「葵や、知っておるかい」
そう語りかけてくれたのは、祖母である橘 美里であった。
ススキが揺れる縁側で、ささやくような虫の声と共に響くそのしゃがれた声に、葵はにんまりと寄り添う。
祖母の家は、都心からずっと離れた山奥にあった。現役時代は祖母も葵の両親と同じように仕事に明け暮れて過ごしてきたのだが、定年が過ぎ会社の後継ぎが息子にはっきりと決まった後はこうして里山の中でのんびりと暮らしていた。縁側には畑で収穫したジャガイモや夏野菜が竹のざるに集められていて、色とりどりのそれらは、子供らしく野菜が好きでなかった葵にもとても美しく思えていた。
「なぁに、ばぁや」
葵は祖母のことが好きだった。両親が家におらず、使用人の吉川も都合で側にいられないときは、こうして祖母の家に預けられていた。屋敷と違い古臭くてあちらこちらから軋むような音がする家であったが、木々の香りや体を癒すように通り過ぎていく秋風が、葵の寂しさを紛らわせてくれる。祖母はいつも漬物の少ししょっぱい匂いと土の匂いがしたが、それも豊かな自然の恵みと感じられて心地が良かった。
祖母は自分の膝上に座る葵を皺だらけの手で撫でながら、いつも穏やかに微笑む。葵はそんな祖母の顔を見るとどうしようもないくらい心が落ち着いた。
「我が一族にはね、守り神がついておるんじゃよ」
「まもり、がみ?」
「そうじゃよ」
葵が祖母の顔を見上げながら不思議そうな表情をすると、祖母はゆっくりと頷いた。
「神様が私たちをまもってくれてるの?」
「そういわれておるのぅ」
「へぇー」
葵は小さな頭でいっぱい想像した。けれども、神様がどういうものなのかよく分からなかった。
「神様ってつよいの」
「そうさ、神様だからねぇ」
「ライオンとかトラよりも?」
「もちろん。なんせ私らの守り神は」
祖母はわざと一拍置いて、葵の顔をじっと覗き込んだ。
「龍じゃからのう」
「龍!」
祖母の思惑通りに、葵は胸を大きく弾ませた。感情の熱が高まり、体がうずうずとする。昔から生き物が大好きで、本屋に連れて行ってもらう度に図鑑を買ってもらい、釘付けにされたかのように読み漁る葵であったけれど、龍をその目で見たことはまだなかった。
「ずっとずっと昔の話じゃ。ご先祖様は山奥で倒れた龍を見つけて、驚く暇もなく看病をしてあげた。薬草を傷に当てたり、水を口に運んだりと大変な作業じゃったようだが、それでも龍のために一心不乱に働いたらしい。初めは敵意を顕わにしていた龍であったが、ご先祖様の懸命さを見て心を許したようじゃ。それから二人は仲良くなり、龍はご先祖様のお仕事も手伝ってくれた。おかげで今の私らの繁栄があると言われておる」
「うわぁ……」
葵は瞳を大きく開き、きらきらと光が映るほど興奮した。どんなおとぎ話よりもずっとずっと素敵な話だと思った。
「じゃあさ!ご先祖様は龍の背中にも乗ったのかな!?」
「ああ、いろんな所を、一緒に飛び回ったじゃろうて」
「いいな、いいな」
小さな両手を握りしめて、葵は体を揺らす。そんな姿が愛おしかったのか、祖母の顔も綻んでいた。
「ねぇ、それからその龍はどこにいっちゃったの?」
「それがのぅ、ご先祖様を守るために身を挺して、どこかに消えてしまったといわれておる」
「ええ~……」
葵はやるせなさに大きく落胆した。楽しみにしていた夕食のハンバーグが無くなったときよりも、ずっとずっと悲しい気持ちになった。見ようと思っていた教育番組が見られなかった時よりも、もっともっと寂しくなった。
「……私もさ、いつか会えるかな」
「……葵は龍に会いたいのかの?」
「会いたい!」
ぴょん、と祖母の膝の上から飛び降りて、葵は体を大きく広げる。全身に夜の涼しい風を浴びながら、息を大きく吸い込んだ。
「それでね!龍と仲良くなって、背中に乗せてもらって、お空を飛びまわりたい!」
「それは、素敵じゃのう」
祖母は、優しく笑って、じっと葵とその後ろにある月を目に焼き付けた。
「葵は優しい子じゃから、きっと龍も乗せてくれるわい。きっと一緒に、空を舞える」
○
「……起きましたか」
葵が目を開き意識を取り戻すのと同時に、吉川さんの声が聞こえた。昔の夢を見ていたことは分かるが、内容までは思い出せない。いつも通りに目を擦りつつ部屋の時計を探そうとしたが、身体全身が軋むように痛んだ。
「まだ、無理に起きなくていいです」
