分達のバオウしかないのだ。
そう思った清麿は本のページを勢いよく捲り掌を添える。心の力を存分に込め、ゾフィスの攻撃を迎え撃つ準備をするのだが。
「待って」
葵はそんな二人を止めるように声を掛けた。
「…… 橘、どうして……」
「龍太郎に、任せて」
「だが……」
流石にあれは、と清麿が続けようとしても、葵は頑なに首を横に振った。
「龍太郎が、そう言ってる」
「ディオガテオラドム!!!」
ゾフィスの右手から発生したのは、内部にマグマが凝集された巨大な火球。それが大爆発を起こせばたちまちこの辺り一面を焼け野原にすることが可能なほどの力であった。禍々しい光を纏ったその火球は、背後にある夕陽と重なり自らを更に大きく魅せている。
ガッシュ達はその力の大きさに緊張を張り詰めたが、葵と龍はそうではなかった。
葵は、龍の背に手を優しく添える。
大きな背中だった。
鱗は相変わらず滑らかな肌触りで、綺麗だった。
ほんのりとした暖かさは安心感を伴っていて、葵はここにいれば何も恐れることはないという確信すら得ることが出来た。
火球が迫り来る直前に、キュウ、と龍太郎が鳴く声がした。葵が背中を撫でたのがくすぐったかったのだろう。
こんな場面で聞くその鳴き声がなんだか可笑しくて、葵は笑みが溢れた。
さっきまで、葵は怖くてどうしようもなかった筈なのに、龍の後ろに来てからはそんなことは一つも思わなくなった。
術をぶつけられる度に葵は龍のことを心配するが、龍もその度に葵に伝えてくるのだ。
大丈夫だ、と。
言葉にはしていない。
でも、分かるのだ。
龍は葵のために怒ってくれて、葵を必死に守ろうとしてくれている。
葵は、それが嬉しかった。
龍が自分のために行動してくれているということが嬉しくて仕方がなかった。
「龍太郎、頑張って」
ぽん、と背中を叩いて葵は龍にそう伝える。
龍は、キュウ、ともう一度鳴いてから、ゾフィスの術へと思い切り飛び込んでいった。
ゾフィスの術に突っ込んでいく龍は、まるで太陽に向かっていくようにも見えた。
龍がその火球と接触する。
その瞬間に大きな爆発を起こした。
熱風が吹き荒れ、一気に空気が乾燥していく。
焦げ臭さが周囲を漂い、術の破片がぽとぽとと地面に落ちていく。
全員の視線が、そこに集まった。
煙の中から現れる、龍。
ゾフィスが龍を見て恐怖と絶望を感じる中で、葵や吉川が抱いた感情はまるで違っていた。
無傷のまま堂々と宙に浮かぶ龍太郎は、まるで太陽の中から産まれたような神々しさを持ち合わせていて、格好良かった。