清麿達を屋敷の書斎に連れてきた吉川が、彼らのために紅茶を用意している時だった。
透き通るような煌めきを放っている紅茶を、トトト、と静かな音と共にティーカップに注ぐ。アールグレイの爽やかで優しい香りが部屋にふわりと充満していき、それが心地よかった。ティーカップは高級な器であったが、お客様に出し惜しみをするつもりもなく、更に何か洋菓子も添えたらあの子供たちも喜んでくれるだろうと、吉川は棚に手を掛けた。
その時に、何の前触れもなく、背中に薄い刃物を突き付けられたかのような気配を感じた。
吉川は思わず振り返る。
額に流れた汗は嫌な温度を持っているように思えた。
振り向いた先には、壁に埋め込まれた液晶画面があった。門前の監視カメラから見える映像がそこに映っている。
そこに映り込んだ人物が葵であって欲しいと吉川は願った。寄り道でもしているのか、葵はまだ帰宅していない。この感覚が自分の気のせいで、全くいつも通りに仕えている主が帰ってきてくれたらいいと、吉川は心の底から思った。
しかし見れば、明らかに葵とは違う人物がそこにいた。
門前には二人いる。異様な二人組だった。
一人は、背が高い女性だ。髪は茶色く短めで、美人であったが冷徹な雰囲気を感じた。まるで、自分の意思という物を持っていないようで、不自然に作り上げられたような表情が薄気味悪かった。
もう一人の背丈は、子供ほどであった。大きな帽子を深く被って着けていて、顔はよく見えない。
だが、普通ではないのは明らかだった。背筋にずっと冷水を垂らされているような不快感は、彼女が醸し出す雰囲気から来ているのだろう。正義や悪を語るような性格ではないが、これが邪悪な力だということを、吉川は直感的に理解した。
小さな体に秘めているそのどろどろした悪意は、カメラ越しにも吉川へとしっかりと伝わっている。
二人を家に入れてはならない。
吉川は本能でそう感じ取っていた。
息を整える。
紅茶から僅かに上がる湯気を見て、冷めてしまうかもしれない、だなんてどうでもいいことを考えた。
せっかく淹れたのに、と後ろめたい気持ちに駆られながらも、吉川はすぐにその身を彼女達の元へと向ける。それが今自分がすべき行動だとよく分かっていた。
○
「何のご用ですか」
門前についた吉川は二人に冷たく訊ねた。
吉川と彼女達の間は、鉄製の黒い門がしっかりと遮っている。
それでも、二人から溢れるどろどろとした気配は門を越え吉川の足元を覆っていた。気持ちが悪くて仕方がない。
「これはこれは」
身長だけは子供だが、その背丈にそぐわない毒々しさを持ったそれが、吉川の敵意をものともしない様子でくすくすとわざとらしく笑った。
「わざわざ出迎えをして貰えるとは思いませんでしたよ。今から無理矢理中に入れてもらうつもりでしたので」
蛇が地べたを這いずり回るような喋り方だった。
吉川は依然として強い眼光で二人を睨み付ける。
そんなことさせると思いますか。警察を呼びますよ。
そう伝わっている筈の視線であったが、二人はものともしなかった。
「ねぇゾフィス。そんなこと言わずに、今すぐにでもこの家を壊してしまいましょうよ。私、こういう家が大嫌いなのよ」
子供に絡み付くように腕を回しながら、女性が囁いた。人形として操られてやっているようにしか見えない動きが不自然で気持ちが悪い。
ゾフィスと呼ばれた子供はまた気味の悪い笑みを浮かべた。
「ふふ。そうだね、ココ。だがもう少し待ってくれ。この家にいる者に私達は用があるのだから」
「申し訳ありませんが、身元も分からぬ者を屋敷に入れるつもりはありません。どうかお帰り下さい」
ゾフィスは、吉川の言葉を聞く様子もなく、片手を上げた。
「ココ。とりあえず門だけ壊そうか」
「そうね。じゃあ、後からちゃんと家も壊してよ? 全部、燃やしてね」
「勿論だよ」
物騒な会話だ。壊すだの燃やすだの、漫画やアニメの世界にいるキャラクターが発することでしか聞かないような言葉であるのに、彼女等が口にしても何の違和感もなかった。
ココの手には、いつの間にか本があった。
見覚えがあるものであった。
魔界の子供。魔本。二人組。パートナー。
頭の中に、先日清麿が話してくれた言葉が巡った。
つい最近も、現実ではあり得ないと思っていたことが目の前で起こったことを思い出す。
吉川が警戒体勢へと入る前に、ココの静かで暗い声が聞こえた。
「ラドム」
○
黒炎が舞っている。
門はバラバラに破壊され、火薬の匂いが辺りを覆っていた。芝生についた火がぱちぱちと音を立てている。
「ほぉ……」
ゾフィスは、煙の中を見つめながら、呟いた。
「まさかあれを避けるとはね」
吉川は、ゾフィスの術を避けていた。