毎朝うるさく葵を起こす吉川にしては珍しい言葉であった。いつもそう言ってくれたらいいのに、と冗談っぽく返そうとしたが、吉川の声音が本気で葵を心配してくれているものだったのでそれもできなかった。
瞳だけを動かして、部屋の状況を見る。自分の部屋ではあるけれども、机からは物が落ち、本棚が崩れて床に散らばっていて、大掃除前の状況みたいだった。
このまま放置をしているということは、吉川はきっとずっと自分を見てくれていたのだろう。
「……どうなったの」
葵は意識を失う前までのことを思い出した。
悪い魔物がやってきて、屋敷をめちゃくちゃにし、吉川やガッシュ達に怪我をさせた。それから龍太郎が私を守りながら闘ってくれて、大きな術を止めてくれたことまでは覚えている。
「……あの魔物は、あの技を撃ったあと逃げるように去っていきました。恐らく勝ち目がないと踏んだのでしょう。追いかけるにも、こちらにもそんな暇はなかった」
私が倒れたからだ、と葵は自分の唇を軽く噛む。
「無理をしましたからね。きっと疲れが一気に来たのでしょう」
吉川は葵を責める風ではなく、純粋に気を使ってるように言った。
「それから、高峰君と私でお嬢様を診ました。擦り傷はあれど体に異常はなく、きっと体が痛むのは筋肉痛からです」
クラスメイトの男子に診られる、というのはなんだか恥ずかしくて、葵は軽く赤面してしまう。あの子は非常に優れた方ですね、包帯は巻けませんが、などと感心しながら吉川は言うが、葵は恥ずかしさが増すばかりであった。
「……っ! ねぇ! 龍太郎は!? 本は!?」
無理やり体を起こし、葵は部屋を見回す。魔本は、と焦りで汗を流しながらも周囲を探した。
「落ち着いてください。そこですよ」
吉川は葵のベッドの上を指差した。どうやらずっと自分の真横に置いてあったようだ。飛びつくように本を持つと、葵は息を吐きながら両手で抱える。
「よかったぁ……」
本が無事だということは、龍太郎はまだここにいる。安堵感が全身を襲い、身体の力がゆっくりと消えていくようであった。
「……」
吉川からしたら、もうその本は二度と手にして欲しくないものである。それのためにこんな目にあって、こんなに被害を受けた。
それでも、龍のあの最後の姿を見てしまったから、吉川は本を処分しようと踏み切ることが出来なかった。
「それで龍太郎は!?」
「外を見てください」
本当は動いて欲しくないのだが、きっと彼女は自分の目で確認しないと気にして仕方がないだろう。そこまで分かっているから、吉川は葵の視線を窓へと促した。
葵が勢いよく窓を開き、身を乗り出す。2階だから気を付けてください、と言う吉川の注意は葵に届いていないようだった。
「龍太郎!」
外に向かって呼びかけると、葵の部屋のすぐ下にいた龍がこちらに頭を向けた。
怒りに満ちた時の表情とは打って変わって、なんとなく不安が残った顔をしているように葵には思えた。
「私、大丈夫だよ」
葵は龍に向かって、にっと笑いかける。龍を安心させるための一言であった。
龍はその笑顔を見てどう思ったのかは分からないが、そっと瞳を閉じた。
「あと、ガッシュ君達は……?」
「彼らはもうここにはいませんよ」
「ここには?」
「先ほどの魔物、ゾフィスを倒すために旅立ちました」
「旅立つってどこに」
「海外です。日本ではありません」
「……今更だけど、私どれだけ寝てたの」
「丸々二日ほどでしょうか」
思ったより状況が進んでいることに気が付いて、葵はやっと体のけだるさの理由が分かった。長く寝込めば、それだけ体はだるくなる。
「とりあえず、温かいスープでもお腹に入れてから、もう少し寝ててください」
「そう、だね」
葵はゆっくりと立ち上がり、腕を伸ばす。
「吉川さんもさ」
「はい?」
「ちょっと休んでよ。私自分で食べれるから」
「いえ、私は大丈夫です」
「目の隈、すごいよ」
きっと、吉川さんはずっと私の側にいてくれたのだろう。自分もあんなに傷ついて、苦しかっただろうに。
「……私は頑丈ですから、心配いりません。と言いたいのですが、すみません。任せてもよろしいですか?」
「もちろん」
葵は感謝の気持ちでいっぱいだった。吉川がこうして自分を見ててくれたことが、申し訳なく思いつつも、やはりどこか嬉しかった。
「あとさ」
「なんでしょうか」
葵は、もうひとつ自分の中で気になって仕方がなかったことを吉川に訊いた。
「吉川さん、忍者だったんだね」
