自分が生きてきたこの町がこんなにもちっぽけに見えるだなんて、想像もつかなかった。
葵は龍の背にしっかりと手を付きながら、広大な地面を見下ろしていた。
空へと飛び上がって行くほどに世界はみるみると縮小されていき、瞳に映る範囲は拡がっていく。普段見上げていたビルはあっという間に背を縮め、多くの動物を住まわしている山でさえ、ちっぽけなジオラマのように思えた。
上昇していく身体に風を感じることはあれど、手先が冷えていく様子はない。景色がジェットコースターのように移り変わって行くのに、自分の短い髪はそよ風に当てられるほどの動きしかしないのが不思議であった。
しかし、そんな細かい理由を考えるより、空を舞う快感がずっと勝っている。
龍が雲の中に身体を潜らせれば景色はまた一変し、真下には真っ白な雲の海が出来る。
いつもより近くで見る空はずっとずっと青く見え、手を伸ばしたらその青さは触れるようにも感じる。
見えるもの全てが新しく、葵の心を刺激する。真っ青な空の中、誰もいない半径うんキロメートル。何にも邪魔をされずに風を切る自分は、まるで自然の一部となったようにも思えた。
「すごい。本当にすごいよ! 龍太郎!」
「……ええ。これは……すごいです」
感極まった表情で目を輝かせる葵とは別に、吉川は自分の身に起きている現象に驚嘆の声を漏らしていた。
徐々に加速していった龍は今や信じられないほどの速度で飛行しているのに、身体には全く影響がない。気温、気流、圧力など様々な要因が襲いかかる可能性を危惧していた吉川だが、まさかここまで快適な旅になるとは思ってもいなかった。
大昔に先祖を乗せていたということから、この龍は人が乗っても大丈夫なように空を飛ぶのだろうとは思っていたが、まさかこれほど負担のないものだとは考えもしなかった。
これもまた、魔法なのだろうか、と背中から龍の角を見つめて思う。
大学時代は理工学を専門としていて(今の職業には全く役に立っていないが)、映画のフィクションで見かける有り得ない現象に友人と共に「こんなこと無理に決まってる」と愚痴を言って過ごしてきたのだが、今はもうそんなことは言えなそうだ。
実のところ、龍太郎は騎乗者に負担を掛けないように自身の身体から特殊な魔力を発している。騎乗出来る魔物の多くは同じような力を持つことがあるのだが、当然彼女達はそんなことを知る由もない。
二人共この空の旅により、ただ龍というものの偉大さを知るばかりであった。
ある程度の速さで速度を安定させた龍は、迷いもなく身体を進めて行く。
雲を抜け大海原が目下に現れると葵はまた声を上げ、吉川もその美しさに息を呑む。
視界に見える橋から端までが、真っ青に染まった。空も海も同じ色をしていて、波のさざめきと雲の白さでさえ同じように思えた。世の中にあるしがらみ全てを、忘れさせてくれるような景色だった。
今、龍は闘いの場に向かっている。この闘いが葵にとって危険で不安なことに間違いない。
それでもこの景色は葵の心を解放感で満たすには十分であった。行先は安全な場所ではないのかもしれないが、葵は今が愉しくて仕方がなかった。
(こんな、こんな素敵なことが世の中にあったんだ)
葵は瞳を綺羅綺羅と輝かせながら心の中で呟いて、弾む胸を落ち着かせる。
景色を見て、その大きさに触れ、ちっぽけなことがどうでも良くなる。ありきたりなパターンだが、実感すると確かにそうだと葵は思った。
両親とのしがらみはあれど、こんな広い世界に触れてしまえば、本当にどうでも良くなる。
世界は、自分の想像を何倍も超えて、凄いんだ。
そう気付けただけで、葵は微笑みが止まらなかった。
「龍太郎、ありがとう」
葵が龍の背中に軽く手を置いて言うと、龍はゆっくりと首を此方に向ける。
それから、何でもないような顔をして、ゔぉ、と小さく鳴いた。
◯
龍は葵達の体調を気にして道中二度ほど休息を入れた。どちらも人目につかないような自然豊かな無人島らしき場所で、ゆっくりと着地してくれた。それは丘の上であったり森の合間であったりして、周りの虫や獣に気を使わないと、と吉川は身構えたが、龍が自身を輪のように形作ることによって中心にいる葵達に安心感と快適さを与えた。
二人は龍の真ん中で持ってきた携帯食を食べ、龍にも葵特製のおにぎりを与えた後に安心して眠りにつく。葵が目を覚ました時点で再び彼女達は龍の背中に乗り、目的地を目指す。
