秋の朝日は透明なカーテンに包まれたような軽やかさがあり、芝の黄緑色を強調させていた。
葵がキャラクターの絵柄が描かれたサンダルで芝生の大地を踏みつけると、足裏にふんわりとした抵抗を感じる。足の指先が朝露で少し湿るが、気にかけなかった。
何十個ものおにぎりが乗った大皿を両手で持って、葵は龍に話し掛ける。
「龍太郎、ご飯だよ」
膝を折り龍の前に皿を下ろすと、龍は閉じていた瞼を細く開けた。朝日が眩しいのかまだ眠気が残っているのか、その瞳には覇気がないように感じた。
「龍太郎も眠いんだね」
そう話し掛けながら、自分も大きく口を開けて欠伸をする。
龍太郎も同じタイミングで欠伸をしたようで、葵は可笑しかった。
龍が、おにぎりの存在に気付いた。
鼻を近付けくんくんと匂いを確かめた後、眼をぼんやりとしたまま舌を器用に動かし、おにぎりだけをさっと取ってパクリと食べる。
「ふふ。龍太郎、犬みたい」
葵は小さく笑った。
今日は、吉川が後ろについていない。
彼女は家を管理するものとして朝は色々と忙しく、バタバタとすることが多い。特に今日はゴミを出す日なので、今頃両手にゴミ袋を抱えているだろう。
それに、龍がここにいるのを反対する身として、龍太郎のお世話には一切関わらないという可能性もある。
葵はそんなことを考えたが、それでもいいと思った。
自分の我が儘なのだから、最後まで自分で責任を持つべきだと思っている。
「……あのさ、龍太郎。龍太郎はさ、ここから出ていきたい?」
龍の鼻を撫でながら葵は訊ねる。
龍は、答えない。ただ上目遣いで葵を見るだけだ。
「……うん。分かってるよ」
その龍の瞳は、いつ見てもずっと悲しそうで。それでいて、なにかを待っているようだった。
葵は、その瞳の意味が分かる気がした。
昔、自分もこんな眼をしていた時がある。
中々家に帰ってこない両親を待っていた時。
玄関の前にずっと座り込み、二人が戻ってくるのをずっと待っていた時。
確か、自分はこんな眼をしていたのだと思う。
「私ね、一人だったんだ」
龍は、先程と同様に眼で返事をする。
青色の瞳はまるで宝石のようで、吸い込まれていきそうな綺麗さがあった。
「吉川さんは一緒に居てくれたけど、母さんも父さんも仕事が忙しくて、あんまり構ってくれなかった。だから、寂しかったよ」
龍は何も答えない。
だが、葵は構いはしなかった。龍は自分の話を聞いていると、分かっていた。
「……龍太郎は王様になりたいの? 」
掌を龍の鼻の頭に乗せる。ざらざらとした感触が伝わってきた。
「うん……そっか。そうなんだ」
葵は龍の鼻をもう一度撫でる。
少し湿っているのが冷たくて、気持ちが良い。
○
龍が橘家に来てから、数日が経った。
あれから龍のご飯はずっと葵が用意していて、吉川は龍についてあれこれと言うことはほとんどなくなった。
そして、どうしてか吉川は書斎に籠ることが多くなっていた。
昔の書物をひっくり返して何かを調べているようなのだが、葵は吉川のその行動の意味が分からなかった。訊けばいいのだろうが、言い争いをした夜以来、なんとなく吉川に声を掛けづらかった。
龍の魔本は、葵が相変わらず肌身離さず持っている。
学校で清麿に会ったときに手放すようにと言われたが、はっきりと拒否をしていた。
清麿は葵を説得したが、葵はそれでも首を横に振り続けている。清麿としては納得出来なかったのだが、教室で騒ぎ立てることが良いとは思えず、その場はそれで引き下がった。
清麿はその後も葵と龍のことを気に掛けていたのだが、葵の方が断固として譲らなかったので説得しきることは出来ていない。
そしてその日、 平日の昼過ぎであるこの時間でもほんのりと涼しげであり、つい最近まで夏であったことが嘘のような気候だった。
そんな時に、自分の家の玄関に現れた人物に、清麿は驚きの声をあげずにはいられなかった。
「……こんにちは」
「……吉川さん。どうしてここに」
吉川は、ぺこりと礼儀正しく頭を下げている。とりあえず清麿も、どうも、とつられて頭を下げておいた。
