空を見れば既に日が落ちていて、代わりに月が上がっている。満月、とまではいかないが、それは丸く大きな円を描いていた。月明かりと屋敷からの光が彼らとその先の道を照らしていて、夜に感じるような心細さはなかったが、それでも二人の心は明るくはなれなかった。
吉川に見送られ、橘家の屋敷を背にした清麿とガッシュの足取りは、重々しい。
「……葵殿は、本の持ち主ではなかったのだのぅ」
ガッシュが、ぼそりと呟いたので、清麿は、ああ、と同じように小さな声で返した。
正直に言えば、橘が本の持ち主でなくて良かった。
葵が、本を読めない、と清麿に向かって言ったとき、単純にそう思った。
魔物の戦いは、激しくて、危険である。
現に清麿は何度も大怪我をして入院をしているし、この戦いのせいで悲しい目にあった人物を何人も見てきている。クラスメイトの、しかも女子があの戦いに巻き込まれるのを、拒否はすれど歓迎などは出来る筈もなかった。
だが。
『……そっか。私は、龍太郎のパートナーじゃないんだね』
葵のあんなにも深く落ち込んだ声を聞いて、良かったじゃないか、などと本人に言える訳がない。
彼女はきっと、あの龍のことが好きなのだろう。
だから、魔物の戦いが何かを分からないとしても、パートナーというものになれなかった自分のことが悲しかったのだ。
「私は、葵殿と龍太郎はいいコンビに見えたぞ」
ガッシュが前を見ながらそう言うので、清麿は頭を掻いた。
「そうは言っても、こればっかりはどうしようもねーよ」
魔物と本の持ち主がどのような法則で決まるのかは、清麿にはまだ分からない。
単純に初めて出会った人間がパートナーということではなく、何かしら心の相性というものがあるのだろう。
「後から本が読めるようになったりすることはあるのかのう」
「さぁな。俺は聞いたことない」
最初は本が読めなかったのに、時間を置いたら読めるようになった、という話を、清麿自身は聞いたことがなかった。
ガッシュと一緒にいて、心が成長したり通じあったりしたと感じた時に新しい呪文が読めるようになることはあるが、初めての呪文がどのように出ていたかなどは分からない。当然のように初めから読めたのだ。
今でこそガッシュには言葉には出来ないほどの恩を感じているし、自分達はいいコンビだと思っている。だが出会ったばかりの頃は、面倒な子供、としか思っていなかった。
しかしそれでも、本は読めていた。
つまり、パートナーとなる人物は、会った瞬間から本が読めるということだ。
それが出来ないということは、彼女はあの龍のパートナーではないし、パートナーにはなれない。
「ガッシュは、橘が本の持ち主だった方が良かったのか」
「……いや、分からぬ。清麿は、いつも怪我をしておる。だから、葵殿が戦いに参加して、葵殿も怪我をするようなら、それは嫌だ」
しかしのう、と続けてガッシュは腕を組んで眉を歪めた。
立ち止まったので、カツカツと靴底が石畳を鳴らしていた音が止む。
「葵殿、悲しそうだったのだ。龍太郎とパートナーとなれずに、悲しんでいたのだ。もし龍太郎とパートナーになれていたらあんな悲しい顔をせずに済んだと思ったら、本を読めても良かったのでは、と思ったのだ」
「……そうだな」
清麿は、本気で悩む表情をしているガッシュの頭に手を置いた。
それから笑って冗談めかしながら言う。
「だけど、もしあの龍が戦いに参加したら、俺らなんて一瞬で負けちまうかもよ」
「うぬぬ。だがそれは仕方ないのだ。それに、葵殿となら龍太郎もきっといい王様になろうとしてくれるのだ」
あくまでポジティブなガッシュの台詞を聞いて、清麿はほんのりと頬を緩める。
やはり、ガッシュには王の素質がある。
他者を思い遣る気持ちがあり、自身の都合よりもそれを優先出来る。王になろうという者の中では、誰よりも甘い考えなのだろう。だが、この戦いを終わらすためには、そんな甘さが必要なのだと思う。
その優しさを見る度に清麿は、ガッシュを王にしなければ、という想いが強くなっていく。
「……龍太郎は、まだ寝てるようだのう」
橘家の門をくぐる直前で、ガッシュは振り返り龍を見てそう言った。