「……ここなの?」
出発から丸一日経ったくらいだろうか。龍が移動をやめて、上空でじっと待機したので、葵がそっと呟く。
見下ろすと、大きな遺跡がある。古びた城のような形の遺跡は欧風な様式で、芸術的価値があるようにも感じる。木々に囲まれたこの場所は、これだけ巨大であれども人気のないようであった。
龍がゆっくりと頷く。それと同時に
大きな音が二箇所から聞こえた。
ひとつは遺跡の中央からは瓦礫の崩れるような音が響いていて、もう一つは遺跡から少し離れた場所で幾つかの爆発音が鳴り響いている。
闘いの音だ。
あのゾフィスとの対決を目の当たりにした葵には、それが分かった。
「……どちらに向かいますか」
吉川は訊ねた。
本当は、今からでも帰りましょう、と言いたかった。これだけの体験が出来て、世界を見て回れたのだから、ここで家に戻れば楽しい旅行としていい思い出に残る。
だが、葵と龍の意思を粗末に扱うことは出来なかった。
ゾフィスに襲われたあの時、葵は龍に助けられた。きっと、龍も葵の言葉に救われたから動いたのだろう。何も出来なかったのは自分だけだ。ならば、私はもう止める資格がない。
「あっちにしよう」
葵は悩むことなく遺跡の中央を指差す。
直感的にもう一つの方へは行ってはならないと思ったのだ。
「どうしてあっちなんですか?」
「なんとなく、邪魔をするな、と言われているような気がするの」
「……誰にですか」
「分からないけど」
「なんですかそれ」
吉川は呆れた、という表情をしたが、葵の意見に反対しようとはしなかった。
「龍太郎の力が必要なのは、きっとあっちだよ」
「それも勘ですよね」
「うん」
「……まぁ、いいですけど。葵様の勘はよく当たりますから」
「龍太郎、あっち」
葵がもう一度指を向けると、龍は頷いた後に遺跡の中央に向かった。
◯
清麿はその巨大な力と相対して今日何度目かも分からぬ冷や汗を流した。
人間の何十倍もある大きさで、その眼には邪悪な光が見える。
先程までの闘っていた「デモルト」も充分すぎる程の脅威を携えた魔物であったが、ある呪文を唱えパートナーを自ら呑み込んだ後は、その魔物は比にならないほどの威圧感を放っている。
パティとビョンコが文字通り命懸けで月の石を壊してくれたおかげで先程までのように無限回復することはなくなったが、その分増した邪悪さは今後の闘いも決して楽ではないことを示していた。
デモルトが吠える。
空間そのものが揺れるような咆哮だった。
地面から舞い上がる砂利を防ぐのに思わず腕を顔の前に出す。
「清麿! 大丈夫か!」
「……ああ、大丈夫だ!」
デモルトの力は、途轍もない。
それでも、清麿は諦める訳にはいかなかった。途方にくれる暇などなかった。
ガッシュが前を向いて希望を捨てない限り、その相棒である自分から膝をつくなんてこと、出来るはずもない。
そう思っているのは自分だけではなかった。
ウマゴンも、ティオも、レイラも、キャンチョメも、それぞれのパートナーである人間達も。
眼から希望の光を消すことはない。
絶対に諦めないものがいる。ガッシュがまだ立ち上がろうとしている。
その事実は彼等に勇気を与え続けていた。
そして、それは、ガッシュもまた同様だった。自分と一緒に前を向いてくれる仲間たちがいるという事実は、あまりにも力強い助けになる。
それぞれが力を尽くし全力を出すその姿に、ガッシュは自分の胸の鼓動が速まり熱くなっていくのを確かに感じていた。
しかし。
気持ちや想いだけで、戦況が簡単に変わるほど敵は甘くない。
どんな盾でもどんな速さでもデモルトは壊し追い付き自分達を追い詰めていく。
「どうした。こんなものか⁉︎ 」
邪悪な理性を持ったデモルトが、ガッシュ達を見下ろし高笑いしながら唾を飛ばした。
その時であった。
突如天井が大きな音を立て崩壊し、陽の光を背に現れた大きな龍が、デモルトに勢いよく飛び付いた。
「っ! なんだてめえはぁ!」
「うわあああああ! 新しい魔物だぁ! もうだめだぁ!」
デモルトが叫ぶのと同時に、キャンチョメとそのパートナーであるフォルゴレが抱き合い涙ながらに喚く。
デモルトが龍を引き剥がすように身体を捻るが、龍はその爪と牙を離さない。大きなデモルトに絡みつくヘビの如く全身を絡ませて、龍は小さい唸りを上げ続ける。デモルトの足音が小さな地震のように足元を揺らし、それが更に皆の不安を大きくさせた。