清麿は私服だが、吉川はいつもと変わらずメイド服であった。自分の家にメイドがいる、という事実に清麿は慣れることが出来ず、不思議な違和感が胸に残る。
「高嶺君に、聞きたいことがあったのです」
「だからってそんな急に。それに、どうやって俺の家を」
「誰かの家を調べるなんて、簡単なことですよ」
淡々と言い切るので、少しだけぞっとした。それは仕える家が金持ちだから出来ることなのか、それとも彼女自身の能力によって成し得たことなのか、聴くのが怖かった。
「吉川殿、こんにちはなのだ」
「こんにちは、ガッシュ君」
トタトタと足音を鳴らして清麿の後ろから現れたガッシュにも、吉川は同じようにしっかりと頭を下げる。
すると、ガッシュの隣にいた少女が、ガッシュのマントの袖に当たる部分を摘まんで小さな声で訪ねた。
「ちょっと、誰よこの人」
その少女はピンク色の髪をしていた。
背中に届くほどの長髪で、胸には羽の形をしたブローチがついているのが特徴的であった。可愛らしい格好なのだが、気の強そうな表情をしている。
「吉川殿なのだ」
「だから誰なの。着てるのって、メイド服?」
「吉川殿は葵殿のメイドさんだからの。メイド服なのは当然なのだ」
「よく分かんないんけど、メイドさんなのね」
ぼそぼそとした声で二人の子供が話す姿は愛くるしくて、吉川はほんのりと微笑んでいた。
吉川は子供が好きだった。素直で、何事にも一生懸命な姿が、吉川の胸を擽る。
彼女もまた魔物なのだろうか。
吉川はガッシュとティオのことを見比べた。ティオに角があるのは見えないが、名前や服装の雰囲気はどことなく日本離れしているように見える。
魔物といっても子供なのだな、と吉川は独りで納得した。
人と大した差が有る訳でもなく、偏見を持った眼で彼らを見るのは失礼だと思った。
「私ティオよ。よろしくね、メイドさん」
そのティオと呼ばれた少女は、小さな手を吉川に向けた。吉川は視線をティオに合わせて、その手を握り返す。
「メイドの吉川です。宜しくお願いします」
そう言うと、ティオは笑ってくれた。
ほら、やっぱり人と同じではないか。
吉川はそう胸で呟きながら、その笑顔によって昔の葵が頭に浮かんでいた。
葵がまだティオほどの背丈の時は、彼女の両親は葵のことをよく見ていたのだと思う。実際当時の葵はよく笑っていて、今よりもずっと明るい子だった。
しかし、仕事が軌道に乗り、両親が、葵はもう大きいから大丈夫よね、と決め付けた時には、彼女達の時間は少なくなっていた。
あの頃の葵は恐らくまだまだ親と一緒にいたかったろう。決して他人に口を出してそう言った事はないが、長く共にいた吉川にはなんとなくそれが分かった。
自分では彼女の両親の代わりには成れない。
段々と笑顔が少なくなっていく葵を見るのは、吉川にとっても辛かった。
だから、龍が現れてあれだけ笑う葵を見て、吉川は嬉しかったのだ。
あの龍がどれだけの危険をもたらす存在だとしても、葵を喜ばせたのは事実であったから。
「……吉川さん、それで、用とは」
清麿に話しかけられ、吉川は考え込んでいた頭を振る。
「……すみません。高嶺君、今から時間はありますか。実は、気になることがありまして。少し相談がしたいのですが」
「それは……あの」
「はい。龍太郎のことです」
清麿は言いにくそうな口をした。
「……本当に申し訳ないですが、俺達、今忙しくて」
本当に切羽詰まった表情だった。その場しのぎのために言い訳しているという風ではなく、確かに予定があるのだということは分かった。
吉川はそこまで気付いていながらも、それでも引き下がれなかった。
「そこをなんとかならないでしょうか」
「駄目よ!」
声を上げたのはティオであった。
「私達には時間がないの! 今からこのタイルのことについて調べなきゃ行けないんだから!」
大きな声と共にティオがポケットから取り出したのは、小さな石板のようなものであった。正方形で薄く、泥がついていて、古びている。時代を感じれるものだ。
吉川は眼を近付けてそれをじっと見つめた。
「……それ、どこかで見たことあります」