スカートは焦げ付き、脚に火傷を負ったが、動ける。ガッシュの電撃を見ていたおかげだ。
吉川は事前に彼らの説明を聞けたことを幸運に思った。
術名を口に出すことが発動のトリガーとなっていると分かっていたからこそ、辛うじて出来たことだ。
「門ごと貴女を壊すつもりだったのだけれど、意外とやる人間だったようだ」
「……ねぇ、ゾフィス。貴女が言っていた魔物って、あれのことかしら」
燃え弾けて消えた門の間をやすやすと通りながら、ココはすぐに右手に目を向けた。
「おお……。ふふ、ふふふ。やっと見つけましたよ、古の龍族よ」
二人の視線の先には、龍がいた。
龍は、その瞳で侵入者を捉える。
神々しい風貌から、圧倒的な圧力が飛び出す。
龍は、やってきた二人は敵であるとしっかり認識していた。
まるで体を無理矢理押さえつけられるような重圧を感じている筈だが、彼等は地に膝を突けなかった。
「……ふふふ。そんなに、威嚇しないで貰いたいですね。いくら貴方が強かったと言えども、今はもうほとんど体を動かせないでしょう?」
ひたひたと、ゾフィスは龍に近付いていく。
龍の放つ圧力は、並大抵の魔物では耐えられるものではない。それはゾフィスとて例外でない筈であった。
しかし、ゾフィスは臆さない。
どれだけ龍が威嚇しようが、その牙が自身を貫くことはないと、知っているからだ。
檻に居る猛獣を恐がるのは、幼き者だけだ。
「何年間、貴方が石になっていたと思いますか? 石板から復活する際に一瞬月の光を浴びただけで、体が完全に自由になる訳がない。……しかし、私なら、貴方のその呪いをもう一度解いてあげられますよ」
ゾフィスは、ゆっくりと龍に向かって手を伸ばす。
「……それとも、もう一度石に戻りたいですか?」
龍の瞳が、揺れた。
純粋で強さを秘めていたその瞳の中に、恐怖という色がつく。
その姿を、ゾフィスは満足そうに見ていた。
ゾフィスは、相手の弱っていく姿が好きだった。
特に、巨大な力を持ったものを精神的に攻めて自身に降伏させるとき、言いようもない快感を感じることを理解していた。洗脳、精神の操作が出来る自分の力を、誇らしくすら思っていた。
心に隙が出来た相手に懐柔するのは容易い。たとえそれが自分よりも遥かに力の持った魔物であろうと、だ。
ゾフィスは心の弱まった龍を見て、支配出来ることを察した。巨大な力を手にすることに微笑みながら、ゾフィスは龍の額に手を触れようとする。
その直前に、自分の頬のすぐ側を鉄製の凶器が通り抜けていった。
「……ほう。面白い武器を持っていますね」
頬から垂れた血を指で拭いながら、ゾフィスは吉川を見る。
吉川は、両の手に武器を持ってゾフィスに立ち向かおうとしていた。クナイ、と呼ばれている武器だ。
腰を落とし、姿勢を低くして、彼等を強い敵意を持って見つめた。
「ゾフィス。私知ってるわ。あれはジャパニーズ忍者の武器よ。もう滅びたって聞いていたけどね」
「古代の戦士の生き残り、ということかな。それはそれは、強そうだね」
手に持つ凶器を見ても、彼等が余裕を崩す様子はない。
それどころか、興味を示すように微笑んで自分を見たゾフィス達に、吉川は恐怖を感じた。
―――守らなければ。
吉川は強くそう思った。
彼等の狙いはあの龍なのかもしれない。だとしても、私達の平和を脅かしに来たことは間違いないのだ。
なら、私しかいない。
私が、やらねばならない。
頭には幼い頃の葵の姿があった。
葵はきっと、龍に何かあったら泣いてしまうだろう。そう思うと、吉川の武器を握る手は自然と力を帯びた。
幼少の頃鍛えられたこの力は。
ナゾナゾ博士に認められたこの力は、こんな時にこそ使うものだと、彼女は自分に言い聞かせた。
「では先に、ジャパニーズ忍者が魔物相手にどこまで出来るか、試してみようか」
ココが本を開き、ゾフィスが此方に掌を向ける。頭には、木っ端微塵にされた屋敷の門のことが浮かぶ。それでも、退くつもりはなかった。
後ろには守るものがあると思えば、逃げるという選択肢はなかった。
「……ラドム」
「ザケル!!」
吉川の前で再び爆発が起こる。吉川の髪が乱れるほど風が舞ったが、呪文が直接当たった訳ではない。
ゾフィスの放った呪文は、後方から飛び出してきた雷撃によって相殺されていた。
「……貴方達」
「吉川さん!!」
吉川が振り向けば、そこには金髪の少年と本を持った学生がいた。
二人とも切羽詰まった表情で、すぐに吉川のもとへと近付いてきてくれた。
「おや……」
ガッシュと清麿によって自分の術が掻き消されたというのに、ゾフィスの余裕の笑みは消えることがなかった。常に相手より優勢であると確信しているその表情は、敵に焦りと不安を与えるためなのだろうか。