「あれは……」
「レイラ、知り合いなのかい⁉︎ なら言ってくれ! ここには鉄のフォルゴレがいる! 何匹来たって無駄だぞって!」
「キャ、キャンチョメ⁉︎ レイラ! 言わなくていいぞ! 確かに私は無敵だが、今ちょっと調子が悪くてだな!」
「あの龍が、どうして……?」
震えながら叫ぶフォルゴレを無視して、アルベールを起こそうとその頬を叩き続けたレイラが、突如変化した状況に困惑しつつも呟く。
デモルトを術もなく拘束できる巨大な龍。その姿を見た彼女の記憶は1000年遡って、パズルのピースを合わせるかのように、印象的な思い出とピタリと重なった。
忘れる筈がなかった。
1000年前の王を決める闘いで数ある優勝候補の中で最も王に近いものとして名を轟かせていたのが、あの龍であったのだ。
気性も荒く、暴れん坊で、睨まれただけで気を失うものもいるとまで聞いていた。1000年前の闘いは如何にあの龍と出会わずやり過ごすかに掛かっていると噂されていた。
そして、その龍はパートナーが病気に掛かり、その薬と引き換えにやられたと聞いていた。
その情報は一瞬で拡散され多くの魔物が安堵したのだが、まさか自分達と同じように、石化の術を使う『ゴーレン』に負けたということは知らなかった。
そんな龍が、今更どうして。
レイラは身体から汗が一気に噴き出すのを感じた。今はデモルトと戦ってくれているようだが、決して味方とは限らないのだ。
敵と相対する龍の眼からは、優しさよりも恐怖を感じる。圧倒的な力は、その性質に関係なく弱者には脅威でしかなかった。
あの龍がもし敵だと思うと、間違いなく今より状況が悪化すると確信してしまう。
「大丈夫だレイラ」
頭にポンと手が乗った。
年齢の割に大きく、力強いその掌からは、不安を打ち消すかのような力がある。
見上げれば、清麿が真剣な表情で戦場から目を離さずに言った。
「あの魔物は俺たちの味方だ」
「うむ! 龍太郎なのだ!」
ガッシュが笑顔を見せて頷いた。デモルトの攻撃から皆を守る為に盾を貼り続けたティオも、顔を上げて龍の登場を喜ぶ。ゾフィスを圧倒したあの力は、大きな戦力となると知っていた。敵ではないと確信していれば、これほど頼りになるものはいないと分かっていた。
「あ、あの龍も、ガッシュ君の友達なの……?」
服に焦げ目や切れ目を作っていても、振る舞いからアイドルもしての品を残す恵が、声を震わせつつもティオに訊ねる。巨大な龍の姿は、安心、という言葉を吐くには力強すぎる。
襲わないと言われても、檻にいない獣を恐れないものは少ない。
そんな恵の気持ちを察したのか、ティオは恵の手を握る。
「ええ、そうよ。それに、そのパートナーも清麿のクラスメイトで……」
そこまで言ったあとで、ティオはハッとして周りを見渡す。
「そういえば! 葵さんは!」
「ここにいるよ」
返事は後ろから聞こえた。
いつの間にかそこにいた葵はちょうど吉川にお姫様抱っこをされている。
龍の背から飛び降りたのです、と聞いてもないのに吉川がティオに説明して、いいから降ろしてよ、と顔を赤くした主人は上品に足を地につけさせてもらった。
「吉川君、君も来たのだね」
「ええ、ナゾナゾ博士。お久しぶりです」
「あれが、電話で言っていた……」
「はい」
「ふむ。凄い魔物だね。では、君がパートナーの葵ちゃんか。吉川君から話は聞いてるよ。初めまして」
「は、初めまして」
「私の名前はナゾナゾ博士!!」
「きゃあ!?」
紳士的な言葉から一転し、彼は体中から突然鳩を飛ばさせた。葵は驚いて思わず吉川の後ろに隠れる。
プククククっと腰を曲げ笑いを堪えきれてない彼に、葵の代わりに吉川が蹴りを入れてくれた。
頭にハテナが飛び出る帽子をつけたこの初老の男性が吉川が前に話した博士なのだろう。
確かにふざけている、と葵は彼をじっと睨んだ。
「……橘、体は平気なのか」
清麿がゆっくりと寄ってきて、戦場に目を向けながらも葵に話し掛けた。
龍とデモルトの咆哮が混ざり合い響く。デモルトが龍を痛め付けるために身体ごと壁にぶつかるが、龍には何の効果もなく締め付ける力が増すばかりであった。
葵も龍を見つめながら、清麿に答える。
「うん。もう大丈夫。ありがとう高嶺くん。でも置いていくなんてひどいね」