龍は、先程会った時と全く変わらない姿勢で寝そべっている。長い身体を丸ませて、静かに目を瞑っていた。
月明かりがその銀色の鱗に反射されて闇夜の中に輝いているその姿は、やはり圧倒的な存在感であった。
「最後に龍太郎に挨拶してくるのだ」
「……! おい、ガッシュ!」
「大丈夫なのだ。葵殿は私達のことを友達と言って紹介してくれたのだ。だからきっと仲良くなれるのだ」
ガッシュは門から遠ざかるようにして、小走りで龍の元に近付いていく。
清麿は、その後をついて行きながら、念のため赤い本をぎゅっと持った。
「お主、龍太郎と言うのだな」
ガッシュが龍に話し掛けると、龍は重たそうな瞳を開けた。
やはり、大きい。
改めて龍を近くで見て、清麿は再確認した。
その顔だけで、ガッシュの倍ほどのサイズがある。口でも開けられれば、丸のみされてしまいそうだ。
さっき感じた威圧感はなかったが、念のため清麿はもう一度本を握り直した。
「我が名はガッシュ・ベル! これがパートナーの清麿だ」
「これっていうな」
「ふふん。私は、お主が何を考えているか分かるぞ」
龍は眉を若干吊り上げ、訝しげな様子でガッシュに視線を向けた。
どうやら此方の言葉は伝わっているらしい。
「ずばり! お主、私と友達になりたいのだろう!」
ガッシュが小さな手と人差し指を龍太郎に向けながら高らかに言った。
龍太郎は、ガッシュから目を逸らした。
それから段々と目を細めていき、再び眠りにつこうとする。
「……どうやら違うみたいだな」
「ぬおおお! 無視しなくとも良いではないか!」
ガッシュは地団駄を踏みながら悔しそうに叫ぶ。
その音が煩わしかったのか、龍は今度は睨み付けるようにガッシュを見た。
しかしこの龍、さっきから瞳しかまともに動いていない。にょろりと鼻の下から伸びた髭は時折揺れるが、それは鼻息によってだ。
「……お前、もしかして動けないのか?」
清麿がそう聞くと、龍の瞳は清麿の方に向いた。イエスともノーとも言っていない。だが、多分答えはイエスだと感じた。
これだけ力のある魔物だ。王になれるだけの能力は当然持っているだろう。ならば普通は本の持ち主を探しに行くのだろうが、この龍は動けないからここに留まっているのか。
清麿は葵の話を思い出す。この龍とどこで会ったのかと訊ねれば、彼女は空から降ってきたと答えた。初めは、本当かよ、と思ったが、龍の下にあるクレーターを見たら、嘘だとは思えない。
空から落ちてきてそのまま動かないということは、怪我でもしているのか。清麿は龍に少しだけ近付いてそれらしい傷がないか調べたが、見当たらなかった。
他に理由が、と考えてはみるものの、何も思い付かない。
しかし、理由が何にせよ、この龍はしばらくここにいるつもりなのであろう。
「……お前、もし動けるようになったらここから出ていけよな。橘には本を返すように言っておくから」
「なぬ! おい清麿!」
ガッシュは清麿に向かって大きく怒鳴った。
「それでは葵殿が可哀想であろう!」
「ガッシュ。ウマゴンが家にいるのとは状況が違うんだ。ウマゴンを狙う魔物が現れたなら、俺達が守って戦える。だが、この龍が突然襲われたらどうなる。この家は無茶苦茶になるだろうし、本を持っている橘は狙われる。いくらこの龍が強いと言っても、パートナーも呪文もなければ戦えない。戦えても、このサイズなら何かを巻き込まずには終わらない。だったらこの龍のためにも、橘のためにも、さっさとここを離れさせた方がいい」
「だ、だが……ならば私達が! 」
「俺達だっていつでもこの家に居るわけじゃないだろ。……なぁ、龍太郎。分かるよな」
清麿は、今度は自分から龍に目線を合わせるようにして言った。
龍は、じっと清麿を見つめる。その大きな瞳の中に、清麿が映っている。
「……」
しばらくお互いに睨み会った後、龍は、ふん、と鼻を鳴らしてから、再び目を閉じていった。
イエスともノーとも言っていないが、多分答えはノーだと、清麿は感じた。
○
「もしかしてさ」
葵は、吉川に訊ねる。
その視線は未だに本へと向いていて、パラパラと、一枚ずつページを捲る音は部屋に鳴り続いていた。
「吉川さん、この本読めたりするの」