くノ一だ、と笑って続けると、吉川はむっとしてから顔を緩めて、秘密ですよ、と唇にそっと指を当てた。
○
軽い食事をして、もう一眠りしたら、随分と体が楽になった。窓から外を見れば暗く、半端な時間に起きてしまったことが分かる。
葵は静かにベッドから降りて、本を持って家の外に出た。それからすぐに龍太郎の元へと足を進めて行く。
「龍太郎」
呼びかけると、龍はすぐ此方を向いた。
じろじろと葵を見て、未だに心配そうに眉を寄せているような表情であった。
「大丈夫だよ。それとさ」
葵は手を伸ばして、そっと龍の鼻に手を置く。
「ありがと。守ってくれて」
鼻を撫でるようにして触ると、龍はくすぐったそうに目を閉じてかるく髭を動かした。
「お嬢様、出来ればもう少し休んでいてほしいのですが」
振り返れば、吉川がいた。葵が家を出ようとしていたのは分かっていたようであった。
「龍太郎のこと、心当たる節があったので、調べてみました」
吉川もゆっくりと龍に近づいて、葵と同じように鼻先に手を置いた。龍は嫌がるそぶりも見せなかった。
「龍太郎は、千年前。橘家のご先祖様をパートナーとして、この世界にやってきたようです」
「……うん」
葵はなんとなく、そうだろうと思っていた。龍の気持ちすべてが分かるわけではないけれども、龍太郎の、会いたい、寂しい、という感情だけはひしひしと感じとっていたのだ。だからきっと、昔この場所に龍太郎の大切な人がいたんだろうと、思っていた。
「……そっか」
葵は、胸の底から悲しみが込み上げて自分を満たしていくように感じた。
千年間、龍はずっと、独りでいたんだ。動くこともできず、話すこともできず、ただ、寂しくこの世を彷徨っていた。それで、術が解けて、こうしてすぐこの場所に飛んできたのだろう。
だが、もうすでに龍の会いたい人はいない。葵の目には涙が溜まっていった。
「ごめん。ごめんね、龍太郎。もう、私のおばあちゃんは、ここにはいないんだよ」
溢れそうになる涙は、葵の言葉を詰まらせた。腕を目に当てて、葵は涙を拭いながらも、龍に、ごめん、と繰り返す。
龍は、そんな葵の頬に向かって自分の髭をそっと滑らせた。
慈愛に満ちたような表情で、龍は葵に視線を向けて、そっと頷く。
それから、龍は体を大きく起こして、空を見上げた。
「……行くの」
龍は、じっと空を眺めている。葵は龍を見て、もう一度涙をふき取ってから覚悟を決めた。
「私も行く」
「お嬢様」
吉川にも、今のやり取りの意味は分かったのであろう。葵と龍は、ガッシュ達が向かった先に一緒に行こうとしているのだ。
「吉川さん。本当にごめんなさい。心配かけるのは、分かってる。危険なことも、分かってる。でも、行かなきゃ」
葵の表情は、真剣だった。ひたむきな顔で、吉川としっかりと向き合っていた。
「決着を、つけないと。龍太郎の千年間に。だから、私……」
「―――わかってますよ」
吉川は、ふっと柔らかく笑った。
「こんなとき、お嬢様が私の言うことを訊いたことがありますか?」
優しい表情だった。きっと、吉川の中でも大きな葛藤があっただろう。でも、それを乗り越えたうえでその結論に至ったのだと、分かる表情であった。
「ただし、私も行きます。絶対に、一人ではいかせません」
「……ふふ。くノ一様がついてきてくれるなら、安心だ」
「ええ。百人力ですよ」
二人は、互いに笑い合う。和やかな雰囲気に吹く秋風は心地が良かった。
○
二人は一通り準備をした後、龍の背中に乗ろうとした。龍も彼女たちが乗ることを許していて、そっと背を低くした。
協力して龍に何とか乗ると、想像以上に乗りごごちがよく、暖かかった。背中に生える柔らかい毛のおかげでお尻に痛みもなく、脚は摩擦の強い鱗にぴったりとひっついて落ちる気もしない。何時間でも乗っていけると思った。
きっとこの龍はこうしてご先祖様を乗せていたんだろうな、と思うと、葵は千年の時を超えた気持ちになり、感慨深かった。
「場所は、分かるんですか」
吉川が訪ねると、龍はスンスンと鼻を鳴らした。どうやら匂いを覚えているらしい、と二人は思った。正確には魔力を辿っていこうとしているのだが、二人は知る由もない。
「じゃ、行こうか、龍太郎」
龍は頷くと、蛇のような体を大きくうねらせた後、だんだんと軌道をあげて、天へと近づいていく。
月光に映える闇夜の中で、少女は龍と空を舞った。
いつも感想評価ありがとうございます。
とてもうれしく思っています。
もう少しで終わると思います。