「いや、それは……すまない。やっぱり巻き込みたくなかったんだ」
「分かってるよ」
軽口のつもりで言ったのだが、清麿は思いの外重く受け止め頭を下げてきたので、逆に申し訳なく感じる。
「どうやってここにきたんだ?」
「龍太郎が乗せてくれたの。場所もまるで分かっているみたいだった」
魔力を感知してここまで来たのだ、という答えは葵には出せなかったが、清麿は察したかのように、凄いな、と呟いた。
ゾフィスと闘ったあの時の姿を見れば、龍太郎には強者としての様々な能力が備わっているのだろうと予測することが出来た。
「清麿、私達も龍太郎に加勢するのだ」
「ああ、そうだな」
前を向くと、未だに龍に身を巻き付かれ身動きの取れないデモルトがいる。腕には血管が浮き上がっていて相当な力を込めているのが分かるが、それでも龍を振り解くには至っていない。
今が好機と清麿は人差し指と中指を揃えデモルトへと向けるが、葵はそれを拒否するように首を振った。
「大丈夫」
「大丈夫って……。橘、デモルトは強力な魔物だぞ! それにお前……」
清麿が葵の足元に目線をやる。
震えていた。
小刻みに揺れる細い足は、この場にそぐわないほどか弱く見えて、とても大丈夫などと言えるものではない。
それでも、葵はもう一度、大丈夫、と言った。
「ごめんね高嶺くん。これはただの私の我儘。でもね」
龍太郎の1000年間の決着は、自分でつけたかった。
「見てて」
「くそう!! てめえ! 1000年前の龍族の神童だろう⁉︎ どうして邪魔をする! 」
巻き付いた龍を解けずに、食い込ませる牙を折ろうと青筋を立てながら力を込めたデモルトは、響き渡る声で吠えるように叫んだ。
「お前だって怒りがあるだろう! 憎しみがあるだろう! 1000年! 1000年だぞ! 俺たちの時間が、ただ虚しく過ぎていくだけの日々にされたんだぞ! この怒りをどうしてぶつけたら駄目だというんだ! 」
それは、デモルトの心からの叫びだった。
呪文で身体を強化したデモルトは言葉を持った。それはずっと自分に内包していた想いであり、吐き出したかった気持ちだ。あの呪文は、身体と心のブレーキをなくし、本気になる術なのだ。だからこそ、そこに嘘はないと言うことが分かる。
レイラも、自分の1000年を思い出し、そっと顔を伏せる。
1000年前の魔物と戦い続けたガッシュ達も、その想いに唇を噛まずにはいられなかった。ガッシュ達も、この闘いではその想いずっと受け止めてきたのだ。
1000年前の魔物達は悪者と言う訳ではない。
彼等はただ戦いに参加させられ、魔物に負け、閉じ込められただけの被害者なのだ。
「……うん。寂しかったよね」
瓦礫や砂埃が飛ぶ戦場の中、葵は前に出てしっかりとデモルトと向き合う。吉川は側でヒヤヒヤとした面立ちでそれを見守るが、決意に満ちた葵を止めれなかった。
葵は、力はなくとも対話はしようとしている。
荒れ狂う巨大な異形であろうと、心身込めて、対峙している。そう出来るのが、葵の強さだと、吉川は知っていた。
デモルトは、小さな声でもしっかりと聞こえたその声に、歯軋りをならしつつ再び吠えた。
「寂しいだなんて生易しいもんじゃねえぞ!! 石板となり身動きも出来ず! 砂に潜り海を彷徨い踏まれ続けるきつさが! お前らに分かるか!?」
葵は、その叫びを、胸に受け止める。
想像するだけで、泣きそうになる。心臓がキュッと締まり動機が鳴る。想像でこうなら、体験した彼はどれほどだったのだろう。
葵は右手を胸に当て、握り締めた。
それから、前を向く。
デモルトと見上げるようにして、じっと見つめた。
龍太郎、と葵が語り掛けるように言うと、龍は静かに頷きデモルトを離した。
「てめえ……! 何のつもりだぁ!」
デモルトは即座に腕を振り上げ、拳を葵に向けて振り抜いた。
龍の力は凄まじい。だが、パートナーが持つ本さえ燃やせばどうにかなると、デモルトはずっと狙っていたのだ。
拳が地面に当たり、衝撃が地面を伝う。それぞれが葵の名を呼びその後を見るが、そこに彼女の姿はなかった。
「ねぇ」
気付けば、葵は龍の頭の上に立っていた。
目線が同じ高さになり、デモルトの大きな瞳に葵の全身が映っている。
もう一度、とデモルトが腕を引く。そこで葵は再び、デモルトに言った。
「一緒に住もうよ」
本当にお待たせしました。
申し訳ありません。言い訳も出来ません。
次で最終回です。