「まさか」
ガッシュと清麿に差し出したカップを片付けながら、吉川は肩を上げた。
「私には、変な字が書いてあるようにしか見えません」
「ほんとに?」
「誓って」
なーんだ、と言って、葵は椅子を後ろに傾ける。行儀が悪いですよ、と吉川は葵に注意をした。
「吉川さんはさ、さっきのガッシュ君達の話、本当だと思う?」
「一応、先程博士に確認を取りました」
「謎な博士だっけ?」
「ナゾナゾ博士です」
大して変わらないじゃん、と葵は思ったが口には出さなかった。
「彼が言っていたことは全て真実です。博士は彼と全く同じことを言っていました」
「二人で嘘をついてるかもしれないじゃん」
「高嶺君は分かりませんが、博士とはそれなりに長い付き合いです。嘘をつくことばかりで疑わしいのも事実ですが、絶対に本当のことを言っている時は分かります」
そう言い切る吉川を見て、葵は少し意外に感じた。それだけ吉川が人を信頼するのは珍しいのだ。
「じゃあ、私と龍太郎は本当にパートナーじゃないんだね」
「……悲しいですか」
「うん。ちょっとだけ」
無理に笑った表情をした葵を見て、吉川は辛くなった。母親や父親が普段家にいなくて、教師などが心配した時に、葵はよくこんな顔をしていた。
吉川は、魔物の戦いというものが本当にあるのなら、葵と龍太郎がパートナーでなくて良かったと、心から思っている。
戦いというものがどの程度の規模なのかは分からないが、ガッシュの電撃を見る限り、安全が保証されているものとは思えないのだ。
「ドラ……、龍太郎のこと、どうしますか」
「どうするって?」
「ここから去って貰った方がいいかと」
ナゾナゾ博士と電話したとき、本が読めないと伝えたら彼は意外そうにして、その後、そう言った。
危険だから龍は遠ざけるべきだと。
「嫌だ」
葵は間髪入れずにはっきりとそう答えた。
「葵お嬢様」
「嫌だよ。私、絶対認めないから。追い出すようなことしたら、私、絶対に許さないから」
「どうしてですか。まさか戦いがしたいなどとは言いませんよね」
「戦いなんて、意味分かんないし、怖いし、嫌だよ。でも、龍太郎をここから出ていかせるのはもっと嫌だ」
「そんなにあの龍が気に入ったのですか」
葵の拘り方は、異常だった。
犬を連れ込んだときも、鳥を連れ込んだときも、飼うのを駄目と言われればここまで強い反抗はしなかった。
「だって、龍太郎が出ていきたがってないもん」
「そんなこと」
「分かるよ。私には分かる」
葵は本を閉じて、勢いよく椅子から腰を上げた。
「この本が何。パートナーじゃないからって何。そんなことで、私と龍太郎の距離を決め付けないでよ」
それは、誰に対する怒りでもない。だが、葵はそう言わずにはいられなかった。
龍太郎と長くずっと一緒にいた訳じゃない。仲良くなるための出来事があった訳でもない。
でも、葵は龍のことが好きで、龍の気持ちが分かる気でいた。龍のあの、寂しげな瞳の色と、擦り寄ってきた鼻の感触は、葵の心にしっかりと根付いてしまっていた。
「私もう寝るよ」
「……はい」
「明日は早く起きるから。私、龍太郎のおにぎり作らないといけないから」
「……はい。おやすみなさい、お嬢様」
おやすみ、と短く言って、葵は本を持ち自室へと帰っていく。
吉川は、困っていた。
葵がなんと言おうと、吉川はあの龍を家から出したかった。主人の安全を守ることは、仕える者として当然であるからだ。
しかし。
吉川の力では、あの龍を動かすことなど出来ない。
本を燃やそうにも、きっと葵は本を手放すことはないだろう。一度本気で決めたら強情な子だ。誰にも渡さないようにと本を抱えて寝ているに違いない。どうにかして奪おうとすれば、何をしでかすか分かったものではない。中学生らしい反抗の仕方ではあったが、彼女は賢いのだ。何を犠牲にしたら使用人の吉川が手を引くのかは、彼女は心得ている。それは、何よりも避けねばならないことだ。
そうなれば、あの龍に動いてもらう他にないのだが……
葵の言う通り、本当に龍自身に動く気がないのならば、どうしようもないのだ。
早く戦闘しろよ、という声がそろそろ聞こえてくる気が……。
すみませんまだです。