そう呟くと、清麿は眼を見開き、すぐに彼女に詰め寄った。
「見覚えがあるんですか!」
「ええ。橘家にある本に確かそれに書かれた模様について記されていた気がします」
清麿は、顎に手を置いて考えるようにしてから、頷いた。
「……分かりました。吉川さん。話を聞きましょう」
「ちょっと! 清麿! いいの!?」
「本当は親父の書斎を探るつもりだったが、見覚えがあるというならこの人を頼った方が早い。その代わり、吉川さん。よろしいですよね?」
「はい。私が責任を持つので、どうぞうちの書斎で良ければ探って下さい」
○
橘家の書斎は、広かった。海外の古書から比較的最近のビジネス書までがずらりと並んでいて、紙の匂いがすんとした。
照明もほんのりと薄暗く、ポツリと置いてある机の上にも幾つもの本が積んである。清麿はこの、まさしく書斎、という雰囲気が好きであった。
「……そちらは急ぎの用なのでしょう? 私の話は後からでいいので、まずは用事を済ませてしまってください」
「今更ですが、勝手に見ても宜しいのですか?」
メイドが主人の持ち物である本を見る許可をしていいものなのかと、直接関係のない清麿が心配してしまった。
「問題ありません。この部屋はもうしばらく使われていませんし、私もたまに勝手に使っています」
「それは…… 」
流石に駄目じゃないか、と思ったが、相変わらず吉川が堂々としている。悪気はなさそうだ。
「あのタイルの模様については、確かこの辺にそれのことが書かれた本があった筈です。片付けはしておくので、好きに見ていって下さい」
吉川はそう言うと、頭を下げて部屋から出た。
自分は何も見ていないし何をしてもよい、ということなのだろう。思ったよりずっと信用されているらしい。
早速調べものをしようと清麿が本棚に手を伸ばした所で、ティオが制止をかけた。
「ちょ、ちょっと待って! 清麿! あそこにいたあの龍なんなのよ!」
「そうだ。ティオにはあの龍についてのことを話していなかったな」
「あれは龍太郎なのだ」
「そういうことじゃなくて! なんであんな強そうな魔物がこんな豪華な家にいるのよ!」
いきなりあんな魔物にあったら、それはびっくりするだろう。
清麿はティオが急に大人しくなっていた理由に納得してから、事情を話す。
あの龍は、最近ここに現れた魔物で、まだ本の持ち主は決まっていないと。
「私、あんなに力を持った魔物初めて見たわよ……」
ティオは未だに体を震わせながらそう言った。
「うぬ。私もなのだ」
「違うわよ。魔界も含めてって意味よ」
「やっぱり、それほどのレベルの魔物なんだな」
清麿は少しだけ安心した。
今後戦っていく魔物が皆あんな強さを持つのだとしたら、この闘いは相当過酷なものとなるだろう。
「……でも、おかしいわね」
ティオが考える間を置いてからポツリと呟く。
「……何が?」
「あれはきっと、竜族よ。竜族は魔物の中でも戦闘力が高いことで有名なの。それで、今回の王を決める戦いにも神童と呼ばれる竜が2人参加しているのよ」
ティオが、指を2本立てながら話を続ける。
ティオの話がすっと清麿の耳に入っていく。
あの龍には、どこかに違和感があった。
それが何かは自分でも分からないが、もやもやとした想いがずっと清麿の中にさ迷っていた。
本を探る手は止まり、清麿はティオの話に耳を傾ける。
「私も話でしか聞いたことないのだけれど、きっとあの龍のことではないわ。特徴が一致しないもの」
「では、あの龍は神童じゃなくて、単純にその2匹がもっと強いだけじゃないのか」
「……いいえ。さっきも言ったけど、あんなレベルの魔物は魔界でもほとんどいないわ。あれだけ力があって噂にもならないなんてこと、ある訳がない」
……ここから動こうとしない龍。いない筈の魔物。持ち主のいない魔本。この家。
そして、清麿達が今巻き込まれようとしている闘い。
それぞれのパズルのピースが、段々と動いて組合わさっていくような感覚がした。
「……それはつまり、もしかするとあの龍は……」
清麿がティオに問う直前に、家が揺れるほどの爆発音が、大きく鳴り響いた。