「……まさか目当て以外の魔物もここにいるとは」
「何者だ!お前達は!」
「しかも貴方達は、パティの狙っていた魔物ではないですか」
「……っ! じゃあ、1000年前の魔物を操っているのはっ!? 」
「あら、ゾフィス。ばれちゃったわね。仮面をしてくればよかったかしら」
「構わないよ、ココ。今ここで皆消せばいいだけだから」
手を上げたゾフィスの動きに合わせて、清麿はすぐにセット、と声を張り上げ照準をあわせる。
「ザケル!!」
「ラドム」
橘家の庭に、再び爆炎と雷撃が舞う。
念入りに手入れしていた芝生は黒く焦げ付き、鼻をつくような臭いが辺りに充満する。
「吉川さん!!」
「ティオ、さん」
ティオは清麿に指示された通り、すぐに吉川の側へと寄り添った。手を差し伸べながら、ティオは告げる。
「ここはガッシュ達に任せて、私達は離れましょう!」
「ですが」
「駄目よ!巻き込まれたらただじゃすまないわ!」
「お嬢様が来たら……。それに、ここには龍太郎も……」
吉川は、龍を見た。
龍は、震えている。
凛々しく芯の通っていた瞳も今は弱々しい光を宿していて、それはまるで怪我をした仔犬と大差なく見える。
「く、くそ! 」
爆発の呪文により足元を狙われ、大きく吹き飛んだ清麿を、ガッシュが支えている。
二人の身体の所々には既に炭がこびりつき、何ヵ所か火傷を負ってしまっていた。
「弱いね、この子達」
「そうだね、ココ。こんな奴らも倒せないなんて、前にパティと一緒に送り込んだ魔物は相当使えない者達だったみたいだね」
「お主……!」
悠々と会話を続けるゾフィスとココに、ガッシュを歯を噛み締めた。
「どうしてこんなことをするのだ! 」
「こんなこと? 魔物が魔物を倒すのに理由が必要ですか?」
「違う! 千年前の魔物を使うために人の心を操るなど、間違っていると思わぬのか!」
「おかしなことを聞きますね。王になるためになら間違っていることなどないに決まっているでしょう」
「そのためになら何をしたっていいと思っているのか!」
「当たり前ではないですか。勝つことが全てだ」
「貴様……!」
二人の会話は、決して交わることがない。
互いの価値観が違いすぎていた。
純粋に人の心を汲むことが出来るガッシュと、自分のために何を犠牲することも厭わないゾフィス。二人がいくら声を掛け合っても、決して同じ場所に着地することはないのだと、清麿は分かっていた。
だから、戦うしかないのだと、知っていた。
「……じゃあ、わざわざこの家に来たのはどうしてだ」
清麿は質問の方向性を変えた。それは自分達が落ち着く時間を作るための時間稼ぎでもあるし、清麿が考えていたこととの答え合わせをしたいという思いもある。
現状、力量の差が確かにある。
どちらも初級の呪文しか唱えていないが、それだけでも清麿はある程度察してしまっていた。
だが、それは諦める理由には決してならない。
清麿達は、常に勝つ方法を考え続ける。そうやって彼等は強敵達を退けてきたのだ。
「……ふん。あの龍を追ってきたのですよ」
ゾフィスは清麿の思惑に気付きつつも、会話に応じた。それは強者としての余裕でもあり、慢心でもあった。
「あの龍は千年前の魔物の中でも別格でしてね。あれを思い通りに扱えれば私が王となることは確実のものとなったのでしょうが、石板の呪いを解いた瞬間に天高く逃げられてしまった。だから、呼び戻しに来たのですよ」
やっぱりか、と清麿は心の中で呟く。
ティオの話を聞いた時から、清麿はあの龍は千年前の魔物だと予想をつけていた。
だとしたら、敵が龍にもう一度接触する可能性があることも、あり得ると思っていた。
「……どうして、自分で来た」
ゾフィスが単独で動く魔物でないことは知っている。
パティやビョンコと呼ばれるカエルの魔物だけでなく、既に自分の手下とした千年前の魔物が何体も居る筈だ。
だから、黒幕であるゾフィスがわざわざ自らこの場に来たことだけが、清麿にとって不可解だった。
ゾフィスは、悠々と答えた。
「他の魔物では太刀打ち出来る筈もないのでね。彼を従えるためには、私が一度催眠をかける必要があるでしょうから。勿論、あの龍だけでなく、その本の持ち主になり得るものにも」
「……!」
清麿は、その言葉だけで気付く。
あの龍の本の持ち主として、誰が一番適しているのかを。
誰が、ゾフィス達に狙われているのかを。
「……ねぇ」
最悪、と呼ばれるタイミングで、今ここに最も現れてほしくない人物の声が、響いた。
葵は、なくなった門の前で立ち尽くしながら、誰に問い掛けるという訳もなく、弱々しく言葉を吐いた。
「……これはいったい、何が起こっているの? 」